ほろ酔い気分の秋の夕
京の夕べは静かに暮れようとしていた。
稜線を紅く染めていた夕焼けは夕闇の深い藍に色を変え、いつしか明るい星が瞬き始めている。
家々のかまどには火が炊かれ、家人の為の煮炊きの煙が薄く立ち昇っていた。
通りを歩く人々の足は、吹く木枯らしに押されるように速い。
忍装束の上に羽織った白外套の襟を合わせ直すと、蒼紫も倣うように足を速めた。
蒼紫が葵屋に戻ってくると、夕食の後片付けを終えて人心地ついた翁達が座敷でくつろいでいた。
今日は宿泊客がいなかったせいか、早めに夕食を済ませたらしく、既に空いた酒瓶が幾つか足下にゴロゴロしている。
声を掛けたものかと一瞬逡巡した隙に、翁が彼に気付いた。
「お、帰っとったのか蒼紫。お近が美味い酒を選ぶんじゃと言うて幾つか試しに買うて来ての。
今丁度味見をしとるところじゃ。お前も一緒にどうじゃ?」
杯を手に蒼紫に手を振る。
見れば皆同じような調子で、頬を赤く染めていた。いや、出来上がっていると言ってもいい。
「……俺は下戸だ。酒は遠慮しておく」
「んん?そうじゃったかな?こぉんな美味いもんが苦手とは、お前は生涯の楽しみを半分損しとるぞ」
蒼紫が下戸である事は、葵屋の者なら皆知っている。
それすら綺麗さっぱり忘れるほど、既に酒が回っているのだろう。
「翁、こっちのお酒も、酒屋の旦那さんのお勧めだったんですよぉ」
「お近ちゃん、このお酒も美味しいわ〜〜」
「黒、酒の当てでも何か作ってくるか?」
「適当でいいよ、当てなんて。イカの足を炙っただけでもいいし」
何故特別何も無いのに、飲んだだけであれ程騒げるのか。飲めない者にはとんと想像もつかない世界である。
そのまま居ると酒気だけで酔いそうだったので、賑やかな座敷を後にして台所へと足を向けた。
誰も居ないかと思ったが、そこには操がいた。
そう言えば座敷のドンちゃん騒ぎの中には見えなかったなと、改めて思う。
「あ、蒼紫様お帰りなさい」
「ああ」
台所はかまどの火があるので暖かかった。
空腹を心地よく刺激する香りとその温もりに、ほっと人心地つき、外套を脱ぎながら返事をする。
操は何かを温めていたらしく、かまどに乗せた小さな鍋の中身をゆっくりとかき混ぜていた。
「座敷凄い事になってたでしょう?」
「そうだな。俺はちょっと、あそこには居られん」
渋い顔をした蒼紫を見て、あはは、と操が笑う。
酒に強い者には、決して判りはしない。下戸である者の辛さ―――それは酒気だけでも酔いかねないと言う事だ。
勿論、操は蒼紫が下戸である事を知っている。
「そうですね。あたしも、あたし一人なら別に構わないんだけど。
暁にはお酒の匂いはどうかなと思って、一緒にこっちに避難してきたんです」
少し鍋を見る手を休めて、傍の籠の中で眠っている暁の様子を見る。
ここは通気が良いので暁も快適らしく、よく眠っていた。
座敷の喧噪も、ここまではあまり聞こえてこない。
「そろそろ戻って来られるんじゃないかと思って、お味噌汁温め直したんですよ。
座敷は落ち着かないだろうから、蒼紫様のお部屋に準備してありますから」
「済まんな」
火にかけていた鍋を下ろし、にこっと操が笑った。
最近、操はひどく勘が良い。特に蒼紫が戻ってくる時間などは百発百中と言っても良かった。
最初は少し驚いたが、何度か続くうちに慣れてしまった。
だから今回も特別驚く事無く、言葉通りにそのまま聞き流す。
任務の時など、戻る時間は蒼紫自身にも判らないので何も告げずに出て行くのだが、
何故か深夜に戻っても、明け方帰っても、操が起き出して迎えてくれる事が多くなったのは事実である。
根拠はないのだが、操の言葉を借りて言うなら『何となく』判るのだそうだ。
