炎と永遠
物心ついた時には既に両親は亡く、自分は一人きりなのだと思っていた。
そんな自分に生き別れた妹が居るのだと、幼い頃から世話をしてくれていた修道尼に聞かされたのは、つい数ヶ月前の事。
戦場で初めてティニーを見た時、自分と同じペンダントを確かめるまでもなく、直感で判った―――この子が、妹なのだと。
自分にも家族と呼べる存在が在った事は、くすぐったいような面映いような、不思議な感覚だったけれど、
亡くなったという両親の事は、正直あまり関心がなかった。
あの男に、会うまでは―――
「両親の事ですか?」
オイフェの部屋に呼ばれたアーサーとティニーは、彼の『ご両親の事をどの程度ご存知か』という問い掛けに、互いの顔を見合わせた。
「いや……僕は、ほとんど何も」
アーサーが頭を振る。
世話になった修道尼に、父の名はアゼル、母はティルテュというのだと、聞かされたくらいである。
「私は、母の事なら少し」
ティニーは生まれて間もない頃に、母のテュルテュと共に伯父夫婦の元に戻された。
だが多くの事を自分が知る前に母は亡くなり、結局、兄の存在すら知らないままだった。
また母と死別したのが幼すぎて、ティニーは父の名すら覚えていなかった。
従兄姉のイシュトーやイシュタルも、尋ねれば伯母のヒルダに聞こえない所で母の事は教えてくれたが、
父の事については本当に何も知らなかったらしく、幾ら尋ねても判らないと答えられるだけであった。
「そうか……それでは二人とも、父上の事は何も……」
オイフェは二人に椅子を勧めると、自分も愛用の椅子に掛けた。
「君たちの母上はフリージ家のティルテュ公女……ティニーも、それは知っているね?」
「はい」
こくん、と頷く。伯父のブルーム、そして従姉のイシュタルが、聖遺物の継承者である。
母がそのブルームの妹であるという事実は、物心ついた頃にはごく当たり前の事として自分の中にあった。
「公女は雷魔法の使い手だった―――二人共、その才はしっかりと受け継いでおられるようだ」
「……私は母の血筋の事は知っていましたが……
兄様にお会いするまで、自分が雷魔法と同じくらい炎魔法に長ける事に気付かなかったんです。
何故気付かなかったのか……不思議な程」
自分の血に秘められた力。あたかも兄と巡り逢うまで、封印されていたかのように。
「そう、その事実こそが、君達の父上を知る手掛かり―――炎魔法を得意とする、ヴェルトマー公爵家が一族」
オイフェの目が、僅かに細められる。
「……アルヴィス皇帝の異母弟、アゼル公。それが、君達のお父上だよ」
「父が……皇帝の異母弟!?」
アーサーが、弾かれたように顔を上げた。軽く顎を引き、オイフェが頷く。
「アルヴィス皇帝も、最後までアゼル公には直接手を下さなかったらしい。
結局バーハラで負った傷が元で、ティルテュ公女と共にシレジアまで逃れた後亡くなったと……私達は、レヴィン殿から聞いているよ」
「あ……でも、父とアルヴィス皇帝が異母兄弟と言うのなら、私達は……」
不意に気付いた事実に、ティニーが思わず自分の口元を押さえる。
まさか、想像もしていなかった。自分達とあの少年との間に、そんな繋がりがあったなんて。
「……ユリウス皇子と君達は、従兄弟同士と言う事になるね―――」
ティニーの言葉を引き継いで、オイフェはそう呟いた。
「……で、東の村での情報は以上よ。セリス様からはこのまま森の中を西進した後に北上して、ミレトスまで進軍してくれって」
「時には犠牲も必要…か。何だかゾッとするな……?」
愛馬マーニャの背から下りて後ろに立っていたフィーの顔を振り返り、ふと、アーサーが彼女の顔を覗き込む。
間近で顔を見られて、フィーが自分の顔に手を触れた。
「どうかした?あたしの顔、何かついてる?」
「いや……」
そんな事ではないのだ。毎日毎日、飽きるほど見ているからこそ気付く、些細な事―――
「フィー、レヴィンと何かあった?」
「……え?」
思わず、フィーが言葉を詰まらせる。
「片眉が上がってる」
アーサーが小さく、笑いを浮かべた。
「フィーが親父さんとやり合うと、必ず出る癖だからな」
「……参っちゃうな、お見通しか」
声にも態度にも出さないように気を付けていたつもりだったのに、自分では気付かないような癖で簡単に見抜かれてしまった。
自分と父、レヴィンの確執は周知の事だ。今更、取り繕っても仕方がない。
「また何か言われた?それとも、逆に何も言われなかった?」
「……言われた方……あの人、珍しく母様の事口にしたものだから、あたしも少し驚いて。
いつの間にか、あたしは喧嘩腰……父様は冷静なのにね」
