闇に棲む炎


「え?これ、あたしに!?」

思わぬ贈り物に、操の顔がぱっと明るくなる。

「俺は香の良し悪しは判らんのだが、勧められたのでな」

店主会から戻った蒼紫が操に渡した包みには、焚いて香りを楽しむ香と香炉が包まれていた。
香道に詳しい店主が居るらしく気楽に楽しんでみろと、一揃い用立ててくれたのだと言う。

「ありがとう、蒼紫様。さっそく今晩焚いてみますね!」

蒼紫にとっては大した物のつもりではなかったのだが、操は大喜びだった。
そんな彼女の姿を目にして、蒼紫は人知れず穏やかな笑みを浮かべていた。

 
数日後の事。

「操、悪いんじゃが、少し使いを頼まれてくれんかのう?」
「なーに、翁?」

台所で芋の皮むきをしていた操は、翁に声を掛けられて顔を上げた。
隣で大根の煮物の鍋を見ていたお近を見ると、『いいわよ』という返事が返ってくる。

「こっちはもう手が空くから芋は私がやるわ。操ちゃんはお使いの方をお願い」
「うん、判った」

さっと立ち上がると翁から小さなメモを手渡される。
内容を確認すると『行ってくるね』と手を振り、操は元気に夕暮れの迫る外に走り出て行った。

 




翁から頼まれたお茶の包みを小脇に抱えて、たったと操が見知った道を駆ける。
道行く人々も彼女の顔を見て声を掛けてくる程、馴染んだ通りだ。
実際通りを歩く人々も、何となく見知った顔ぶれがほとんどである。
だから操はふと目に止まった見知らぬ人影に、思わず足を止めた。


辺りは薄暮で、夜目の利く操でも一番物が見難い時間帯である。
顔や服装ははっきり判らなかったのだが、多分知らない顔―――なのに奇妙な不自然さが気になった。

ただの思い過ごしかと思ったが、その割には喉に刺さった小骨のように引っ掛かる。
少し帰るのが遅くなるかもしれないが、操はどうしても彼の―――恐らく男だと思う―――挙動が気に掛かった。
今は比較的平和な世に生きてはいるが、彼女の身体にも御庭番衆の血は脈々と受け継がれている。
操は上体を低くすると、人影が姿を消した小路へと足を踏み込んだ。

 


「操ちゃん、帰りが遅いわねぇ」
「翁、一体何のお使いを頼んだんですか?」

夕飯の仕度をすっかり終えてもまだ戻らない操を心配して、そわそわとお近たちが表の様子を伺う。
お近とお増の咎めるような視線に、翁が居心地悪そうに座り直した。

「別に難しい事は頼んどらんぞ。いつもの店に切らしてしまった茶の葉を買いに行って貰っただけじゃ」

その店とて、然程葵屋から離れている訳ではない。

「そうですか?」

疑わしげなお増の視線に、そんな事で嘘をつくかと翁が言い返す。

「でも翁、最近ちょっと物騒なんですよ。性質の悪い火付けがいるらしくて、この数日だけで何件もボヤ騒ぎが起きてるんです」
「何?」


お近の話は、翁からしてみれば寝耳に水な話だった。

何でもこの近辺で、不審火が相次いでいると言う。
しかしそのいずれもが大した被害を出していないボヤ程度で済んでいた為、せいぜい井戸端会議の話題にしかなっていなかったのだ。

「火があがってもすぐに桶の水を掛けて消し止めたとか、着ていた羽織で叩いて消し止めたとか。
 とにかくどのボヤも被害が少ないお陰で、ほとんど噂にもなっていなかったんですよ。私達もこの話は、さっき聞いたばかりなんです」


それでお近達は、お使いに出たまま帰らない操を心配していたのだ。
はしっこい操の事だ。大丈夫だとは思うが、彼女はこの話を知らない。
自分から危ない事に首を突っ込んでいなければよいのだが。

