永遠の約束


キュアン、エスリン、シグルドの訃報がレンスターに伝えられて、早数ヶ月が過ぎた。

キュアン亡き後、すっかり年老いてしまった王の後見を受け、フィンは残された槍騎兵(ランスリッター)の統率を任される事になった。
キュアンとエスリンの遺児、このレンスター王国の未来の王となるリーフは未だ乳飲み子。
リーフの姉にあたるアルテナは、キュアン達の死と共にその消息を絶っている。
主君夫妻の訃報は伝えられたが、アルテナの生死は定かではない。
一縷の望みに賭け、フィンは密かに信用の置ける者を各地に派遣していたが、その行方は掴めないままであった。

キュアンがかつて使っていた執務室はそのままに、フィンは一室手前の控え室を、自らの執務室として使っていた。
トラキアを始め、長い間微妙なバランスで保たれていた各国間の関係が崩れた今、どんな些細な兆候も見逃せない。
新たな侵攻はないか、アルテナの消息を知る手掛かりはないか、そしてかつての戦友たちはどうなったのか―――
情報封鎖が行われた訳ではなかったのだが、周辺諸国はどこも混乱しており、同じ情報でも違った様相を呈して入ってくる。
フィンはそういった様々な事の処理に一日の大半を費やしていた。
そんなある日の事。

「失礼します」
「入れ」

軽いノックに入室を許可すると、今年志願して見習いになった若者が、やや緊張した面持ちで執務室へと入ってきた。
フィン自身は『それ程固くなる必用はないのに』と思う事もあるのだが、それはあくまでもフィンの側が思う事である。
若者にしてみれば、実際には自分とそれ程歳が違わないものの、
歳若くして国王、亡き王子夫妻の信任も篤く、この混迷の時代にランスリッターの統率を一任されているフィンは十分尊敬に値する。

「只今城門に、フィン殿に目通り願いたいという方が見えられていますが」
「私に?一体誰だ」

怪訝そうに眉を寄せる。

「若い女性なのですが、この耳飾りをフィン殿にお見せすれば判ると…」


若者は握っていた小さな耳飾りの片方をフィンの手に乗せた。

「これは……!?」

目を見開き、ガタン、と大きな音をさせて立ち上がる。
呆気に取られる若者を後に残したまま、フィンは執務室を飛び出していた―――


フィンが手渡されたのは、紅い宝石を金細工の台座に嵌め込んだ瀟洒な作りの耳飾り。

『まさか、彼女が―――』

鼓動が早まる。戦乱の中、この耳飾りの主がレンスターに辿り付いたとしたならば、それは奇跡に等しかった。
今は何処も反乱分子の鎮圧に躍起になっている。
特にシグルドの羈下にいた者には賞金までかかっているのだ。


「私を訪ねて来た女性は!?」
「城門外の詰め所でお待ちです」

城門の警備についていた者から即座に返事が返る。

その女性は、足下まで覆うフードをすっぽりと頭から被っていた。フィンの姿に気付き、白い手がフードを下ろす。
さらりと零れる、記憶よりもずっと長く伸びた黄金の髪。
その耳元を飾る、紅い宝石の耳飾り―――


『もしも、再び彼女と見(まみ)えたなら―――』


それはシレジアで別れてから、ずっと秘めてきた想い。
自分の全てを賭けてでも守ろうと誓った、運命の女神―――

「―――ラケシス!!」

二度とその手を放しはしないと、願い続けた女性が目の前に居る。
フィンの呼び声に、ラケシスは今にも泣きそうな微笑を浮かべた―――

 



「ラケシス、入るよ」
「フィン?どうぞ」

ラケシスはフィンの縁故者として、レンスター城へと入った。
長旅を続けていたせいか少し痩せたように見えたが、フィンの部屋で少し眠ると、以前の彼女らしい笑顔を見せてくれた。

「すまない、着る物が間に合わせで…」

ラケシスが着ているのは、城勤めの長い女性に頼んで調達して貰った服である。
質素なデザインだが仕立ては良く、着心地も悪くない。
いろんな物資が困窮している中で、最高の物を選んできてくれたに違いないその女性に感謝したいくらいであった。

「ありがとう。これで十分よ」

ラケシスの笑みに安堵し、フィンは改めて彼女の頬に手を触れた。
髪を指に絡め、愛おしむように梳いていく。彼女の存在を、確かに感じるように―――


「……バーハラでの事は、僅かだが伝え聞いている…せめて、君が生きていると判って良かった」

ラケシスの白い横顔に、憂いを帯びた微妙な表情が浮かぶ。

本当は、もう二度と逢えないと思っていた。
絶望した訳ではなかったが、バーハラの悲劇より数ヶ月―――
手掛かりもなく、最早消息を知る事は不可能かと諦めかけた矢先だったのだ。