軽く肩を落とすと、フィーは苦笑いを浮かべた。
「本当は、あたしも判ってる。ただ父様に意地張ってるだけなんだって。
あの人に反発するのは、そうでもしなければ自分と言う存在を……父様の中に残せないから―――」
はっ、と二人は目を合わせた。
明らかに異質な気配を感じる。それは強い魔力の気配―――禍々しい気の力に、その気に触れただけで冷や汗が背を流れた。
ゆらり、と周囲の気が歪む。
時間と空間の理を曲げて現れた気配の主を目の当たりにして、アーサーとフィーは文字通り凍りついた。
燃えるような紅い髪に、額に不思議な紋章を刻んだ少年と、その少年に寄り添うように立つ、流れるような銀の髪の女性―――
その姿を目の当たりにした事はなかったが、あまりに特徴的な二人の姿は、容易にその正体を悟らせる。
「ユリウス皇子に……雷神イシュタル!?何故……ここに―――!!」
フィーが真っ青になって後ずさる。アーサーはギリ、と奥歯を噛み締めた。
迂闊だった。海峡を挟んでグランベルはもう目の前……ユリウスとイシュタルの魔力なら、十分ワープの圏内だったのに―――!!
射抜くような気配に、ユリウスがアーサーの視線に気付く。ふと愉快そうに、まだ少年の面影を残した口元に笑みが刻まれた。
「ほう……これは面白い拾い物があったものだ。着いて早々だが、これでゲームは私の勝ちだな。手を出すなよ、イシュタル」
「……は、仰せのままに」
少し下がって傍に控えていたイシュタルに、振り向きもせずそう告げる。
彼女もユリウスが振り向く事は期待していなかったのか、表情を変える事無く、ただ一言返事をしたのみだった。
「……退がってろよ、フィー」
「アーサー!?貴方、何を……!!」
体勢をずらし、アーサーが自分の身体でフィーを隠すように立つ。ユリウスの口元には、変わらず笑みが浮かんだままだ。
「その女の盾になる気か?心意気は買うが無駄な足掻きだ。二人まとめて吹き飛ばすなど、雑作もない事」
「……俺にも意地があるんでね。例えそうだとしても、彼女より後ろに退がる気はないよ」
真っ直ぐにユリウス皇子を見返したアーサーの表情は、だが蒼白だった。
虚勢である。そんな事は、誰よりも自分が一番よく判っていた。
『この男は―――?』
だが悲壮な色を浮かべた彼の顔を見て、不意にイシュタルが瞬きをした。一瞬頭に浮かんだ何かを、確かめるかのように。
「ならばその身に受けよ。暗黒の力を」
ユリウスの指が空を滑る。その指先には微かな光が浮かび、禍々しき力を持つ闇の竜の印を描いた。
「ロプトウス」
発動の呪文は、たった一言。同時に、闇色の炎がアーサーを包み込んで燃え上がった。
熱の無い、命そのものを奪い去る冷たい炎が―――
「くっ………!!」
「きゃああぁあ!!アーサー!」
ロプトウスの炎が消えると同時に、ガクリとアーサーが地に膝をつく。
「アーサー!しっかりして!!」
駆け寄って彼の身体を支えたフィーは、微かに残る闇の魔力の残滓にゾッとした。
こんな魔法の直撃を二度も受けて、尚も生きていられる人間なんて―――居る筈がないと。
「……ユリウス様、あの男もしや……」
イシュタルがユリウスの耳元にそっと呟く。今度はユリウスも、ちらりとイシュタルを振り返った。
「気付いたか」
「はい」
蹲ったままのアーサーに視線を落としたまま、イシュタルは自らの直感を口にした。
理屈ではない。ただ、感じるのだ。彼は、同胞であると―――
「あの男には―――ユリウス様にも、私にも通じる血を感じます」
「だから、面白い拾い物だと言っただろう?」
ニッと、酷薄な笑みが浮かぶ。先程までの、ある意味歳相応な少年らしさは、その笑みからは微塵も感じられなかった。
「チャンスを、一度だけやろう」
まだ立ち上がれないアーサーの肩に置かれたフィーの手が、ビクっと動く。
振り向いて見上げたユリウスの面には、薄氷のような笑みがあった。
「男の方だけ、私と共に来る気があるか?ならば我らは退こう。今、この時だけは―――」
「そんな条件……!!」
呑める筈が無い。恐怖も忘れ、一瞬叫びかけたフィーを制したのは、ようやく立ち上がったアーサーだった。
顔色は真っ青で、足下もまだおぼつかない。だがそれでも、彼はフィーの前に立った。これだけは譲れないと―――
「……俺が一緒に行けば、このまま退くんだな?」
「アーサー!?」
正気だとは思えない。だがフィーの咎めるような呼び声にも、彼は振り向かなかった。
「ただの気紛れだが、信じるのも選ぶのもお前達の自由―――悪くない話だと思うがな」
裏切られるのを承知で信じてみるか、ここで共に滅びるか。
どちらがより愚かだと言うのだろう?
