何時の日か


ずっと怖かった。
家名でも、同情でもなく、本当の自分を愛してくれる人がいるのかと。

 

だからこそ無償の愛で包んでくれたエルト兄様が、私は大好きだった。

……兄様しかいないのだと、思っていた。

 

だからこそ、全てを失ったのと思ったその時―――
私の弱さも、脆さも全て受け容れてくれたあの人を……本当に、心から愛しいと思った。

あの人に愛されているのだと、あの人を愛しているのだと、思える事が私の心を救ってくれた。

 

永遠でなくて構わない。
たとえいつか遠く離れる日が来たとしても、きっとこの想いは変わらないから。

だからせめて今だけでも。

 

愛する人の側に居られる事―――それが、一番の幸せ―――

 

 

グランベル歴七五九年の晩秋。
シレジア国内のセイレーン城で、シグルドの元に集った者達はしばしの休息の時を過ごしていた。

 

ユングヴィ家のエーディン公女の誘拐に端を発した一連の戦乱は、シグルド達を数奇な運命へと導いた。

穏健派であったクルト王子、更には王子の良き理解者であったシグルドの父であるバイロン卿と、
エーディンの父であるリング卿が相次いで謀殺された。
バイロン卿の生死は今だもって不明だが、その嫡男であるシグルドにも累は及び、
彼と、彼に組するものは『反乱軍』の烙印を押されたのである。

 

彼らの窮地を救ったのは、シレジアの王妃、ラーナであった。
彼女はシグルドと行動を共にするレヴィンの実母であり、彼自身も聖戦士の直系である。
自らの腹心でもある天馬騎士の長、マーニャを先導に、ラーナはシグルドにしばしの安寧の場を提供した。

それが永遠の物でない事は、誰もが承知していた。
だがしばし享受した安らかな時間は、確かに彼らの魂を救う程の価値があったのである……

 

 

「じゃあラケシス、その着替えお願いね」
「ええ」

ラケシスの腕に、エスリンが一抱え程もある衣類を積み上げる。
その横では同じようにシルヴィアも大きな荷物を手に佇んでいた。

ここでは王女も踊子も関係ない。強制された訳ではなかったが、城に住まう者達は皆率先して働いた。
厨房の仕込みをやる者もいたし、洗濯を手伝う者もいる。
男性は城周辺の警備につく事が多かったが、女性は日常の細々とした事柄を手がける事が多かった。

「前、見える?」
「大丈夫よ。それじゃ、届けてくるわね」

冗談めかしたエスリンに、ラケシスが笑顔で答える。
その背を見送って、エスリンとシルヴィアは違う部屋へ洗いあがった清潔な衣類を届けるべく踵を返した。

 

「ね、シルヴィア。ラケシス、最近とても綺麗になったと思わない?」
「あー、思う思う!一時に比べて、すっかり元気になったし」

それはラケシスの異母兄、エルトシャンの死の前後を示していた。

当時はシグルドの妻、エスリンの義姉でもあるディアドラの失踪もあり、軍内が悄然とした雰囲気になった。
一軍の長であるシグルドはそれでも何とか立ち直ろうと必死であったが、
正直なところ、ラケシスはもう駄目なのではないかと、思った時期もある。

それ程にラケシスにとって、エルトシャンの存在は大きな物であったし、またその死は埋めがたい損失だったのだ。

「……エルトシャン様を失って一時はどうなる事かと思ったけれど。
 初めて出会った頃に比べて、表情もとても柔らかくなって……あれは、きっと―――

エスリンがシルヴィアを見る。その視線に答えて、シルヴィアも悪戯っぽい笑みを見せる。

『好きな人がいるからでしょうね』

二人の囁きが重なった。

 

 

「アイラ、ラケシスよ。入ってもいい?」

軽く扉をノックすると、すぐにどうぞという返事が返って来た。

「貴女と子供たちの着替えを持って来たわ。具合はどう?」
「ありがとうラケシス。お陰様で、少しだるいくらいだ」

 

イザークの王女は、長い黒髪をひとつに束ねて、寝台に半身を起こしていた。
その側にエーディンが付き添っている。彼女がラケシスの腕から着替えを受け取った。

「子供たち、今しがた寝付いた所なのよ」

アイラの寝台のすぐ横に、小さな赤子の揺りかごが置かれている。
エーディンの言葉に誘われて覗き込むと、そこには母親と同じ黒髪の、小さな双子が眠っていた。

「まさか双子とはね」
「重い筈だ」
「まあ、アイラったら」

クスリ、と双子を起こさないようにラケシスが小さく笑みをこぼすと、苦笑したようにアイラが応じる。

エーディンもつられて微笑した。

 

