墨染の桜舞う
「桜の蕾が綻んできましたねぇ、蒼紫様」
声までウキウキと楽しげに、蒼紫の部屋を出てすぐの縁側から、操が庭を眺めていた。
綺麗に整えられた葵屋の庭にも、何本か桜の樹は植わっている。
桜が咲くと木の下に毛氈を引いて、花見をするのが葵屋の通例だ。
団子やおはぎ――翁達は花見酒を楽しんでいるが――にも目を輝かせるが、勿論、素直に桜の花も綺麗だと思う。
「毎年桜が咲くと、あの下で皆でお花見するんですよ。時々ご近所さんも混ざったりして、楽しいんです」
「そうか」
蒼紫の返事はごく短いが、別に気を害したとかそういう事ではないのは、彼の表情を見れば判る。
書き物をしていた筆を置いて微かに目を眇めたその様子は、そよぐ風の音に耳を澄ましているようであった。
「ゆっくり花見などしたのは、もう随分昔の話だ」
自分の髪は長く伸ばされていて。
頭の高い位置で結わえた髪を、背中におぶった操によく引っ張られたものだ。
先代の御頭はまだ存命で、翁はその片腕として次期御頭と目されていた。
さわさわと梢を揺らす風に、桜が舞い散る。
少し若い般若や式尉達が、薄桃色の花びらの中を駆け回る小さな操を追い掛けて、右へ左へと走らされていた。
『ほら見て、蒼紫様。樹に咲いてるお花には手が届かないけど、でも風が吹いたらこんなにいっぱい!』
桜吹雪の中で操が小さな手を振る。
柔らかい光の中で笑う操は、桜の精が姿を借りたように視えた。
桜は散り際が美しいと言ったのは、一体誰の言葉だったのだろう?
「あたしはやっぱり、ソメイヨシノが好きかなぁ。普通だけど、ここに植わってるのがソメイヨシノだから、やっぱり一番馴染みがあって。
蒼紫様は、好きな桜の種類ってありますか?」
「種類?」
縁側に腰掛けて足をぶらぶらさせた操が、庭の方から部屋の中の蒼紫を振り返った。
種類を問われて何と言える程詳しくはないのだが、ふと、心に浮かんだ名がある。
「墨染の……」
「え?」
小さな呟きのような声に、操が思わず聞き返す。
「もう随分前だが、一度だけ見た事がある。
京都の南の方にある、墨染寺(ぼくせんじ)の境内に咲く墨染(すみぞめ)の桜―――」
あれは操を葵屋に残して旅立ってから、初めての春だった。
般若、式尉、火男、べし見の四人を連れて当所も無く流れていた蒼紫は、桜が咲く頃に再び京都の地を踏んだ。
葵屋に顔を出す気は毛頭無かったのだが、般若の一言と、他の三人の無言の勧めに結局折れた。
『遠くから操様の様子を見るだけでもよろしいじゃないですか。我等も、操様の様子が気になりますから』
決して蒼紫が、とは口にしなかった。
あれ程慕ってくれた操を葵屋に残して旅立って、後ろ髪を引かれたのは自分達も同じなのだと。
操を葵屋に託したのは彼女の幸せを願っての事。
一緒に来るかと問えば一瞬の迷いもなく是と返事が返ってくる事を知っていながら、そんな彼女の願いには耳を塞ぎ、
ただ自分達の想いのみで操を手放した。
今更彼女の前に姿を見せる事は出来ないが、遠くから様子を見るだけならば出来るだろうと。
蒼紫達は葵屋から距離があり、目立たない高台へと足を運ぶと、そこから葵屋を伺った。
御庭番衆として鍛えた視力があればこそ出来る芸当である。
葵屋の庭に植えられたソメイヨシノの下で、操はいつかと同じように花吹雪の中、空を見上げていた。
黒絹の髪に花びらが触れては風に吹き流される。だがその表情には、以前には無かった寂し気な影が視えた。
―――桜の精は、舞い降りなかったのだろうか。
ふと、そんな埒もない考えが蒼紫の頭を過ぎった時、操が縁側の方を振り返って笑顔を浮かべた。
屋内から草履を履いて、翁や白尉達が重箱や毛氈を手に庭に下りてくる。
操の顔に、先程の影は無い。
蒼紫もよく知っている、以前のままの明るい笑顔だった。
操は聡い子だ。
胸の奥に晴れない闇があっても、笑顔に隠して翁達には決して見せていないのだろう。
一瞬視えたあの寂し気な顔が、恐らくは彼女の本心なのだ。
自分一人が葵屋に残されたと知った時には泣いただろうが、今はその涙を隠せるだけの心のゆとりを取り戻していた。
翁は恐らく、彼女に事実を曲げずにそのまま伝えたに違いない。
蒼紫達が自分を置いて旅立ったのは、操の幸福を願ったからだと―――
この地で―――
ギリギリの死線を彷徨う命の遣り取りや、血生臭い争いを知らず、いずれは一人の女性としての幸福を掴んで欲しいと。
恨まれてもいい。
それが操の幸福に繋がるのなら、恨まれる事くらい、蒼紫にとって何ほどの事もない……
操の元気な様子を見て、そのまま京都を離れようとした蒼紫を、珍しく般若が引き止めた。
