ある日の風景


        門前の掃き掃除が済み、どの店先にも暖簾が出始めた頃、葵屋の門を潜る小柄な人影があった。


        「こんにちはー」

        葵屋の勝手口で、小粋な着物姿の女性が奥を呼ばわる。
        勝手知ったる操の少し歳上の幼馴染で、近所の旅籠『菊屋』の跡取り娘、神崎梓だった。

        「はぁーい。あ、梓さん。こんにちは」
        「こんにちは、操ちゃん」

        パタパタと元気な足音をさせて顔を覗かせたのは、袖を襷掛けにした操だった。
        肩より少し長く伸びた髪も、邪魔にならないように大きな手拭いで包んでいる。
        以前の操は夏は甚平、冬は作務衣に長い三つ編み姿だったが、今は質素な着物姿が多い。

        「こんな格好でごめんなさい。今、お客さんのお部屋の掃除が終わったところだから」
        「気にしないで、どこも一緒よ」


        葵屋は小料理屋だが、客を泊める事も出来る。
        そうなると、旅籠も小料理屋も内情はどこもそう変わらない。

        一人娘の梓は婿を取って跡を継いだが、最近身体を悪くした母の代わりに今は彼女が旅籠を切り盛りしている。
        操も昨年めでたく初心を貫き、四乃森蒼紫と祝言を挙げ、葵屋の若女将となった。
        しかし若旦那や若女将だからといって奥座敷にふんぞり返って従業員に指示だけしていればいい訳ではなく、
        蒼紫は葵屋の経理担当として帳簿をつけ、仕入れや店主会の会合などにも自ら赴く。 
        そして若女将である操や梓も率先して厨房に入り、部屋が空けば掃除をし、手が足りなければ買出しにも行く。
        ようは一家、従業員総出でなければやっていけないのが実情なのだ。


        「これ、ウチの子の着物。希(のぞみ)ちゃんと黎(れい)ちゃんなら、これから丁度着られると思って」

        差し出された風呂敷包みの中には、洗濯されて丁寧に畳まれた小さな赤子用の着物が幾つか収められていた。
        梓は昨年の夏、操に先立ち男の子を産んでいる。ちなみに希と黎は三ヶ月前に操が産んだ双子の姉弟だ。
        操と梓は性格は違えど元々仲の良い幼馴染だったのだが、共に子を産んで母親となった事で、一層密な付き合いになった。
        実子の出産に先だち、蒼紫と操は葵屋で養っていた暁という男の子を四乃森の養子にしていたが、
        なにせ生まれた直後の赤子の世話をするのは初めてだったので。

        梓は育って自分の子に合わなくなった着物などを、こうしてよく葵屋の双子に譲ってくれる。
        操たちとて生まれて来る我が子の為に諸々の準備はしていたのだが、
        生まれたのが双子だったお陰で当初用意していた物が急遽数が足りなくなってしまったのである。
        だから梓の気遣いは非常にありがたかった。


        「うわぁ、助かります!どうもありがとう!!」
        「どういたしまして。暁ちゃんの着物もあるでしょうけど、二人分ですものねぇ」
        「そうそう!着るものが二倍だと、洗濯物も二倍でしょ?黒さんと白さんが物干しを増やそうって言ってくれてるんですよ。
         今、庭で竹竿組んでる最中なんです」

        操の懐妊と出産は、夫となった蒼紫だけではなく、家族同様に十数年一緒に暮らした翁達も喜んでくれた。
        翁は暁も含めて『三人のひ孫がいっぺんに出来たようじゃ』と言ってすっかり好々爺と化しているし、
        子守は白尉達も持ち回りで順次引き受けてくれている。
        皆が協力してくれるからこそ、突然二人の赤子の母になっても何とかなっている事を、操はちゃんと判っていた。

        「皆も賄いやらで忙しいのに、子守まで引き受けてくれて……だからせめて子供達が寝てる間は、私もしっかり働かないと」
        「じゃあ、今は二人とも寝てるのね。暁ちゃんも?」
        「暁は蒼紫様の所で遊んでるの。お仕事中だから、傍で本を読んだり絵を描いたりしてるだけだけどね。
         でも希達は起きる頃かな。さっきお腹いっぱいになって寝ちゃったからそろそろ……」


        操がそう口にするのとほぼ同時に、奥の方から元気な泣き声が聞こえて来た。双子のどちらかだろう。
        

        「ああ、やっぱり。あれはおしめかな」
        「
私はもう失礼するから、早く行ってあげて。それじゃ、またね」
        「はい、ありがとうございました」

        操は梓を見送ると、今度は我が子の元へと急いだ。






        あと半刻(一時間)ほどで太陽が真南に昇ろうかという頃。


        「お嬢、こんなもんでどうですかね?」
        「んー、良い感じ。ありがと、黒さん、白さん」

        葵屋の中庭には、黒尉と白尉が組み上げた立派な物干しが出来上がっていた。
        新しく増えた小さな家族の為の専用物干しである。

        「これで洗濯物が片付くのも少し早くなるね。一気に干せて、一気に取り込めるし」

        なにせ今まで干せる場所が限られていたので、時間をずらしたり、こまめに何度も洗濯したりと、色々大変だったのだ。
        干せる場所が広く確保出来た事で、これからは多くの洗濯物を一気に洗って干す事が出来る。
        もっとも洗う手間は一緒なのだが、それはどうにも仕方ない。