「二人の名前は?」
「兄の方をスカサハ、妹をラクチェと…さっきレックスと決めた」

アイラが傍らの我が子に視線を落として答える。その目はとても穏やかだ。

「決まったのね。おめでとう、子供たち。お父さんとお母さんのように、元気に育つのよ」

すやすやとあどけない顔で眠る子供たちは掛け値無しに可愛い。
ラケシスは子供たちが健やかに育つよう、祈りの形に手を組んだ。

「……何だか不思議な気分なんだ」

アイラが少し夢見るような風情で呟く。
エーディンとラケシスは改めて、母となった王女に目を向けた。

「この子達を授かって産んでみるまで…自分が母親になるなどまるで実感がなかったが―――
 今は、ただこの子達が愛しくてたまらない。
 今日より私は、この子達を守る為に剣を振るう。この子達の未来の為になら…私のこの命、投げ出したとしても悔いは無い―――

 

母として、出来得る全ての事を愛しい子供たちへ―――

そう言葉を締めくくったアイラは、とても満ち足りた微笑を浮かべた。

 

 

「アイラ様がそのような事を?」
「そうなの。アイラ、とっても幸せそうだったわ」

セイレーン城内の庭園の一角に、フィンとラケシスは腰を下ろした。

城の談話室や図書室、楼閣など、さまざまにくつろぐ場所はあるが、二人はここがお気に入りの場所である。
そこでラケシスは、先程のアイラの言葉をそのままフィンに伝えた。

「母親になるというのは、人を強くするのね。エーディンも二人目らしいと言うし……そうして皆、変わって行くんだわ」

 

ラケシスの瞳には、ほのかな憧れが浮かんでいる。
そんな彼女の姿をフィンは眩しそうに見詰めていたが、やがて心が定まったのだろう。
まっすぐラケシスの顔を見て、彼は胸のうちにあった言葉をようやく口にした。

……出来れば、口にはしたくなかった言葉だった。

 

「……ラケシス、僕は本国へ―――レンスターへ帰国する事になった…出発は数日後の予定だ」
「……え……?」

唐突なその言葉に、ラケシスは一瞬、言葉を失った。

「エスリン様が二人目の御子を身ごもられたらしい。
 シグルド様の援護の為にも、キュアン様はこれを機に一度本国に戻り、ランスリッターの出兵準備を整える心積もりだ。
 帰国の事…ギリギリまで黙っていようかとも思ったけれど、僕は君に、隠し事は出来ないから―――

 

あの優しい二人に、新しい命が授かった。

 

「…そうよね、キュアン様とエスリン様が帰国されるのなら…仕方、ないわ―――

 

主君に忠誠厚いフィンも、このシレジアを去らなければならない。

判っている。理性では、痛いくらい判っているのだ。
だが―――心は正直だった。

 

「仕方……ない……」

 

溢れ出た涙が頬を滑り、嗚咽が喉を駆け上がる。
フィンの姿が、涙で滲んではっきりと見えない。

予感はあった。
自分は、決して愛した人とは連れ添えないのだと―――
だからこそ怖かった…誰か一人を愛してしまう事が。

 

『愛している―――

だが、それでも。

『僕の、運命の女神(ラケシス)』

 

少し照れながら自分の名を呼んでくれたこの人と、
優しい微笑みで自分を包んでくれたこの人と、少しでも長く、同じ時間を過ごしていたかったのだ―――

 

「……ラケシス……」

このままフィンの腕に抱かれたら、きっと自分は我侭を言ってしまう。
行かないでと、一人にしないでと言って、彼を困らせる。
そんな姿だけは、彼に見られたくない―――もう、限界だった。

「ごめんなさい…フィン…!」
「ラケシス!?」

差し伸べられたその手を振り切るように、ラケシスはその場から立ち去った―――

 

 

「ラケシス?……ラケシス、中に居るんでしょう?」

エーディンがラケシスの部屋の前で軽く扉をノックする。

「……エーディン……?」

初めは何も反応がなかったのだが、しばらくしてラケシスが扉を細く開けた。
顔色はひどく悪い。昼間会った時とは別人かと見紛う程、彼女は僅かな時間の間にやつれ果てていた。

「…食事の用意が出来ているわ。後は貴女だけよ」

つとめて平静な声を、エーディンは心がけた。

「ごめんなさい…折角だけど、いらないわ。気分が悪くて……」

 

それは嘘ではないのだろう。
可哀想な程に目を泣き腫らして、彼女は憔悴しきっていた。
エーディンはキュアンの帰国の事を、ラケシスに話した。

「……キュアン様達の帰国の話、私達もさっき聞いたの。
 貴女の気持ちも判るけど……何か口にしないと、身体がもたないわ」                                                                               

心から人は病む。今のラケシスが、まさしくこの状態だろう。
だが今のこの姿を見たら、誰よりもフィンが辛い思いをする。
その事を彼女に判って欲しかったのだが、意外にもラケシスは弱々しく頷いた。

