過ぎし日に想いを寄せて


朝夕、空気が凍るように冷たく感じられるようになった。
雪はまだ降っていないが、早朝庭に出ると霜が降りている。
小さな下草などが霜で白く覆われているのを見ると、そうかもう師走なのだと、今更のように蒼紫は自覚した。

京都の街の一角で小料理屋を営む葵屋も、ご多分に漏れず慌ただしい季節を迎えていた。
年末を迎えるにあたって近所の者とちょっと酒の席を設けてみたり、
暮れに先祖の墓に泊りがけで参っておこうかと思ってみたりと、何分普段とは違う客足が増える。
加えて屋敷全体の大掃除なども勿論行うので――― 一応、敷地は広い――余計に忙しい。
畳を上げたり、高い所の汚れや埃を払ったりと、手間も時間も掛かる仕事が満載である。

そんな状況下で空いている人手などある筈も無く。
葵屋の逞しい女衆にかかってしまえば、例えそれが店の年老いた旦那であろうと、
着流し姿に思わず通行人が振り返る程の男前な若旦那であろうと、問答無用だった。


「じゃあ翁は、蔵の片付けお願いしますね。手が空いたら誰か手伝いに行きますから、それまでよろしく」

布巾で頭を覆い、着物の袖を襷がけにした翁の手に乾いた布が数枚手渡される。

「蔵の片付けか〜。蔵は冷えるんで、老体には堪えるんじゃがのー……」

ちら、と上目遣いに布を手渡したお近を見やる。こんな遣り取りは毎度の事なので、お近もさらりと受け流した。

「じゃあ白と代わって屋根に上がって瓦の点検でもしますか?今日は風が冷たくて、さぞ気持ちよさそうですけど」
「……蔵でいい」

しょぼん、という形容がぴったりの様子で、翁はトボトボと背を丸めて蔵へと向かった。
確かに蔵で作業をするのは寒いのだが、そこは抜かりなく、ちゃんと蔵の傍で落ち葉を燃して焚火をする予定である。
こっそり芋を仕込む予定なので、女性陣は結構楽しみにしていた。


「蒼紫様は高い所のお掃除お願いしますね」
「……判った」

頭を布巾で包む事はしなかったが、着物を襷がけにしているのは皆と同じである。
操ににっこり笑顔で差し出されたハタキと、濡らして固く絞った雑巾を手渡され、蒼紫も甘んじてそれを受け取った。

黒は畳を上げた後に障子の張り替え、白は屋根に上がって割れた瓦がないかの点検をする事になっており、
高いところの拭き掃除などは、やはり上背のある自分がやって然るべきなのであろう。
ちなみに女性三人は、総手で屋敷中の床の拭き掃除をする事になっている。

大掃除にラクな場所は無し。文句を言わず、さっさと始めて終わらせるのが、一番手っ取り早いのであった。

 


客間の欄間や床の間、家具の上等を丁寧に拭き、普段はあまり掃除出来ない天袋の中なども、順に几帳面に片付けていく。
この辺りが持って生まれた性格が如実に反映され、意外に細かな仕事になった。
不思議とそのような地味で単調な作業が、思ったほど苦にならない。やはり性格なのだろう。

天袋などに、あまり不要な物を貯め込んではいないようであったが、たまには妙な物も出てくる。
例えば誰が着るのかと思うような派手な着物―――後で確認したら、翁の宴会の仕込み用だった―――や、鍋の蓋など。

「何故鍋が無くて、蓋だけあるんだ……?」

落し蓋に使ったり、それこそ翁が宴会で使う事があるから置いてあるのだと、蒼紫には想像も出来なかったらしい。


妙な事に疑問を感じ、首を捻りながらも、いつの間にか最後の部屋まで掃除を済ませていた。
何の事はない。蒼紫自身の部屋である。
元々箪笥くらいしか置いていない部屋だったが、蒼紫の部屋となってからも小さな書棚と文机を増やした程度なので、未だにガランとした印象がある。

一応今までの部屋同様に、固く絞った雑巾で部屋の隅まで丁寧に拭き掃除をし、最後に天袋を開けた。
そう言えば布団を敷いたり片付けたりするのに、毎日のように押入れは開けていたが、その上の天袋は開けた事がなかったと気付いた。