折角京都に戻ったのだから、行ってみたい場所があると―――それが、墨染寺だった。
「墨染って……どんな花が咲くんですか?まさか、本当に薄墨の色?」
薄いとは言え、墨の色――ようするに黒い色の混じった桜の花など、想像がつかない。
「いや、墨染の桜は白い花を咲かせる」
首を傾げた操に、蒼紫は自分の記憶を辿って目を閉じた。
昔、主の死を悲しんだ臣下が『もしも桜にも心があるなら、その死を悼んで今年だけは喪の色に咲いてくれ』と詠んだ。
以来、その地の桜は喪の色―――墨染に咲き、その地自体も墨染と呼ばれるようになった。それが墨染桜の由来である。
『まだ葵屋に居た頃に、ここの桜の事を聞いたんです。一度、この目で見たいと思っておりました』
普段、あまり自分というものを見せない般若が、満開の桜の下そう口にしたのを、蒼紫ははっきりと憶えている。
白い桜吹雪の舞う中で、仮面の下の般若が微かに笑ったような気がした。
『私が花を美しいと思うのは不思議でしょうか?』
『いや……美しいものは、美しい。そう思える間は、俺たちにもまだ心が在るという証だと思っている』
視線に気付いた般若の言葉に、蒼紫は小さく頭を振った。
『そうですね。常に戦場に身を置き、いつ命を散らしてもおかしくは無いこの身でも、今が盛りと咲き誇る花は美しいと感じる。
しかし桜は、散り際の姿こそ真に美しいと……私は、思うのですよ』
―――深草の野辺の桜の心有らば今年ばかりは墨染に咲け
墨染桜の由来となった和歌を、般若が諳(そら)んじた。蒼紫が微かに目を細める。
『……滅び行く者同士の共感か?』
『―――そうかもしれません。
ですが、花は愛でる為にある。一番美しく見えるその瞬間を愛でられる事こそ……花の本望ではないのでしょうか』
その言葉は、ただ言葉通りの意味だったのか。それとも暗に何かを蒼紫に伝えようとしていたのか。
今となっては、もはや確かめようも無い。
天から雪が降るように舞い落ちる桜の一片に身を委ねて、般若はそれきり口を閉ざした。
「ふぅん、白い花の桜かぁ。あたしも見てみたいな」
えい、と勢いをつけて操が庭に飛び降りる。
長く伸ばして三つ編みに結われた髪が、彼女の動きに合わせてくるりと揺れた。
「……ならば、今度連れて行ってやろう。俺も、久し振りに見てみたい」
「え、本当ですか?嬉しい!」
ぱっ、と操の頬が朱に染まる。
興味はあったが、蒼紫にとって何か特別な想いの残る地に――蒼紫の表情で察しがついた――
連れて行ってくれと言うのは気が引けたので、彼の方から連れて行ってくれると言うのは素直に嬉しかった。
―――花は愛でる為にある。一番美しく見えるその瞬間を愛でられる事こそ……花の本望ではないのでしょうか―――
桜は、散り際の姿こそ真に美しいと般若は言った。
ならばその姿を、自分の唯一の華と共に、心に灼き付けよう。
桜吹雪は、再び操を桜の化身に見せてくれるのだろうか。
だがその笑顔には、かつて感じた曇りの欠片も無い。
それだけは、はっきりと言えた。
「ああ。もう少し咲き揃って……散り始めた頃にな」
墨染に白い桜の花が咲く。
その地に陽光を纏った桜の化身が降り立つのは、もうしばらく後の事になりそうだった。
【終】
あとがき
これを書いている現在、桜の季節です。
しかも丁度このお話が上がったピッタリ一年前、お友達と一緒に、実際に京都の墨染寺に墨染桜を見に行ってました。
まさか『遥か〜』知識が、るろ剣で発揮されるとは思いもよりませんでしたが(笑)
でも墨染寺の桜は本当に見事で、私的に大好きです。
いっぱい写真を撮ったのに、何故かその写真を整理したアルバムが見当たらなくてあわわわわ(汗)
確か、現在実際に白い花をつける桜の木は一株だった筈です。
境内にいっぱいある桜の樹のほとんどは、普通に淡桃色の花をつけてました。
しかしそれでは絵的に寂しくなるので、その辺りは敢えてノーコメント。
丁度良い時期ですから、チャレンジャーな方は実際に墨染寺を訪れてみるのも良いかと(笑)
お友達と境内に入った丁度その時に、風が吹いて辺りが桜吹雪に染められたんです。
ちょっと言葉では言い尽くせない感動がありましたね。やはり日本人の心の花はやっぱり桜でしょう!(^_^)
今回は蒼紫じゃなくて、般若君に格好良い役所を担ってもらってます。
勿論、蒼紫が察した通り、般若は花と操を比喩して蒼紫に話したんですけどね。
しかし蒼紫も操を桜の精だの化身だのと、かなり幻想モードに入ってたり(笑)まあいいか、春だしな(^_^;)
麻生 司