御名に幸いあらん事を


太陽の光が射しても、まだ寒さ厳しい京都の冬。
そんな京都の一角に店舗を構える『葵屋』の、更に一番奥の自室で文机に向かい合う精悍な顔立ちの青年が一人。
料亭葵屋の若旦那―――四乃森蒼紫その人である。

 

彼の傍に置かれたくずかごには、丸めて捨てられた紙屑が山となっていた。
今も文机の上には、硯の中に磨られた墨、目の前には紙の束、手には筆が握られている。

何かを思いつくとその都度筆を走らせるが、しばし書き上がった文字を眺めては、またくしゃりと丸めてくずかごに放り込む…その繰り返しだ。
放り込む紙屑が一つも外れず、全てくずかごに収まっているので見苦しく見えないのが、彼らしいと言えば彼らしい。
だがいつも以上に表情を険しくして眉間に皺を刻む様は、なにやら鬼気迫るものを感じた。

 

「御頭さん、入ってもいいかしら?」

閉めた障子の向こうから、艶のある女性の声が蒼紫を呼ばわる。
蒼紫はふと筆を止めると、『ああ』と返事をして硯に筆を置いた。
するりと開けられた障子の隙間から、唇に鮮やかな紅を差し、長く伸ばした黒髪が印象的な女性が顔を覗かせる。

かつて蒼紫自身とは東京の観柳邸で初めて顔を合わせ、以降は緋村剣心たちを介して色々と世話になった女医―――高荷恵であった。

 

恵が腕に抱いていた暁を下ろすと、満面の笑みを浮かべて、とてとてと蒼紫の元に駆け寄る。
蒼紫も手を差し伸べて、小さな身体を腕の中に抱き止めた。
暁が『とーちゃ!』と口にして、にこにこ笑顔で養父を見上げる。
どうも『父さん』と言う言葉を操が教えたらしく、『かーちゃ』(母さんらしい)とほぼ同じ時期に喋りだした。

「あらあら、随分難航しているようね」

暁を抱き上げるのに振り向いた蒼紫の傍らのくずかごに、山盛りになっている紙屑を見て、恵が目を細める。
だがその笑みは嫌味なものではなく、好意的なものであった。
暗に指摘された紙屑の山については一言も触れず、ここ数日日課のようになった言葉を蒼紫が口に出す。

「操は?」
「大事なし。今はちょっと眠っているけどね。まあ、夜中に何度も起きなきゃいけないんだから無理も無いけど」
「そうか―――こればかりは、俺では何も手助けしてやれんからな」

そう呟き、暁を抱いて表情を柔らかくした蒼紫を目にして、恵は微かに目を瞠った。

江戸城隠密御庭番衆、最後にして最強の御頭と呼ばれた四乃森蒼紫が、このように穏やかな表情をする日が来るなんて思いもしなかった。
そして自分が、その様を目の当たりにする事になるなんて。
この男は月並みの幸せとか、平穏な生活と言ったものを諦めているのではないか―――そう、感じていたから。

「子供も?」
「ええ、赤ん坊は寝るのが仕事だもの。さっき操ちゃんからお乳を貰ったばかりだから、今は一緒にぐっすりよ」

 

―――そう。四乃森蒼紫は、つい先日父親になったのだ。
昨年の春に巻町操を妻に迎え、葵屋の養い子であった暁を正式に自分と操の子として四乃森の養子にしたが、
その二人の間に実子が誕生したのである。
先ほどから蒼紫が書いては捨ててを繰り返していたのは、新しく生まれた我が子の名前だったのだ。

暁が手を伸ばして紙屑をくずかごから一つ掴むと、きゃっきゃっとはしゃいでそれを恵に投げ寄越す。
恵が拾い上げて開いて中を見てみると、そこには没になった名前が幾つか記されていた。
どうやら一枚の紙に一つの名前という不経済な事はやっていなかったらしい。
流石、葵屋の経理を任されているだけの事はある。

 

「この分では、まだ決まりそうもないわねぇ」
「名は子の一生を決める。そしてそれは子にはどうする事も出来ん。最初で、そして最も大きな親の権限だからな」

苦笑を浮かべた恵に、蒼紫もそう返した。
なかなか決められないという自覚はあるのだろうが、だからと言って適当に決めてしまう気は毛頭ないらしい。

生まれてくる親を選べないように、自分がどう名付けられるかは、子自身にはどうする事も出来ない。
例えば長男に『一』の字を入れ、順次次男から下は『二』『三』を入れていくと言うのも判り易いとは思うが、
だからと言ってそれを我が子に当てはめようとは思わなかった。
大体、四乃森の長男は『暁』であり、既にこの時点で兄弟順を示す数字は入っていない。
これは暁を朝陽の中で見つけた操が、『朝陽』と『暁光』を掛けて名付けたのである。