「……少し見てこよう」
「あ、蒼紫様……」

それまで無言のまま話を聞いていた蒼紫が、すっと席を立って表へと出て行く。
お増とお近も、お互いの顔を見合わせて頷いた。

 


操は前をヒタヒタと歩く男に気付かれぬよう、一定の距離をおいて後をつけていた。
歳は蒼紫と同じくらいだろうか。ひょろりとした痩せ型で、神経質そうな感じがする。

『やっぱりあんな奴、この辺りで見たこと無い……』

ある程度近付いた事で顔は確認出来たが、やはり知らない顔である。
ただ越してきたと言うなら、それは別に構わないのだ。
だがこの辺りは昔から商店や旅籠が軒を連ねる一角で、それ故店主や店の関係者とはある程度の面識がある。
裏手に続く長屋もこの周囲には数多くあるので一概には言えないが、それでもやはり見覚えがないというのが気に掛かった。


男の足取りは危なげなものではない。
だが時折辺りを見回すような素振りもあって、完全にこの辺りを熟知しているという雰囲気でもなかった。
周囲は急速に暮色を深めており、人通りもまばらになって来ている。
そんな裏通りの一角で、男はようやく足を止めた。


『何をする気なの?』


男がきょろりと周囲を見渡したので、操は身体を隠した。
その為に男の姿が死角になってしまい、詳しい様子が判らない。
この辺は空家が多いのか、家人が居る気配があまりしなかった。夕飯時だというのに、煮炊きする煙も見られない。
操が僅かに、男から気を逸らした瞬間だった。


「えっ!?」


黒い煙がすうっと上がった。
乾燥して燃え易くなった板戸や壁から、見る間に炎が燃え上がる。

「あいつ…火付けだったの!?」

そうと知っていたら、凶行に及ぶ前に縛り上げてやったのに!
思っては見ても、今は目の前の炎を消し止める事の方が先決である。最近雨が降っていなかったので、乾燥して燃え易くなっている筈だ。
操は作務衣の上着を脱ぐと、それで炎を叩き消した。
お陰で上着は使い物にならなくなってしまったが、こんな所でボヤを見過ごして大火事になるよりマシである。

「全く…さっきの奴を捕まえて、警察に突き出してやらないと……」


振り向いて、姿を消した男を追おうとした刹那―――ガツン、という鈍い衝撃を頭に感じた。

『しまった…炎に気を取られて……』

するりと彼女の手から焼け焦げた上着が滑り落ちる。
男は無造作に操の身体を担ぎ上げ上着を拾うと、辺りに人の気配を感じないのを確かめてその場を後にした。

 



秋の陽はつるべ落としに暮れて行く。

先程までほんのりと薄明るかった空は既に墨を零したように暗くなり、まばらに歩く人影も家路を急いで忙しない。
蒼紫は操が使いに行った茶屋まで行ってみた。
普通なら途中で行き会う筈の操には、やはり会えなかった。主人に確認すると、操が店を出たのはもう半刻(一時間)も前の事だという。
するとやはり彼女は真っ直ぐに葵屋には戻らず、途中で道を外れたのだ。

彼女を本来の道筋から外した『何か』。

根拠はないが、蒼紫の頭から一抹の不安が拭えない。
蒼紫は表通りを外れると、長屋のひしめく裏通りへと足を踏み込んだ。


この辺りは昼間はそうでもないが、夜になるとぱったりと人通りがなくなる。
自分も任務の時に人目を避けて通る事があるだけに、その事はよく承知していた。
勿論全く住む人が居ない訳ではないが、それらの者はただ寝に帰っているというだけで、ほとんど生活感は感じない。
他所から流れて来た者がしばらく棲み付く事もあるし、事情があって隠れ棲まなくてはならなくなった者がほとんどなのである。
よってろくに足下を照らす灯りもなかったが、夜目の効く蒼紫には問題にならなかった。

そんなひっそりとした通りを足早に歩いていた蒼紫は、ぽつんと道の真ん中に落ちているものに気付いてギクリと足を止めた。
闇に紛れて近付くまでそれとは判らなかったが、それはたった今、操の消息を尋ねて来た茶屋の袋だった。

