雪中松柏
もしも、私が消えたなら。
―――貴方は、哀しんでくれますか?
遠くから除夜の鐘を撞く音が聞こえる。
大晦日の京都は、深夜にも関わらず通りに人の行き交う姿が目に付いた。
初詣に行くのか、いつもならとうに寝ろと言われる筈の年頃の子供も、親に手を引かれて歩いている。
今宵ばかりは凍みるような空気の冷たさも、不思議な喧噪に紛れてあまり気にならなかった。
「これ、操。この寒いのにそんな所で何をしとるんじゃ?」
「あ、爺や」
縁側から中庭に出た翁が、屋根の上の操を見付けて声をかける。
幼い頃から忍としての修練を積んだ操にとって、梯子無しで屋根の上に上がる事など雑作も無い。
普段着の作務衣の上に、お近が作ってくれた綿入れ半纏を一枚羽織っただけの格好で、操は葵屋の屋根瓦の上に腰掛けていた。
「何でもない。ちょっと通りを眺めてたんだよ」
「そう言う事は、もっと気候の良い時にしなさい。風邪を引いたらどうするんじゃ?
お前は熱が出ても、大人しく寝ているのが苦手な性分なんじゃからな」
流石は育ての親である。
翁は正確に彼女の気質を見抜いており、操は軽く肩を竦めて見せた。
「ごめんなさい、でももう少しだけ。除夜の鐘が鳴り終わるまでは、ここで鐘の音を聞いていたいんだ」
「今更何じゃ?お前が頭のてっぺんから足の先まで蒼紫や般若達の事を考えとる事なんぞ、はなから判りきった事じゃろうが。
除夜の鐘の音を聞いた所で、蒼紫達を捜し出すというお前の願いが消える訳ではあるまいし」
蒼紫と、かつての仲間達の居所を捜し出す事―――それは、操の心からの願い。
彼女自身の依って立つ所でもあり、決して煩悩ではない……と思う。
煩悩とは心を煩わし、身を悩ます一切の欲望を差す。
その想いで身を持ち崩すような事は今の所ないが、しかし純粋過ぎる彼女の願いは、
確かにある意味で煩悩に近いと言えるかもしれなかった。
「ん……ちょっと違う。今考えてたのは、別の事」
「別の事?」
くすっと自嘲気味に浮かんだ操の笑みが引っ掛かって、翁は自分も屋根の上に上がって来た。
ひょいと屋根の端に手を掛けただけでほとんど体重を感じさせる事無く上がって来た様は、とても還暦を過ぎた年寄りには見えない。
「もしもあたしが消えてしまったら、蒼紫様は哀しんでくれるかなぁ……って、考えてたの」
まだ幼さを残した操の横顔に深い哀憐を垣間見て、翁は一瞬息を呑んだ。
「あたしが幸せになれるようにって、蒼紫様は願ってあたしをここに置いたまま旅立った。
確かにこの十年、あたしは幸せだったよ。
皆あたしを可愛がってくれたし、あたしは爺やも白さんも黒さんも、お増さんもお近さんも、皆本当の家族だって思ってる。
だけど、本当に傍に居て欲しい人が―――ここには居ない」
とてもとても大好きで、大切な人。
だけどそんな単純な言葉では、操は自分の中の蒼紫に対する想いの全てを、正確に表す事は出来なかった。
好きだけど、憎らしい―――幼い自分を、ここに一人残して旅立ったから。
恋しいけど、恨めしい―――こんなに傍に居たいと願っているのに、その影すら踏ませて貰えないから。
深くて暗い、月明かりの無い池の底に沈み込むような果ての無い想い。
確かにその想いは今も心の中にあるのに、掴み所が無くて、儚い幻のようだった。
どうして、あたしを一人にしたの?
貴方にとって、あたしの存在は絶対じゃないの?