「……いいだろう。お前と、行こう」
「アーサー!!」
フィーが前に回り込み、アーサーの肩を掴んだ。
「ユリウス皇子について行くって……貴方、一体何を考えてるの!?
さっきのユリウス皇子の魔法で、あたしのライブじゃ追いつかないくらいのダメージを受けているじゃないの!!」
出血もしていないのに、おぼつかない足取りと蒼白な顔色は、生きる力そのものが削り取られている証。
そのような状態の彼を一人で行かせる事は、自殺行為に他ならない。
「一人でなんて、絶対行かせないわ。あたしも一緒に―――!」
言いかけた、彼女の口元を。アーサーの手が、そっと押さえた。
「ごめん、フィー―――僕は……僕もティニーも知らない父と、血の繋がった人の事を知りたい。そこから、父の事をもっと知りたい。
ユリウス皇子は僕の従弟……アルヴィス皇帝は、僕の伯父だから。
馬鹿だって事は判ってる。でも僕は、このチャンスを逃したくない。それに―――」
一度、言葉を飲み込んだ。
まっすぐに自分を見据える翠の瞳には、抑えきれない不安が揺れている。
「村の伝承を聞かされただろう?『時には犠牲も必要だ』と。僕一人の命を預ける事で済むのなら―――高くない代償だよ」
不意に、フィーが俯いた。
真っ直ぐに見据えられていた瞳が、陰になって見る事が出来ない。そして―――
「……認めないわ」
「フィー?」
きっ、とフィーの面が上がる。父親によく似た、勝気な色を映す事の多いその翠の瞳に、涙が滲んでいた。
「誰かが犠牲にならなければならない運命なんて、あたしは―――信じない。
何かを失わなければならない掟なんて信じないわ。だけど……」
アーサーの胸に、フィーの指が触れる。彼の鼓動を、その手で確かめるかのように。
「『貴方が選んで』ユリウス皇子と行くのなら、あたしは……止めない……
待ってるから……約束してくれるよね?絶対―――帰って来るって―――」
頬を伝う涙に口付ける。その耳元に、そっと囁いた。
「ありがとう。約束するよ……きっと、君の所に帰って来る」
「決心はついたようだな」
ポウ、とユリウスの手の中に淡い光が浮かぶ。それと同時に、アーサーの身体も淡い光に包まれた。
「セリス様とティニーに、勝手をして済まないと伝えておいてくれ」
「……帰って来たら、自分で言いなさい」
淡い光の煌めきの中で、アーサーが微かに苦笑いしたように見えた。
ユリウスとイシュタルの姿も消えている。時を同じくして、転移魔法で帰還したのだろう。
フィーはたった今までアーサーが立っていた場所に座り込むと、その場でうな垂れた。
自分の目で確かめる事―――それが、貴方の望んだ事ならば。
「どんな結果が待っていても、後悔なんてしないわよね……アーサー」
「アーサーが、一人でユリウス皇子について行ったって!?」
一刻後、本営の置かれたミレトス城で本隊と合流したフィーは、全てを隠す事無くセリスに告げた。
ユリウスとイシュタルに接触したというだけでも驚いたが、
彼らが退くという条件付きでアーサーがユリウス皇子に同行した事実に、セリスも言葉を失う。
「……私達も攻撃を受けたんです。アーサーは私を庇って……
それからユリウス皇子が、アーサー一人が自分達と共に来れば、この場は退くからと―――そう、言われたんです」
瞼を伏せ、フィーは淡々と事実を口にした。そうして抑えていなければ、感情に引き摺られてしまいそうだったから。
「私は彼を止めなかった……その罰は受けます。だけど、アーサーは帰って来ると―――約束してくれました。
私は、彼のその言葉を信じています」
静かな広間に、フィーの声だけが響いた。
その名残が消えてしまうのを待って、壁際で気配を絶っていたひとつの影が動く。
「……血に縛られなければいいが」
その気配にセリスが振り向いた。
「レヴィン……」
長く伸ばした髪を軽く一つに結わえて肩に流したその姿は、自分の両親と同年代と言うには若く見える。
だが彼は間違いなく父、シグルドの盟友であったレヴィンであり、そしてフィーの実父であった。
「確かアーサーは、父親の事に興味を持っていたな?
