夢と現と
パタパタパタパタ…
元気な足音が部屋に近付いてくる。その気配で、蒼紫は目を開けた。
小料理屋とちょっとした宿を営む『葵屋』の朝は早い。
蒼紫も元より朝は早い方だが、同じ屋根の下に起居する者たちもいつも同じくらいに起き出している。
行き来する微妙な足音の違いで誰の者か判るのだが、その中でもとりわけ軽い足音が部屋の前でピタリと止まった。
と、同時に気忙しい声が障子の向こうから蒼紫を呼ばわる。
「蒼紫様ッ、起きてる!?ううん、ちゃんとそこに居る!?」
「操、朝から大声を出すのは止めないか」
その声で蒼紫が起きている、そして部屋に居る事を確認すると、確認するのももどかしげに障子ががらりと開けられた。
「良かったァ、蒼紫様、ちゃんと居たよ〜……」
蒼紫の長身を見て取ると、寝間着姿のままの操が糸の切れた人形のようにペタリと座り込む。
「……一体何の話だ?」
呆れたような蒼紫の声に、操はてへ、と照れ笑いを浮かべた。
「目が覚めるとね、葵屋のどこにも蒼紫様が居ないの。
京都中捜しても、呼んでも見付からなくて……捜し疲れてクタクタになって……ふっと気が遠くなったと思ったら目が覚めた」
「…つまり、俺が居なくなる夢を見た…と?」
うん、と操は素直に頷いた。
着替える暇がなかったので、二人とも寝間着のまま、布団の上に座り込んで向き合って腰を下ろしている。
「夢だったんだって判っても、何か急に心配になっちゃって…どうしても蒼紫様の顔を見ないと安心出来なくて、それでつい…」
「寝間着を着替えもせずにここへ来たのか…困った奴だ」
ごめんなさい、と素直に頭を下げた操を、蒼紫は慈愛を込めた瞳で見返す。ただしそれは、人にはそれと判らない程度のものだ。
元々感情が表に出ない性質なのに加えて、隠密の修行の傍らで自分の感情を徹底的に制御する術を学んでいる。
最も近しい間柄である筈の葵屋の面々でさえついぞ蒼紫の笑みなど見た事がないが、
平時の彼の心中は、隠そうとしていなければ大体雰囲気で察する事が出来た。
今の操もそうである。
咎めるような口調ではあったが、決して自分がここに来た事を厭っている訳ではない事が判る。
「気は済んだだろう。さあ、もう部屋に戻れ」
「はぁい」
素直な返事に、内心蒼紫も安堵する。
やましい事は何もないが、お互い寝間着姿のままで自分の部屋に操が居る事が誰かの…特に翁の目に止まりでもしたら何と言われるか。
だが、それはほんの少し遅かった。
パタパタと先程の操のものよりは幾分しっかりした足音が、部屋の前で止まる。
「蒼紫様、失礼します」
お増だった。操を一瞬どうしようか、と蒼紫が考えるよりも先に、当の操が返事をしてしまう。
「どうぞー」
思わず後ろから操の口を塞いで置けばよかったと思ったが、既に遅い。
すっと障子を引いたお増が、部屋の中の操と目が合って、ほんの少し驚いたような顔をした。
「…操ちゃんの姿が部屋に見えなかったので、もしかしたら…と思ったんですけど、やっぱりこちらでしたか」
「あ、ごめんね。探してた?」
にこり、とお増が笑みを浮かべる。
「いえ、朝餉の準備が出来ましたので…こちらにお二人分、用意しましょうか?」
「いや、いつも通り広間に行く」
操が何か口にする前に、蒼紫が先に返事をした。
葵屋の者は、皆で一緒に広間で食事を摂る。
『特別な』何かでもない限り、その習慣は変える必要がない。
蒼紫のその言葉に、お増は『判りました』と返事をした。そして障子を閉める手を止め、思い出したように付け加える。
「操ちゃん、朝餉の前に、ちゃんとお寝間着着替えていらっしゃいね。蒼紫様も」
「はーい」
うっかり気付いていない事を祈っていたのだが、お増も流石に御庭番衆の一人である。
蒼紫たちが寝間着のままであった事を、しっかりと見てとったらしい。
しかも朝餉の用意を蒼紫の部屋でしましょうか、などと口にした以上、何やら余計な気まで使ったような気配である。
今頃厨房では、お近や白、黒の耳にも入っている事だろう。程なく翁の耳にも入る事疑いない。
「どうしたの、蒼紫様?」
「……何でもない」
きっと皆何も言わないだろう。だからこそ、その無言の視線を思うと胃の辺りが重くなる。
無邪気に見上げる操の瞳が、今はほんの少しだけ恨めしかった。
「……で、お前もそろそろ心が決まったか?」
