雪の兎
目が覚めると、部屋がいつもより明るいような気がした。
瞬きして目をこすると、膝で歩いて障子に近付く。
からりと障子を引き開けると、眩しさで一瞬、目を開けていられなくなった。
「わ…ぁ……雪だ!」
操の視界に広がったのは、一面の銀世界。
庭も、葵屋を囲む塀の上も、遠くに見える山も、真白い雪に覆われている。
暁がまだ良く眠っている事を確かめてから大急ぎで着替えを済ませると、真っ白な真綿で覆われたような庭に飛び降りた。
サクサクサクと新雪を踏みしめる音が心地よい。
吸い込んだ空気が、胸の中で凍りつくようだ。
「うう、寒い。でも気持ちいいな」
操は、暑いよりは寒い方が好きな方だ。暑いのはどうしようもないが、寒さは動いていれば紛らわす事が出来る。
小さな頃から雪が積もると、誰も足跡をつけていない道や庭をこうして歩くのが好きだった。
―――お前は子犬みたいだな。
走り出したらなかなか捕まえられない自分の事を、目を細めて見ていた蒼紫がそう例えた事がある。
操の相手をして雪の中を走り回らされていた般若や式尉たちが、冗談で『そろそろご主人の所へ帰りましょう』とよく笑っていた。
ご主人とは、この場合勿論蒼紫の事である。
雪の積もった日は、蒼紫たちも出掛けるのを控えて自分の相手をしてくれたので、ずっと雪だといいのにとよく思ったものだ。
操は足を止め、じっと見ていると光の乱反射で目が痛くなるような白い雪に目を落とす。
雪。白い……雪。
悲しい事も辛い事も不安も、雪は全てを覆い隠して真っ白にしてくれる。
あの頃は良かった。不安な事など何もなくて、ただ蒼紫や御庭番衆の皆を信じているだけで良かったのだ。
世界の全ては自分の思うままで、自分を裏切るものなど何もないのだと、信じていた……あの頃。
「あたしも……少しは、大人になったのかな」
ぽつりと呟いた声は、小さすぎて雪に溶けて消えた。
自分は、一度蒼紫を喪った。彼に絶対の忠義を誓っていた仲間も、共に操の傍から姿を消した。
泣いて、泣いて。
目が真っ赤になって、目尻が腫れぼったくなるまで泣いた。
蒼紫にとって自分は必要な存在ではなかったのだという事実を突きつけられ、掛け替えのない仲間に置き去りにされたのだと思って。
蒼紫が自分一人を葵屋に残して旅立ったのは、平和な場所で操自身を守りたかったからなのだと、今ではちゃんと判っている。
彼や般若達が、どれだけ自分の事を大事にしてくれていたか。どれだけこの身を案じてくれていたか。
その事が判った日から、操は泣くのを止めた。
泣いて過ごしても蒼紫達は戻って来ない。ならば自分の目と足で、見付け出すのだと―――
その願いが叶うまでに八年という時間が過ぎ、伸ばし続けた髪はとうに腰を過ぎて、背丈もそれなりに伸びた。
八年という時間は、決して簡単に埋まるものではない。蒼紫にとってもそうだし、操にとっても同じ事だ。
一番大きかったのは、般若達の存在が無いという事―――
彼ら四人に命を救われた蒼紫としては、何にもまして重い現実だったに違いない。
だが蒼紫も操も、そして葵屋の皆も、在るがままの現実を受け容れた。
時折思いを馳せる程度なら構わない。だが生者がいつまでも過去に捕らわれていては、人としての道を外してしまう。
だから、蒼紫は一度間違えた。
だが、二度と間違えさせしない。その為に、きっと自分という存在は在るのだろうから―――
「相変わらず元気が良い。まるで子犬だな……寒くはないのか?」
「蒼紫様」
声をかけられ振り返ると、寝間着の上に丹前を羽織っただけの蒼紫が、縁側に立ってこちらを見ていた。
「おはようございます。いつから見てたんですか?」
「少し前だ。お前が庭を一往復するくらいだな」
自慢ではないが、葵屋の庭は結構広い。
特に今朝は雪が積もっていたし、自分の足音を確かめるように歩いていたので、一往復と言ってもいつもより時間が掛っていた筈だ。
「……それじゃ、随分前から見てたんじゃないですか。声を掛けてくれれば良かったのに」
「何か、考え事をしているようだったからな」
そう言って、まだ操の歩いていない白い雪に視線を落とした蒼紫は、彼女の胸の内を読んだかのようだった。
「……昔の事でも思い出していたか?」
操が顔を上げ、やんわりと頷く。
「ええ。よく蒼紫様や般若君達に遊んで貰ったなぁって。
雪の降った日は、蒼紫様達は出掛けずに構ってくれる事が多かったから、あたし毎日でも雪が降ってればいいのにって思ってた」
式尉とひょっとこは、その体格を活かして当時の操の倍くらいある雪だるまを作ってくれた。
大きな雪玉を一緒にゴロゴロ転がして、仕上げに箒と柄杓で手を付けたり、墨で顔を作った。
寒そうだからと自分が編み笠を被せた事を思い出し、くすりと笑いがこみ上げる。
はしっこい般若とべし見は、雪合戦の相手をしてくれた。
それこそ子犬のように疲れ知らずで走り回る自分の相手を、日が暮れるまでしてくれた。
「でも、一番よく覚えているのは、蒼紫様に作ってもらった雪兎かな」
「ああ……覚えていたのか」
ふっと、蒼紫の目が穏やかになる。
操の手に乗るような、小さな小さな雪の兎。
南天の実を目にして、笹の葉を耳にして。
皆に散々遊んで貰って流石にくたびれて戻ってきた操の手に、小さな雪兎を蒼紫が乗せてくれた。
嬉しくて嬉しくて、手に乗せたまま、操は大はしゃぎで般若たちにその雪兎を見せて回った。
「だけど、あたしが持っている間にも、どんどん雪兎は溶けちゃって。
本当に大切に残しておきたかったのなら、庭の片隅の日陰にでも置いておけばよかったのに。
あの寒さなら、きっと数日は溶けずに残ってた」
手の中で南天の実と笹の葉だけを残して溶けてしまった雪兎を見て、操はベソをかいた。
折角蒼紫様が作ってくれたのに、溶かしてしまったと。
「……形ある物はいつか消える。それが雪で形作った物なら尚更だ」
蒼紫が目を伏せる。
全ての物がいつか滅び消え行くというのなら、人の命も同じなのだろう。
定められた寿命の中で、一体どれ程の事を成し得るのか―――
あと数年しか寿命が無いと知る者と、永遠に死ねない事が判っている者がいたとしたら、どちらがどれだけ幸福なのだろう?
