あけましておめでとう
遠くで鐘をつく音が聞こえて来る。
それも一箇所からではない。
遥か遠くの鐘の音、比較的近い場所から響く鐘の音。音色も様々で、響きそのものも変化に富んでいる。
京都は他の地方に比べても寺が多い。廃仏毀釈を経ても、それは変わらぬ事実だった。
故に大晦日の夜は、まことしやかに賑やかになる。静寂の中の賑わいである。
何処からともなく聞こえて来る除夜の鐘の音を聞きながら、京都の暮れは更けて行くのであった。
「もう今年も終わりだねぇ」
「そうじゃのう……なんじゃかあっという間の一年だったわい」
ちゅるり、と蕎麦を飲み込みつつ、操と翁が互いの顔を見やった。
表では、独特の鐘の音が響き渡っている。もう間もなく年が明け、新年を迎えるのだ。
普段は静かなこの時間も、今日だけはさわさわと静かなざわめきに満ちている。
年越しと同時に初詣に行こうという、参拝客のざわめきだった。
「さぁさ翁、熱燗が出来ましたよ」
明日のおせち料理の仕込を終えた白たちも座敷に戻って来て、お近が翁の前に熱燗の銚子を置いた。
「おお、待っとったんじゃ!これがないと、いまいち蕎麦だけでは身体が温まらんでのう」
幸せそうな顔でお猪口を傾ける。
「操、お前も一口どうじゃ?」
ほんのりと桜色に染まった顔で銚子を寄越してきたが、操はふるふると首を振った。
「やめとく。あたし、自分が下戸だって判ったから」
「そうなのか?」
翁の顔が、気持ちしょんぼりする。
「なんじゃ、つまらん。蒼紫がからきし駄目じゃから、いつかは操と晩酌するのが楽しみだったんじゃがのぅ」
「あたしもいつかは、爺やと晩酌するのが孝行だと思ってたんだよ〜。でもこんなちょびっとのお酒で、もうまるっきり動けなくなるんだもの」
このくらい、と操が指の関節一つ分くらいの幅を作って見せた。
「あら、操ちゃんたらそんなに弱かったの?」
「うん、今まであまり飲んでなかったから気付かなかったんだけどね。
この間皆が宴会始めちゃった時に、うっかり茶碗に三分の一程飲んだだけで、もう全っ然駄目」
蒼紫が様子を見に来てくれなかったら、横になる事も出来ず、そのまま数時間悪酔いにうなされる所だった。
この一件で操もめでたく下戸だと言う事が判明し、以来、酒の席は速やかに辞する事に決めたのである。
「仕方ない。それじゃあ飲めるもんだけで楽しもうかのー!」
「「「「おおーー!!!」」」」
今夜は泊り客を入れていないから、今夜から明日にかけては飲み放題である。
準備してきた熱燗に加えて焼酎の瓶まで抱え出して来た以上は、操はさっさと退散した方が良さそうだった。
下手に同じ部屋に居ると、酒気だけで酔いかねない。
「暁、蒼紫様のお部屋に行こうね」
そう声をかけて傍らの籠でうとうとと眠っていた暁を抱き上げると、操は盛り上がっている翁達を後に残して座敷を出た。
「蒼紫様?」
部屋の外から呼ばわると、入って来いと声が掛かる。
中は火鉢に火が入っており、程よい暖かさだった。
暁が風邪をひかないように暖かい場所に寝かせると、操も蒼紫の傍に腰を下ろす。
「一人で年を越すのも寂しいから、しばらくこっちに居させてくださいね」
「また宴会が始まったのか?」
「まあ、いつもの事で。あたしはお酒が駄目だと判ったんで、さっさと逃げ出して来ましたけど」
操が苦笑を浮べると、蒼紫の口元にも微かに笑みが浮かんだ。
「酒好きには酒好きの理屈がある。大晦日くらい放っておけ……言った所で、聞きやしないだろうからな」
「理由をつけては飲みたがりますからねぇ。そんなに美味しいとも思わないんだけど」
「こればかりは、俺達では判らんからな……暁は、もう寝たのか?」
首を伸ばして、操が暁の様子を見る。
先程一度抱き上げた事で目を覚ましたが、静かな蒼紫の部屋に来た事で、またすやすやと安らかな寝息を立て始めていた。
「…もうぐっすりですね。蒼紫様の部屋は静かだから、暁も落ち着くんですよ」
「そうなのか?」
実際、葵屋の中の事を手伝いながら暁の面倒を見ていると、その事がよく判る。
操が背負っている時は、やはり彼女の運動量が多いせいかおちおち寝ていられないらしく、背中でも起きている事が多い。
部屋で寝かしておくと、やはり人の出入りの多い操の部屋や食事をする座敷などでは、あまり寝つきがよろしくない。