「我が子に、より多くの幸を約する良い名を。親は皆そう願うものだ」

朝一番の光を浴びて葉を伸ばす草樹のように、すくすくと伸びやかに育つ暁は、まさしく良い名を貰ったと思う。

「それはそうよね。どんな親でも、子供には幸せになって貰いたいもの。
 私が親になったら、きっとそう思うだろうし……私の親も、きっとそうだったんだって思えるから」

 

娘が、この世の幸いに恵まれますように。
それが自分の名の由来だと、幼い日に聞いた両親の言葉を思い出した。

 

「貴方自身が操ちゃんと一緒になった事で、得たと思う事を……名に託せないかしらね」
「操と―――一緒になった事で?」

暁の小さな手を握ったまま、蒼紫が呟く。
紅を掃いた唇が笑みを刻んだ。

「幸せは人それぞれ。好いた相手と一緒になって、得た物も人それぞれでしょ?
 親が子に望む事を名に示せば、後々子は、その名を負担に思うかもしれないわ。
 でも自分達が望んで連れ添って、その結果として子を為して―――
 伴侶と選んだ相手と連れ添う事で、自分達が得た幸福を名に込められたなら……きっとその名は、子も幸いに導いてくれる」

端正な顎に手を当て、蒼紫が考え込む。意外にこの助言は、煮詰まっていた蒼紫の脳を的確に刺激したようだった。
時間が掛かりそうだとさっきは思ったが、この助言のお陰で子の名が決まるのが早まるかもしれない。

「自分が得た幸福……か」
「そ。いつまでも『坊や』とかじゃ呼び難いから、出来れば早く良い名をつけてあげて。
 それじゃ私は向こうの部屋に戻ってるから。暁ちゃんの事、ヨロシクね」
「ああ」

 

『バイバイ』と小さな手を振る暁に手を振り返して障子を閉めた恵は、ふと自分は何を得たかと思いを巡らせた。
幸せは人それぞれ。得た物も人それぞれならば―――自分は何を得たのだろう?

廊下で足を止め、しばし目を閉じ考え込む。

人の言う事を全く聞かないきかん坊は、今も遠い空の下。
いちいち何時帰ってくるのか、今どうしているのかなどと考えていては、こちらの身が持たない。
そして出た結論は―――

「……根気強さと、諦めの良さかしらね」

今も帰りを待ち続けていながらも、『今日は帰って来ないだろう』と思う不思議な感覚。
もしも彼の子を産む事があるのだとしたら―――是非その子に名付けたい、一文字がある。

「耐え忍ぶの『忍』。あいつに足りなかった忍耐を、子々孫々まで言霊で定着させるにはこれしかないわ」

恵は一人苦笑いを浮かべた。

 

それから約一刻(二時間)後。

「操、起きているか?」
「はい、起きてます。爺やも居ますよ」

元気の良い声が蒼紫を部屋に招き入れた。

操は子を産むまでは蒼紫と同じ部屋で寝起きしていたが、
今は生まれたばかりの子に乳をやる為に頻繁に夜中に起きなくてはならないので、あえて部屋を分けてある。
蒼紫は気にしないと言ったのだが、操が気を遣ったのだ。
今、蒼紫の部屋で寝起きしているのは、蒼紫本人と暁の二人である。

 

障子を開けると、敷かれた布団に半身を起こした操と―――産後の肥立ちは問題ないそうで一安心だ―――彼女に抱かれた赤ん坊。
そして傍らに腰を下ろした翁の腕にも、もう一人赤子が抱かれている。
蒼紫が抱いてきた暁を下に下ろすと、あっという間に暁は、嬉しそうに生まれたばかりの兄弟の元へと駆け寄った。

「蒼紫、決まったかの?」

蒼紫の手に墨で文字の記された紙があるのを見て、翁がにやりと笑った。
赤ん坊を抱いて器用にあやす様は、まるきり孫を抱く祖父そのものである。

「ああ、思いの他考え込んでしまったが」
「二人分、しかも男と女の両方でしたからね。で、どんな名前に決めたんですか?」

 

二人分。
そう―――操が産んだ蒼紫の子は、男女の双子だったのだ。
一人でも迷うのに、一度に二人分。しかも男女一人ずつと来れば、迷うのも無理は無いだろう。
だがそれも、高荷恵の助言でようやく解決した。今夜からは枕を高くして眠れそうである。

覗き込む操と翁の前に、なかなかの達筆で記された紙が二枚置かれる。

―――一つには『希』、そしてもう一つには『黎』と書かれていた。

「姉が『希望』の希(のぞみ)、弟が『黎明』の黎(れい)。これで、どうだろうか」
「希に黎……素敵な名前ですね」

操が蒼紫を見上げ、目を細める。蒼紫もその視線に応えるように微かな笑みを浮かべた。

「お前と一緒になる事で俺自身が得た物を、名に込めればどうかと……高荷恵に言われてな」
「あたしと一緒になった事で?」

操が大きな瞳を瞬かせる。
妻となり、母となって流石に大人びてきた操だが、こんな仕草は娘時代と変わらない。

「お前が待ち続けてくれたからこそ、今の俺がある。
 お前の中から失われなかった『希望』、俺にもまだ戻る場所が在るのだと、気付く事の出来た心の『黎明』―――そこから、名付けた」