        「足りなくなったら、また何処かに新しく作りますよ。取り敢えずはこれで何とか」
        「そのうちお客さんの部屋から見える所にも、堂々とおしめが翻ってたりしてね」
        「でも希と黎が大きくなったら洗濯物の嵩も増えますからね。今の内に、どの辺に新しく作るか考えておいた方がいいかもしれませんよ」
 
        今は辛うじて身内の部屋からしか見えない所に物干し場は確保しているが、子供が大きくなるのはあっという間だ。
        笑い話ではなくなる日が来るかもしれない。



        「じゃあ、早速干しましょうか。それ、もう洗濯終わったんでしょう?」

        白尉が操の足元に置かれていたたらいを指差す。
        だが操は、『ああ、これはいいから』と頭を振った。

        「朝から物干し作らせちゃって、大変だったでしょ。これはあたしが干すからいいよ。二人とも少し休んで、昼からの仕込みの準備して」
        「でも…」
        「そうでなくてもいつも助けてもらってるんだから、出来る事は自分でやるよ」


        操は結構強情だ。
        こうなると、自分達が大人しく休憩しないといつまでも押し問答になる。
        長く一緒に暮らしてきた白尉たちはその事をよく判っていたので、互いの顔を見合わすと『仕方ないな』というように肩を竦めた。

        「じゃあ、俺達少し休ませて貰いますから。高くて竿を掛けにくいとか難点があったら直すんで、すぐに呼んでくださいね」
        「うん、ありがと」

        ニコッと笑うと、操は子供達のおしめや着物を振り捌きながら、手際よく干し始めた。






        出立した客の部屋の掃除なども片付き、落ち着いてきた正午過ぎ。

        「あらっ…操ちゃんが賄いをしてくれたんですか?」

        慌てた様子で厨房にやってきたお増が、支度の整った昼食の用意を見て驚きの表情を浮かべた。
        美味しそうな匂いをさせた雑炊が、土鍋いっぱいに出来上がっている。
        碗や箸をてきぱきと用意していたのは操だった。

        「あ、お増さん。手が空いたから、ついでに支度しといたよ」
        「ごめんなさいね。私の当番だったのに、思いのほか買い物に手間取ってしまって」


        何軒か用事のある先を回っていたら、すっかり昼の賄いをする時間を過ぎてしまっていたのである。
        今から支度をしたら、四半刻(三十分)は皆を待たせてしまうところだった。


        「在りあわせの物で簡単に雑炊作っただけだから、大した手間掛かってないって。
         黎達の様子見てくるから、あとお漬物だけ用意してくれるかな。そろそろお腹空かして起きる頃なんだ」
        「ええ。操ちゃんも、二人にお乳をあげたら早くいらっしゃいね。お腹空いたでしょ」
        「うん。あ、蒼紫様にはあたしから声かけとくから」

        そう言って、操は厨房を後にした。






        「あら、どうしたんですか?その着物」

        陽が少し西に傾いた頃。
        操が自室の前の縁側に腰掛けて裁縫箱を開けていると、お近が通りかかった。
        希と黎はお腹一杯でスヤスヤ眠っている。暁も枕を並べて昼寝をしていた。

        「今朝、梓さんが持って来てくれたの。どうせすぐに丁度になるんだけど、少し丈が長いから詰めておこうかと思って」

        赤子の成長は日々目覚しい。
        今少々、着物の丈が長いと思っても、恐らく一ヶ月や二ヶ月もすれば丁度良くなるだろう。
        希も黎もまだ歩くわけではないし、裾を踏んづけて転んだりする事もないのだが、操はそれをいちいち直そうというのである。
        膝の上に広げられた小さな着物は数枚あった。

        「今手が空いてますから、手伝いましょうか?」
        「ううん、いいよ。あたしがやるから」

        一針一針、元気に育ちますようにと願いを込めて。
        まずは二人とも五体満足に生まれて来てくれて何よりだったが、これからも大病をしないようにと祈りを込めて。
        母である自分に出来る事なら、どんな些細な事でもしてやりたい。
        だから必ずしも必要ではない丈の直しにも精を出すのだ。

        「でも操ちゃん、希と黎にお乳をやる為に夜中にも何度も起きているでしょう?根を詰めたら駄目ですよ。
         朝からお客様のお部屋の掃除をして、子供達の洗濯物も一人で干して、お増ちゃんの代わりにお昼の賄いもしたでしょう。
         頑張り過ぎて操ちゃんが寝込むような事になったら、私達が蒼紫様に叱られてしまいますから」