その点蒼紫の部屋は葵屋でも最も奥まった場所にあり、表の通りからも奥まった位置にあるので、雑多な音が他の部屋に比べてずっと少ない。
そのせいか暁を蒼紫の部屋に寝かせておくと、どの部屋よりも寝つきが良く、かつ長い時間眠っている事が多かった。
付け加えて言うならば、部屋の主の放つ雰囲気が、暁にも馴染むのだろう。
下手に言葉を介していない分、ずっと素直な反応だとも言える。つまり暁は、無条件で蒼紫に懐いているのだ。
「暁は案外、蒼紫様みたいな大人になるのかもしれませんねぇ。何か楽しみだな」
ふふっと操が笑う。
暁は、蒼紫や操は勿論の事、葵屋の者とは本来何の縁も無い。
血縁がある訳ではないので、遺伝的な意味で似ていると言う事は在り得ない。
だが、まだ物心もつかぬ内から蒼紫の部屋の雰囲気を最も好む辺り、なかなか見所があると思うのだ。
「俺に似た?」
言われた蒼紫本人は不思議そうな顔をした。実子ではないのだから、似ていると言われてもピンと来ないのは無理も無い。
「そうですよ。血の繋がりがなくたってあたしは爺やにそっくりだって皆に言われるけど、
それならいずれ暁は、蒼紫様によく似てるって言われるようになるのかも知れない。姿形じゃなくて、その身に纏う雰囲気そのものが」
すやすやと眠る小さな赤子。
本来ならば出会うことも無く、一生を終えていたかも知れない小さな命。
縁あって引き取られた幼子を、今は本当の自分の弟のように――自分の子だと思う程の実感はまだ無い――愛しく想う。
惜しみない愛情をかける事が出来るのなら、実の親以上に、養い子を育て上げる事も出来るだろう。
血の絆がなくとも、養い子が養い親に似る事もあるかもしれない。
そう考えると、暁の成長がとても楽しみだった。
「あ、最後の鐘だったのかな?」
耳を澄ましても、京の町に響き渡っていた除夜の鐘の音はもう聞こえてこなかった。
いつの間にか百八つ打ってしまったのだろう。
「よく数を数えては、途中で寝ていたな」
蒼紫の目が、懐かしそうな色を浮べる。ほんの十年程前の事であるのに、もう随分と昔の事のような気した。
「やってましたねぇ。半分くらいまでは起きてるんですけど」
指折り数えて、ひとつふたつみっつと数えていくのだが、あたかも羊の数を数えるような催眠効果で程なく寝てしまうのだ。
恐らく三十を数えたあたりから舟を漕ぎ始めていたと思うので、実際には半分も数えられていないのだろう。
大晦日は他の者もなかなか眠らないので、操も頑張って起きていようとするのだが、朝まで起きていられた試しがない。
いつの間にか眠ってしまった自分を、誰かが――実は蒼紫だったのだが――布団に運んでくれており、自室で目覚めるのが常だった。
毎年正月の朝に悔しがって大騒ぎしていたのだが、そう言えばここ数年は、何となく鐘の音が止んでしまっても起きていられるようになった。
「大人になったって事かな?」
「いつまでも子供のままでは困る」
いつもの調子で軽く口にした言葉に、さり気ない追随が入る。ごく自然に出た、素朴な言葉―――
『え?』と、思わず操が聞き返すと、蒼紫が小さく咳払いして口元に手を当てた。
旧い一年を終え、新しい年を迎えた事で、ついうっかりと隙が出たのかもしれない。彼にしては非常に稀な事だった。
「お前も今では、暁の育ての親なのだから」
と、いささか取って付けたような事を言って、取り合えず己の失言を取り繕う。
『そうですね』と、操も何事もなかったかのように笑ったが、彼女が蒼紫の失言に気付いたのか、気付かなかったのかは、その表情からは判らなかった。
暁を養い子として迎えて以降、急速に大人びて来た彼女に、女性としての心身の成長を望むような事を、無意識ででも、思わず口にしてしまった事に―――
「……夜が明けたら、初詣にでも行くか」
不自然に途切れてしまった沈黙が気まずくならないうちに、蒼紫が明朝の予定を口にする。
「いいですね。皆がちゃんと起きてくれたらいいんだけど」
そう言いながら、操が耳を澄ませた。
一年の最後の夜、あるいは一年で一番最初の夜は、葵屋の座敷にはまだまだ訪れそうもない。
普段ならそろそろ酔い潰れて静かになっている頃なのだが、
今夜は量を抑えながら長く飲んでいるのか、まだまだ賑やかな笑い声や話し声が聞こえて来る。
