例えばこんな呑気な一日


頬に微かに日の光を感じて、蒼紫は目を覚ました。
夜が明けたばかりなのだろう。東の空、まだ低い位置から、障子越しに太陽の光が差し込んでくる。
蒼紫は寝間着を脱ぐと、普段着にしている着物に着替えた。


葵屋は今日は休みである。

普段ならば客の朝食の仕込みで白か黒のどちらかが起き出している時間だが、今日はどちらもいない。
実は、昨晩から蒼紫と約一名を除き、全員京都の外れの温泉へと出掛けている。
盆の忙しい時期を無難に過ごし、次に忙しくなる紅葉の時期までにちょっと骨休め…という事で、通年行っている慰安旅行なのだ。
実際、翁もいい歳であるし、普段働き詰めの白や黒達も大喜びで出掛けて行った。
お増やお近も、『女を磨いてくるわ〜』等と言っていたので、肌にも良いのだろう。

今、葵屋に残っているのは蒼紫と―――

「ふぎゃ……」

障子を開けて、光が丁度顔に当たったのだろう。
隣に敷いた布団で寝ていた暁が、眩しそうに瞬きし、小さな手で顔を触った。

 


「蒼紫様、本当に暁を置いて行っていいんですか?」

出発する間際まで、操は暁の事を気にかけていた。
親子というにはまだ幼さを感じさせる操は―――実際には母親となっていてもおかしくない歳なのだが―――
先日、縁あって引き取った暁の事を、歳の離れた弟のように可愛がっていた。

「どうせなら暁を連れて、蒼紫様も一緒に行けばいいのに」
「誰かが残っていた方が、万が一何かあった時に都合がいいだろう。それに暁を連れて行っては、骨休めにならんだろう?」
「暁の事は、別に苦にならないんですけど……」

結局蒼紫にやんわりと押し切られ、後ろ髪を引かれる風情で操は暁を葵屋に残して発った。
それが昨晩の事である。

 


「まずはお前の朝食だな」

自分の腹は空いていても我慢できるが、赤ん坊に同じ忍耐を強いるのは人として許されないだろう。
かまどに火を起こし、昨晩のうちに調達しておいた新鮮な牛乳を小さな鍋に入れて適度に温める。
暁を慣れた手つきで抱き上げ、匙で冷ましながら少しずつ口元に運んでやると、喉を鳴らしてどんどん飲み干して行く。
やがて腹一杯になり顔を背けるようになると、蒼紫は暁の身体を縦に抱き直した。
自分の肩に暁の顎を乗せ、トントンと背中を数度叩いてやると、『ケフッ』と言う大きなゲップが出た。

「これでよし…少し大人しくしていてくれよ」

満腹になった暁を目の届く所に大きな籠に入れて寝かせておき、今度は自分の朝食の仕度に取り掛かった。

米を炊き、メザシを七輪で焼き、味噌汁を作る。
自炊する蒼紫など、例えば左之助や恵辺りが見たら、卒倒するか大笑いしそうであったが、これも生きる智恵である。
食べ物がなければ川に入って魚を捕り、川原で焼いて食べる。山に分け入り、自生しているアケビや山葡萄を取って食べる。
時にはワラビや茸なども取って食べるし、喉が渇けば沢に湧いた泉の水を飲む。
自給自足も出来ない箱入り育ちでは、厳しい自然の中で生き抜く事は出来ないのであった。

 

やがて一人分の慎ましい食卓の準備が整うと、蒼紫は一人―――横で暁は寝ているが―――で食事を摂った。
いつもは周囲が賑やかに話しながら食べているので、いざ一人での食事になるととても静かに思える。
黙々と食事を終えてしまうと、片付けをして蒼紫は自分の着ていた物の洗濯を始めた。
これも普段の彼をよく知る者が見れば仰天ものだが、洗濯に関してはあの緋村剣心に触発された感がある。

以前東京の神谷道場に世話になっていた際に、緋村剣心がいそいそと洗濯に励んでいるのを見て、蒼紫は仰天した。
『どうしてお前がそんな事をするのだ』と問うたら、『自分に出来る事はこのくらいしかないから』という返事が返ってきた。
剣を振るう機会があるのなら、その為に体力も気力も残しておかなくてはならない。
だがそんな機会がしょっちゅうあるかと言えば、今はほとんど無いと言うのが実情である。
そうなると優れた剣客も所詮はただの居候である。居候とは、下手をすれば穀潰しと同義語だ。
だからこの平和な世で、出来る事があるのならどんな些細な事でもやるのだと―――緋村剣心は笑ってそう言ったのだ……

井戸端で洗濯を済ませると、それを棹に干して一息つく。
物心ついて洗濯など、自分の手でしたのは久し振りだったのだが、存外腰にこたえるものだ。
それは蒼紫の背が高く、足下に置いた洗い桶を使う為には、しゃがみ込んだ上に、相当前かがみにならなくてはいけないからなのだが、
こういった作業を毎日文句も無く繰り返しているお増やお近、操にはこれから足を向けて寝られないとしみじみ思った。

 


昼時が近付き、目を覚ました暁に再び温めた牛乳を飲ませると、そのまま暁を抱いて葵屋を出た。
今日の夜までに葵屋に届けてもらう、明日使う食材の手配の為である。
寝かしたまま出掛けて用事を済ませて来ても良いのだが、万が一目を覚ました時に傍に居ないと泣き出すかもしれない。
別に暁を連れていて困る事がある訳ではないので、抱いて出て来たのだ。