ふときな臭い臭い辺りを見ると、すぐ傍の長屋の板戸が焼かれている。
火はすぐに消し止められたのかもう燃えてはいなかったが、焼けた板戸はまだほんのりと熱を持っていた。
古くささくれ立った板戸の片隅に引っ掛かっていた小さな布片に目が止まる。
見慣れた藍色の絣の生地―――その意味する事に思い至り、蒼紫はギリ、と奥歯を噛み締めた。

 



蒼紫とは違う場所を捜しに出ていたお増とお近は、操の痕跡すら探し出せないまま葵屋に戻って来ていた。
宿泊客に夕食を出し終わり、手の空いた白と黒も落ち着かない様子で表を行ったり来たりしている。
翁も腕を組み、じっと戻らぬ二人を待っていたが、ふと顔を上げて闇の向こうを見据えた。

「蒼紫様……」
「蒼紫様、操ちゃんは!?」

夜の闇から滲むように姿を現した蒼紫の傍らには、だが、皆が期待した少女の姿はなかった。
彼の手に握られていたのは、道端にポツリと残されていた茶の包みと、一切れの焼け焦げた布片―――
焼け焦げた異臭に気付き、思わずお増が小さな悲鳴をあげる。

「まさか…操ちゃん!?」
「いや…現場にはこれしかなかった。恐らく火付けに気付いた操が、上着で叩き消した時に残ったんだろう」


何故操が、普段通りもしないあのような場所の火付けに気付いたかは判らない。
だがあの場で彼女に何かがあったのは確かである。
現役の御庭番衆では最年少とは言え、幾度もの修羅場を潜り抜ける事で一人前の隠密となった彼女が、
何の手掛かりも残せなかったと言う事は―――

「……恐らく炎を消し止めるのに一瞬気を逸らした虚を突かれたんだろう。さもなくば、無抵抗で拉致されるなど有り得ん」
茶の袋は、操を連れ去った者がたまたま気付かなかったのでその場に残されたのだろう。


火付けが操を連れ去る理由。それは恐らく―――

「口封じ―――か」

翁たちの表情が一瞬で凍りついた。
操は火付けの顔を見たのだろう。そして火付けは、彼女が自分の顔を見た事に気付いていたのに違いない。
火付けの現場を押さえられて、逃げるのではなく目撃者の拉致を計ったと言う事は、即ち目撃者の口を封じる目的に他ならない。
その場で手を下さなかったのは、人気の無い場所で殺める気なのか。


「……一刻の猶予もない。この布片を見付けた場所を基点に、必ず操を見つけ出すんだ」

こくり、と皆が頷く。場所を確かめると、それぞれがそれぞれの場所へと散って行く。

「万が一操が自力で戻ってきた時の為に、翁は葵屋で待機していてくれ。何か動きがあれば、その都度照明弾で合図する」
「承知」

翁が頷くのを確認して、蒼紫も闇夜へと姿を消した。
この世で最も大切な、掛け替えのないたった一人の少女の無事を信じて―――

 


「う……ん……」

妙な肌寒さを感じて、操はゆっくりと目を開けた。
剥き出しになっていた腕に冷たい風を感じ、ぶるりと身震いする。

「ぁ痛っ……!」

ズキン、と頭の後ろに鈍い痛みが走る。
思わず後頭部を押さえようとした腕が後ろ手に縛られている事に、操はこの時初めて気が付いた。


「目が覚めたかい?」

不意に声をかけられて一瞬ぎょっとしたが、表情には出さない。
自分が転がされていたのは、どうやら今は使われなくなって久しい長屋の中のようだった。
灯りも無く、月もまだ出ていなかったが、軽く目を眇(すが)めると操は声の主の顔を確かめる事が出来た。
薄暮の薄闇で見たひょろりと背の高い神経質な顔立ちの男が、朽ちてガタガタになった窓を背に自分を見ていた。