どんなに焦がれても添う事を許されないのなら、いっそ自分の存在を消してしまえたなら。
―――その時蒼紫は、自分の存在の消滅を哀しんでくれるのだろうか。
「……あたしの存在が消える事で、初めて蒼紫様の心にあたしの存在が刻まれるのなら……それもいいかなって。
もっともそれも、あたしの消息を何処かで蒼紫様が聞かなくては意味が無いのだけど」
「馬鹿な事を言うもんじゃない。お前の存在の消滅を、蒼紫が願う筈がないじゃろうが」
こればかりは本気の憤慨を込めて、翁は操をたしなめた。
まだまだ子供だと思っていたのに、いつの間にこんな艶めいた『女』の言葉を口にするようになったのか。
しかしそんな思いこそが、ごく幼い頃から操を手許で育てて来た故の錯覚だったのかもしれない。
操は既に子を為せる身体だし、それは即ち、彼女がもう子供ではないと言う事だ。
この人こそと想う男を自ら選び、一生を自分自身で決めるだけの器量と強さが、操には有る。
新しい一年を迎えようとするこの晦(つごもり)の夜に、操は心を定めたのかもしれなかった。
「……操、これだけは忘れてはいかん。蒼紫は確かに、お前の幸福を願っていた。
一所(ひとところ)に腰を落ち着け、家族と呼べる存在に囲まれ、多くの友に恵まれて暮らせるようにと……
蒼紫は最後まで、お前の事を案じながら旅立ったんじゃよ」
「判ってる。判ってるから……なおの事、恋しい」
そう呟いて、操は泣きそうな笑みを浮かべた。
もしも疎まれて蒼紫が自分を葵屋に残したのだとしたら、とうに自分は蒼紫の事など忘れていただろう。
蒼紫に大切にされていたから、何よりも彼は操自身の幸福を願ってくれたから、
その不器用な優しさを誰よりも知っているから―――歯痒いのだ。
そこまで愛しく想ってくれたのなら、どうして気付いてくれなかったのか。
何よりも蒼紫の傍に在る事を望み、彼の傍で生きる事こそが、本当の操の幸福だと言う事に。
「いっその事、全て忘れてしまえたらラクなのに。
いつも傍に居てくれて、あたしの事を一番に想ってくれる人だって……きっと、居る筈なのにね」
だけど、忘れられない。傍に居ない人を想うのはこんなにも苦しいのに、この歳になるまで遂に心を移せなかった。
目蓋を閉じれば、今でも懐かしい姿をはっきりと思い出せる。
蒼紫は自分のワガママに根気強く付き合ってくれたけれど、いつも少し困ったような顔をしていた……
「ほら、あたしって諦め悪いから」
「仕方なかろう。ワシが育てたんじゃなからな」
翁がリボンで結わえた顎髭を撫でながら、ニヤリと唇の端で笑う。
ぱちっ、と一度大きく瞬きした操は、一拍の間を置いて笑い出した。
それは淀みを感じさせない、からりとした笑い声だった。
「あはは……そうよね。どんなにお近さんとお増さんに叱られても、女遊びを止めない爺やの諦めの悪さも大概筋金入りだもの。
その爺やが育ての親のあたしが、諦めが悪くても当然か」
「これこれ、人聞きの悪い事を言うな。ワシは若い娘さん達と『すきんしっぷ』と言うものをだな……」
「女遊びがお気に召さないなら、年寄りの冷や水の方が良かった?」
『こりゃ!』と渋面を作って拳を挙げて見せた翁から、操はひらりと身をかわして屋根の上に立ち上がった。
「消えちゃったら、もう二度と蒼紫様と会えないんだもんね。寒さでロクな事を思いつかないや。知恵も凍りついたかな?」
「判ったら、さっさと下りて来い。年越し蕎麦の用意が出来て、もう皆座敷で待っとるぞ」
呆れたような翁の声に、操が『うん』と頷く。
翁に続いて下りようとした彼女の頬に、はらりと白い雪が落ちてきた。
「雪……冷える筈ね」
今、蒼紫は何処(どこ)でこの晦の夜を迎えているのだろう。