お陰で蒼紫はここ何ヶ月か、何時戻っても操が気を利かせて用意してくれている温かな食事や風呂にありつく事が出来た。
操が予め準備していたお陰で、蒼紫は空腹に悩まされる前に食事を終えた。
やはり味気ない携帯食や木ノ実などより、人の手が入った温かな料理の方が美味い。
食後の茶を淹れに来たついでに、操は暁をしばらく見ていてくれないかと蒼紫に頼んだ。
「ちょっと座敷の方の様子を見てきます。皆がそのまま寝ちゃってると風邪をひいちゃうし」
放っておけば酔い潰れて、そのまま朝まで座敷で寝かねない。
夏ならばそれでも大丈夫だろうが、この季節の夜の冷え込みを舐めていてはひどい風邪を引きかねない。
起こすなり何か上掛けをかけてくるなりして来ると言って、操は席を立った。
文机に向かい合って本を読みながら、傍に置いた籠の中で眠る暁の様子を見る。
腹もいっぱいで暑過ぎず、寒くもないので、よく眠っていた。
ふと操がなかなか戻ってこない事に気付く。
あれからもう四半刻(三十分)は過ぎていた。起きない翁達にてこずっているのだろうか。
もう一度暁の様子を見てしばらく目をさましそうにない事を確認すると、蒼紫は本を閉じて部屋を出た。
座敷の喧噪はすっかり鎮まっていた。
人の気配と、寝息のようなものが複数聞こえるので、恐らくはそのまま寝入ってしまっているのだろう。
「操?」
障子を開けて、中を覗きこむ。
壁際にもたれて、お近とお増が額をくっ付けるような格好で眠っている。
傍の床には黒と白が大の字になって転がっていた。
その全員に、身体が冷えないように毛布が掛けられている。恐らく、起こしても無駄だと思った操が掛けて回ったのだろう。
当の操は、お近達とは反対側の壁際にもたれて座り込んでいた。
傍には、毛布に包まった翁の姿も見える。
だが操は眠っている訳ではなく、顔をしかめて何やら唸っているようであった。
「操?」
「あ、蒼紫様ぁ……」
何やら微妙に小さな声である。
「どうした、何があった?」
隣で転がっている翁は取りあえず見なかった事にして、操の傍に跪く。
「頭痛くて……気持ち悪い……」
青い顔をして返事をした操の息は、微かに酒の匂いがした。
「そろそろ落ち着いたか?」
「ごめんなさい。もう大丈夫です」
様子を見に来た蒼紫に、苦笑いして起き上がった操が頭を掻く。
事の次第を理解した蒼紫が、彼女を抱えて座敷から部屋に戻ってからニ刻(4時間)が過ぎていた。
もうすっかり夜も更けている。
「毛布を掛けに行ったら、『美味しいから一口飲んでみろ』って、翁に勧められちゃって」
実は、操もあまり酒には強くない。数年前に、同じようなノリで酒を飲んだ時に、酷く悪酔いしたような覚えがある。
だから今まで酒の席でもほとんど口をつける事は無かった。
普段ならば操があまり飲まないのを知っているので勧めもしないのだが、酒が入って調子付いている翁は、そんな事はきれいさっぱり忘れてくれていた。
ついでに操も、昔、悪酔いしたのは自分がまだ幼かったせいかとも思い、つい誘いに乗ってしまった。
「飲んだのはほんの少しなんですよ。翁の出した碗に、軽く一口」
このくらいと、操は、自分の小指の長さの三分の二くらいの幅を作って見せた。
「そうしたらもう、動けなくなっちゃって。心臓はバクバク言ってるし、頭は中で鐘が鳴ってるみたいにガンガンするし」
「……やはりそうか……お前も、酒には弱かったんだな」
ようするに、操も蒼紫と同じく下戸だったのだ。
彼女が口にしたのは、少しでも酒に強い人間ならば酔うような量ではない。
しかもその量で、動けなくなるほど悪酔いするのだから相当な重傷である。
