時が流れても
雪代縁との戦いの後。
一度は葬式まで出された神谷薫を伴って満身創痍の剣心が東京に戻った為、神谷道場は連日大変な数の来客にてんやわんやとなった。
事の中心でもある道場の主は、医者である高荷恵と共に剣心に付きっきりになっていたので、
もっぱら来客の応対には弥彦と操が当る羽目になった。
左之助も右手の治療の事もあったので道場に寝泊りしていたのだが、
彼が応対に出ると穏便に帰って頂くのが難しい場合がある為――一度やらせて懲りた――弥彦も操も、左之に手伝えとは言わなくなった。
神谷薫の遺体がカラクリ人形であった事を説明するのは骨が折れる。
全てを話した所で、一体何を何処まで信じて貰えるか、それすら甚だ疑問だったからだ。
だから薫の捕らわれていた島から船で戻ってくる途中で、体力を使い果たして眠っていた剣心を除いた面子が頭を突き合わせ、
東京に戻ってからの方針を定めた。
理由も何もない。
ただ『あの葬式は間違いだった』と言い切ることにしたのだ。
警察関係は浦村署長と斎藤一に任せておくとして、問題は友人知人関係である。
死んだ筈の人間がいきなりひょっこり顔を出せば、祈祷師を呼ばれかねない。
下手をすればショックを与えて別の死人を作る可能性すらある。
だが他に説明のしようがないので、結局堂々と素顔を晒して戻ってきた。
初めこそ腰を抜かさんばかりに驚いた知人たちも、本物の薫が無事に帰ってきたと判ると、ただ純粋に喜んでくれた。
この辺りが、薫の人望の高さなのだろう。
昼間の賑わいが嘘のように、夜の神谷道場は静かだった。
剣心はまだ床に就いているし、薫と恵もそちらに掛かりきりだ。
左之と弥彦はもう寝んでいるし――どちらの部屋からも鼾が聞こえて来る――
寝ているかどうかは別にしても、蒼紫も既に部屋に入っている。
操もあてがわれた部屋で横になっていたのだが、昼間にドタバタし過ぎたせいか、目が冴えてしまって眠れなかった。
障子を開け、縁側に出て風に当る。
そうすると少し瞼が重くなったような気がして、操はしばらく目を閉じていた。
「操ちゃん?」
声を掛けられて振り向くと、そこには薫の姿があった。
「どうしたの、こんな所で」
「ちょっと寝付けなくて、風に当ってたんです。薫さんは?」
「私は水を飲みに」
笑った薫の顔は少し看病疲れで面やつれしたような感じだったが、しかしそれも一時の事だ。
剣心さえ回復すれば彼女もすっかり元の元気を取り戻す事は、京都の一件でよく判っている。
「緋村の具合は?」
「うん、実はもう大分いいの。恵さんが外傷の手当てはきっちりやってくれてるし、
今はとにかくよく眠って、目が覚めたら滋養のつくものを食べて……色んな事で削られた体力を回復させるだけ」
それは一度ならず二度までも、目の前で愛する人を喪ったという、心の衝撃の大きさに他ならなかった。
薫を喪った時点で緋村剣心は世を捨て、一度は落人村に流れたのである。
雪代縁が画策した通り剣心は生き地獄を彷徨ったが、その中で彼は亡妻の導きを受けた。
自分を待っている人が居る。
その人の為に、貴方は立ち上がらなければならないと―――
鯨波との対決の後に意識を取り戻した剣心は、誰に教えられる事も無いまま、薫を『迎えに行く』と口にしたのだ……
「でも、これで緋村もとうとう年貢の納め時かな?」
「え?」
自分の結わえた三つ編みの先を手にして、操が悪戯っぽい目をする。
操の隣に腰を下ろしていた薫が、意味が判らなくて聞き返した。
「自分にとって薫さんがどれだけ大事な人かって事がよく判ったでしょ。後はいつ頃祝言を挙げるかよねv」
操の爆弾発言に、薫が耳まで真っ赤になる。
「ちょっ……ちょっと、操ちゃん!?」
「シーーッ!!薫さん、声大きいって!」
思わず声の大きくなった薫の口を押さえて操が辺りを伺う。
間一髪、ご近所を起こす羽目にはならなかったようだ。多分、耳の良い蒼紫には聞こえたと思うが。