「聞かせてくれるかい?君の見てきた真実を―――シグルド公子の…最期を…」

頬に当てられたフィンの手に自分の手を重ねる。
言葉という形にすれば夢が現実になってしまうという、幼い子供のような怯えすら感じる。
だが心寄せる人の手の暖かさに支えられ、ラケシスはようやく、その口を開いた。

「……バーハラは、地獄になったのよ……」

彼女の瞳には深遠の闇を覗き込んだ者だけが知る、暗い光が浮かんでいた。

 


シグルドが最期まで信じていたアルヴィスも、彼を救う者ではなかったのだ。
アルヴィス自身の口からシグルドは反逆者の烙印を押され、そして業火にその身を滅ぼされた。
周囲の者も、そしてシグルド自身でさえ悲鳴すらあげる事なく、一瞬のうちに業火に包まれた身体は炭化し、灰燼に帰したのである。

―――その後の事は、ラケシスもよく覚えていない。

「恐怖だったのか、混乱の為だったのか、私の記憶もひどく曖昧になるけれど…
 最後に覚えているのは、メティオとファラフレイムの炎の中で叫ぶ、レヴィン様の声―――」


『ここはもう駄目だ!俺がフォルセティで退路を作る。ラケシス!君はレンスターへ行け!!』
『レンスターへ!?』
『レンスターにはリーフ王子を守るフィンが居る。行くんだ、ラケシス!必ずそこまで落ち延びろ。絶対に死ぬな!!』


「そう…言われて…」

何処をどう逃げたのか、覚えていない。
気が付けば彼女はたった一人でバーハラ城を抜け出し、ほとぼりが冷めるまでじっと城下で身を隠していたのだ。


「エーディンはジャムカ王子に強く請われて、オイフェやシャナン王子と共に二人の子を連れてイザ―クへ落ち延びたわ。
 レヴィン様の子供を身篭っている事が判ったフュリーもシレジアに残っていたから、無事な筈よ。
 だけど…最後まで戦列に加わっていた他の皆がどうなったのか…私には確かめる術がなかった―――」


目の前で怪我を負っていた者も居る。
そのうちの何人かは致命傷だった者も居ただろう。
剣で道を切り拓くのにも限界がある。魔法の行使も無限ではない。
一体あの状況で、どれ程の者が生き延びる事が出来たのか―――


「…私とアイラは、シレジアのラーナ様とフュリーに子供達を託してグランベルへ出征したの。
 出来る事なら迎えに行きたかったけれど…ミレトスへ抜けて生き延びるだけで精一杯だった…」

ラケシスは顔を上げると、まっすぐにフィンを見た。

「フィン…さっき城門で、迷わず私の名を呼んでくれたわね…嬉しかった」

彼女のその一言で、フィンはラケシスが何を言わんとしているのかを悟った。

「私には追っ手が掛かっている。私を受け容れるという事は、グランベルに侵攻の口実を与えるという事―――」


だからラケシスは直接名を告げず、耳飾りを託したのだ。
選ぶのは、フィン自身だと―――


「だけど貴方は私の名を呼んでくれた。何よりも欲しかった一言を、貴方に貰った…もう、何も望まないわ」

絶望しかなかった旅路の果てに、躊躇いなく差し出されたその腕が、どれ程嬉しかったか。
誰よりも近しい血を持つ兄と、誰よりも近しい魂を持つ人の言葉が、今日のこの日まで、自分を支え続けてくれたのだ。
『生きろ』―――という、その想いが。


「…悲しい事を言わないでくれ」

伏せた両の瞳から涙を零したラケシスの身体をそっと抱き締め、彼女の耳に優しく囁く。

「僕たちはあまりにも多くの、掛け替えのないものを失った―――今またどうして、君まで失える?」


長く伸びた彼女の髪は、離れていた時間の長さの証。
元気だろうか、無事で居るだろうかと案じ続けた日々は、決して短いものではなかった。
消息さえ知れたなら、全てを投げ打っても迎えに行きたかった。
例えそれが自分の身を滅ぼす事になろうとも、悔いはなかったのだ。


「―――ここで一緒に暮らそう、ラケシス。そしていつか必ず、シレジアに僕等の子供を迎えに行こう」

しっかりと自分を見詰めるその眼差しに、流れる涙はそのままに、ラケシスの顔に笑みが浮かんだ。

「…ええ、フィン。いつか、きっと―――」

フィンが手を伸ばし、ラケシスの頬の涙を拭う。

「…君が名付けてくれた、子供の名を聞かせてくれないか?」
「デルムッド…と、言うのよ―――」

二人の唇がそっと重ねられた。

 



