燠 火
きっかけは些細な事―――
ある事件に巻き込まれて操が腕に負った火傷が、ほぼ治りかけた、夜更けの事だった。
鳴り響く半鐘の音に目を開けると、他の部屋の者も起き出した気配を感じる。
「何事!?」
「操、後ろだ」
部屋の障子を開けると、丁度向かいの部屋から同じように出て来た蒼紫が、操の後背を目で指した。
蒼紫の視線は、葵屋の敷地の外を指している。
振り返った操は、夜空を紅に染める炎を見た。
闇に踊る、紅蓮の炎を。
「……ぐ…ぅ……!」
「操っ!?」
ガクリと、操の膝の力が抜けた。
彼女の異変を察した蒼紫が、最短距離の庭を突っ切って駆け寄る。
「操、どうした!?」
「だ…駄目……気持ち悪い……」
それだけ口にすると、操は蒼紫の寝間着の袖をぎゅうっと掴んで、その場にうずくまってしまった。
悪寒がして、足に力が入らない。
寒いわけでもないのに、身体の震えが止まらなかった。
やがて湧き起こる吐き気に耐えられず、操は蒼紫の身体から何とか離れると、庭の隅で吐いた。
だが吐ける物を全部吐いてしまっても、吐き気は治まらなかった。
「大丈夫か?」
自分を覗き込んだ蒼紫の顔は、今まで見た事が無いほど不安そうに見える。
本当は大丈夫だと言いたかった。いつものように、笑って安心して欲しかったのだ。
だが操は力なく首を振ると、蒼紫の腕の中に倒れこむようにして気を失った。
「操!操っ!?」
蒼紫の声も、操の意識を呼び戻す事は出来ない。
力を失った彼女の袖口からは、白い肌に残る微かな火傷の痕が覗いていた―――
「これと言った病気は無し……外傷もね。完全に精神的な物よ」
操が倒れてから三日後。蒼紫からの手紙を受け取った高荷恵が、会津から京都の葵屋へ駆け付けていた。
操が倒れた後、蒼紫は迷う事なく恵に宛てて手紙を書いた。
彼女が今は故郷の会津で医者をしている事、恐らくは多くの患者を診ていて、すぐに身体が空かないであろう事は十分承知していたが、
その時の蒼紫には、恵以上に頼りになりそうな医者が思い付かなかった。
明治の郵便は、電報より先方に届くのが早い。数日後には連絡を受けた恵が葵屋を訪れていた。
ちら、と恵が蒼紫の表情を伺う。そんな恵の視線にも気付いていないのか、操を見詰める彼の表情はピクリとも動かないままだった。
「済まんな―――お前にも、故郷に待ってる患者がいるだろうに」
「ま……ね。ま、向こうはお互い様でお世話になってる先生に後を任せてきたから大丈夫。それに御頭さん直々の依頼とあっちゃ、おいそれとは断れないわよ」
京都からの手紙が届いただけでもかなり驚いたが、『四乃森蒼紫』という差出人の名を見て、恵は思わず手紙を落としそうになった。
何事かと急いで封を切ってみると、操が倒れたと言う。
どうも普通の病ではないので、何とか自分に彼女を診て欲しいという内容だった。
蒼紫の性格を伺わせる几帳面な字は、だが、微かに筆の乱れがあった。
恐らくは操が人事不省に陥った事で、さしもの蒼紫も少なからず動転していたのだろう。
今までどんな時でも恵の前では冷静さを失う事のなかった蒼紫の手紙からは、言葉として綴られなかった以上の何かを感じた。
過去の遺恨も、自尊心も何もかも越えて、ただ彼は医者としての自分を必要としている。
恵はすぐに荷物を纏めるとその日の最後の汽車に飛び乗って会津を発ち、京都の葵屋の門を叩いたのだ。
「ご近所で火事があって、その炎を見た途端、様子がおかしくなったの?」
「ああ―――それまでは、全く普通だった。例の腕の火傷もほとんど治って、先日包帯も取れたばかりだしな」
「この傷ね―――」
恵は掛け布団から出された操の腕に残る、火傷の痕に目を落とした。
約一ヶ月前。
京都の街に不審火が相次いだ。
それは後に、炎に取り憑かれた男の凶行であると判明する。
操は偶然からその男の凶行を目の当たりにし、もう少しで生きながら焼かれる所を、蒼紫が寸手で助け出したのだ。
命こそ無事だったが、その代わり彼女の腕には火傷の痕が残った。
その時は恵も直接診る事は出来なかったのだが、火傷によく効く膏薬や軟膏の処方をした。
しかし操は両の腕の手首の少し上の部分に、一生消えない痕を残す事になったのである―――
「女の子の身体に傷を残すなんて……なんてヤツなの!」
蒼紫から改めて事件の経緯を聞き、恵が本気で憤慨する。