朝食後に茶を飲んでいるところに、案の定ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた翁が蒼紫に探りを入れて来た。
全身に突き刺さるような食事中の皆の視線もあり、予想の範囲内の事だったので、蒼紫は眉一つ動かさない。
「操がお前の部屋に転がりこんどったそうじゃないか。しかも双方寝間着姿で褥の上。来年あたりは孫を期待してもいいんかの?」
「……その話、操の前でしたら斬る」
ひょーっほっほっほ♪という楽しげな笑い声を殺気の篭もった視線で凍らせると、蒼紫は湯呑みを置いた。
その湯呑みは彼が葵屋に戻ってしばらく経った頃、御庭番の一同が蒼紫へと贈ってくれたものだ。
元手を出したのは全員だったが、湯呑みそのものは操が慣れない手つきでろくろを回し、形作った物である。
お陰で少々味わい深い形になっているが、手で持った時の大きさや重さが自分の手に良く馴染んで、蒼紫はひっそりとその湯呑みを愛用していた。
口にはしていないがその辺は皆が心得ており、こういう身内で茶を飲む席などでは、蒼紫の分はお近かお増が必ずその湯呑みで用意している。
「…俺が居なくなる夢を見たらしい。夢だと判っても不安で…顔を見て確かめずにはいられなかったのだそうだ」
「ほう……」
元から本当に、蒼紫の部屋で操が一晩過ごしたとは思っていない。
仮にそうだとしても、蒼紫が操を抱いたなどとは露ほども疑っていなかった。それは御庭番衆全員の考えでもある。
少なくとも正式な手順を踏むまでは絶対に華を手折るような真似はしないと―――その点に置いては、翁も蒼紫を信頼していた。
ただし蒼紫も健康的な一青年である事実に変わりないのだから、いつまでも彼の理性の強さにだけ頼ってもいられない。
まあ仮に理性の箍が外れた所で、蒼紫はその責任を言い逃れするような男ではないから、
二人の行く末に気を揉んでいる者達からすれば、既成事実が先になるだけの事で結果オーライなのだが。
何にしても今後はせめて着替えてから行動を起こすよう、操には厳重に言い付けておく必用があるだろう。
「俺には前例がある。だからこそ操も、夢だと思っても不安を拭い去る事が出来なかったんだろう」
十数年前のある日、蒼紫達は操一人をこの葵屋に預け、姿を消した。
その日から操は一日たりとも仲間の事を忘れた日はなく、一日千秋の思いで自分達の無事帰る日を待ち続けたという。
だがやがて物心つき、自分の意志と力で行動出来るようになると、翁や葵屋の皆が止めるのも聞かず、
自分達の消息を求めて日本各地を飛び回っていたのだそうだ。
やがて彼女のその行動は緋村剣心との縁を生み、ついには蒼紫との再会も果たしてのけた。
彼女の望んだ『仲間』全員の無事は叶わなかったが―――それでも、蒼紫だけは操の元へと帰参したのである。
「まったくのう…ありゃ言い出したら聞かん娘じゃから、儂らの心配なんぞちーとも聞きゃあせん。
操が『ちょっと蒼紫様たち探してくるね〜』などと言って飛び出して行く度、儂らがどんだけここで気を揉んどった事か」
こればかりは本当らしく、長く伸ばしてリボンを結わえた顎鬚を撫でながら翁がしんみりと呟く。
「蒼紫、言わなくてもお前は判っとると思うし、そんな事もないとは思っとるが、これだけは言っておく」
ちら、と蒼紫が翁に視線を走らせる。
「操を嫁にするなら、行かず後家と言われる前に貰うてやってくれよ♪」
ぶんっ、と風を切り、翁の両の頬を掠めて苦無が背後の壁に突き刺さる。
頬は切れてはいないが、こめかみの白髪が、数本切られてはらりと畳に落ちた。
「じょ、冗談じゃよ〜〜〜」
この上何か迂闊な事を言えば、今度は小太刀が飛んで来そうだったので、翁は畳に額を擦り付けるようにして頭を下げた。
蒼紫は冷たい一瞥を翁にくれると無言のまま立ち上がり、自室に下がる為に障子に手をかけた。
最後にぽつりと、耳を疑いたくなるような一言を残して―――
「……言われるまでも無い事」
思わず聞き間違いか、ボケからくる幻聴かとも思ったが、確かにそれは蒼紫の口から発せられた言葉に相違ない。
ピシャリと後ろ手に閉められた障子を見やり、翁は呆気に取られたような顔をした。
「…ふん、言ってくれるわ。確かに判っとるようじゃの」