「……あんた、あの火付けね。あたしを殴り倒してこんな所に連れて来て、一体何のつもり!?」


虚勢を張っているが、著しく操に分が悪かった。
理由は聞くまでもなく、火付けの顔を見てしまった自分を口封じする為だろう。
腕だけでなく、足も縛られている。しかもご丁寧に足の方は近くの柱に結び付けられていて、ロクに身動きも取れない。
猿轡を噛まされていないのがせめてもの救いだが、これは操の声を周囲の民家が聞きつける心配がないという事の証明でもあった。

恐らくは、そういった使われていない長屋が多く集まる地域か、あるいは人里離れた辺鄙な場所に連れて来られたか。
操としてはまだ前者であって欲しいと思うのだが、今の状態では確かめる術も無い。
外はすっかり日が暮れている。

―――自分が帰らない事を不審に思い、蒼紫達が捜し初めてくれてるといいのだけれど。

「口封じさ。決まってるだろう?」

答えた男の声は、やはり思ったとおりまだ若いものだった。
蒼紫と同じくらいかと思ったが、もしかしたら自分との方が大して変わらないかもしれない。
嘲笑まじりの愉快そうな声は操の神経を逆撫でしたが、ここで短気を起こしては助かるものも助からなくなってしまう。

「……じゃあ、何であそこで一思いに殺らなかったのよ」

一思いに殺られなかったから今自分はここに居られるのだが、少しでも時間を稼ぐ事が先決だった。
相手の気を逸らしつつ時間を稼げれば、蒼紫達がきっと自分を見つけてくれるだろう。
自分の居場所が把握出来ていないのが痛かったが、今は信じて待つほか無い。

「俺はな、炎を見るのが好きなんだよ」
「炎を…見る?」

愉悦の表情を浮かべた男に、操が微かに眉を寄せる。

「そうさ。物を燃やすのが目的じゃない。ただ、紅く紅く燃え上がる炎を見るのが楽しいんだよ」

ニタリ、と不気味な笑みを浮かべた男を凝視して、操は正直悪寒がした。

―――この男は壊れている。

もしも操が、この数日不審火が相次いでいた事を知っていたなら、別の事に思い当たっただろう。


不審火は相次いでいたが、どれもボヤ程度で済んでおり、焼け出された者や怪我人は居ないということ。
それは男が『燃やす事』を第一にしていたのではなく、燃え上がる炎をただ純粋に『見る』為だった。
人が多く住む場所では火を点けてもすぐに人が集まり、ゆっくりと炎が燃える様を『愉しむ』事は出来ない。

だからほとんど打ち捨てられた長屋などを狙って火を点けていたのだ。
結局炎は人目に止まり、今まで大事に至る前に消し止められてきたものの、
ボヤ程度の火付けを繰り返す事で、男は自身の欲求を満たしていたのだろう。

だが―――


「でも、もう顔を見られてしまった。この街にはもう居られない」

ゆらり、と男が窓辺を離れた。

「俺はね、一度人が燃える所も見てみたいと思っていたんだ」

これ見よがしに掲げられた男の手の中にはマッチの箱―――その時操は、自分の周りに藁やら廃材が積まれて居る事に気が付いた。

『こいつ…一思いにせず、嬲り殺す気―――!?』

自分の置かれた状態に気付き思わず言葉を失った操に、男はいっそ優し気な口調で語りかける。禍々しい笑みと共に。

「すぐには燃えないよ…時間をかけて、ゆっくりとね……」


導火線の代わりなのだろう。細く綯(な)った藁紐の先に、然程高さのない蝋燭を立てる。
しかも一本ではない。それぞれに離れた場所に仕掛けた全部で三本の導火線に、男は同じように蝋燭を立てた。
蝋燭が燃え尽き、藁紐に火が点いたら……自分を囲む藁束や廃材が燃え上がるだろう。