大きな痕ではないが、この際傷の大小は関係ない。消えない傷が残ったという事実だけで、その火付けの犯した罪は万死に値した。
しかも彼は、操の心にまで深い傷を残した可能性がある。
恐らくは、炎に対する無意識の恐怖心と嫌悪という形で―――
「……御頭さん。操ちゃんは多分、炎に対する強い恐怖心を持ってしまったんだと思う。
聞いた様子から考えて、恐らくは自分自身も気付いてなかったんじゃないかしら。
釜の煮炊きの火くらいなら大丈夫だったかもしれいけど、操ちゃんは炎の中で生死の境を彷徨った心の傷が癒えないうちに、再び大きな火事の炎を見てしまった―――
忘れかけていた身を焼く炎の恐怖を思い出し、理解よりも早く、身体の方が拒絶反応を示したのよ」
操は昏睡を続けている訳ではなく、倒れてからも何度か目は覚ましている。
その時の彼女にもう恐慌の気配はなかったが、以前には感じられなかった陰りのような物を蒼紫は感じた。
何をと具体的に説明は出来ない。
敢えて言うならば、操自身が自覚していない疲労のようなものだと思う。
『もう大丈夫ですよ、蒼紫様』
操はそう言って笑っていたが、その顔色は彼女の言葉を裏切っていた。
すっかり血の気の失せた顔で、それでも自分に心配をさせまいと健気に笑おうとする彼女の姿を見て、蒼紫は愕然としたのだ。
これ程までに深く傷付いていた操の心に、どうしてもっと早く気付いてやれなかったのか……と。
「貴方、どうして自分が気付いてやれなかったとか思ってるんでしょうけど、それは無理な話よ。
操ちゃん自身、火事の炎を再び目にするまで全く症状が出ていなかったんだから。
もしかしたら一生気付かずにいられたかもしれない―――そういう意味では、確かに不運ではあったけれど」
物言わぬ蒼紫の横顔から心中を察した恵が、さり気なく諭した。
「……操は、克服出来るのだろうか。炎への恐怖を」
眠る操の、以前とは比べ物にならない程血の気の失せた顔に視線を落としたまま、蒼紫が呟く。
恵は二人の姿を交互に見やると、『五分五分ね』と口にした。
「心の病に薬はないわ。必要なのは時間と、心の静養……少しずつ、操ちゃんの心が癒されるのを待つだけ」
それでももしかしたら、操は二度と炎を見る事が出来ないかもしれない。
あの夜以来、葵屋の者は例え蝋燭の炎でも操の目に入らないようにしていたので、今の彼女にとって炎がどの程度の脅威なのかは判らない。
心が完全に癒される前に目の当たりにしてしまった紅い炎は、彼女の記憶の奥底で微かに燻っていた燠に火を点けた。
その炎が果たして何時まで燻り続けるのか―――それは、誰にも判らない。
消える事が、あるのかすらも。
「―――私は外すわ。何かあったら呼んで頂戴」
すっと立ち上がると蒼紫を部屋に残し、恵は部屋を後にした。
恵が部屋を出て行った気配で、操がゆっくりと瞼を開けた。
ぼんやりと天井を見上げていた目が、すぐに蒼紫に気付く。
「蒼紫様、ずっとそこに居てくれたんですか?」
「ああ…気分はどうだ?」
操も自分の体調がおかしい事には気付いていた。
大丈夫だと思っていても、数日胃が食べ物を受け付けなかったり、会津に居る筈の恵が自分の為に葵屋を訪れたとあっては、嫌でも不調を自覚せざるを得ない。
真っ青な顔色で『大丈夫』と繰り返しても余計に心配させるだけだと判ったので、操も空元気は止めた。
だがそれでも倒れた当夜からすれば、随分顔色もマシにはなってはいたのだが。
「今は大分、気分が良いです……少し喉が渇いたかな」
「待ってろ」
蒼紫は操の背に腕を入れて彼女を起き上がらせると、枕元の盆の上に用意してあった水差しからコップに水を注ぎ、彼女に手渡した。
コクンと一口水を飲み、操がコップの中の水に目を落とす。
「あたし、一体どうしちゃったのかな」
彼女の口調は淡々としていた。
コップを枕元の盆に戻すと、少しふらつく足で立ち上がる。蒼紫が手を差し出し、操の身体を支えた。
操が中庭に面した障子を開けると、庭に植えられた紅葉が視界に飛び込んで来た。燃えるように紅く染まった紅葉が―――
「……火が怖いんです。ついこの間までは、平気だったのに」
あの火付けに捕らえられ廃屋に火を放たれて以後も、しばらくは何ともないと思っていた。
それがある日、賄いの手伝いをしようと台所に入った時の事―――
「かまどの火に、悪寒がしたんです」
気のせいかと思った。