もっとも隣近所も似たようなもので、葵屋ほど賑やかではないが、ほとんどの家の灯りは灯ったままであった。
「まあ、いいか。皆が起きてこなかったら、暁を連れて三人で行きましょう。参道に出店が立ったりして面白いんですよ」
自分と蒼紫と暁と。
元々は他人同士だった自分達が、並んで歩けばひとつの家族に見える幸せ。
蒼紫と二人きりでも楽しかったかもしれない。暁と二人きりでも、それはそれで楽しいと思う。
それでも操は、蒼紫にも暁にも傍に居て欲しいと思った。
「ああ…そうだな。三人で行こう。良い一年が過ごせるように」
誰も欠ける事無く、三人一緒で。
『はい!』と返事をした操の笑顔に、蒼紫は胸の奥が温かくなった。
そのまましばらく、遅くまで蒼紫の部屋で話し込んでいたのだが、操がひとつ欠伸をしたのをきっかけに寝(やす)む事になった。
夜気は深々と冷え込んでいたが、その空気が心地良い。
座敷の宴会もようやくお開きになったようで、流石に静かになっていた。
「爺や達、ちゃんと何か掛けて寝てるかしら」
眠ったままの暁を抱いて廊下に出た操が、座敷の方を見やる。
その肩を蒼紫がくい、と押して、彼女自身の部屋の方に向けさせた。
「後で俺が見に行っておく。お前はもう寝め」
「そうですか?」
「うっかり見に行って、酒気当たりでもしたら後が辛いぞ」
以前、翁に勧められた酒に口をつけただけで悪酔いした事から、操も下戸だと言う事が判明した。
体質が酒を受け付けない為、香りが満々と満ちた部屋に踏み込むだけで、酒気当たりする恐れが無いとは言えない。
「あはは、そうですね。それじゃあ、お願いします」
蒼紫も同じく下戸なので条件は大して変わらないのだが、ここは素直に彼の好意を受けておく事にした。
ぱたぱたっと廊下を小走りで駆けて行く操の足が不意に止まる。
くるりと振り向くと『忘れる所だった』と呟いて、彼女の背中を見送っていた蒼紫に呼び掛けた。
「蒼紫様、あけましておめでとうございます!」
一瞬蒼紫が返答に詰まる。
「……まだ夜も明けてないぞ」
困ったような顔をしたが、操は全然気にしていない様子だった。
操の声に目を覚ましてしまった暁の手を取り、バイバイをするように振って見せながら笑う。
「いいんです。明日の朝まで待ってたら、一番に蒼紫様に言えないかもしれないでしょう?」
うっかり翁やお増達に先に出会ってしまったら、やっぱり無視は出来ない。
だから眠る前に言ったのだ。
年を越してから、一番最初に口にする『おめでとうございます』を。
「それじゃ改めて、おやすみなさい蒼紫様」
「……ゆっくり寝め。二人ともな」
「はい、蒼紫様も」
操が部屋に戻るのを確認してから、蒼紫はゆっくりと座敷に足を向けた。
ごろごろと空になった銚子よろしく横になっている翁たちに上掛けを着せ掛けると、自分も部屋に戻り、行灯の火を落として横になった。
案の定、翁達は昼近くまで起きてこなかったので、初詣は当初の約束どおり三人で出掛けた。
途中の参道で操がびーどろを買って鳴らしてみたら、予想以上に暁が大喜びしたので調子に乗って続けて鳴らしているうちに、
あっという間に壊れてしまったという事もあったが、他にも道々破魔矢を買ったり、おみくじを引いたりしながら楽しく参拝をした。
おみくじでは操が大吉、蒼紫が末吉と一見対照的な結果が出たが、別段蒼紫も嫌な顔をしなかった。
無信心で興味が無かった訳ではない。ちゃんと見る所は見ている。
長身を活かして、空いた高い木の枝に結び付けられた蒼紫のくじには、こう書かれていた。
『縁談 恋愛より進んできたもの大変良し。将来の幸福が期待出来る故、一日も早く祝言に踏み切るべし』
【終】
あとがき
実は一ヶ月程前に、実家→祖母の家と数日間にまたがって書いていたSSです。
またしてもPC持ち込みで私は何をしているのやら(^_^;)
年末年始ネタにしようと決めたはいいけど、オチが決まらなくて丸一日悩んでいました。
おみくじでオチをつけたのは、以前引いた自分のおみくじを思い出したからです。
縁結びでは有名な、京都の地主神社のおみくじで『一番』の大吉を引いた事があるんですよ♪
私自身、その後に正式に縁談がまとまり無事に結婚したので、その幸運にあやかって見ました(笑)
ちなみに何とかおせち料理は出来上がりました(笑)後は明日の朝、雑煮を作るだけです。ふう(^_^;)
麻生 司