あれでユリウスもアルヴィスも影響力の強い男だ―――戻って来るとは……限らない」
フィーは答えない。だが、父から目を逸らす事もしなかった。
父に良く似た瞳で、真っ直ぐにその言葉を受け止めている。
「その者自身の善悪ではなく、何に対してその力が振るわれるかが問題なのだ。イシュタルがいい例だろう
アーサーは力のある魔道士……もしも我等と敵対するような事になれば、更に脅威は大きくなる―――
フィー、アーサーを行かせたお前の責任は重いぞ」
イシュタルという人物を問うて、彼女の事を悪く言う者は恐らく居ない。
慈悲深く、心優しい女性だと、誰もが揃って口にするのだ。
だが一度ユリウスの命があれば、彼女は雷神の異名そのままの脅威となる。
例えどれ程彼女の心が血を流していようとも、その力が自分達に向かって振るわれる以上―――彼女は敵なのだ。
万が一アーサーが戻らない場合は、彼も敵と成り得る。
「―――戻って来ます」
決然とした声で、フィーは口にした。父と、セリスを真っ直ぐに見詰めたまま。
「彼は必ず戻って来ると約束してくれました。私は……アーサーを信じています」
鬱蒼と茂った森の中を、二つの影が駆ける。枝や葉で手足や顔に傷を負っても、二人は足を緩めようとはしなかった。
だが、小さな方の人影が木の根に足を取られてまろぶ。咄嗟にもう一人がその身体を支えた。
「ティルテュ、大丈夫か!?」
「ごめんなさい、アゼル……もう……走れない」
必死の思いで動かしていた足は、一度止まると容易には動いてくれなかった。呼吸も整わず、肩が上下している。
「ごめんね。シレジアはもうすぐなのに……」
覗き込んだ彼女の顔は真っ青だった。
本来ならば、ティルテュの身体にこのような負担を強いる事はしたくなかった。何故ならば―――
「馬さえもう少し保っていれば、もう少し楽をさせてあげられたんだが……無理はしないで―――君、一人の身体じゃないんだから」
驚いたような顔でティルテュがアゼルを見上げる。そして、微かに俯いた。
「……気付いてたんだ、アゼル」
「君の事だからね―――」
笑みを浮かべて、ティルテュの身体を支え直した。ゆっくりと、足を進める。
「知っていて……それでもあたしが出征するの、反対しないでいてくれたんだ……
どうして―――?あたし、反対されると思ったから黙っていたのに」
『君が選んだ事だから』と、アゼルは小さく呟いた。
「今行かなければ君は一生苦しむ―――そう思ったから……止めなかった」
倒れた木の幹を見付け、そこにテュルテュを腰掛けさせる。
「君は自分の目で真実を確かめる道を選んだ。ならば僕は、何も言わず君を守る。それが……僕の選んだ道だ」
アゼルの面はとても静かだった。
恐らくはシグルドと自分達を陥れた者の中に彼女の父の名を見出した時から、胸に決めていた事だったのだろう。
だがそんな彼の心にも傷を残した、変える事の出来ない現実がある。
「……あたし、アルヴィス様って怖い方だけど、アゼルにだけは優しいのだと―――ずっと、思っていたの。
何があっても貴方だけは許されると……頭の何処かで……思ってた―――虫のいい話ね」
たった一人の弟を、喪う事を望んだ筈はないのだから。
だが現実は、そんな兄弟をも引き裂いた。
「でも現実は違った。ファラフレイムの炎は、等しくあたし達の上に降り注いだわ。そして貴方も―――アルヴィス様に牙をむいた。
だけど貴方は気付いていた?アルヴィス様は最後まで、貴方から目を離さなかった事を……
決して、ファラフレイムの劫火が直撃しないように」
ティルテュがアゼルの手を取る。その手は、バーハラを脱出する際に自分を庇った火傷の痕で痛々しかった。
彼の全身に及ぶ火傷は、一つ一つは致命傷ではない。
だが自分の力の限界を超えた魔法の酷使と、ティルテュの回復魔法では癒しきれない傷は、確実にアゼルの体力を奪った。
握った彼の手を、自分の頬にそっと押し当てる。
「アゼル……辛かったでしょう?」
アゼルの瞳が、大きく見開かれた。
