温もり
ぱち、と操は唐突に目を覚ました。
灯りの消えた部屋はまだ真っ暗である。
敷いた布団の隣に、籠に入れて寝かしてある暁を起こさないようにそっと起き出して障子を開けてみると、やはり十三夜の月が西の稜線に隠れようかという時分だった。
この時期ならあと一刻(二時間)程は日が昇らない。
何故こんな中途半端な時間に目覚めてしまったのか。
昨晩はいつもと同じような時間に床に就いたし、特別夢見が悪かった訳でも、暁の寝つきが悪かった訳でもない。
少し考え込んでから、操は不意に蒼紫の部屋の方を見た。
蒼紫の部屋は、庭を挟んで丁度反対側に位置している。
当然こんな時間なので灯りなどは点いていないのだが―――操はそっと部屋を出ると、他の者を起こさないように気を付けながら蒼紫の部屋の前に立った。
そのまま跪き、障子を開けずに耳を寄せる。操も御庭番衆、見なくても気配で中の様子はある程度判る。
だがそこには、何の気配も感じなかった―――普通ならば感じる筈の、寝息さえ。
「やっぱり、蒼紫様出掛けてたんだ」
小さく呟くと、操は自分の部屋に戻った。
実は最近、蒼紫の不在に操はひどく聡くなっていた。
以前に感じたような『また蒼紫が自分を置いてどこかに行ってしまうのではないか』という不安からではなく、何となく判るのだ。
蒼紫が出て行く気配を感じる訳でもない。
ただ彼が任務で葵屋を空けた夜は、何故だか不思議と真夜中でも目が覚めるのである。
始めは気のせいかと思っていたのだが、夜中の覚醒が数度続くうち、その目覚めが蒼紫の帰還の少し前である事に気付いた。
彼が葵屋に戻る半刻(一時間)程前に、自分が目覚めていると言う事に―――
暁が目を覚まさないように静かに寝間着を脱ぐと、枕元にたたんで置いてあった秋冬の普段着である作務衣に袖を通す。
もう一度暁が上掛けをはねていないか確かめてから、改めて操は部屋を出た。
まだ真っ暗な中を、操は厨房に立った。手探りで火打ち石を探して火をつけ、灯りをともす。
ほんのりと灯ったその炎にほんの少し目を細めたが、それ以上の変化はない。
実は操は半年ほど前にある事件に巻き込まれた事で、一時期炎が見られなくなった。
だがそれも時間をかけて、少しずつ治癒してきている。
一番症状が重かった頃は火の入ったかまどに近付くのも辛かったが、今は点火の瞬間に少し緊張するに止まる程度にまで回復していた。
「さて、蒼紫様が帰ってくるのは、きっと夜明けの少し前よね」
その頃には白か黒が仕込みに起きてくるかもしれないが、邪魔にはならないだろう。
慣れた手つきで小振りの鍋を取り出すと、井戸から汲んで来た水を張ってかまどにかけた。
貯蔵庫から南瓜、じゃが芋、里芋、白菜、ねぎ、ごぼう、にんじん、しいたけなどを少しずつ持ち出し、ざっくりと刻んでいく。
鍋にそれらの野菜を放り込みぐつぐつ煮込む間に、見様見真似で麺をこねる。
東京に居る間に高荷恵に教わった、『ほうとう』を作るつもりだった。
京都の朝はもう大分冷え込む。少しは温かい物を胃に入れた方が、蒼紫も身体を休め易いだろう。
「でも、一人で作った事ないんだよね…はは、やっぱりちょっと麺がいびつになった」
野菜はざくざく刻めばいいのでラクなのだが、特製の麺は流石にあまり上出来とは言えない。
ほうとう自体は、一度葵屋の皆に操が作ってみたところ白や黒も気に入ったらしくて、今では時々葵屋のお客に出す事もある。
教えた筈の操の腕前をとっくに越えて、二人はすっかり自分達の料理のレパートリーにしてしまっていた。
だからいつもは二人のどちらかがこねて作ってくれた麺を使うのだが、今は自分がやらないと料理が完成しない。
多少のいびつさには目を瞑るとして、何とか形にはなったので、とりあえずこれも鍋に放り込んだ。
「大丈夫、大丈夫…味さえ何とかすれば、形が少々悪くても」
それがなかなか上手く行かなくて苦労している主婦も居るのだが、操は細かい事は気にしない事にした。
今頃暖かい布団の中で、東京の薫がくしゃみをしているかもしれない。
野菜に火が通って来た事を確かめて、鍋に味噌を溶かす。一匙味見をしてみたが、程よい加減のような気がした。
味が薄ければ味噌なりダシを足せばいいし、味が濃ければ少し水を増やせばいい事だ。