「儚いからこそ美しい……確か、そう言ってましたよね?あの頃はよく判らなかったけど、今なら……何となく判る」
永久に続くものなど在り得ない。もしも人に寿命がなかったなら、人はとうに滅びの道を歩んでいるだろう。
命は限り在るからこそ、皆、精一杯生きるのだ。
死ぬ事がないのだとしたら、それは最早生きているとは言わないのかもしれない。
生きながらにして既に滅んでいる、生きる屍ではないのか。
「本当に、よく覚えているな」
蒼紫が苦笑いする。子供相手に小難しい事を言っていたものだと、思い返してみれば滑稽に感じた。
その逐一を操がはっきり覚えているから、余計にそう思う。
「当たり前です。蒼紫様の事だもの」
当然だと言うように、操が胸を反らせた。
「その時ちゃんと意味が判らなくても、覚えてさえいれば後でゆっくり考える事が出来る。大人になってから、判る事もある。
蒼紫様に関する事は、どんなに些細な事でも覚えてますよ」
そうした積み重ねを経て、今の自分がある。
葵屋に置いていかれた事はとても悲しかったけれど、翁達がちゃんと事情を話してくれたので理解出来た。
理解する事と納得する事は全く別の話であるから、延々八年に渡って蒼紫を捜し続ける羽目になったのだが。
思い出の中にしか残っていない事を忘れてしまったなら、全てが消えてしまう。それでは寂しすぎるではないか。
「だから泣き出した私の為に新しく雪兎を作ってくれた事も、ちゃんと覚えてます」
今度は庭の片隅に。一匹じゃ可哀想だと操が言ったので、寄り添うように二匹の雪兎を。
大きな兎は蒼紫様で、小さい兎はあたしだと、無邪気に喜んだ幼い日の自分。
それからしばらく後に、雪兎が溶けて消えたように蒼紫も葵屋から姿を消した。
だがそれも、もう思い出の中―――もう、笑って話せるだけの時間が過ぎていた。
「暁は、積もった雪は初めてだな」
「あ、そう言えば」
ちらつく雪は何度かあったが、視界が真っ白になる程の積雪は初めての筈だ。
たたたと駆け戻って来て、操が自分の部屋を覗き込む。
開けた障子の隙間から差し込んだ光が丁度顔にあたり、目を覚ましていた暁が眩しそうに顔を背けた。
葵屋へ来た頃に比べたら大分重くなった暁を抱き上げて、縁側の蒼紫を振り返る。
「皆が起きて来たら、雪だるまでも作りましょうか。門の横に置いたら、きっと前を通る子供が喜びますよ」
「どうせなら二つ作って並べておくか」
雪兎を作った時に『一匹じゃ可哀想』だと操が言っていたのを思い出し、そう口にする。
嬉しそうに操が、うんうんと頷いた。
「それならいっその事、一人一つ作っちゃいましょうか。それぞれ自分に似たダルマを作るんですよ」
「そんなに違いが出せるか?たかが雪ダルマだぞ」
「されど雪ダルマです。墨で顔を作れば、結構それだけで色々作れますよ。暁の分は、あたしと蒼紫様で作ってあげるからね」
暁の白い頬を突ついて、操が笑った。
結局、朝御飯を済ませた後で、葵屋総出で雪ダルマ作りをする事になった。
結った髪を雪団子で表現したり、愛用のリボンを持ち出してきて結んだりと、意外に皆ノリノリで作っていた。
門前には別に二つ、小さ目の雪ダルマが並べて置かれたが、皆を模した雪ダルマは庭の方に置かれた。
翁や白たちの雪ダルマに左右を囲まれるように、蒼紫の大きな雪ダルマと少し小さな操の雪ダルマが置かれ、
その真ん中には小さな暁を模した雪ダルマが置かれたと言う。
【終】
あとがき
雪の中で遊んでいた操が、足を滑らせて転びかけるのを蒼紫が支える……というシーンが書きたくて打ち始めたSSだったのですが、
肝心なシーンは結局入りませんでした(笑)おや?(^_^;)
大体がお笑い系の筈だったのに、結構真面目なお話になってますし。
大忙しの年末年始のドタバタで筆の調子がイマイチ悪かった後に、久し振りにのんびり書けたお話だったので、いいリハビリでした。
今回、少々意識して反復の表現を多用してます。
『小さい』『嬉しい』『泣く』とか。だから何だと言われても困っちゃうんですが……(笑)
敢えて今回はそういう技法を試みてみましたって事で(^_^)
麻生 司