虹のほとり


「うー…ん」

ころり、と布団の中で寝返りを打つ。

いつもなら、まだ安らかな眠りを貪っている夜明け時。夢を見ていたか何かの拍子で、操は目が覚めてしまった。
しかも一度『目覚めた』と認識してしまった頭は、再び瞼を落としても容易に睡魔は訪れてくれない。
この辺は流石に、腐っても元隠密御庭番衆である。
どんなに短い睡眠でも確実に身体を休め、そして覚醒する時は一瞬なのだ。
東京の弥彦などには多分に誤解されているが、操はこれでも寝起きは良いのである。

「よっ…と」

いくらころころと転がっていても眠れないので、操は思い切って起き上がった。
柱の掛け時計を見ると―――先日、面白がって翁が買ってきた―――まだ朝の5時半である。

「ふあぁ……やっと、夜が明けてきたかな……?」

軽く伸びをしてそっと廊下に通じる障子を開けると、外は霧雨だった。

「ありゃ、雨か…どうりで静かだと思った」

いつも聞こえる小鳥の声がしないとは思っていたのだ。今日は葵屋の軒下で雨を凌いで休んでいるのだろう。
だが西の空は意外に明るかった。この分では、皆が起き出す頃には止んでいるかもしれない。

 


操は少し障子を開けたまま廊下に出ると、柱にもたれて空を見上げた。
細かな雨の粒が時折操の髪や頬を濡らしたが、露にも満たない水滴は温かいと思えばこそ、冷たさを感じる事はない。

『蒼紫様、起きて来ないかな』

実は、蒼紫がもうそろそろ起き出す時間なのである。
彼の起床時間は一定していて、常に六時に起きている事を操は知っていた。
眠りにつく時間はまちまちのようだが、非常時や特別な時以外、起きる時間は変わらない。
動き易い格好に着替えてから一時間程、身体をほぐしたり拳法の鍛錬をするのが日課なのだ。


しばらくそのままでいると、段々と空が明るくなり、雨が上がってきた。
幾らもしないうちに止みそうである。

『よし…あたしも着替えよう』

するすると寝間着を脱ぎいつもの甚平姿になると、操はとん、と庭に下りた。
思った通り、もう雨は落ちてこない。


『えっと…確かこうして…』

蒼紫の見様見真似で身体を動かす。
腕を大きく回したり、足の筋を伸ばしたりしながら、僅かに残った睡魔の残滓を払っていく。


操自身、拳法は般若に習ったのだが、何度か蒼紫にも稽古をつけて貰った事がある。
いつか緋村剣心にも指摘された事なのだが、女性で軽量の操には、本来あまり拳法は向かない。
だが護身術にもなると言う事と、何よりも操が熱心に鍛錬に励んだので、習得する分には不都合はあるまいと稽古をつけて貰ったのだ。
お陰で操は山賊を返り討ちにしてしまう程の技量を身につけたが、当て身が軽い事だけはどうしようもなかった。

『だからって、もう背はほとんど伸びないし。太るわけにもねぇ』

肥満体型のくノ一など聞いた事もない。
やはり一撃が軽い事は諦めて、より的確に相手の急所を攻める戦法を取るしかないようだった。


黙々と身体を動かしているうちに、操はやがて無心になっていた。
般若から教わった拳法の基本の型をなぞり、風を突き、空を蹴る。
どのくらいそうしていたのか。
ひゅっと、虚空を突いた拳が、パシンと受け止められた。


「まだ軽い」
「あれ…蒼紫様?」

操がきょとんとする。部屋から出てきたのなら、幾ら何でも気付いた筈だ。

「いつ部屋から出てきたんですか?あたし、全然気付かなかった」

不思議そうに首を傾げる操に、蒼紫はすい、と塀の方を指差して見せる。

「今、そこから戻ってきた所だ」


要するに蒼紫は、初めから部屋には居なかったのだ。
任務で昨夜から葵屋を離れており、明け方に戻ったのだろう。

「丁度いい。久し振りに稽古をつけてやろう、好きに打って来い」
「いいんですか?」

返事代わりに、腰を落とした蒼紫がすっと操に向き直る。
『来い』と手で合図された操は笑みを浮かべながらも表情を引き締めると、彼に向かい合った。

 