そう呟いて片目を瞑り、顎鬚を撫でた翁の顔は、娘の成長が楽しみでたまらないただの好々爺に過ぎなかった。
『静かだ……何か、嫌だな』
操は葵屋の中に居た。黄昏時なのか、見慣れてる筈の辺りの風景が不思議にぼやけて視える。
僅かに色を落としたようなその色彩に、操は自分が夢を見ているのだと不意に気付いた。
『夢…また、夢―――』
操はくるりと、蒼紫の部屋に足を向けた。
ひたひたと誰の気配も感じない廊下を歩き、目指す蒼紫の部屋の前に立つ。
気配は感じない。期待はしていなかったのか、操は特に確かめる事もなく、からりと障子を開けた。
目の前にはからんとした部屋。
本来の主の性格を偲ばせる、整然とした―――だけど、生活感を感じさせない空虚さ。
『居ない……』
呟く自分の声が虚ろだと思った。
どうしてこんなに胸が痛いのだろう?これは夢だと、さっき自分で気付いたではないか。
目を覚ましさえすれば夢は消える。蒼紫はちゃんと葵屋に居て、部屋を訪れればいつも通り自分を迎えてくれるだろう。
なのに、頬を流れる涙が止まらない。自分はこんなにも弱かったのだろうか。
『…もう、置いてっちゃ嫌だよ…蒼紫様…』
操はぺたりと座り込むと、力なくうなだれた。
覚醒している操は、決して泣き言は言わない。人前であれば尚更だ。
落ち込む事はあっても、その落ち込みをバネにして、より自分を鼓舞するする術を自然と心得ていた。
夢はその反動なのかもしれない。
自分すら意識していない心の奥底で、こんなにも蒼紫の不在を恐れる自分がいる。
大丈夫なのだと、もう二度と彼が自分に黙って姿を消す事がないと信じていても、
幼き日受けた衝撃は、いまだに操の心に深く疵を残していたのだ。
『蒼紫様、またどこかへ行っちゃうの?あたしをここに残したまま』
もっとも恐れる予感が操の口から零れた、その刹那。
―――いいえ、そんな事はございません。
空から降り落ちたその声に、操は自分の耳を疑った。
否それどころか、目の前の空間に淡い光が凝り、懐かしい人々の姿を形作る。
『は…般若君…!それに、式尉さん、ひょっとこ、べし見!!皆…皆……!!』
―――元気か?お嬢。
ごつい体躯を屈め、実体を感じない手で操の頭を撫でたのは式尉だった。
操は驚いて目をしばたかせていたが、はっと我に返ると涙で濡れた目尻をぐいと拭い、にこっと笑った。
『ありがとう。元気だよ!あたしも、蒼紫様もね』
悪夢の残滓は、澱のように胸の奥深くまだ感じる。
だが夢という形を借り、自分の前に姿を表してくれた般若達、懐かしい仲間の姿を見て、操は素直に嬉しかった。
そして不意に心配そうな表情を浮かべる。
『ねぇ、もしかして皆、成仏出来ずに彷徨ってる訳?蒼紫様もあたし達も、ちゃんと皆の菩提を弔ってるつもりだったんだけど…』
―――そういう訳ではありません。我々はもう、現世に姿を持たぬ者。既に冥土の門もくぐっております。
本来ならば叶わぬ事なのですが、操様が…泣いているのを感じましたので。
苦笑を交えた声で般若が応える。式尉達も頷く気配を感じた。
ならば、夢という場を借りて皆を呼んだのは自分に他ならなかったのだ。
『ごめん。あたしがこんなじゃ、皆は安心して逝けないね』
―――操様。蒼紫様はもう二度と、黙って貴女の側を離れる事はありません。
我々がお約束します。どうか我々の言葉を信じて、心安らかに蒼紫様の事をお頼み申します。
『…うん、ありがとう。蒼紫様の事はまかせて―――もう、大丈夫だから』
―――どうかお元気で。来世でまたお会いできる日を、楽しみにしています。
『もう会いに来てくれないの?』
―――お許しが出ましたら、またいずれ。今宵はもう時間です。
4人の姿が空気に溶けるように、徐々に輪郭を失っていく。
不意に吹いた風に目を瞑り、再び瞳を開いた時には、もう彼らの姿はどこにも視る事が出来なかった。
目を開けると、見慣れた天井が目に映った。まだ表は暗い。夜明けまでにもまだ時間があるようだった。
頬がほんの少し濡れている。どうやら夢の中だけに止まらず、本当に涙を流していたらしい。
操はぼんやりと布団の上に身を起こした。
顔を洗いに井戸まで行こうかしら。そんな事をちらりと頭の隅で考えた、その時―――
「操」
障子の外から突然名を呼ばれ、操は驚いた。
夜明けにもまだほど遠いこんな時間に、どうして蒼紫が自分の部屋の外に居るのだろう?