「おや、四乃森さんこんにちは。お散歩ですか?」

近所に住む者は事情を知っているので、蒼紫が暁を連れて歩いていても別段不思議そうでもない。
ただいつもは操が暁を連れている事が多いので、それが目を引くのだろう。

「皆、骨休めに暇を取って昨晩から出掛けているのでな。明日の手配だ」
「ああ、いつもの奴ですね。また明日からしばらく爺やさんに、面白おかしい話を聞かせてもらえるなぁ」

葵屋の夏休みならぬ骨休めは通年の事であるから、近所の店主もよく知っている。
お気をつけてという言葉を背に受けながら、葵屋は八百屋と魚屋へ足を伸ばした。


昼間はあまり腹が空かなかった為、自分の昼食は摂らないままだった。
乾いた洗濯物を取り込んでから、早めに夕飯の仕度を始めるべく、米を研ぎかまどに火を入れる。
昼間頼んでおいた野菜や魚が届けられるのを受け取り、その間に予め割っておいた薪を裏に運び、風呂を焚いた。

「先に入るか?」

湯加減を確かめて台所に戻ると、籠に寝かされて傍の廊下に居た暁と目が合う。
まだ生まれて数ヶ月の赤ん坊だから喋る事は出来ないのだが、何となく話し掛けてしまう自分が何だか滑稽だと思った。
葵屋では一歩自分の部屋を出れば常に誰かが傍に居たから、案外人恋しくなっているのかもしれない。
だが今は誰が聞いている訳でもない。
炊き上がった米を蒸らす間に風呂を済ませてしまおうと、蒼紫は暁を抱いて風呂場に向かった。

 

「蒼紫様ー――っ、只今帰りましたー――!」

暁を風呂に入れ、自分も湯につかってから食事を済ませた頃、どやどやと言う賑やかな物音と共に操たちが葵屋へ戻ってきた。

「ゆっくり出来たか?」

迎えに出た蒼紫の腕に抱かれた暁が、小さな手を一日ぶりに見る操の方へと伸ばす。
きゃっきゃとはしゃぐ暁は、とてもご機嫌だった。昨晩から面倒を見ていた蒼紫の世話が余程上手だったのだろう。

「毎年皆でお世話になってる温泉なんですけどね。今年は特に気持ち良く感じたかな?
 最近暁を抱いてる事が多いから、腕や腰が疲れてるのかも」

あははと笑いながら、操は暁の頭を『ただいま』と言いながら撫でた。

「暁の世話、大変じゃなかったですか?」

自分はゆっくり出来たけど、という言外の意を感じ、蒼紫が小さく首を振る。

「大した事はない。大人しかったしな…歩き回らんから、ずっとラクだ」
「何よりラクなんです?」
「……言葉の綾だ、気にするな」


操が歩きだした頃にかかった手数を考えれば、今の暁の世話など苦労の内に入らない。
何せ蒼紫は操が生まれた頃からずっと面倒を見ていたのだ。彼女の元気の良さといったら、野に放した子犬並みであった。
走り出したら止まらない。気になるものがあれば、森だろうが川だろうがお構いなしに入って行く。
その頃に鍛えられた子供に対する扱いや忍耐は、今に至って結構役に立っていた。


「すみません、蒼紫様。明日使う野菜や魚の注文まで頼んでしまって」
「散歩ついでだ」

白が頭を下げると、気にするなと軽く頷いて見せた。

暁を連れて同じ散歩に出るにしても、あてども無くフラフラするくらいなら何か目的があった方がいい。
裏では、割られてきちんと大量に山積みされた薪を見付けて、黒が目を輝かせていた。
いつもの作業なので苦には思わないが、やらなくて済むならそれに越した事はない。
この量なら三日は薪割りをする必要はないだろう。

「お風呂沸しておいてくれたんですね。ありがとうございます」
「操ちゃんも、もう一度お風呂入るわよね?」

お増とお近が、温かい湯の張られた風呂に大喜びしていた。
温泉につかって帰って来たのだが、その帰路で汗もかけば埃もついている。
やっぱり寝る前にはもう一度風呂に入ってさっぱりしたかったので、風呂が沸してあったのはありがたかった。

「うん、後で入る。お土産に美味しいお茶とお菓子を買ってきたんですよ。荷物を置いて一休みしたら、皆で食べましょうね」
「ああ」

その日の葵屋は、前日とは打って変わって遅くまで灯りが消えなかった。
時折漏れ聞こえる楽しそうな笑い声に、隣家の者は愛すべき隣人が戻った事を知り、微笑ましく目を細めたと言う。

                                                                   【終】


あとがき

今回は『一人暮らしを疑似体験している蒼紫』。これに尽きるでしょう(笑)
しかもオプションで暁が付いてるから、『男やもめ生活疑似体験』とも言う(^_^)
自炊して洗濯して買い物に行って風呂を焚いて赤ん坊の世話をする。まさしく嫁さんに逃げられた旦那のような(笑)あわわわわ……

前回のお話が少々長めで真面目なお話だったので、コンパクトにまとまってます。
剣心が進んで洗濯をする姿に触発されたと言うのは、実はTV版の影響です。先日再放送で見たもんで(笑)
しかしウチは基本的に原作版を軸にお話が動いているので、実際には人誅編で神谷道場に厄介になっている時に、
剣心とそんな話をしたって事で…

このお話、裏バージョンというか、温泉に行ってる操編があります。次回UP予定。
微妙にお増とお近がイッちゃってますが(笑)個人的にはこっちを先にUPした方が良かったかな?とも思ったり。お楽しみに!

                                                                麻生 司




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