時は穏やかに流れた。

フィンと、僅かに生き残ったランスリッター達の庇護の下でリーフ王子は健やかに成長し、
ラケシスは正式にフィンの妻としてレンスターの城に迎えられ、そこで二人目の子を授かった。

リーフはフィンを父に、ラケシスを母のように慕い、ナンナを妹のように可愛がった。
失った命は取り戻せない。悲しみを癒すには長い時間が必要だろう。
せめて長い戦乱の後にようやく掴んだこのささやかな幸せを、いつまでも大事にしたいと、フィンとラケシスは願っていた。
そして、数年後―――


「手紙?私に!?」

フィンが差し出した一通の手紙に、ラケシスが怪訝そうな顔をする。

「ああ。でも名指しじゃない。正確には『レンスターのフィンという騎士の奥方へ渡して欲しい』と、旅の隊商がイザ―クで託されたそうだ」
「え、イザ―ク…?」

ビクン、と手紙を受け取ったラケシスの手が揺れた。
自分がここに居る事は、ごく限られた者しか知らない筈。そしてその幾人が生き延びているのか、見当もつかない。

「一体、誰が…」
「イザークには旧知の者も居る…とにかく君に宛てて届いたんだ。僕は仕事が残っているからしばらく席を外す。ここでゆっくり読むといい」


大丈夫だよ、と声をかけて、フィンは部屋を出て行った。

ラケシスは手紙を手にどうしたものか考えていたが、やがて思い切って封を開けた。
差出人は書かれていなかった。だが誰が差出人であるにせよ、確かめない訳には行かない。
逸る鼓動をなだめつつ開いた便箋には、見覚えのある柔らかな字体が綴られていた。


『お元気ですか?お変わりありませんか?
 イザークでの生活にもすっかり慣れました。レスタ―とラナも、とても元気にしています』


「レスタ―にラナ…これ、エーディンからだわ」

それはシレジアで共に暮らした者だけが知る、子供達の名だけが記された便り―――

ほっと安堵の息をつき、ラケシスは微笑を浮かべた。


『多くの者の消息が今も不明な中、貴女がレンスターに身を寄せているらしいという事は、シレジアの賢者から聞きました
 彼も生き延びて、今は各地を巡りながら、時折私達の元を訪ねてくれます。

 シレジアは先日グランベル軍の侵攻を受けましたが、
 ラーナ皇太后と王妃が無血開城をした為に、奇跡的に犠牲者は出なかったそうです。

 事実上シレジアはグランベルに併合された事になります。
 皇太后が病に臥せったとも聞きました。

 しかしグランベルの侵攻に先立って、子供達がシレジアの賢者に連れられて私達の所へと逃れて来ました。
 私がペンを取ったのは、この事を貴女に伝える為。
 新しくこの地での暮らしに加わったのは、スカサハ、ラクチェ、そして貴女の息子デルムッド。

 皆 元気で良い子達です。どうか心配しないで…

 貴女の永遠の友より』

 


扉が開く音に顔を上げると、そこには涙で顔を濡らしたラケシスの姿があった。

「ラケシス?どうした!?」
「フィン……」

ラケシスは先程の手紙を手にしたまま、夫の胸で泣いた。


生まれたばかりの子をシレジアに残して出征したあの日から、一日たりとも忘れた事などなかった。
レンスターにはフィンがいる。
まだ幼い娘と、自分を母とも慕ってくれるリーフも居る。
皆、大切…守りたい―――
どんなに考えてみても判らない。どちらかなんて選べない。だけど―――

だけど―――

 

「…今、何と言った?ラケシス!?」

その夜、ラケシスはようやく出した結論を告げた。
イザークに、デルムッドを迎えに行きたいと。

「あの手紙…エーディンからだったの。
 デルムッドが、今はイザークに居る―――シレジアは遠過ぎるけれど…イザークなら迎えに行けるわ」
「馬鹿を言うんじゃない。どうやってイザークまで行く気なんだ!?
 あの混乱の中ですら、グランベルからミレトスを抜けてこのレンスターまで辿り付くのがやっとだった事は、君自身がよく判っているだろう!
 イザークはグランベルよりもまだ北、しかもエーディン様達が何処に居るのかも判らないんだぞ!?」


静かな口調のラケシスとは対照的に、常には珍しくフィンの語調は強かった。
それも全て自分の身を案じての事…ラケシスはその事を判っていたが、決して譲ろうとはしなかった。