「あ、蒼紫様?一体どうしたんです、こんな遅くに…」
「開けなくていい」
膝で歩いて障子に近寄り、障子を引こうとした操を蒼紫は止めた。
「用があった訳ではない…お前が泣いているような気がしたから、様子を見に来ただけだ」
夜半に目が覚めた蒼紫は、ふと思い立って部屋を出た。
根拠があった訳ではない。声が聞こえた訳でもなかったのだが、行かなければならないような気がしたのだ。
操が泣いている。
多分、一度は自分を喪ったという心の疵故に。
「…そうだったんですか」
蒼紫は障子を背にして、廊下で座禅を組んでいるようだった。
操も障子越しに背中を合わせるように座り込む。
そうしていると蒼紫の気配を側で感じて、僅かに残っていた悪夢の残滓が溶けるように消えて行くのが判った。
「夢を見てました」
そう呟いた操は、灯りも灯さない闇の中、少し懐かしそうに目を細めた。
「般若君たちの」
ポツリと囁かれたその名に、ほんの僅か、蒼紫の瞳が揺れる。
「始めはまた蒼紫様の居ない夢を見ていて…あたし、夢の中で気弱になってた。それを蒼紫様は感じたのかも」
夢と現実と。共に涙を流していたのだが、その事は口にしなかった。
言葉にしなくても自分の不安を感じて、蒼紫はこうして自分の元へと来てくれた。その事実だけで十分だった。
「…元気にしていたか?」
「うん。来世でまたお会いしましょうって」
「……そうか」
屈託のない操の声に、もう陰りは感じない。
命を失い、魂だけの存在となってなお、彼らは操を見守っているのだ。
そしてきっと、蒼紫の事も。
「そう言えば般若君、普段は叶わないけど、お許しが出たらまた会えるって……どういう意味だったんだろ?」
「―――今日は盆の、最後の日だな」
ややあって返った返事に、操ははっとなった。
自分が世事に紛れてすっかり忘れていたその日を、蒼紫はちゃんと覚えていた。
「…!そっか。それで皆、『葵屋』に戻って来てたんだ」
「お前も来るか?昼から墓前に参るつもりだった」
「はい、必ず!」
蒼紫の華は、もう彼を喪うかもしれないと怯えて泣く事はない。
それは命すら預けた彼の最も信頼する部下たちからの、最後の贈り物だった―――
【終】
あとがき
わはははは〜(笑)遂にやっちまいました、蒼紫×操!!
どうして今更『るろ剣』なんだって感じですが、ハマっちゃったもんはどうしようもないでしょう。
自作の『蒼紫×操好きに100の質問』も同時UPなので、それを見ればこのSSの出来たきっかけの質問がございます。
ぶらりと書き始めた割には長いよ、この話…(笑)手が滑りまくってますな(^_^;)
でも作業時間は短かった、典型的に『降りてきた』お話でした。お盆だからお盆ネタで(笑)
いやでも、盆の設定は打ってて急遽決めたんです。この時期だったのは偶然。
蒼紫の性格はSSとして書き難いので大変です。
寡黙なキャラは私的に大好きなんですが、文章で表現するのは難しい。
でもまあ翁とのやり取りなどの辺りを始め、それなりに遊ばせて頂きました。
蒼紫ファンの方、怒ってましたらごめんなさい(^_^;)