月に抱かれて
リリリ…リリリ…
微かに虫の鳴く声がする。
ふと本から顔を上げた蒼紫は、すっかり夜が更けている事に気付いた。
京都の夏はとても暑いが、盆を過ぎて大分過ごし易くなった事もあり、つい宵の口を過ぎてしまったらしい。
ふっ、と行灯の灯を消すと、ほんのりと薄明るい月の光を障子越しに感じた。
そのまま眠ってしまうのが惜しい気がして、障子を開けると廊下に出る。
空を見上げると薄い雲を通して、少し欠けた月が庭を照らしていた。
しばらく月を見上げた後、そろそろ眠ろうかと部屋に入りかけた蒼紫は、
庭を挟んで少し離れた場所にある操の部屋の前に、彼女の姿を見付けた。
廊下から足をぶらんとさせ、ぼんやりと月を眺めている。
操からは背中側に蒼紫の部屋があるので、蒼紫が同じように月を見ている事には気付いていないようであった。
『…涼んでいて、そのまま眠っているのか?』
うたた寝をしているのかとも思ったが、どうもそうでもないらしい。
ぶらぶらさせていた足を胸の前で抱えたり、また下ろしたりしているので、起きてはいるようだった。
他の眠っている者を起こさぬよう静かに庭に出している草履を履くと、蒼紫は庭を突っ切って操の方へと近付いた。
「操…眠れないのか?」
操は不意に声をかけられて驚いたようだが、流石に大声を出すような事はなかった。
「蒼紫様こそ、まだ起きてらしたんですか?」
にこっと笑うと、隣に座りませんかと声をかける。蒼紫は彼女の横に腰を下ろした。
「こんなに更けているとは思わなかった…今夜は十九夜くらいか?臥待月だな」
「臥待月?」
「出てくるのが遅いので、横になって待っているうちに上がってくる…という意味だ」
見上げる月の光は柔らかく、望月のような煌煌とした明るさはない。
だが夜の闇の中にこそ生きる場所を見出していたかつての蒼紫は、薄明るいこんな月夜が好きだった。
「蒼紫様…まだお日様よりも、月夜の方が好きですか?」
「なに…?」
不意のその言葉に、微かに蒼紫が目を瞠る。
背の高い肩に乗せられ、不思議そうに小首を傾げていた遠い日の少女の声が頭を過ぎった。
―――我等は闇に生きる者。光眩しい太陽よりも、冴えた月光が道標―――
―――蒼紫様は、お日様よりもお月様が好きなの?―――
「お前…覚えていたのか?」
「覚えてます。蒼紫様の事だもの」
操は物心つくかつかないかだった筈だ。だが、彼女はただ一度だけ交わしたその言葉を覚えていると言う。
微かに浮かんだ笑みは無邪気なだけの少女のものではなく、匂うような色香があった。
「私も月夜は好きです。心が騒ぐ時、不安で胸が押し潰されそうな時…月を見ると、水面が凪ぐように落着くから」
語る操の表情は静かだ。天の月を映した瞳で、蒼紫を振り返る。
「まだ……蒼紫様は一人なのですか?」
蒼紫は瞳を逸らせなかった。
かつては江戸王城を守る御庭番衆の御頭という重責故に、そしてその役を失ってからは大事な部下を自分の為に死なせたという後悔で、長く陽の当たらぬ道を歩いた。
一時は修羅へとこの身を落とした事もある。
いつも心の奥底にあったのは癒せぬ孤独―――その想いが形となったのが、いつか操に語った言葉。
操の瞳は鏡の奥の我が身を見るように、まっすぐに自分を見詰めている。
「月夜は好き。でも、月は孤独を癒してはくれなかった。寂しくて、悲しくて…でも、月はそんな自分を映すだけ」
幼い頃、操は一人葵屋に残された。
子供心に大好きだと、慕ってついて回った蒼紫は、彼女を置いて旅に出た。
我侭な自分を懲りずに辛抱強く面倒見てくれた般若、べし見、ひょっとこ、式尉も一緒に―――
自分だけが置いていかれた事に、操は何日も泣いて過ごした。
泣き疲れて眠る日々が続き、食べるものも食べず、翁達の手を焼かせた。
だがやがて物心つき、操の幸福を願って蒼紫たちが自分を置いて行ったのだと理解出来る歳になると、操はぱたりと泣くのを止めた。