「貴方、いつも言っていたわ。兄上が居なければ、今の自分はなかった……って。大切だった人と判り合えない事は……苦しいもの」
たった一人の肉親と決裂せざるを得なかったその心の痛みは、決して他人には判らない。
それでもその痛みを一人で抱えて、彼は―――アルヴィスの敵となった。
『今は判り合えなくても、何時の日かきっと―――』
その笑顔の下に、どれ程の苦悩があったのだろう。
だが、それでも―――
「でもこれが……僕の選んだ道なんだ」
そう呟いて、アゼルは悲しいほど澄んだ微笑を浮かべた。
判り合えない苦しみ、ただ一人の肉親との決別。
その全てを受け容れて、どれ程傷付いても手放せない……命に代えても守りたいと思う存在を、見付けてしまったから―――
「僕達の血を受け継ぐという、ただそれだけで辛い人生を歩ませてしまうかもしれない。だけど、いつか必ず伝えたいんだ」
瞳を閉じれば脳裏に浮かぶ、何処か自分に似た、誰かの面影―――
「これから生まれてくる……僕達の子に―――」
傍に人の気配を感じて目を開けると、見覚えのない天井が視界に映った。
「夢……?」
ぼんやりとした頭で、アーサーは額に掛かった銀色の髪を手で払った。
その自分の手を見て、軽く握る。
長い夢を見ていたので、一体今が夢の中なのかそれとも現実なのか、すぐには判らない。
「気付いたようね」
自分を覚醒させた気配の主からかけられた、聞き覚えの無い声に身を起こす。
カツン、と踵の音を響かせてベッドの傍に立ったのは、
面差しに少女の幼さと女性の色香を共に宿した、長い銀色の髪を一つに結いまとめた端正な顔立ちの女性。
―――雷神イシュタル
目の前のイシュタルからは殺気も害意も感じないが、ユリウス皇子の腹心とも片腕とも呼ばれる彼女を前にして、流石に頭が冴えた。
「転移魔法に慣れていなかったせいか、バーハラに辿り着くなり倒れたのよ、貴方……憶えていない?」
「術を解かれて意識が遠くなったのは憶えているよ……それで、あんたは?雷神自ら俺の監視か?」
「それもあるけれど……聞きたい事があったのよ」
イシュタルは少し屈みこむと、アーサーと視線の高さを同じにした。
自分とも何処か面差しの似た顔に見詰められ、一瞬アーサーが視線を反らせる。
「その髪の色」
黒い長手袋に包まれた彼女の手が、長く伸ばしたアーサーの髪を梳いた。
「貴方、テュルテュ叔母様の上の子でしょう?」
母の名を出され、アーサーの瞳の険が鋭くなる。
「……そうだと言ったら?」
「別にとって食いやしないわ。安心なさい」
手を離し、元のように姿勢を正してアーサーを見た。
その口元に浮かんだ微笑は、思いのほか柔らかい。懐かしい友人と出逢ったような、そんな口調だった。
「貴方の妹―――ティニーは元気にしている?」
ああ、とアーサーはようやく思い出した。
母と死に別れ、辛いばかりだった幼いティニーを支え、守ったのが、この雷神イシュタルと彼女の兄イシュトーであった事を。
「―――元気だよ、とてもな。あんたの事もよく聞かされていた……フリージの直系、雷神イシュタル」
その異名とは裏腹に、彼女は慈悲深く、領民にもとても愛されていた。
従妹のティニーを実の妹のように可愛がり、姪に辛くあたる母から、兄と共に何度となく彼女を守ってくれたのだと言う。
いつか聞いたティニーの言葉を思い出した。
『イシュタル姉様とイシュトー兄様が居てくれたから、私は頑張れた。
例え敵になったとしても、私はイシュタル姉様の事を信じています。あの優しさは……偽りではなかったから』
「ティニーは一度だって、あんたやイシュトーの事を悪く言った事は無かった。
本当の兄と姉のように優しくしてもらったと―――感謝しているよ」
その言葉に、イシュタルの瞼が閉じられた。
幼い日々を共に過ごした従妹―――母は叔母への確執からティニーに辛くあたっていたが、自分と兄にとっては、妹同然の存在だった。
愛おしく思いこそすれ、憎いと思った事など一度たりとて無い。
立場を異にし、敵となった今でさえ。
「……俺はほとんど何も憶えていなかったが、ティニーは母と一緒にフリージ家に来て育ったから、母の事はある程度知っていた。