そう言う風に大雑把に考えれば、料理もそんなに苦痛だとは思わない。
それでもどちらかと言えば、山で食べられる茸を探したり、アケビや木苺を探して食べる方が得意な事には変わりないのだが。
『まあ、あたしの料理はお客様に出すようなもんじゃないしね』
後は煮詰まり過ぎないように気を付けながら、弱火にしてコトコトと煮込んでいくだけである。
まだ蒼紫は戻ってこない。夜明けは近いらしくて、少し東の空が明るくなってきた。
厨房の調理台の隅に置かれていたお櫃を開けると、昨日の夕飯に炊いた御飯が残っていた。
恐らくは白か黒かが朝の仕込をしながら、簡単に握り飯でも作って腹に入れる為に残してあったのだろう。
「少し分けてもらうね」
誰も聞いてはいないが一応断りを口にすると、しゃもじで軽く手の中に御飯を落とし、握り始める。
少し小さな握り飯を二つ作ると、それを竹の皮で包んだ。
蒼紫は夜が明ける間際に、葵屋のすぐ傍まで戻って来た。
夜が明けてしまえば人が動き出すが、今はまだ、通りを歩く者も居ない。
恐らくは夜の遅い者、朝の早い者、その双方を足してもなお一番多くの人が、眠りに就いている時間帯なのだろう。
いつものように昼間でもあまり人が通らない場所に面した塀を越え、葵屋の敷地に飛び降りる。
普通ならそのまま気配を消して自分の部屋に戻るのだが、ふと明け始めた空に細く煙が上がるのが視えた。
「厨房…か?」
細く上がる煙は白い色で、途切れる事なく上がり続けている。と言う事は、少なくとも昨夜からの火の不始末ではない。
今の段階で、葵屋から火事を出す事だけは絶対に避けなければならなかった。
それは料亭としての体面の問題ではなく、操の心の病に起因する。
操は半年程前に、身をもって体験した炎への恐怖から、しばらく炎を見る事が出来なくなった。
今ようやく、時間をかけて彼女自身が『治りたい』と強く望んだ事で、大分良くなっている。
そんな所に、再び火事の炎など目の当たりにしようものなら―――
顎に手を当てしばし考えた後に、一応の確認の為に蒼紫はそっと厨房へと足を向けた。
仕込をするには、まだ幾らか早すぎる時間である。
夜明け前に起きて仕込みをしなくてはならない程の、大人数の客の泊まりは昨夜無かった筈だ。
細く立ち上る煙は相変わらずで、厨房の入り口が視界に入るようになった頃には、微かに良い匂いもし始めていた。
そっと中を覗き込むと、かまどの前で鍋を見ている操の姿が目に映る。
「操?」
「あ、蒼紫様。お帰りなさい」
呼びかけると、操は別段驚いたような様子も無く顔を上げ、にっこり笑って蒼紫を迎えた。
「まだ夜明け前だぞ?何をしている」
「目が覚めちゃったんですよ。それで蒼紫様が、すぐに食べられる物でも作っておこうかなと思って」
お腹空いてませんか?と問われて、蒼紫は確かに空腹を感じた。
「丁度用意が出来ましたから、あっちでどうぞ」
そう言いながらいつも皆で食事している広間へ、てきぱきと操が一人分の簡単な膳を用意していく。
普段葵屋の手伝いをしているだけあって、流石にその辺りは手際が良かった。
「まだ朝早いからあまり入らないかもしれませんけど、少し温かい物をお腹に入れた方がいいと思って」
どうぞ、と用意された膳には出来たばかりのほうとうと、かまどの熱で程よく温め直された握り飯が置かれていた。
箸を取り、碗に口をつける。丁度いい味噌の風味がふわりと口の中に広がって、冷えていた身体に染み渡るのを感じた。
「あまり料理はしないから……見かけは少し不恰好なんですけど」
「いや…美味い」
黙々と箸を進める蒼紫の顔を、操がそっと伺う。
彼女自身が言うように、見かけは少々悪いかもしれない……一番目立つ麺の大きさが不揃いで、形も丸かったり長細かったりしている。
だが形など一度腹に入ってしまえば問題ないし、味の方は申し分なかった。
何より碗を持つ手に伝わる温かさが、蒼紫の心身に残る緊張を解きほぐしてくれる。
それで十分だった。
蒼紫が箸を置いた頃には、丁度白々と夜が明けてきた。
彼と自分の湯呑みに茶を淹れて、操も一息ついた。
「良かった、美味しいって言って貰えて。ちょっと心配だったんだ」
実は操自身は、あまり食事の味について五月蝿くない。