故に酒気が抜けるニ刻の間、頭痛と動悸で眠る事も出来ず、じっと陸に上げられた魚のように長くなっているしかなかったのだ。
「そっか……あたしも下戸だったんだ」
「酒に強いとか弱いとかいう問題ではないな。身体が、酒を受け付けない。俺もそうだ。
酒の好きな連中からすれば不思議で仕方ないらしいが……稀にはそういう者も居ると言う事だ」
酒を口にしたが最後、待っているのはひどい頭痛と激しい動悸である。
こめかみの辺りを血が流れる気配すら感じながらも、その動悸ゆえに睡眠に逃避する事も叶わず、ひたすらに時が過ぎて酒気が抜けるのを待つしかない。
下戸に『ほろ酔い気分』と言う物は存在せず、あるのは素面か悪酔いかの、二つに一つなのだ。
「昔から、爺やの晩酌にいつか付き合ってあげるのが孝行か、なんて思ってたんだけど。とても無理」
「そうだな。毎度それだと思うと、酒を見るのも嫌だろう」
珍しく苦笑まじりにそう言った蒼紫に、操はこっくりと頷いて見せた。
晩酌に付き合う度にあの頭痛と動悸が付いてくると判れば、確かに御免被りたい。
翁にはこれからも、今まで通り白や黒を相手に飲んでもらうのが無難だろう。
「あたしにお酒は向いてないって事がよく判りました。
今度から今日みたいな宴会が始まったら、暁と一緒に、あたしたちはさっさと退散しましょうね」
簡単なものなら自分でも作れますから、と操が言う。
「ああ……その時は、よろしく頼む」
そう蒼紫は応えたが、料理の腕前など、本当は関係なかった。
温かな料理と明るい笑い声、そして操と暁の笑顔があるだけでいいのだと。
言葉にはしなかったが、彼が微かに浮かべた笑みが、何よりも雄弁に物語っていた―――
【終】
あとがき
続きのつもりはなかったんですが、何だか『温もり』をそのまま引き継いだようなお話になってますね(笑)
操も下戸にしてしまいました。これは、私的に蒼紫が酒に弱いという事実が、私にとって嬉しかった事が関係してます。
実は私も全く酒が飲めないクチでして。頭ガンガン、鼓動は小動物並みというのは、丸々私の実体験です。
飲める人は『少しずつ飲んで、ちょっとずつ飲める量を増やせばいい』と言います。
でもコップに三分の一程飲んだだけで、完全に悪酔いするんですよ?
しかも一度飲むと、そのアルコールが抜けるのに最低4時間ほどかかる。酒を飲む度に、毎回そんな目に合うのは御免です。
作中にも書きましたが、下戸に『ほろ酔い気分』なんてものは存在しません。
素面か、悪酔いかのどっちかなんです。そして下戸はその辛さを知っているので、酒の席でも義理でも飲もうとしません。
皆さん、本当に悪酔いって苦しいんです。
だから、嫌がる人にお酒を無理矢理勧めるのは、絶対に止めてください。
一気飲みなんてもってのほかです。付き合いでも飲まないというのは、飲まないだけの理由がちゃんとあるんですから。
よく『じゃあ飲めないのに何で飲み会に出た』とも言われますが、
飲めないのにそういう席に参加はしたという、義理堅さの方を考えてあげてください。
誘われて、断るのも悪いから参加はするという、日本人ならありがちなこの考え方を、どうも酒が入ると人は忘れがちです。
万が一飲酒を強要した事で、その人が具合を悪くするような事があれば、勧めた人は責任負えますか?
『酒の席の事だから』とか、笑って『ゴメン』と言えば済むと言う問題じゃないんです。
本当に辛いし、大変なんです。そこの所をよく考えた上で、飲み会に誘う面子や、酒の席での振る舞いを考えてみてくださいね。
お酒は飲むのが好きな人同士で飲めばいい。下戸には下戸の、時間の潰し方があるんです。
それを判ってあげられるのが、お酒を飲む事を許された『大人』ってもんですよ。
麻生 司