誰かが以前置いていた名残であろう、微かな樟脳の匂いが鼻につく。
少し下がって中を確かめてみると、ほとんど物が入っていない天袋に、ぽつんと黒い塗り箱が置かれていた。
それ程大きくはなく、文箱を一回り大きくしたような感じである。


踏み台を持ってきて取り出してみると、塗り箱は組紐で開かないように閉じられていた。
ぱっと見は、昔話の玉手箱のようである。
組紐の模様の組み方が独特なのは、きっと不慣れな者が練習で作った物なのだろう。少なくとも売り物ではない…筈だ。
まさか開けたら煙が出てきて、あっという間に白髪頭に……はならないだろうが、得体の知れない物をあっさり開けたものかと、少しの間箱を前に逡巡する。


しばらく考えた後に、蒼紫は手にしていた雑巾を片付けると目の前の組紐を解いた。
黒い塗りの蓋をそっと持ち上げてみる。
当然白い煙が出てくるような事はなく、中にあったのは雑記帳や丸めた紙、それに折り紙や紙風船などであった。

「これは……」

雑記帳に覚えはないが、小さな折鶴や紙風船は、蒼紫の古い記憶を呼び覚ました。
何故ならその折鶴は、昔自分が葵屋を出る前に、操に折ってやったものであったから―――

 



「蒼紫様、こっち終わりました?」

頭に巻いた布巾を取りながら、操が顔を覗かせる。
蒼紫は自分の部屋で、こちらに背を向けて座り込んでいた。何やら小さな物を手にして、熱心に見入っているようである。

「何を見てるんですか?」

背のすぐ後ろで掛けられた声に、蒼紫は顔を上げた。

「操、これはお前が置いていたのか?」

差し出された手の上の小さな折鶴と、畳の上に置かれた黒い塗り箱に、操の顔がぱぁっと明るくなる。

「う…わぁ!懐かしい〜〜〜!!どこで見つけたんですか、これ!?」
「そこの天袋の中だ。この塗り箱に、組紐で閉じて置かれていた」

この様子では、少なくとも操自身が意図して置いた物ではなさそうだった。

「ああ、でもこの箱の中身は全部あたしのものですよ。ここに置いたのは爺やだけど」

そう言って、操は箱の中に残されていた雑記帳を手に取った。

 


「これは蒼紫様が葵屋を出て行かれた後に、あたしが残していた、蒼紫様に関わる物を全て収めた箱だったんです。
 この部屋に置いていたのは、すっかり忘れてましたけど」

箱から出て来たのは雑記帳に、鶴や小箱等を折った折り紙、一緒に遊んで貰った紙風船、何と一番底には羽子板まであった。
丸めて入れられていたのは、墨で書かれた絵だった。

真ん中に大きく描かれたのは蒼紫。子供の描いた絵なので『誰がどこから見ても蒼紫』という訳ではないが、
そうだと思って見れば、目の雰囲気や口元などの特徴をよく捉えた絵だと思う。身内の贔屓目も、少しはあるだろうが。
その蒼紫の隣で、彼と手を繋ぐようにして描かれているのが、幼い頃の操なのだろう。
背の中程までしか描かれていない三つ編みが、何気なく過ぎた時間の長さを感じさせる。
周りには二人よりも少し小さめに、だが葵屋の面々も描かれていた。ちゃんと般若や式尉達の姿もある。
小さいながらも翁の特徴のある髪型や黒の顎、般若の面、式尉の身体の傷など、要点が描き込まれているのですぐに誰だか判る。
多分、顔や着物に墨をつけながらも精一杯筆を振るっていた操の姿が想像出来て、蒼紫は彼女に見えないように忍び笑いを浮かべた。


「蒼紫様が出て行かれて、あたしも随分落ち込んで。これでも随分泣いたんですよ?」

少し恨めしそうな顔で、斜交いに蒼紫を見下ろす。
これは変えようのない事実であるので、幾ら言われても仕方がない。蒼紫も苦笑いを浮かべただけで、特に弁解しなかった。
だが蒼紫も、あの時、彼女にとって一番良いと思われる道を選んだのだ。
今でもそれは間違っていなかったと思っている。

口では何のかんのと言っていても、彼女をこれ程まっすぐ、心根優しく育てたのは翁達であり、葵屋の存在に他ならない。
操も今ではその事を判っているので、自分が置いて行かれた事を責める口調ではなく、蒼紫を見る目は優しかった。