「少し離れた場所から、俺は炎を見る事にするよ…今はもう真夜中だ。多分、君自身が燃え上がるまで、誰にも気付かれる事はないよ」
「この……外道!!」
「なんとでも」

激昂した操の叫びも、最早人としての道を踏み外した男には痛くも痒くもなかったらしい。
シュッ、という乾いた音と共にマッチが擦られ、蝋燭に淡い光が灯される。
壊れたからくり人形のような掠れた笑い声を残して、男は長屋を出て行った。
灯された蝋燭が、操の命を計るようにジワジワと小さくなって行く。
元々燃え易い加工がされていた蝋燭なのか、このままでは燃え尽きて藁紐に火が燃え移るまで大した時間も稼げそうにない。
だがキッと炎を見据えた操の目は、まだ諦めてはいなかった。

 




蒼紫は戊辰戦争以来打ち捨てられた感のある長屋が多く集まる付近を、小太刀を手に駆けていた。

もう夜半を過ぎ、人通りは全くと言っていいほどない。
御庭番衆として鍛えた耳には、ボヤが起きた騒ぎや、半鐘のなる音は一度も聞こえて来ない。
葵屋に残した翁や、他の者からの報せもなかった。
それは即ち、操を拉致した火付けはまだ彼女の傍に居て、他の凶行には出ていないと言う事―――操は、まだ見付からない。


不意に道端の筵(むしろ)の塊がガサリと動いて身構えたが、それは帰る家を無くした浮浪者だった。
筵を被り、夜の寒気を凌いでいるのだろう。深い眠りに落ちているのか、寝返りは打っても目を醒ます気配はない。
ふと、蒼紫は人の気配を感じて振り返った。

若い―――恐らくは自分とそう変わらない年頃の―――男が、ふらりと一人で灯りも持たず歩いてくる。
腹でも空かせて夜中に目を醒ましたのか、ぼんやりと歩く様は夢を見ているようで、心ここに在らずという風情だった。
何らかの心の病で、若くして正気を手放す者も居る。
この男もその手合いかと、蒼紫が再び地を蹴ろうとした―――その時だった。


気紛れのように流れを変えた風に、微かに香る香の匂い―――


「待て」

蒼紫は男を呼び止めた。
一応意識はしゃんとしているらしく、その声に男の足が止まる。

「何か御用で?」
「こんな夜更けに、何をしている?」

男の目が怪訝そうに蒼紫を見る。

「目が覚めたら喉が渇いたんでさぁ。ここいらはもう少し先に共同の井戸があるんで、そこに水を飲みに行こうと思っただけで。
 旦那こそ、この夜更けにこんな寂しい界隈へ、何の用向きでいらっしゃったんですかい?」
「―――お前に、その残り香を移した娘を捜しに来た」

すう、と男の目が眇められる。

「……何の話で?」
「悪いが俺は今、穏便に話す気分じゃない。答えろ、操は何処に居る!?」

ニタリ、と男の口が笑いを刻んだ。闇の中にあってなお深い深遠を思わせる、昏い昏い笑みを―――
そして―――

「もう、遅い」


路地を幾つか挟んだ場所から時を同じくして立ち上った炎が、夜の闇を紅く染め上げた。

 



操は柱に縛られている足を解くのは諦め、まず手を自由にする方を選んだ。
身体を目一杯伸ばせば、後ろ手に縛られた腕を辛うじて一本の蝋燭の炎に近づける事が出来る。

「熱っ……!」

ギリ、と操は唇を噛み締めた。

恨めしい程にしっかりと縛られた縄は、炎に翳しても簡単には焼き切れてくれない。
おまけに後ろ手で炎に近付いている為、正確に縛られた縄だけに炎を当てる事が出来ない。
操は自分の腕を焼く炎の熱さに悲鳴をあげそうになるのを堪えながら、それでも一縷の望みにかけていた。

