夏の便り


ケロケロ…ケロケロ……
庭の池で蛙が鳴いている。数匹いるらしく、結構賑やかな鳴き声だ。
その調べに耳を傾けながら操は蒼紫の部屋の前の縁側に腰掛け、足をブラブラさせていた。

「操ちゃん、あんまり表に足を出してると蚊に食われますよ」

側を通ったお近の言葉に一度は足を引っ込めたものの、
すぐにまた手持ち無沙汰になるのか、無駄な肉の付いていない足をブラブラさせる。

「蒼紫様、今日は戻って来ないのかなぁ」


待ち人の蒼紫が『任務』で葵屋を出たのは、今朝早くの事だった。
まだ夜も完全に明け切っていない頃合に出掛けたのだという。
いつも通りに起き出して来た操は当然見送る事も出来ず、蒼紫の不在は朝餉の仕込で起きていた黒に教えて貰った。

操とていつもいつも蒼紫の後ろをくっ付いて回っている訳ではない。
葵屋に居れば店が忙しい時は手伝いもするし、たまには一人で出かける事もある。
する事がいろいろある日は一日が過ぎるのもあっという間なのだが、今日は生憎とそれ程忙しくはなかった。
店の手伝いも早々に済んでしまい、夕方以降暇で仕方が無い。


「折角花火、しようと思ったんだけどな」

しょんぼりと傍らに置かれた袋を見下ろす。
それは翁が土産にと、外出先から貰って帰って来たものだった。
呉服問屋の主人が孫にと買ったものだが、たくさん買い過ぎてしまったので分けてくれたのだという。

花火などしばらくした事がなかったが、どうせなら蒼紫と一緒にやってみたいと思った。
蒼紫が花火を持っている姿など想像も出来ないが、側で見ていてくれるだけでもいいと思っている。
それで日が落ちてからずっと待っているのだが、丸い月がすっかり頭のてっぺん近くに上がった頃合になっても、蒼紫が戻ってくる気配はなかった。

「仕方ない…か。でも、お月様綺麗…眠っちゃうの、少し勿体無いな」


見上げる空は晴れ上がり、煌煌と射す月明かりは庭をほんのりと浮かび上がらせている。
十五夜はまだ先なのだが、十分に美しい月夜だった。
他の者の部屋もそうなのだが、蒼紫の部屋にも夜は蚊帳を吊る。
今夜もお近と操の二人で、いつ蒼紫が戻っても良いように準備した。

「綺麗な月だけど…本当にこのままじゃ蚊に食われそうだな。蒼紫様、ちょっと失礼しますね」

主の居ない部屋へと一応断りを入れ、操は素早く蚊帳に潜り込んだ。
少し眺めは悪くなるが、これでゆっくり月も眺められるし、蒼紫を待つ事も出来る。

『でもこんな時間に蒼紫様の部屋にいて、怒られちゃうかな』

ちらり、と操は頭の隅でそんな事を考えたが、しばらくして悩むのは止めた。
夕方からずっとここに居た事は、葵屋の者には皆目に止まっていて知られている。
下手にコソコソ隠れるよりも、障子も何も開け放して堂々と蒼紫の帰りを待ってやろうと思った。

 


蒼紫は月明かりに照らされた京都の町を、一人歩いていた。
勿論夜中とは言え街中なので、忍び装束姿ではなく、仕立ての良い着物を身に纏っている。


道を外した外方の輩を片付けたはいいが、相手が山の中に立て篭もった為、戻るのがすっかり遅くなってしまった。
もう丸い月もとうに真上を過ぎ、西に傾きかけている。葵屋の朝は早い。皆はもう寝入っているだろう。
うっかり戻れば気配で起こしてしまいそうだが、気配さえ消せば家人を起こさずに済む。
蒼紫は葵屋を囲む塀沿いに歩いていたが、丁度自分の部屋の真向かいに当たる場所で足を止めた。

辺りに人の気配を感じない事を確かめると、素早く塀に飛び乗り、一気に塀の内側へと飛び降りる。
足音すらさせずに庭へ降り立つと、蒼紫は自分の部屋の障子が開け放されている事に気付いた。
部屋の中はお近かお増が吊ったのか、蚊帳が張られてある。
だが問題はその中で、よくよく見ると蚊帳の内側、一番縁側に近い辺りに操の姿が見えた。