そんな俺達の父が、皇帝の異母弟である事を知ったのはつい最近の事―――俺の中にも、確かに……ヴェルトマーの血は流れている。
今頃、俺は馬鹿だって怒っている奴もきっといるけど……」
大きな瞳に涙を浮かべて、真っ直ぐ自分を見て怒るフィーの顔が目に浮かぶ。
感情豊かで、真っ直ぐで……そして、自分の事には不器用な彼女を好きになった。
喪いたくないから、素直になれない。
実父への葛藤を胸の内に抱えた彼女は、本当は誰よりも父であるレヴィンの事を慕っているのだと思う。
だからこそ自分と兄と、そして母の事を顧みなかった父を腹立たしく思い、そして悲しいのだと。
それ程までに心許した者を喪う事を恐れる彼女が、自分をこの地に送り出してくれた。
その想いを裏切る訳には行かない。だが、それでも―――
「それでも俺は、直接会ってみたかったんだ。
母と同じ血を引くというあんたに……父と同じ血を引く、ユリウス皇子と―――アルヴィス皇帝に」
自分と、同じ血に連なる者達に。
本当に無事に戻れる保証など何もなかった。
自分の帰りを待ってくれているフィーを裏切るつもりはないけれど、実際に自分の命は完全に相手に握られている。
生きてこの城を出る可能性は、万に一つもないかもしれない。それでも抑え切れない衝動が、自分を衝き動かした。
奇蹟は何処まで続くのか―――しかし、まだアーサーの命運は尽きてはいなかった。
「私に、何用か―――?」
静かな声に、アーサーは弾かれたように顔を上げた。イシュタルもゆっくりと振り向く。
背の高い壮年の男性。燃える炎を思わせる紅い髪。それはまさしく―――
「見慣れぬ顔のようだが」
「陛下―――このような所に」
イシュタルの呼びかけで、アーサーは自分の勘が正しかった事を悟った。
「貴方が……皇帝アルヴィス……」
彼の声に、アルヴィスの片眉が微かに動いた。一歩脇に退いたイシュタルに手で合図する。
「ここは良い……下がっておれ、イシュタル」
「……は」
ほんの僅かな沈黙の後、イシュタルは視線を落として頭を垂れた。
彼女が扉を閉め、足音が遠ざかるのを待って、アーサーが改めてアルヴィスを見上げる。
望んだ事とはいえこんなに早く、こんな形で皇帝と会う事が叶うとは思っていなかった。
「貴方が……」
そう口にしかけたアーサーを、アルヴィスが軽く手を挙げ制した。
「そなた、もしや……私の勘に狂いがなければ―――我が弟、アゼルの子ではないか?」
「判るのですか―――!?」
意外な言葉に、アーサーの瞳が思わず見開かれる。
その表情を見て、アルヴィスの口元にも微かに笑みが浮かんだ。
思いのほか、その笑みは優しい。先程ティニーの事を口にした時のイシュタルと似ていると思った。
「やはりな……同じ血を持つ者同士……呼び合うのだよ」
「同じ……血……」
「以前フリージ家に居たティニーと言う娘も……歳の頃合から見て、そなたの妹であろう?」
言葉も出ない。アーサーは、ただ黙って頷くしかなかった。
「……仰る通りです」
「そうか―――」
アルヴィスが傍の椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
実際の年齢は五十にも達していない筈だが、目に見える以上に皇帝の体力は衰えているのかもしれない。
あの魔性の皇子の下で、名ばかりの皇帝の名を戴いて、命そのものを燃やして生き長らえているような気がする。
恐らくはヴェルトマー公爵家の当主であり、聖遺物ファラフレイムの継承者であると言う、誇りを拠り所にして。
「それで……お前は何故、ここに来た?ユリウスの転移魔法で連れて来られた事は、気配で察したが」
窺うような視線で甥を見る。
「寝返りでないのなら、自らの命を賭してこの私とユリウスの命、奪いに来たのか?」
はっきりとした言葉だった。例え今、アーサーがその通りだと頷いたとしても、彼は静かにその運命を受け容れるだろう。
アーサーは一度目を伏せると、伯父であるアルヴィスに対した。
皇帝ではなく、仇敵でもなく、ただ伯父であるアルヴィスに。