「判ってる……判ってるの。このままじゃいけないって。
 私がしっかりしないと、フィンがレンスターに帰れないって。
 だけど、その話を聞いたせいか……頭は重いし、食べ物の匂いが気持ち悪くて……さっきも少し吐いたの。本当に、食べられないのよ」

 

食ベ物ノ匂イガ気持チ悪イ―――

 

「ラケシス…貴女、それは……!?」

エーディンは、その考えを言葉にしたものか一瞬迷った。
それは決して、他人が踏み入ってはいけない問題だからだ。

だがその一方で、奇妙な確信がある。
異母兄の死で生きる事すら諦めかけたラケシスの魂を救ったのは、他の誰でもない、フィンだった。
生死の境を二人で乗り越え、共に生きる為に、二人はシレジアまで辿り付いたのではなかったか。

―――エーディンは心を決めた。

 

「……よく聞いて。これは貴女のとても私的な事だから、確かとは言えないけれど……」

彼らはあれ程、仲睦まじかったではないか。
もしも二人が契りを結んでいたのだとしたら―――有り得ない話ではない。

「私の経験では、それは悪阻よ。ラケシス」
「え……?」

 

鼓動が跳ね上がる。
エーディンは頬に朱が走ったラケシスの顔を見て、更に言葉を続けた。

「勿論、彼の帰国のショックで一時的に体調を崩しているだけかもしれない。
 でもきっと間違いないわ。貴女、フィンの子を身篭っているのよ!」

「私……が……?」

 

口元を覆った手から、自分自身に問い掛ける呟きが聞こえる。
見開かれた瞳から涙が零れ落ちる。

 

『愛しているよ…僕のラケシス』

囁かれたその言葉は、永遠の愛の証―――

 

「私が、あの人の子供を授かったなんて―――

その雫を指先に感じて初めて、ラケシスは、エーディンの言葉を理解した。
自分が母になったという事を―――

 

 

子供の事は数日伏せたまま、レンスターに帰国する当日、フィンにはラケシスが自分の口から伝えた。
城の侍医にも診てもらい、間違いなく懐妊していると―――

「子供……が―――?」

フィンは真っ赤になってラケシスの言葉を聞いたが、子供の事はとても喜んでくれた。
ここ数ヶ月で精悍さを増したその横顔に、出会ったばかりの頃の面影を垣間見て、ラケシスはそれだけで嬉しかった。

「貴方の帰国…寂しくないと言えば嘘になる―――だから私、さよならは言わないわ」

 

今日から私も、貴方の子の為に戦おう。
それは心の奥底から湧き上がった、確かな思いだった。

「いってらっしゃい―――

それはさよならの代わりに、彼女が選んだ言葉―――
フィンは微笑む彼女の瞳に、光る涙を見た。

―――ありがとう」

 

包み込むように、しっかりとラケシスの華奢な身体を抱き締める。
ラケシスも彼の背を、しっかりと抱き締めた。
その温もりを、その強さを、我が身に刻み込むように……

 

 

何時の日か、平和な土地で。
私達の子供達が、穏やかに暮らせる日が来ますように―――

まだ見ぬ我が子への、それが彼らの唯一の願いだった。

                                              【FIN】


あとがき

はい、フィン×ラケシス第二弾です。これも以前、個人誌『Glúck』にストーリー漫画として描いていたものをSSに書き起こした物です。
お話的には、一作目の『微笑みの行方』のラスト部分と、このお話のラスト部分はリンクしてます。
漫画で描いた時、確か下描きから仕上げのトーンまで、10日間くらいでやったような…一応12Pあったんですけどね(^_^;)
ストーリー漫画としては私にしては早い方です。下描き遅いんだもの…
締切りに追い込まれて初めて真の実力が発揮されるという、漫画描きの業を垣間見た時期でもありました(笑)

このSSでは、アイラの旦那様はレックスになってますが、漫画ではホリンが旦那様でした。
私はどっちでも好きなのですヨ。
でも子世代まで話を引っ張っていろんなSSをリンクさせていると、
あの話ではホリン父、この話ではレックス父ではいろいろと不都合なので、
サイトUP用で時間的リンクが存在するSSでは、レックス父に統一する事にしました。

フィン×ラケシスメインはもう一本あります。
近々SSに書き起こしますが、少々時間がかかるかも…でも、頑張ります(^_^;)

実はこのページのどこかに、おまけページへの隠しリンクを張ってあります。
リンク色調整やらで隠してはありますが、物凄く判り易〜い処に張ってありますのでお暇な方は探してみてください。
『此処か?』という所にカーソル乗せたら一発で判りますから(笑)

                                                  麻生 司

 

 

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