「あれっ…?」

頬に水滴を感じて、操は打ち込む手を一瞬止めた。その気配に蒼紫も構えを解く。

「また少し降りだしたな…すぐに止むだろうが」
「そうですね」

二人はひさしのある廊下に戻り、上には上がらずにそのままで空を見ていた。
空は相変わらずそれ程暗くない。多分、一度は止んだ雨の、ほんの名残なのだろう。


細かな雨粒が庭の木々の枝葉を濡らし、緑を一層濃く見せる。
薄く上空を覆っていた雲が切れ、淡い朝日が周囲を照らし出した。

「……!蒼紫様、あれ!!」

操が蒼紫の袖を引き、西の空を指差す。蒼紫も僅かに目を瞠った。

「虹か……見事だな」

彼女の指す先には、大きな弧を描く虹が浮かび上がっていた。
朝日に照らし出され、儚いながらも幻想的なその姿に、2人が思わず言葉を失う。
どのくらいそうしていただろうか。

「蒼紫様、虹を超えると夢が叶うって話、知ってますか?」
「そうなのか?」


勿論、子供の御伽噺である。
虹を超えれば夢が叶うという伝説を信じたある男が、一生虹を追い求めて世界中を放浪するという物語だ。
過ぎた理想を持たず、堅実に生きなさいという啓示が込められているのだが、
それはそれとして伝説そのものには夢があり、幼い頃に聞いたこの話を、操は気に入ってずっと覚えていた。

「御伽噺ですよ。でもあたし、ずっと信じてました」

 


蒼紫たちの行方を探し求めて、情報一つで全国を飛び回っていた頃。
虹を見る事も何度かあった。


『あの虹を超える事が出来たなら―――』


願う事で、その望みが叶うのなら。
御伽噺だと判っていながら、何度消え行く虹を追って山を、谷を、野を駆けた事か。
でも虹は近付くどころか遠ざかるばかりで、そのほとりすら目に出来た事はなかった。

 


「あたしの夢は叶ったから。もう、虹を追いかけることはないけれど…それでも、時々思うんです。
 あの虹を超える事が出来たら、本当に夢が叶うんじゃないか…って」

少し色を失い始めた虹を瞳に映して操が呟いた。蒼紫の目が微かに和む。

「いつか超えよう。今度は…二人でな」

囁くように告げられたその言葉に、操は思わず隣の蒼紫の顔を見上げた。
彼の横顔はそれ以上何も語らない。だが、優しい瞳が何よりの心の鏡―――
そんな穏やかな眼差しを自分に見せてくれた事が、操はただ嬉しかった。


「あ―――見て、蒼紫様!」

頬を上気させ、操が立ち上がる。
色を淡くした先の虹よりも少し内側に、もうひとつ虹が現れた。
ひっそりと―――僅かな時間かも知れないが、ニ連の虹が二人の前に現れたのだ。

「蒼紫様―――必ず一緒に、虹のほとりを見ましょうね」
「―――ああ」


それはこれからも、ずっと共に在るという約束―――
朝の陽に照らされて寄り添うように輝く二連の虹に、二人は自分たちの未来を見た。

                                                                【終】


あとがき

短いお話の割には、なかなか上がらなかったSSでした。
コンセプトが弱かったかな?いやMDを買ってしまって、その編集が忙しかったせいだ(笑・自分のせい)
虹は何年かに一度見ます。
最近では、一年ほど前に実家で見ました。二連の虹というのも、その時見たものです。
ついでに数日後の夕方、再び見るという虹のあたりの激しかった時期でした(笑)

虹に関する伝説は、私の創造です。でも、何か昔、似たような話を聞いたような記憶もあるんですが…
ちなみに実家で拝んだ虹は写真に撮ってありまして、私の宝物です。
二連の虹も撮影したのですが、色が薄くなっていた方の虹がちゃんと写っていないらしくて、
現像された物ではどれがそうなのかよく判りません(^_^;)一連だけならちゃんと写せてるんですけどね。




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