「僕は―――この目で、確かめたかったんです」
既に記憶に無い、父と母の姿。
瞳を閉じても思い浮かぶのは、幻のような微かな影に過ぎなかった。
二人は幼馴染みで、後にシグルドの下で再会して結ばれたと聞いた。
仲睦まじく、微笑ましい二人であったと。だがそれも、当時を知る人から伝え聞いた話―――自分は、何一つ知らなかった。
「自分の知らない両親と同じ血に連なる者が、確かにこの地には生きている。
顔すら判らない父と母の面影を……そこから知りたかった。
そして、見極めたかったんです。自分が……命を受けた事の意味を―――」
「……答は、見付かったのか?」
アルヴィスの問い掛けに、アーサーがふと視線を落とす。
イシュタルの気配に目覚めるまで見ていた、夢を思い出した。長い、長い夢を。
「転移呪文は、時間と空間の狭間を繋ぐ術―――夢と言う形を借りて、父と……母の姿を見る事が出来ました」
想像よりもずっと少年の雰囲気を残した父と、その父に手を引かれるあどけなさを残した母の姿。
だけど夢の中で見た数ヶ月の間に、彼らは確実に精神的な成長を遂げていた。
運命を受け容れる事。現実と向かい合う事。そして、親になるという事で。
「母は、僕を宿した事を喜んでくれました。父も、笑ってその事実を受け容れた。そしてはっきりと、母に語ったんです」
夢で見た、最後の父の言葉。その言葉に浮かんだ両親のあの笑顔を、自分は決して忘れない。
瞳を閉じれば、今も鮮明に思い出す事が出来る。
―――僕達の血を受け継ぐという、ただそれだけで辛い人生を歩ませてしまうかもしれない。だけど……―――
「君と、生まれてくる子供を愛していると―――父は、そう言ってくれました。
貴方と父は違う道を選んでしまったけれど、母は親に背く道を選んでしまったけれど、二人は決して後悔してはいなかった」
アルヴィスの瞳が瞠られる。意識は、一瞬にして二十年前へと跳んでいた。
最後に呼びかけた自分の目の前で、まだ子供だと思っていたたった一人の弟は―――
―――兄上、僕はティルテュと行きます。どうか兄上も、いつまでもお元気で……―――
フリージ家のティルテュと手を携えて、別れを……告げたのだ―――
「大切な人と判り合えなかった事は辛かったけれど、親や兄弟と決別する事は辛かったけれど、だけどそれ以上に―――
父も母も、自分達で生きる道を選んだ事を、何より誇りに思っていたんです」
最後の戦いが元で、シレジアの地で病に倒れた後も父は、
自分達の選んだ道は決して間違ってはいなかったと、死の、その瞬間まで信じていた。
「泣かないで、ティルテュ……きっと何時の日か、全て元通りになる日が来る……」
やつれ果て、すっかり青白くなってしまった自分の手を握り締めて涙を流すまだ歳若い妻を、父はずっと励まし続けていた。
その身体に宿った新しい命の為にも、母は生き延びなくてはならない。例え今、自分が命絶えたのだとしても。
時間が無い事は、父自身が一番よく判っていた。
「……僕には、もう時間が無い。見届けられない……だから、伝えて欲しいんだ―――子供達に」
「ええ……ええ、約束するわ―――どれ程私達が、貴方を愛したか。貴方がどれ程、私達を愛してくれたか―――」
その言葉に安堵の微笑を浮かべて、母に看取られながら―――父は息を引き取った。
「僕は、望まれて生まれてきた。その事が判っただけで……僕は満足です」
きっぱりとそう口にしたアーサーの顔は誇らしさに満ち足りて、一片の迷いも感じられなかった。
シレジアに落ち延びてから、父は何度か血を吐くようになった。ただの風邪でも、寝込む事が多くなった。
確実に命の灯が消えようとしている事を知りながらも、父は決して長くはなかった自分の生涯に満足していたと思う。
―――後悔などしない。彼女と生きる事が今の僕の全て。子供達は、次代への希望。
明日命絶えるかも知れない。次のこの季節は迎えられないかもしれない。
それでも彼女と生きた時間の証は、新しい命に形を変えて未来へと続いて行く。だから、決して……後悔などしない―――