「あんまりあたしが元気を無くしたもんだから、爺やたちが心配しちゃって。
 だったら蒼紫様に関わる物を、忘れさせるんじゃなくて、いつでも目に出来る所に置いておこうって、集めてくれたんです」


黒い塗り箱を選んで買ってきてくれたのは白と黒だった。絵を描いてみたらどうだと言ってくれたのも、この二人である。
『自分で組んだ紐で閉じておくといいですよ』と組紐を教えてくれたのは、手先の器用なお近だ。
なるほど、慣れていない子供が初めて組んだ組紐なら、この出来も判るような気がする。
お増は蒼紫が折った折り紙を、操が失くさないよう、壊れないように綺麗に取っておいてくれていた。
そして、一冊の雑記帳をくれたのが翁である。

「その雑記帳は何だ?」

操が手にした雑記帳に蒼紫が目を止める。

「これはねぇ、絵日記なんです」

あまり上手じゃないんですけどね、と照れ笑いを浮かべた。

「絵日記?」


―――色々蒼紫に話したい事もあるじゃろうが、奴が帰って来るのを待っていたらいつになるか判らんからのぅ。
    日々あった事を、後でちゃんと伝えられるように絵日記にして描いておきなさい。


「それが、これです」

ぱらり、と雑記帳の中身をめくってみて、操が自分で苦笑いする。

「あたしって、本当に絵心がなかったんだなぁ。ひどい出来」

そう言って、操は折鶴や絵と一緒に、雑記帳を塗り箱に戻した。

「これは、蒼紫様に差し上げます」
「俺に?」

意外な言葉に、蒼紫が思わず聞き返した。

「蒼紫様は戻って来てくれたから、あたしにはもう必要ないもの。
 これを見て、今度は蒼紫様が、あたし達と一緒に居なかった時間を埋めてください」

差し出されて受け取った塗り箱の重みが、八年の歳月の重みに感じる。
時の流れと言うものは目や感覚で捉える事は出来ないが、少しだけその重さを感じる事が出来たように思えた。


「操」

部屋を出て行こうとした所を呼び止められ、彼女が振り向いた。

「この部屋を俺が使うと判ってて、この箱をここに置いたのか?」
「ああ」

操がにっこりと笑う。その事ならば、よく覚えていると言いたげに。

「ここは、初めから蒼紫様のお部屋だったんです。初めて葵屋に来たその日から、蒼紫様はこの部屋で寝起きしてたんですよ。
 覚えていませんでしたか?」
「いや……そんなに長居をしていた訳ではないから、忘れていた」

素直に、蒼紫はそう口にした。元々物に執着しない性質なので、自分がどの部屋に寝起きしていたかなど、とうに記憶になかった。
恐らくは自分が出て行った後で、庭などに手を入れたせいもあり、それもあって判らなかったのだろう。

「蒼紫様は人の出入りの激しいお客様の部屋に近い所じゃ落ち着かないだろうから、
 葵屋でも一番奥まったこの部屋を蒼紫様の部屋に決めたんだって、爺やが言ってました。
 そして蒼紫様が葵屋を出て行かれてからも、いつ戻って来てもいいように、ずっとこの部屋は空けたままだったんです」


操自身がこの部屋の前の廊下にぽつんと座り込み、蒼紫の帰りをずっと待っていた姿も、翁達に部屋を残させたのだろう。
どうせ部屋は余っているのだし、操がこうして帰りを待っているのだから、この部屋はこれからもずっと蒼紫のものだと―――

「だから、この部屋にこの箱を置いたんです。いつか蒼紫様が戻って来た時に、こうして渡せたら良いって。
 結局爺やに頼んで置いてもらったまま、蒼紫様が見つけてくれないと忘れちゃってましたけどね」

きっとこの箱も、蒼紫様に見つけてもらいたかったのだと、操は笑った。

「他の所も大体片付いたみたいですから、少し皆で休憩しましょうね。お茶が入ったらまた呼びますから」


操が出て行ってしまってから、改めて蒼紫は塗り箱の中の雑記帳を手にした。
表には大きな字で『操』と書かれている。
ぱらりとめくってみると日記は見開き状態で書かれており、見開きの右の頁が日記の本文、対になる左の頁がその絵らしかった。


『六月十八日
 今日も雨で外で遊べない。この間水溜りで遊んでいたら泥だらけになって、全部自分で洗濯させられた。
 退屈なのでてるてる坊主を作って軒下にぶら提げてみた。
 蒼紫様のつもりで顔を描いてみたけど上手に描けなかったので、
 爺やに聞かれた時につい『般若君の顔なの』と言っちゃった。ごめんね、般若君』