蒼紫や般若達の事を忘れた訳ではない。むしろ日に日に会いたいという想いは募っていく。
本当に大切な人と離れて生きる事が幸せだとはどうしても思えなかったから、13になった歳に初めて葵屋を一人で飛び出した。
「丁度葵屋に泊まったお客さんの一人が、蒼紫様達によく似た人たちを飛鳥の方で見かけたって聞いて」
くすくすと、操が小さな笑いを漏らす。
翁達の手前、大っぴらに聞いて回る事はしていなかったが、葵屋の手伝いをしながらこっそり客から情報を聞き出していた。
そんな時に客の一人が、飛鳥(奈良)で蒼紫に良く似た人を見かけたと教えてくれたのである。
操はその夜手紙を残し、こっそりと葵屋を抜け出した。
「飛鳥…流れていたからな。もしかしたら、しばらく滞在していたかもしれん」
「でも、ずっとそこには居なかったでしょう?蒼紫様達がどこかに腰を落着けていたら、多分もっと早くに見つけられたと思う。
その時も一晩中山の中を走ってやっとの思いで飛鳥に着いたけど…蒼紫様達の事は何も判らなかった」
飛鳥に向かう山の中、見上げた空には丁度今宵のような望月を少し過ぎた月が上っていた。
後先考えずに夜の山の中を走ったので、腕や足は野草や木の枝で傷だらけになった。
小川を見付け、作ってしまった擦り傷を清水で綺麗に洗い清める。
ささやかな流れの川面に、しばらく見ていなかった泣きそうな自分の顔が映っていた。
『どうして?』
それは幼い頃から操の心を占めていた、たったひとつの想い。
『大好きなのに、どうして一緒に居ちゃいけないの?』
川面にひとつ涙の波紋が落ち、操は月を見上げた。
『側に居たいというだけでは、理由にならないの?それだけでは駄目なの?こんなに、こんなに会いたいのに……!』
何度も何度も、心の中で繰り返して。だけど、答なんか出なかった。
どうしても、蒼紫の側に居ない自分が、幸せだとは思えなかったから。
―――我等は闇に生きる者。光眩しい太陽よりも、冴えた月光が道標―――
―――蒼紫様は、お日様よりもお月様が好きなの?―――
―――…俺に、陽の光は似合わないだろう?―――
困ったような顔をして、そう応えたのは、蒼紫が操を置いて葵屋を出る最後の夜だった。
なかなか寝付けなくて寝返りを繰り返していたら、蒼紫が自分を肩に乗せてくれて、庭で二人で月を見たのだ。
自分は闇に生きる身だから太陽は似合わないと口にした蒼紫に、操はじゃあお月様の方が好きなのかと尋ねた。
あの時、蒼紫は既に葵屋を出る心積もりだったのだろう。
その思いが、何気なく見上げた月を見て言葉になった。
自分と、般若たちは闇の中で生き続ける。だが操は―――彼女まで、闇に生きる必用はない。
操には、どんな時も明るい太陽の光が似合う娘に成長して欲しかった。
彼女の目の前に広がる無限の可能性を、自分達と共に在る事で無為に潰す事はないと―――
「月は静かに見守ってくれる。自分の弱さを映し出す。だけど、寂しさや悲しさを埋めてはくれない。
寂しくて、悲しくて…でも、立ち上がって前を向いて進む為には、泣いているだけじゃ駄目だった」
翌日、手紙を見て後を追ってきた翁に追い付かれ、操は大目玉を食らった。
操は夜中に抜け出して心配をかけた事に対しては素直に謝ったが、蒼紫達を捜しに行く事は、頑として譲らなかった。
必ず葵屋の者に断って出てくる代わりに、何か情報があれば操は自分で自ら捜しに行くのだと―――
「翁は呆れてた。『どうして大人しく待っていようとは思わんのか』って。
でも、それが蒼紫様があたしに残してくれた可能性。陽の下で、想うがままに―――羽ばたける翼をくれた」
自分の道は自分で切り拓くという強さ。
待つだけではなく、自分から見付けようとする行動力。
泣くだけでは何も始まらない。例え辛くても後悔だけはしないように、前へ、前へと……