「…そうね、私の首には賞金が掛かっているから、ミレトスからは難しいかもしれない。だから私は、レンスターから直接イザークへ向かう」

ラケシスがフィンを見る。まっすぐ射抜くように、確たる信念を持って。

「イード砂漠を渡るわ」
「何!?」

フィンが顔色を失う。
イードの別名は死の砂漠。そんな所に足を踏み入れるなど、自殺行為に等しかった。

「イード砂漠なら一度は越えた事がある…砂漠さえ抜ければ、すぐそこがイザークよ」

あの時は独りではなかったという事を、ラケシスはあえて口にしなかった。

「…だからと言って、女性の君にそんな危険な旅をさせる訳にはいかない。どうしてもと言うなら、僕が行く」
「女だから余計に危険という訳ではないでしょう?誰が行っても、危険な事には変わりはないわ。それに―――」

フィンの胸に手を置き、諭すように言葉を紡ぐ。

「駄目よ。貴方にはキュアン様からの主命がある。リーフ王子を残して、貴方がレンスターを離れる訳にはいかないでしょう?」
「それは……」

一瞬、言葉を失う。

「お願い、判って、フィン」

その声にフィンが彼女を見る。

「貴方の子なの。私の子なの。私はあの子を、貴方に逢わせてあげたい―――行かせて…お願いよ」

ラケシスの面には、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。


フィンの瞳に涙が滲む。

何故か予感があった。今、ここで彼女の手を放したら、きっともう二度と逢えないと―――
だが今の彼は、ラケシスを引き止める言葉を持たなかった。



「約束してくれ、ラケシス…必ず、ここに還ってくると」
「ええ。きっと、デルムッドも一緒に―――」


例えその約束が果たされる日が永遠に来ないのだとしても―――
その約束がある限り、信じて待つ事は出来る。諦めないで、いつか再び出逢う日を信じられる。
二人は最後にもう一度だけ口付けを交わすと、それ以上は何も語らなかった。

その後ラケシスは、イード砂漠で消息を絶った―――

 



「お父様!お母様はデルムッド兄様の所へ辿り付いてはいませんでした!!」
「ナンナ…」

十数年後、兄と再会を果たしたナンナは、兄を迎えに行った筈の母が辿り付いていなかった事実を知った。

自分がまだ幼い頃に兄を迎えに行ったのだと、父から聞かされて育っていただけに、ナンナのショックは大きかった。
情勢が厳しくなった事でレンスターに帰国出来なかったのだとしても、兄の下で生きていると信じていたのに―――!

「お父様はお母様を愛していらっしゃったのでしょう?どうして一人で行かせてしまったのですか!?」

娘の気持ちは痛いほど判る。
それはこの十数年、フィン自身がずっと考え続けていた事に他ならなかったからだ。
今でも自分自身、納得していないのかもしれない。だが、あの時の彼女を止められなかった事も、また事実―――
母となった者の強さや愛情に、勝る言葉を見出せなかった。だから、ラケシスを行かせたのだ。

「―――ラケシスがイザークへ行った事か…もう、それは言うな。
 子供といえども、夫婦の事には立ち入って欲しくない。お前にもいずれ、判る時が来る―――大人になればな……」


どうして、一度掴んだその手を放す事を躊躇わなかったというのか―――
移る季節、巡る年月、日毎に妻の面影を映してゆく娘を見る度に、幾度悔恨の涙を流した事か。
だが、それでも―――


『待っていてね、フィン…いつの日か…』

「…信じているよ、ラケシス。きっと、いつか―――」

静かに瞳を伏せたその横顔に迷いはない。握られた左手には、今も彼女と分け合った指環が光る。

「変わらぬ輝きの、君の魂と巡り逢うその日を―――」

『再び巡り逢う、その時まで……』

風に溶け、光に溶けて―――約束の果たされる、その時を―――

                                                           【FIN】


あとがき

フィン×ラケシス三部作の最終話です。個人誌『Kreuz』に載せたストーリー漫画をSSに書き起しました。
フィンラケ派なら、必ず通るラケシスのイザーク行きの話。
ナンナとの親子会話もあった事もあり、いろいろ物議を醸したエピソードでもあります。

このお話については、後半のラケシスの台詞が頭に浮かんだ時点で、もうほとんど形が決まってました。
何故フィンはラケシスを行かせたのか?何故ラケシスはレンスターを出たのか?
あっさり行かせた筈はない。お互いに葛藤があったと思います。
だけどラケシスはイザークへ行く事を選んだし、フィンはそれを許した。
それは母となった者の、深い愛情故だったのだと思っています。だからフィンには止められなかった。
自分の事を想い、子供の事を想っての彼女の決断は、もう変える事なんて出来なかったんです。
そういった事も踏まえて、例のフィンとナンナの会話のフォローも自分なりに出来て良かったと思ってます。

ちなみにエーディンの手紙にあった『シレジアの賢者』とはレヴィンの事。
お話のイメージとしては、坂本真綾の『光の中へ』がぴったりなので、興味のある方、是非聞いてみてください。

                                                      麻生 司





INDEX