だが背筋を這い登る悪寒に、炎を直視出来ない自分に気付く事になる。
適当に理由をつけて台所を離れて部屋に戻った操は、行灯に火を入れて確かめてみた。
マッチを擦った時に僅かに抵抗があったが、炎を行灯に入れてしまえば大丈夫だと判った。
炎を直接見る事は辛いが、灯りは問題ないと。
「では気付いていたのか?炎を見られない事に。何故隠していた?」
「皆が知ると、心配するでしょう?」
だから知らせたくなかったと、操が辛そうな笑みを浮かべた。彼女の身体を支えた蒼紫の手に、力が篭もる。
恵は操自身、火事の炎を再び目にするまで自覚が無かったのではないかと言った。
だが彼女は気付いていたのだ。そしてその事実を、皆には黙っていた。
出来る事なら、一生隠し通せればいいと―――だが不運にも火事の炎を目の当たりにし、炎への恐怖は皆に知られてしまった。
肩を抱いた蒼紫の手を、操がぎゅっと握り締める。
あの日、夜空を紅に染めた炎の中、自分を救いに来た蒼紫の腕に抱き上げられた時と同じように。
「あたし、あんな所で死にたくなかった。絶対に生きて帰るんだって信じてた。
痕は残ったけど、怪我は腕の火傷だけ済んで、あの男も捕まって……もう終わったんだと思ってた。
でも……本当の傷は、ここにあったんです」
操が自分の心臓の上に手を置いた。
本当に血を流していたのは心―――視えない所で、本人すら気付かないうちに、しかし炎は深々と彼女の心を傷付けていたのだ。
悪寒は予兆。引き金は火事の炎。心の奥底に、今も静かに燻り続ける炎がある。
だが、それでも―――
「この傷は、多分恵さんでも治せない。あたし自身が、時間をかけて治していくしかないと思う。
怖くても目を逸らさずに……それでも、克服出来るかは判らないけど」
隣に立つ蒼紫を、操は振り返った。
「炎への恐怖は命の代償……だから、あたし負けません。だってあたしは、生きてるんだから」
こうして、今も生きているんだから。
操の言葉に、蒼紫は目を瞠った。
この小さな身体の何処に、こんな強さが秘められているのか。
克服出来ないかもしれない心の傷に、目を背けずに真っ直ぐに向き合おうと決めたのだ。
心の病を癒すのは、時間しかないのだと自ら悟って―――
「だって火を見られないと、満足にお料理も出来ないんですよ?
折角煮物の腕が上がったって黒さんに褒められたのに、まだ蒼紫様には食べて貰ったことないんだもの」
「煮物?」
意外と素朴な憤慨理由に、蒼紫は思わず聞き返してしまった。
「そうです。あたし、こう見えても結構料理もするんですから。お味噌汁もかなりイケると思うんだけど。
それもこれも台所に立てなきゃ意味無いですからね。早速、特訓しなきゃ」
ニコッと操が笑みを浮かべた。
数日臥せっていた事で悪かった顔色に、微かに血色が戻ってきたような気がする。
「全部話したら、何だかラクになっちゃった。時間はかかるかもしれないけど、きっと何もかも上手く行きますよ」
何処までも前向きな、魂の行方。
その先にはきっと、光差す未来があるに違いない―――蒼紫はそう信じて、黙って操の肩を抱き寄せた。
「それじゃ操ちゃん、もしも気分が優れないとか、何か気になる事があったら連絡してね。すぐに飛んでくるから。
それと無理は禁物よ。慌てず、ゆっくり。焦る事はないんだから、時間をかけて…ね?」
「はい。恵さん、本当にありがとうございました」
数日後、会津に帰る恵を送りに、蒼紫と操は駅までやって来ていた。
吹っ切れてしまった操の回復は思いのほか早く、絶対に見送りに行くと言って聞かなかったので、蒼紫と恵も敢えて止めなかった。
一度崩してしまった体調は完全には元に戻っていなかったが、外を出歩くくらいは問題ない。
止めたって、聞きゃしないのは経験から判っている。二人とも、無駄な事に労力は裂かないタイプなのだ。
「会津までは長いから、蜜柑でも買っておけば良かったかしら」
もうすぐ汽車が出るという頃になって、残念そうに恵が呟いた。
今から降りて買いに行っていたら、恵の足ではギリギリ間に合うかどうか微妙な所だ。
「じゃああたしが買って来ますよ。待ってて下さい!」
「あ、別に良いのよ、操ちゃん……って、行っちゃったわ。まぁあの元気なら、炎の恐怖を克服するのも不可能じゃないわね」
くるりと踵を返して駅の売店に駆けて行った操の後姿を見やって、恵が呟く。