味音痴は味音痴なのかもしれないが、味の良し悪しが判らないのではなくて、大概のものなら『美味しい』と感じてしまうのだ。
だから多少大雑把な味付けでも自分は全く平気なのだが、人に出すとなると話は違う。
蒼紫が食事の味について難癖を付けているのは聞いた事がないが、それは普段白や黒の作る物を食べ慣れているせいかもしれない。
それだけに比較されてしまうのは辛い所だったのだが。
「そんな事はない。良い出来だった」
その言葉に偽りはなく、一人分には少し多いかと思いながら準備していた鍋のほうとうは、綺麗になくなっていた。
「でもこんな時間にこれだけ食べてしまったら、本当の朝御飯はもう入りませんね」
「そうだな」
空になった鍋を見てくすっと笑った操に、蒼紫も目を細める。
起床時間はほぼ一定だが、その任務の関係で蒼紫が朝食を摂らない事はままある。
そんな時は白たちに、朝食はいらない旨を一筆書いて厨房に置いておくのが常になっていた。今朝もそうなるだろう。
「これから少し部屋で休ませてもらう……お前も、まだ早いのだからもう一度休んで来い」
「はい、ここを片付けたら」
下げた碗や鍋を、井戸端ですすぎながら操が返事をする。
そんな様子を見ながら、ふと蒼紫は先程自分を迎えた時の彼女の言葉を思い出した。
『目が覚めちゃったんですよ。それで蒼紫様が、すぐに食べられる物でも作っておこうかなと思って』
「操……お前、俺が出ている事を知っていたのか?」
「いいえ。目が覚めた時は知りませんでしたよ」
その筈である。蒼紫が葵屋を出たのは、月が西に傾いた後だ。操は勿論、自分以外の者はとうに全員寝静まっていた。
「知らなかったのに、『俺の』食事を作っていたのか?」
材料の種類の多様さから一人分には少々多い量ではあったが、それでも葵屋全員の分の朝食には到底足りない。
だとすれば、あのほうとうは操の言葉どおり、『蒼紫』が『すぐ』に食べられるよう、準備されていたのだ。
そんな蒼紫の疑問に、操自身もあまり根拠はないんですけどと前置きした上で、最近自分の身に起きている偶然のような事実を口にした。
「実は最近、蒼紫様が葵屋を空けた夜は、不思議と蒼紫様の戻る半刻程前に目が醒めるんです。
最初はただの偶然かと思ってたんだけど、何度か続いたから」
だから今回もきっと蒼紫は間もなく戻ってくると思って、軽く腹に入れられる物を作って待っていたのである。
これが世に言う所の『女の勘』と言うべきものなのか。
「京都の朝はもう冷えるでしょう?お腹も少しは空いてるだろうし、温かい物を食べれば身体の芯から温まりますから」
自分はあまり料理は上手ではないけど、それでも蒼紫に何か温かい物を食べてもらおうと、操は一生懸命ほうとうを作った。
まだ微かに残る、炎への恐怖も克服して。
「……身体も温まって、身体も解れた。礼を言う」
「嫌だな、そんな大した事じゃないですよ」
自分にとってごく当然の事なのだと。
笑って応える操の顔は、そう告げていた―――
【終】
あとがき
旦那に『明治十〜十五年前後で、何か奇想天外じゃない(=人が空を飛んだり、水に一時間も潜ったりしない)ネタおくれよ〜』
とお願いしたところ、返ってきた返事が『料理は?』でした。
さんきゅー、旦那!早速使わせていただきましたわ(笑)
ウチの操の料理の腕前は、恵以下の薫以上だと思ってます。
そんなに上手でもないけど、やれば食べられる程度の物は作ると。(薫の料理は…いや、何も言うまい)
作中の操の料理に対する考え方は、大体私の実体験が反映されてます。
嫁に行くと決まってからの約一年間、こつこつ地味に料理を覚えて今の自分がある。
味が薄けりゃ調味料を足せばいいし、濃ければ薄めればいい。これで私は立派に主婦をしている!
結婚してから今日の今まで、旦那と二人飢えずに生存しているのだから、私の料理の腕前も操程度はあるのでしょう(笑)
ただし、旦那は舌が細かいので、あまり褒めてはもらえないんですけど(注・けなす訳でもない。黙って食べる(^_^;)
ちなみに私の舌も、『余程不味い物か、ゲテモノ以外は美味しく感じる』都合のいい舌です。
だから私に『これって美味しい?』と聞いてはいけない。不味くなければ美味しいのです。私の場合(笑)