ちりり、と肉を焼かれる感覚がする。
恐らく腕は火脹れになっていて、痕が残るだろう。

「それでも…死ぬよりはマシよ……!!」

脆くなった縄を引き千切るように力を込める。

「……っ痛ぅ……!!」

火傷で傷付いた腕に激痛が走ったが、ブツリと何とか縄が切れ、腕は自由になった。

「や…やった……!」

ぜいぜいと呼吸を荒くし、がくりと操はうな垂れた。
脱力している場合ではない。残りは足の縄だ。腕さえ自由になれば何とかなる。
蝋燭の残りを確かめようとした操は、振り返って愕然とした。
燃え尽きた蝋燭が導火線に火を点け、まさに炎の蛇のように襲い掛かる様を、操は目の当たりにした。


「きゃああぁっ!!」

乾燥した藁束に火が点き、瞬く間に燃え上がる。
思わず悲鳴をあげた喉が、炎の熱でひり付いた。

『火の周りが早い……』

懐に隠し持っていた具無で足の戒めは切ったが、既に炎に巻かれて逃げ場がなかった。
藁束が角材にも火を点け、最早壁や天井まで燃やし始めている。
壁か天井を、一度で破れれば恐らく逃げられるだろう。
だが火傷の痛みと、舞い上がった熱波で朦朧とした意識で、果たして一度で壁を破る事が出来るだろうか。

『こんな…こんな所で……!!』

失敗すれば、炎に巻かれて死ぬだろう。だが出来なくても、自分はここで死ぬ。
死にたくなどなかった。
ずっとずっと想い続けた人が帰って来て、やっとこれからだと思ったのに―――!

「こんな所で死ぬもんか!あたしは、蒼紫様の所に帰るんだ!!」

一番近い壁までは、自分自身の身の丈の約二倍―――
操は上体を低くし、一気に跳ぼうとした。その時―――


「操―――!!」

バンッ!!という硬い音と共に、天井が外から蹴り破られた。
蹴り破られた穴から、ストンと蒼紫が中へと身を躍らせる。

「蒼紫様っ!」
「操、無事か!?」

思わず抱きついてきた操の腕に火傷を見付け、蒼紫の顔色が変わった。
傷に出来るだけ触れないよう操の身体を抱き上げると、反動をつける為に一度深く腰を落とす。

「炎で痛めないように目を閉じていろ」

こくんと頷き、ぎゅっと操の両の目が閉じられる。
蒼紫は操の身体を抱えたまま一足飛びに天井を抜けると、炎の熱が来ない場所まで走った。
操を下ろし、胸元から照明弾を取り出すと、闇夜に向かって打ち上げる。
ひゅるると夜空に上がった光は明るい白で、それは彼らの内では任務達成の意味を持っていた。


「早く戻って傷の手当てをしよう」
「はい…って、ええ!?」

照明弾を片付けると、蒼紫は自分の装束の上着を脱いで剥き出しになった操の肩に羽織らせ、もう一度彼女の身体を抱え直した。
そのまま無事な長屋の屋根に跳び上がると、葵屋への最短距離―――つまり一直線に、家々の屋根を伝い跳び駆けて行く。
腕の傷は痛んだが、自分はこうして生きている。痛みは、生きている事の証だった。
火事を知らせる半鐘の音を遠くに聞きながら、操はようやく蒼紫の腕の中で安堵の吐息をついた。

 



「傷の具合はどうだ?」
「少し痛みますけど、大丈夫です。二-三日安静にしておけば大丈夫だって話だし」

翌日、操は医者に安静を言い付けられて大人しく床に就いていた。
事後処理を終え、すっかり日が暮れてから彼女の部屋を見舞った蒼紫にも、いつもと変わらぬ笑みを見せる。


操の腕の火傷は、処置が早かったせいもあってそれ程重傷にはならずに済んだ。
ただ幾らかは痕が残るかもしれないというのが、医者の見立てである。
お増とお近が、『女の子の柔肌に痕を残す訳には行きません!』と息巻いて、すぐに会津の高荷恵に便りを出した。
彼女が直接診に来るのは無理としても、火傷に良く効く薬を処方して貰う為である。
後頭部を殴られた分に関しては傷は小さく、後で眩暈や吐き気などの後遺症が無ければ大丈夫だろうという事だった。