以前の全力疾走程ではないが、着物の恵よりはずっと早い。
「わざわざ買いに行かせておいて何を言う」
蒼紫が恵を斜交いに見る。すると恵は紅を差した唇に、艶然と笑みを浮かべた。
斎藤一や左之をして『女狐』と言わしめた、彼女の本性が垣間見える笑みである。
見る者が見れば、ぴょこんと尖った三角の耳が覗いていたかもしれない。
「あらやだ、やっぱりバレちゃってた?でも別に他意はないのよ。操ちゃんが咄嗟に動ける程回復してるか、確かめたかっただけ」
「動けないようなら連れて来ない」
「それもそうね…大体、大丈夫だと判断したからこそ、私も会津に帰るんだし」
パサッと恵が、肩から落ちた自分の髪を背中に払う。
「本当はね、操ちゃんの居ないところで貴方に言いたい事があったのよ」
「何だ?」
「操ちゃんが倒れた時の事。突然吐いて倒れたなんて言うから、思わずオメデタかと思っちゃったのよ、私」
「……」
茶を飲んでいたなら間違いなくむせ返りそうな表情で、蒼紫はかろうじて沈黙を保った。
「まあ幾らなんでも、御頭さんやあの翁さん達が揃ってて悪阻を見抜けない筈はないから、すぐに違うとは思ったんだけれどね」
ニヤリ、と恵の顔に少々意地の悪い笑みが浮かぶ。戻って来た操の姿が見えたからだ。
「本当のオメデタでも、遠慮なく呼んでくれて構わないわよ。来年には、剣さんの所の子供も取り上げる事になってるしね。
皆収まる所に収まって来てるから、今更貴方の子供が増えたからって驚かないわよ」
蒼紫の片眉がピクリと上がる。剣心と薫の間に子供が出来たというのは初耳だった。
「私も、先日手紙で知ったばかり。こっちにも操ちゃんの所にそろそろ便りが来るんじゃないかしら」
「え、何ですか?」
大急ぎで戻って来た操には、前後の話が聞き取れていなかった。
頬を上気させ、車内の恵に網袋に入った蜜柑を手渡す。
「後で後ろの色男にゆーーーっくりお聞きなさいな。ねぇ、御頭さん」
三角耳の見えそうな恵の視線を、蒼紫は黙殺した。操だけが不思議そうな顔をしている。
最後に恵は、医者の顔に戻って操の頬に手を伸ばした。
「諦めないで……頑張ってね。傍には居られないけど、ずっと応援しているから」
やがて汽笛が鳴り、ゆっくりと汽車が動き出す。
恵は窓を開け、ホームで手を振る操と、彼女を守るように寄り添う蒼紫に手を振り返した。
困難を乗り越えて再び同じ道を歩み始めたあの二人が、いつか必ず幸福を掴みますようにと、願いを込めて―――
蒼紫と葵屋の仲間達に支えられ、操が炎への恐怖を克服したのは―――それから約半年後の事であった。
【終】
あとがき
『闇に棲む炎』の後日談です。
蒼操SSとしては今までで最長になったお話という事もあり、気に入っていたお話でもあったので、
このまま終わらせてしまうに忍びず、その後を少し書いてみました。
何だかこのままでは底抜けに暗いお話になって行きそうだったんで、ラスト辺りはヒョイと持ち上げてみたり。
『なんじゃ、そりゃあ!?(笑)』と騙されたような気分になった方、どうもすみません(笑)
でもね、やっぱり辛いままの終わり方は嫌だったんですよ。
操には笑顔が似合う。蒼紫には、彼女の笑顔が何よりも大事。これがウチの蒼操の原点ですので。
操の症状は、今で言う『PTSD(=心的外傷後ストレス障害)』という奴ですね。
その時は何ともないと思っていた事が、後になって精神面に出てくる。
操の場合は無意識下の炎への恐怖に出ました。
『炎』や『火』という言葉には反応しません。あくまでも『炎・火』そのものに対する恐怖です。
そしてその恐怖の度合いは、炎の大きさにも比例します。
蝋燭の炎程度なら『何か嫌な気分』、かまどの火で『悪寒、傍に居られない』、そして火事の炎で『嘔吐を伴なう激しい悪寒』。
火事の炎を突然見てしまったそのショックが大きすぎて、操は数日臥せってしまう程、一時的に衰弱してしまったのでした。
その後操はゆっくりと時間をかけてリハビリを続ける事で、炎への恐怖を克服します。
かまどの火くらいなら、大丈夫なまでに回復。ばりばり台所に入って、料理の腕を磨いているとかいないとか。
ただし、再度大きな炎を見るような事があれば、同じ症状が出るかもしれません。
しかし京都大火でもない限り、操が自分を喪うほどの恐怖に駆られる事はない筈です。
蒼紫が傍に居て、彼女を守っているんですから(^_^)