        操が頑張り屋なのは、皆判っていた。
        今の彼女を見て、誰一人怠け者と言う者は居ない。

        子供達の為に夜中に幾度も起き、にも関わらず朝は他の皆と同じ時間にちゃんと起きて来る。
        子供達の世話をしながら葵屋の仕事もして、休む間などほとんど無い。
        だがそれでも操は笑顔を忘れず、元気に毎日過ごしている。
        母親として妻として、それは
立派な事だとは思うのだが、いつか彼女の方が倒れないかと周りは気が気でならないのだ。


        「ん…それも判ってるつもり。皆に迷惑掛けるのも、心配させるのも駄目だって。
         でも本当にもうお手上げって思うまでは―――頑張りたいんだ。だってあたしは、暁と希と黎のお母さんだから」


        授乳の為に、夜中に起きるのは大変だ。
        昼間も目が回るくらい忙しい。
        でも『忙しい忙しい』と言っている間は、時間も何もかもあっという間に過ぎてしまって、余計な事で悩まなくてもよかった。

        これで、本当にいいんだろうか。
        自分は蒼紫の妻として、また三人の子供の母親としてやっていけるのだろうかと―――


        子供達の笑顔を見ると、疲れも睡魔も吹っ飛んでしまう。
        あどけない顔で眠る子供達を振り返り、操は母の顔で微笑んだ。







        「おーい、操。こっちに居るのか?」

        小腹が空き、影が長くなってくる頃合になって、翁が操を探して奥へやって来た。
        祝言を挙げて以来、操は蒼紫の部屋で寝起きしていたのだが、双子が生まれてからはまた寝室を分けている。
        蒼紫は気にしないと言ったのだが、乳をやる為に夜中に何度も起きなくてはいけないので操が気を遣ったのだ。
        今使っているのは、元の自分の部屋である。

        「操?」

        人の気配を辿って翁が部屋の前まで来ると、部屋の前の縁側に蒼紫の姿があった。
        蒼紫の両膝を枕にして操と暁が寄り添うように眠っており、身体が冷えないように二人の身体には彼の丹前が掛けられている。
        口の前に指を立てて見せた蒼紫に、翁も小さく頷いた。



        「……毎日休む事無く、子供の世話と葵屋の仕事をして疲れている。眠れる時は眠らせてやりたい」

        大きな手がさらりと操の前髪を払ったが、起きる気配は無かった。よほど熟睡しているのだろう。
        暁も養父と養母の傍にくっ付いて、安心し切った顔で眠っていた。
        恐らく子供たちと操の様子を見に来た蒼紫にくっ付いてきて、操の傍でしばらく遊んでいたが、疲れて眠ってしまったに違いない。
        操は暁の相手をしている内にウトウトして本格的に眠ってしまったのだろうか。傍には、丈を直し終わった子供用の着物が畳まれて置いてあった。

        「操に頼まれとった子供達の玩具が手に入ったんじゃが、暁も一緒に寝とるんなら後にしようかの。
         希と黎は……こっちもよく眠っておるようじゃな」

        目を細めて、ひ孫達の寝顔を見遣った。


        操が赤ん坊だった頃とは、また違った感慨が翁の胸中にはある。
        血の繋がりは無いものの、操は孫でもあり、そして娘でもあった。蒼紫にしても、まだ少年だった頃から知った仲である。
        だから二人が祝言を挙げた時は、嬉しい反面、寂しくもあった。
        それだけに蒼紫と操の子は、暁も含めて本当のひ孫のように可愛い。
        白尉達にはすっかり『ジジ馬鹿』と言われているが、そんな事はお構いなしだった。
        『積み木とか、暁達に何か遊び道具を探してるんだけど』という何気なくもらした操の言葉に、翁はこっそり奔走していたのである。


        「かあちゃ…」

        むにゃむにゃと暁が寝言を言う。暁はまだ舌足らずで、『母さん』を『かあちゃ』としか言えない。
        操に遊んでもらっている夢でも見ているのだろうか。
        何処かあどけなさの残る妻と、子供たちの寝顔を見守る蒼紫の眼差しは、長い付き合いの翁の記憶にも無いほど穏やかだった。

        「両方膝枕で動けんのは判るが、お前も風邪をひかんようにな。暖かくなって来たとは言え、じきに陽が傾いてすぐに冷えてくるぞ」
        「ああ。しかしこれも、あと四半刻の事だ」




        さらっと口にした蒼紫に翁は軽く首を捻ったが、ぴったり四半刻後に双子が目を覚まして泣き出したのを聞いて、
        『あいつも父親になったんじゃのぉ』と呟いたとか。

                                                                              【終】


        あとがき

        久し振りに事件性の無い蒼操を書いたので、なかなか勘が戻りませんでした(笑)
        いつもいつも操や蒼紫が酷い目に遭っていては気の毒なので、今回はのんびりほのぼの系です。
        あまりに久し振りだったので、オリキャラの梓さんを含めてほとんどオールキャストになってしまいました(^_^;)
        比古師匠が出て来たら完璧だったかも(笑)

                                                              麻生 司



INDEX