「そうか……」
瞳を伏せ、アルヴィスはただ一言呟いた。
胸の奥にあった最後の弟の姿―――彼が十数年前に亡くなっている事は、調べて判っていた。
自分の選んだ道に殉じた弟は、果たして幸福だったのかと問い続けた日々。
だが時の狭間を垣間見た弟の子から彼の真実を聞き、澱のような思いもようやく薄らいだ気がする。
瞳を開けたアルヴィスの面は、その心を映すように晴れていた。
「……知りたい事を知り得た今、お前はどうする?」
自分に対するアルヴィスの呼び掛けが変わった事に、アーサーは気付いた。
それは一国の皇帝から伯父へと、アルヴィスが思いを変えた証―――
―――必ず帰って来ると……約束して、くれるよね?―――
胸に浮かぶのは、この世で一番大事な人の言葉。
「戻ります」
ニッ、とアーサーの口元に笑みが浮かんだ。二心の無い、ただ純粋な笑みが。
「一緒に歩いて行きたい人が、待っている場所へ」
「ならば、これが私からの餞別だ」
ポウ、と淡い光がアルヴィスの掌の中に浮かぶ。同じ輝きがアーサーの身体を包んだ。
「アルヴィス皇帝……!?」
「お前は、お前の望む者と、自分の道を選ぶが良い。自分の……望むままにな―――」
最後に見たのは、アルヴィスの穏やかな眼差し。
次の瞬間、アーサーの身体は白銀の光に包まれて消えた。
「フン……逃がしたか、父上」
城の楼閣で彼方を眺めていたユリウスが、アーサーの気配が城内から消えるのを感じ、嘲笑のような呟きを漏らした。
「追いますか?」
傍らのイシュタルが問う。彼女の力を持ってすれば、彼の気配を辿り連れ戻してくる事は可能だ。
「構わん、捨て置け」
ユリウスは頭を振った。どうせ余興の一つに過ぎなかったのだ。駒が一つ消えた所で、どうという事はない。
「二度目は無いがな―――」
炎も凍るような、冴え冴えとした笑みが浮かんで消えた。
―――時の狭間で見た父と母の姿に、確かに感じた事がある。
自分達は、望まれて生まれてきたのだという事。子の事を想わない親は居ないという事。信じる力は、人を強くするという事。
誰かを愛する事が、生きる力になるという事―――
転移魔法の余韻が醒めると、目の前には翠の瞳を大きく見開いたフィーの姿があった。
手入れしていた槍を落とし、震える手を伸ばしてアーサーの頬に触れる。
そこに確かに彼が存在している事を確かめると、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「ただいま、フィー」
「……おかえりなさい」
しゃくりあげて泣く彼女は、ただ一言、それだけを言ってくれた。後は言葉にならなかった。
君が、僕の還る場所。
共に生きて行きたいと伝えたい。
君に……伝えたい―――
【FIN】
あとがき
個人誌『Seele』より、漫画で描いていたお話をSSに書き起こしました。
描き始めた当初はアーサー×フィー。しかし出来上がってみるとアゼル×ティルテュの方が印象深いお話に(笑)
このお話は漫画の方が表現し易かったです。
時系列の変動もありますし、独白部分とか間の取り方が、SSではとても難しかった。
お陰で何やらやたらと行間の多いSSになっております(^_^;)
漫画をSSに書き起こすのって、ベースがあるから基本的に作業は早いんですが、これは時間かかりました。
ベースのお話も長いんですけど。何せ40P(笑)自己最高記録です、漫画としては。もう描けんな……(^_^;)
その時々のキャラの心理に合わせて、微妙に一人称を変えてます。ほとんどアーサーですが、打ち間違いじゃないんですよ(笑)
基本的にアーサーは仲間に対しては『僕』なんですが、明らかに敵対しているユリウスに対しては『俺』、
そして目上のアルヴィス(初めは皇帝に対して、後に伯父として)にも『僕』。
アーサーはアルヴィスに対しては、咄嗟に警戒はしても憎んではいませんので。
彼は暗黒教団の活動に対しても否定的な立場を貫いていましたしね。だからアルヴィスに対しては『僕』。些細な事ですが、一応(笑)
麻生 司