「あの日…緋村に偶然出会って、蒼紫様達の消息がやっとほんの少し判るまで、ずっと空振りばかり。
だけどあたし、もう泣く事はなかった。きっと皆はどこかで元気にやってるんだって。今は会えないけど、きっといつかは……そう、信じて」
何度も徒労に終わり、もしかしたらもう二度と会えないのかもしれないと、思った事も一度や二度ではない。
そんな夜は決まって月を見上げ、騒ぐ心を落着かせた。
諦めたら、そこで全てが終わる。
逢いたいのなら、自分で逢いに行けばいい。見付からないなら、見付かるまで捜すのだと。
そして朝陽を浴びて、新しい一歩を踏み出して来たのだ。
太陽の光を背に受けて、きっと今度こそと、自分を鼓舞しながら―――
「あたしも、葵屋の皆も、蒼紫様が御頭だから慕った訳じゃない。蒼紫様は、蒼紫様のままでいいんです。何も変わる必用なんてない。
一度全てを失って、今の自分に戸惑っているかもしれない。闇に生きると決めていた自分が、陽の下で生きる道を見付けて…
でもそれも、間違いなく蒼紫様なんです」
「俺は……」
頬に伸ばされた操の手を通して、彼女の想いが溶けるように自分の中に染み透っていく。
代わり映えのしない日常。
毎日同じ事が繰り返され、単調に過ぎてゆく。
そんな緩やかな時間の中にただ一人、自分は取り残された異分子なのだと思っていた。
だけどもその流れに身を置くのは決して苦痛ではなく、
いつかは自分もこの流れに馴染み、穏やかに一生を終えられればいいと…願い始めていた。
もしも―――赦されるのであれば。
「忘れないで。ここはもう、蒼紫様の戻る場所。『ただいま』って言えば、『おかえりなさい』って皆が言ってくれる。
もしも一人で月を見上げる時があっても、同じ空を、同じ月を…あたしが見てるから―――」
もう独りではないのだと。
差し伸べられた手は、そのまま優しく蒼紫の頭を抱いた。
「どんな事があっても、あたしは蒼紫様の事、待ってるから」
「操―――」
春の陽に照らされた雪のように、胸の奥の氷塊が溶けて行く。
自分は赦されるのだろうか。
心の何処かで渇望していた安らぎは、等しく自分にも与えられるのか。
「貴方はもう独りじゃない」
降るような囁きが、地に染み透る慈雨のように、静かに胸を満たしてゆく。
背を抱く蒼紫の両腕に力が篭もる。
「操…お前の一生、俺に預けてくれるか…?」
そっと目を伏せ頷くと、操は蒼紫の胸に頬を寄せた―――
【終】
あとがき
沖田葵さんのサイト、『桜風〜流れる時代の中で〜』内の募集企画にエントリーしたSSです。
レギュラー更新分とは、少々趣の違う作品になりました。
葵屋の面子が翁が名前だけしか出てないのに始まり、内容が内容なので終始真面目(笑)
別にいつもお笑い要素を狙ってSS打ってる訳じゃないんですけど、ギャグっぽい方が打ち易いのは確かかな?
縁との戦いからも数年経過した、操が18歳くらいになった頃のつもりで打ちました。
ので、微妙に操が艶っぽく(笑)なってます。この際、『剣心華伝』の明治16年の操の容姿は見なかったって事で…(^_^;)
18歳と言えば、この時代ではそろそろ嫁き遅れと言われる頃合。
『蒼紫、そろそろ操を貰ってやってくれ〜』という、私自身のささやかな電波も込められてたり(笑)
私は、蒼紫を月、操を太陽とイメージしています。
それがきっかけでこのSSは出来たようなもんなんですが、その事を踏まえた上でタイトルを見ると…をや、微妙に意味深ですねぇ(笑)
この後の展開は別のSSで書くかもしれないし、書かないままかもしれませんが、私の中では二人は結ばれるものと考えてます。
二人のイメージと最後の蒼紫の一言の元ネタは、自分で創作した100の質問の解答より。
ここで使わなきゃいつ使うの!?な展開になりましたので、あえて使用に踏み切りました。ニヤリ(^_^)