操は蚊帳の内側で、膝を抱えるようにして座っていた。
眠っているのか、蒼紫が近付いても動く気配がない。
自分も蚊帳を上げ中に入る。
そっと操の肩に手を触れると、彼女ははっとしたように顔を上げた。


「蒼紫様、お帰りなさい」

眠っている他の者に気を遣い、小声で囁いた操に、蒼紫も黙って頷き返す。

「眠いのなら、部屋に戻ってちゃんと寝(やす)め。風邪をひく」
「はい。でも、月がとっても綺麗だったんですよ。実は一緒に花火しようと思って待ってたんですけど」

苦笑いしながら、操が縁側の隅に置かれたままの紙袋を指差す。

「花火?」
「翁がお土産にって持って帰ってくれたんです。今日はもう無理だけど…あんまり月が綺麗だったから、蒼紫様を待ちながらお月見してたんです」


とうに夜半を過ぎた月は、それでもほの明るく庭を照らし出している。
池の蛙もケロケロと遠慮がちに鳴いているのは、夏の夜の風情を楽しんでいるのか。

「…寝るには惜しい夜だな。酒が飲めたら、さぞ風流だろうが」

飲めない蒼紫でさえそんな事を思ってしまう程に、今宵の月は見事だった。
酒豪の比古も、今頃どこかでとっくりを傾けているのだろうかと操は思った。

「あたしさっき少しうたた寝したから、今は眠くないんです。もうしばらくここで月を見ていてもいいですか?」
「…朝までには部屋に戻って、ちゃんと眠れよ」
「はい」


蚊帳を出て縁側に腰を下ろした蒼紫の隣に、操も並んで腰を下ろす。
トキトキと互いの胸を叩く鼓動が、触れ合った腕から心地よく伝わってくる。
そうして寄り添ったまま、二人は長い時間をそのまま過ごした。

 


翌朝、蒼紫も操も同じような時間に起き出して来た。
蒼紫は皆が寝静まった頃に戻ったのにも関わらず平然としたまま。
操も少々眠そうではあったが、機嫌は大変によろしく、朝から小さな身体で走り回って皆の手伝いをしている。

「操ちゃん、今日は元気ねぇ。夕べあまり眠ってないんじゃないの?」

欠伸を噛み殺している所をお増に見られてそんな事を言われたのだが、操は存外ケロリとしていた。
眠くないと言えば嘘になるが、だからと言ってもう一度布団に包まりたいという気分でもないのだ。

「昨日は月がとっても綺麗だったの。それを見てたから、少し寝不足なんだ。でもとっても気分は良いんだよ」

それは良かったわねぇ、とお増に返されて、操は嬉しそうに笑った。

「あ、蒼紫様、おはようございます」

お増が廊下ですれ違いざま挨拶をしたので、操も蒼紫に気付いた。

「蒼紫様ぁ、今日はお出掛けしないんですよねぇ?」

伸び上がって呼びかける操に、『ああ』と一言返事をする。

「じゃあ今日こそ花火、付き合ってくださいね」

にっこり笑った操に、蒼紫が否と言える筈もないのだが。
ほんの少しの間の後、彼が微かな笑みを口元に刻んで頷いた事を知る者は―――操の他には誰一人いなかった。

                                                           【終】


あとがき

これを打ってる今現在、梅雨もすっかり晴れて夏真っ盛りです。
日本の夏って何だろう?とぼんやり考えていたら、浮かんできたのは花火に蚊帳でした。
花火は派手なのじゃなくて、線香花火です。
全ての花火のシメに、パチパチと爆ぜる線香花火をそーーーっと持って、しんみりと消え行く様を見るのが子供心に好きでした。
そういや随分歳の離れた弟(10歳年下の実弟)が中学に上がったくらいから、花火なんてずっとやってません。
実家の納戸に使い残した花火があるような気もしますが…数年前のだともう湿気てますね(^_^;)

蚊帳は先日、母や叔母と話をしていたのでふっと浮かびました。蚊帳ってあんまり涼しくないんですってね。
私は蚊帳は涼しいもんだと錯覚してまして、その事を母達に話したら『そんな事ない』と口を揃えて言われてしまいました。
蚊帳に潜り込む時には、少しだけめくり上げて転がるように素早く入るのだとか。(母や叔母に聞いた話です)
蒼紫がごろりと転がって蚊帳に潜り込む所を想像するのは…(笑)まあ、彼は普通にめくり上げてスッと入るんでしょう。
でも操はコロリと転がって入るのが似合いそうかな(^_^)

                                                     麻生 司

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