操を拉致し、火付けを繰り返していた男は、昨晩中に白と黒の手により警察へ突き出された。
火の手が上がった瞬間、蒼紫は全てを察し、男の首筋に手刀を叩き込み昏倒させた。
死なないように手加減はしたが、並みの人間なら朝まで目が覚めない強さの手刀を手加減と呼ぶかどうかは、また別問題である。

傍の無人の長屋に男を放り込み、蒼紫は操の下に駆け付けた。
蒼紫の上げた照明弾で皆、操の発見を知り葵屋へ戻って来たのだが、
火付けの男を昏倒させてある事を聞き、白と黒が現場へ戻り男を警察に引き渡したのである。


「…で、あいつ、大人しく捕まったんだ?」
「目が覚めたのは、牢の中だろうがな」

一応、地元京都の警察内部にも情報網が存在し、捜査に支障をきたさない範囲でなら情報を得る事が出来る。
翁が今朝方仕入れた情報によれば、男は全く悪びれた様子を見せていないらしい。
ただ操の証言等により火付けの常習犯である事が明らかになった為、これから本格的に調べが入るだろう。


「でも絶対、更正なんてしないと思う。人間が壊れてたもん、あの男」

あの男は炎を見るのが好きなのだと言っていた。
燃やすのが目的なのではなく、炎を見る為に燃やすのだと。
それ故に、もう少しで操は生きたまま炎の芯にされるところだったのだ。
あの昏い笑い声を思い出すと、今でも背筋が寒くなるような気がする。
思わず自分の腕を掻き抱いた操の手を、傷に障らないように蒼紫が取った。


「……すまん。もう少し早く見つけ出せていたら、怪我をさせる事もなかった」

あの時、もしも香の移り香に気付いていなかったなら―――手遅れになっていたかもしれないと思うと、心臓が冷える思いがする。
蒼紫の手に自分の手を重ねると、操は微笑を浮かべた。

「それでも蒼紫様は、ちゃんと助けに来てくれたじゃないですか。あたし信じてました。きっと、蒼紫様達が見付けてくれるって」


どんな傷を負っても生きたいと、願ったから今の自分がここに在る。
例え消えない痕が残ったとしても、生きてさえいれば大切な人の傍に居られる。それだけで十分だった。

「それにほら、お増さん達が恵さんに手紙書いてくれてるんですよね。もしかしたら、前より綺麗なスベスベのお肌になったりして」

ねっ、と包帯に巻かれた腕を軽く撫でる。

「紅葉が散っちゃう前に包帯が取れるかな。蒼紫様、包帯が取れたら皆で紅葉狩りに行きましょうね」
「……ああ、そうだな」

微かな笑みを口元に刻み、蒼紫が小さく頷いた。


色付いた庭の紅葉が、風に吹かれて揺れている。
その紅い色はさながら闇に浮かぶ炎のように、ゆらりゆらりと風に靡いていた。

                                                                【終】


あとがき

今回はお笑い要素のほとんど無い、真面目なお話でした。
まず初めに頭にあったのは、操はガツンと頭を殴られて何処かに監禁されてもらおうと。
それを蒼紫が助けに行くというシチュエーションだったんですね。
当初は全然違う筋を考えていたんですが、結果的に放火魔…と言うよりは、炎フェチ(笑)な男を相手にすると言う事で纏まりました。

蒼紫が操を助けに飛び込んでくるシーン、本当は回天剣舞六連を使いたかったんですよ。
でも高い所からヒラリと飛び降りてくるのって格好良いかも(笑)と思い付き、天井を蹴り破っての登場となりました。
傾きかけた長屋の天井ですから、実はそんなに高さ無いんです。せいぜい二メートルって所でしょうか。
蒼紫の脚力をもってすれば、操を抱えていても何とかなる筈!何よりも火事場の馬鹿力って奴ですよ(笑)
ここを脱出できなきゃ操を助ける事は出来ないんですから、蒼紫のパワーも二乗三乗(^_^)
しかし季節ネタの紅葉をここで持ってくるか…(苦笑)

                                                            麻生 司




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