何処(いずこ)の山か。彼方の町か。
案外近くで、同じ雪を見ているのかもしれない。
想いを断ち切れずに、彼の人を訪ね歩いて早十年が過ぎた。
未練と人は言うかもしれない。小娘の分際で想うだの焦がれただのと、何を一端の事を言うのかと。
だが、それでも―――
「―――諦められるくらいなら、とうの昔に諦めてる。蒼紫様、どうか……」
それ以上は、言葉にしなかった。その代わりに、京の町に響き渡る鐘の音に耳を傾ける。
最後の一つの残響が完全に消えるまで、操は立ち尽くしたまま耳を澄まし続けた。
「操ちゃん、お蕎麦伸びちゃいますよ!」
「勿体無いから、伸びちゃう前に俺達が食っちゃいますよー」
「お嬢、風邪引かないでくださいね〜」
葵屋の中から、自分を呼ぶ皆の声が聞こえる。
『はぁい』と大きな声で返事をすると、操は屋根の端に手をかけ、反動を利用して葵屋の中へと滑り込んだ。
「蒼紫様、どうかなさいましたか?」
ことり、と手にしていた杯を卓に置いて蒼紫が外を見遣ったので、般若が訝しげに面の下の眉間を寄せる。
火男(ひょっとこ)や式尉達が酒の酔いで続きの隣室で高鼾をかいていたが、
ひゅうひゅうと窓の隙間で風が鳴く他には、取り立てて怪しい気配も感じなかった。
時折窓の外にちらちらと雪が舞い落ちるのが見えるだけである。
「いや……何でもない。飲めない酒に口をつけたから、酔ったんだろう」
「そうですか」
般若はそれ以上、問い質さなかった。
蒼紫が杯の酒には唇を湿らせる程度にしか口をつけておらず、いくら彼が下戸でもその程度では酔わない事にも気付いていたが、
それきり沈黙した蒼紫の前の杯を片付けて席を辞する時まで、何も聞かなかった。
―――操の声が聞こえたような気がした。微かに自分の名を呼ぶ、彼女の声を。
幼い操を葵屋に託してからの十年間、一度も会った事は無い。
成長して声も変わったろう。自分の事など、とうの昔に忘れてしまったかもしれない。それなのに操の声だと、疑いなく信じた。
『蒼紫様、どうかご無事で。いつか必ず、葵屋に帰って来て下さい』
「……焼きが回ったな、俺も」
小さなその呟きは晦(つごもり)の静けさに溶けて、蒼紫以外の耳には届かなかった。
操が蒼紫の消息を知り、阿の処で運命の再会を果たしたのは、それから数ヵ月後の事である―――
【終】
あとがき
『雪中松柏(せっちゅうのしょうはく)……松や柏は雪の中でもその色を変えない事から、操の堅い事を例えて言う。』
と言う訳で、2004年初の更新はお久し振りの蒼操でした。
どのくらい久し振りかと言うと、前回のるろ剣の更新は2003年の9月…(笑)すみません、遊んでた訳じゃないんですけど(^_^;)
タイトルの『雪中松柏』の意味は上記の通り。『雪』で何か良い言葉が無いかと漢和辞典をめくっていて、見付けた言葉です。
意味の中に上手い事『操』の文字が入ってるし、意味自体もなかなか良い感じで。
頭の中にあった漠然とした次作のイメージと、タイトルがパズルをはめ込むようにピタッと合ったので、
作業時間はこれまたお久し振りの数時間でした。
いつも書いてる作品からは、ググッと時間軸が巻き戻ったお話になりました。
幸せいっぱいな操はウチではいつもの事なので、今回は非常に新鮮で、多分それで作業が早かったんではないかと(笑)
蒼紫はこの頃東京でしょうか。まだ観柳邸には雇われてないよねぇ…?
どこかの宿場町の宿の一室で新年を迎えたと言う事で一つ……
ちなみにこのSSを書いている時に頭の中をグルグル回っていたのは、鬼束ちひろの『私とワルツを』です。
何処とは言えないけど、全体的なイメージが蒼操っぽいかなーと。最近鬼束離れしてたんですけど、この曲は別格。大好きです(^_^)
麻生 司