 

操が居なければ、彼女が自分を待ち続けて居なければ、今のこの日々は在り得なかった。
何処にも身の置場が無く、人として生きる道を失うか、あるいはただ凶剣を振るうだけの修羅に成り果てていたかも知れぬ。
今ここに、自分がこうして在る事。それこそが、操の存在が自分にもたらした奇蹟―――

「名で子の一生を縛る気はないが……心と身体健やかに、少しでも多くの幸いをその手に掴めれば良い。
 俺が親として子に望むのは―――それだけだ」
「きっと、大丈夫ですよ。あたし達だけじゃなくて、爺や達もみんな一緒なんですから。
 あたし達が至らない部分は皆で補ってくれますよ。ねぇ、希、黎」

操の腕の中で希が、翁から抱き渡された蒼紫の腕の中で黎が、互いの顔を見合わせる。
まだ目は見えていない筈なのに、不思議と互いが同じ血を分け合った姉弟なのだと判っているかのようだった。

「皆で幸せになりましょうね。暁も希も黎も。勿論、あたしや蒼紫様、翁達もみんな一緒に」
「ああ―――そうだな」

微笑む操に暁が頬寄せ、『のーみ?』と呟いて小さな妹の顔を覗き込む。
どうやら希の名を口にしたらしい。蒼紫の瞳が、穏やかに笑みを浮かべた。

「そう、希だ。お前の妹だ。弟の黎共々、仲良くしてやってくれ」
「りぇい?」

蒼紫が黎を暁の目の高さにまで下ろすと、暁はぱちっと瞬きして弟の顔を覗き込み、小さな手が更に小さな手を握った。

「兄弟だもん。もう仲良しだよね」

そう操が呟いて、暁の空いた手に希の手を握らせる。
パッと咲いた暁の笑顔は、小さな弟妹が出来た事を心から喜んでいるように見えた。

 

新しく生まれた命に、どうか多くの幸いがあらん事を。
そしてその名に祝福を。

葵屋から聞こえる賑やかな赤ん坊の泣き声の輪唱は、しばらく近所の名物となったと言う。

                                                                 【終】


あとがき

……と言う訳で。蒼紫と操の間に生まれたのは男女の双子でした。意表を突きましたでしょうか?(笑)
ウチの蒼操には暁と言う血の繋がりの無い長男が居ますので、正直、二人の実子を男にするか女にするか迷ったんですよ(^_^;)
ずっと迷っていたんですが、『そうか…双子にすりゃ一発解決だ!』と決まったので、この話が出来ました。

希が姉で、黎が弟と言うのは何となくです(笑)男が続くよりも、暁との間に女の子が入った方が兄弟関係として面白いかなと思っただけで。
でも双子でどっちが姉だの兄だのって言うのは、実はあまり意味がないとも思ってるんですけどね(^_^;)
どちらが先に生まれたかと言うだけで、実際に歳が違う訳ではありませんし。
男女の双子と言う事は二卵性でしょうから、個性とか顔立ちはそっくりと言う訳ではないです。
思わず興が乗って
イメージイラストなんぞ描いてみましたので、SSをご覧になった方はそちらもどうぞ。くす(^_^)

希は蒼紫似で(目元だけ操似)、割りと大人しい性格。運動も好きだけど本を読んだりするのも大好き。体格は母親に似たのか少し小柄。
黎は操似で、まるきり操の子供の頃そっくりだと周囲には評される。が、頭の回転もとても速く、
書物を読ませれば草木が養分を吸うように内容を吸収する。体格は蒼紫に似て、同年代に比べて背丈、手足の伸びが早い……
と言うのが、漠然とした設定。活かす機会があるかどうかは別にして(笑)

二人の兄となった暁は、丁度蒼紫と操を足して2で割った感じで成長して行きます。養子なのに、実子以上に似てるとか似てないとか(笑)
同年代の男の子に比べると若干線の細い印象があるものの(髪の色も淡いし)、手足、背丈は均整良く成長。
幼い頃から蒼紫や葵屋の皆に稽古をつけられていたので、武術の腕はめきめき伸び、どちらかと言えば刀を使う戦法よりは、
徒手空拳の方が得意。また勉強好きでよく蒼紫の本を借りて読んでおり、数字と語学に強い。将来の葵屋の経理最有力候補。
見た目が目元涼しげで、取っ付き難いのかと思いきや、話し掛けると意外にざっくりした気さくな性格。よく喋るし、よく笑う。
根が気遣い上手で優しい為に、敵を作らず自然と人に慕われるタイプ。希や黎ともとても仲良し……とまあ、こんな具合で(笑)
しかしどこまで続けられるかな、この一家の話は……(汗)

 

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