隣の頁には、軒下にぶら提げられた大きなてるてる坊主の絵が描かれていた。
坊主の顔は操なりに努力はしたのだろが、『誰か?』と問われて、本当の事を言うのが気が引けたという所だろう。


『八月七日
 とっても暑い日。白さんが西瓜を買って来て、それを井戸で冷やしてくれていた。
 お昼御飯の後で皆で一緒に食べた。この種を植えたら来年も生えてくるのかしら?
 いっぱいあって食べきれなかった。蒼紫様や般若君たちにも食べさせてあげたかったなぁ』


葵屋の縁側で、皆が大きな西瓜を頬張っている絵が添えられている。
六人がかりで、そのうち大人が五人もいて食べきれないと言うのだから、余程大きな西瓜を買いこんできたのだろう。
頁の隅に、小さく西瓜を食べる蒼紫達の絵も描かれていた。気持ちだけでもお裾分け、という意味なのかもしれない。


『十一月二十一日
 庭に植えたもみじの葉が散って、毎日それをお掃除するのが大変。
 『働かざるもの食うべからず』って爺やが言うから、庭の落ち葉掃きはあたしの仕事になった。
 でも時々黒さんがさつま芋を差し入れてくれるので、よく皆で落ち葉を燃して、焼き芋にする。
 お芋を焼く時は、お近さんやお増さんも必ず来る。『秋はやっぱり焼き芋よねー』と、いつも楽しそうだ』


この頃から、葵屋では落ち葉の季節には焼き芋が定番だったようだ。
よく焼けた芋と、それを幸せそうに食べているお近とお増の絵が、何故だか笑いを誘う。


『一月一日
 今日は皆でお稲荷さんにお参りに行った。凄い数の鳥居は何時見てもビックリ。
 たくさん集まった人の数にもビックリ。とても寒い日だったのに、あんまりたくさん人が居るから、その事を忘れるくらいだった。
 お参りの人が少ない時に、またゆっくり皆で来ようねって約束して、今日はお参りだけ済ませて帰ってきた。
 蒼紫様や御庭番衆の皆が、早く元気に帰ってきますように』


京都でお稲荷さんと言えば、伏見稲荷大社の事だ。果てしなく続く鳥居と、稲荷の姿が描かれている。
あまり頻繁に蒼紫達の事を口にはしなくなっていたようだが、新年のお参りに際して自分達の安否を気遣ってくれていた事がよく判った。

日記は毎日書かれている訳ではなく、とりわけ印象深い出来事があった時にだけ書いていたようだ。
日付はまちまちだが、何日かに一度ずつ綴られており、それは分厚い雑記帳―――恐らくは翁の手製―――に延々と数年分に及んだ。
失われた時間は永遠に失われたままであると思っていたが、
こうして残された思い出の品や、過去の日々を綴った日記を見ていると、まるで目の前で見たかのように情景が浮かんでくる。

自分達は決して間違ってはいなかった。今でも、問われれば揺ぎなくそう答える事が出来る。
だがそれでも時折は―――

「こうして、過ぎ去った時間の重さを埋めるのも悪くはない」

遠くで、茶が入ったと自分を呼ぶ操の声がする。
蒼紫は塗り箱に丁寧に雑記帳を収めると、元通りに組紐で閉じ、自分の文机の片隅に置いて部屋を後にした。

                                                                  【終】


あとがき

季節ネタですね。師走の大掃除です。
我が家の師走は、大掃除ではなく、中掃除が数回になりました(笑)だって一人でやるのは大変なんだもの…
やはり高い所の拭き掃除などは、男の人に手伝ってもらった方がラクですね。ふう。

この辺のネタは実は結構早めに出来上がっていたにも関わらず、時期的な関係でなかなかUP出来ませんでした。
本当は一週早くUPする筈だったのですが、SPECIALのSSが思いの外本数があったので、一週お休みに。
ので、年末はるろ剣に限り少々変則的な更新をします。
次のSSのお題は除夜の鐘。はい、いつ頃更新予定か察しがつきましたね?(笑)
次作を暮れにUPするので、年明けすぐのレギュラー更新予定日(基本的に毎週木曜)には、るろ剣は更新しませんのであしからず。

                                                                 麻生 司




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