「今更照れなくったっていいじゃない。だって、緋村の事好きなんでしょ?」
「それは、その、あの……」
あたふたと意味無く手を振り回し、どもってしまう。操が苦笑を浮かべた。
「あたしは、ちっともおかしな事だと思わないよ。
好きな人といつも一緒に居たい。いつか好きな人のお嫁さんになりたい。そう思うのが、そんなにおかしな事?」
操の表情はとても静かで、微塵の迷いも照れも無い。
そんな操の様子に、薫も落ち着きを取り戻した。
「……操ちゃんは凄いね。大好きって事、本当に素直に口に出来るんだもの」
操が折に触れてよく口にするのは、蒼紫に対する素直な気持ちだった。
言葉の程度や言い回しに違いはあっても、根底にある想いは変わらない。
即ち、自分にとって蒼紫が、この世の何よりも大事な存在であると―――
普通、相手もあまり付き纏われると鬱陶しく感じそうなものだが、
人と関わるのを極力避けるあの蒼紫が、不思議と操の事だけは疎ましがらなかった。
蒼紫にとって操の存在とは、恐らくそれが当たり前であり、自然な在り方だったのだろう。
「前にも似たような事聞いたけど……操ちゃんは、いつから蒼紫さんの事……好きだったの?」
それは京都で、剣心達の帰りを待っていた時に聞いた話である。
あの時は恋愛感情の話ではなく、『どうしてそんなに無条件に蒼紫の事を信じられるのか』という事だった。
恐らく根にある感情は同じなのだろうが、同じ女性としてやはり一度は聞いてみたかった。
真正面から尋ねられて、操は頤(おとがい)に指を当てる。
うーーんとしばらく唸った後、諦めたように苦笑いした。
「あたし、ちっちゃい頃に親も親族も亡くしてて、ずっと蒼紫様や般若君達に育てて貰ったの。それは前に話したでしょ?
物心ついた時にはもう蒼紫様は傍に居て、覚えてる限りでは……ずっと好きだった。それじゃ駄目?」
「……つまり、生まれた時からって事?」
流石に驚いたのだろう。薫が大きな瞳を瞬かせる。
縁側から突き出した足をぶらぶらさせて、操がニッと笑って見せた。
「そうなっちゃうのかな。だってあたし、蒼紫様以外の男の人、好きだと思った事ないし。
そりゃ勿論、般若君達や葵屋の皆、それに緋村や薫さんの事だって好きだよ。でも、蒼紫様とは……違うんだ」
ずっと幼い頃には父のように。物心ついてからは兄のように。
そして彼が自分の前から姿を消した頃には、もう自分の人生とは切り離して蒼紫の存在を考えられなくなっていたのだ。
それは初め、家族に対する想いと同じものだったのかもしれない。
だが今は違う―――
「ずうっと蒼紫様達を見つけることだけが目的だったから、それが叶っちゃった今は、特に何か望む事はないんだけど。
敢えて言うなら、もっと色々お話したいかなぁ」
「蒼紫さんって、葵屋でもほとんど喋らないんだ?」
「必要な時に必要最低限の事しか喋らないよ。それでも何となく、何が言いたいかは判るんだけどね」
「え、何も話さなくても?」
操の言葉に、薫が言葉を挟む。小さく操が頷いた。
「うん。何となく目や、ちょっとした表情の違いで判るよ。あたし達はほら、慣れちゃってるから」
流石に笑った所は滅多に見た事ないけどと言って笑う。
最後に蒼紫の笑顔を見たのは、彼が葵屋を出る以前だった筈だ。もしも、自分の記憶違いでないのなら。
「だけどね、急ぐ事はないって思ってるんだ。緋村にも言われた事だけど、いつかはあたしが、蒼紫様の笑顔の素になりたい。
いつまた居なくなっちゃうって事は、もう……ないから」
確かめるように、操が言葉にする。
蒼紫はもう、自分を置いて姿を消す事はない。だから……生き急ぐ必要は、無い。
「だからゆっくり、蒼紫様の笑顔を取り戻すよ」
「操ちゃんなら、きっと出来るわ」
心から、薫はそう思う。
どんな時でも諦めない前向きさ。
もしも自分が操と同じ立場に立っていたなら、自分は彼女ほど強く前を見据えたまま生きて来れただろうか?
大切な人を喪って、その人に自分の存在を拒絶されて―――それでもなお、蒼紫の事を信じ続けた操だから、今の彼女が在る。
その強さは見習いたいと思った。
「最後に、もう一つだけ聞いてもいい?」
薫が、優しい瞳をして操に尋ねる。
それは同じく大切な誰かを想う、一人の女性の眼差しだった。
「なに?あたしで答えられる事なら」
「操ちゃんしか答えられない事―――蒼紫さんの、何処を好きになったのか」
操が瞬きする。
そんなに真っ直ぐな言葉で聞かれるとは思っていなかったのか、すぐに適切な言葉が浮かばないらしい。
「……うーん、上手く言葉に出来ないけど……多分、全部」
「全部?蒼紫さんにも、欠点はあるでしょう。そんな所も?」
「うん」
もう一度考えて、操は頷いた。
「そりゃあね、蒼紫様は誰かさんみたいに家事にマメでもなければ、いっぱいお話してくれるわけでもないし、
他の人にとっては付き合いにくいかもしれないよ。
でもそれも全部ひっくるめて、蒼紫様だから」
欠点の一つも無い男の背を追いかけていたのではない。
無口で、愛想がなくて―――でも自分の知る誰よりも責任感が強く、自分に厳しく仲間思いで……そして、優しかった。
誇り高く、生きる事に不器用な―――この世で一番愛しい人。
ずっとずっとその背を追い続けていたから、今更理由なんて見付けられない。
「今のままの蒼紫様が、あたしは大好きなんだもの。
もしももう一人、蒼紫様と同じ姿で……その人には欠点が何一つなかったのだとしても……あたしには、きっと違う人だよ」
「そっか……欠点も含めて全部好き……そんなものかな、人を好きになるのなんて」
薫の目が微笑んだ。
確かにいつも目をきりっと吊り上げて、一分の隙もない剣心を見ているのは辛い。
時々『おろろ』と抜けた声が聞こえてくるくらいが、丁度良いのだ。
一番大切なのは、その人の存在そのものである事―――今回の一件で、それは骨身に沁みた。
「ありがとう、操ちゃん。ちょっとラクになったような気がするわ。色んな事がこれからもあるだろうけど……きっと、頑張れると思う」
「自分にとって一番辛かった事を思い出せば、きっとどんな事でも乗り切れるよ。少なくとも、あたしはそうだった。頑張って!」
「うん!」
操の笑顔に、薫の顔も綻んだ。
操と蒼紫が京都の葵屋に戻ったのは、それからしばらく後の事。
更に薫と剣心の祝言が決まったのは……それから数ヶ月後の事であった。
【終】
あとがき
久し振りに時間がえらく逆行してます(笑)そして初?の東京でのお話。
蒼紫が出て来ない蒼操ですが、まあ、それは操の口から語って貰っていますので。
お話的には先にUPしてある『恋し人を待ちて』と若干被る部分があるんですが、実はこっちの方が遥かに早く仕上がっていたんですよ。
いつからと言うと、一ヶ月や二ヶ月ではないとだけ言っておきましょうか……
次のお話は、またぞろ時間が元に戻ります。蒼紫と操の実子が出る……予定。くす(^_^)
麻生 司