蒼褪めた雷


シアルフィ城を出てから、もう丸一日が経つ。先発した騎馬隊は、何処まで到達したのだろうか。
森の中を一日歩き続ける行軍だったが、ティニーは思ったほど疲労を感じかなった。
逸る気持ちが、あるいは感覚を鈍らせているのかもしれない。

 

遥かなる地―――グランベル。
ヴェルトマー公爵――現在のグランベル皇帝の異母弟を父に、フリージ公爵家の息女を母に持つ自分だが、
この歳になるまでグランベルの地を踏んだ事はなかった。
ティニーはシレジアで生を受け、生後間もなくアルスターに移され、そこで成長した。
伯母には酷い仕打ちを受けたが、アルスターで過ごした十数年が辛い思い出ばかりかと言えば、そうではない。

母が存命中も亡くなった後も、フリージ家におけるティニーの立場は微妙であったが、
まだ幼かった自分を守り慈しんでくれた人達が居た。従兄姉のイシュトーとイシュタルである。
彼らは本当の妹のように自分を可愛がってくれた。彼らの存在がなければ、とうに自分の心は壊れてしまっていただろうと素直に思う。
だからこそ、今この地を踏み締める足取りは決して軽くはなかった。

従兄のイシュトーは、ティニーが解放軍に合流する前に斃されていた。
彼の死に対して、全く何の感慨も浮かばなかったと言えば嘘になる。
自分の事を可愛がってくれた従兄の死は、とても悲しかった。
解放軍の旗の下に集った自分が彼の事で涙を見せてはいけないと思ったから、部屋で一人、声を殺して泣いた。

 

戦うとは、命を奪い合う事。覚悟は出来ていたつもりだった。
それでも時には、胸を刺す痛みを憶える事もある。断末魔の叫びを、悪夢で繰り返し見る事も。
敵とは何なのか。自分とは違う旗を仰ぐ者は、全て敵なのか。
違う、と思う。いや、思いたいのかもしれない。
自分とは断ち切れない絆を持つ人が、この先には居る。
圧倒的な魔力を誇り、そして異なる旗を仰ぐ……大切な、もう一人の従姉―――

 

『シュタル姉様……お願い、もう戦わないで。私は姉様の死も、セティ様の死も……見たくない』

 

バーハラ城を目指す先発隊の中には、ティニーにとって最愛の人が居る。
聖遺物フォルセティの継承者。若くして賢者(セイジ)の称号を戴く、世が世ならシレジア王国の次期王となるべき青年。
風の賢者、セティその人が―――

 

 

ティニーを含む歩兵が中心の第二隊がフリージ城に辿り着いたのは、日暮が迫る刻限だった。
もう少し早く到着出来る筈だったのだが、先発隊がフリージ城を守っていたゲルプリッターと接触したのとほぼ時を同じくして、
背後にバイゲリッターが現れたのである。
先発隊に同行していたフィーと、第二隊と同行していたアルテナの迅速な動きがなければ、前後から挟撃されて全滅の恐れもあった。
急遽騎馬隊が取って返して背後に迫るバイゲリッターを抑え、続いて動きの遅い重歩兵が主だったゲルプリッターを討ち、
連戦の果てにフリージ城を制圧したのである。

フリージ城下の修道院で、解放軍は、今まで子供狩りと称して各地で攫われていた子供達を保護した。
怪我も無く、飢えてもおらず、全員無事に。
それが雷神と呼ばれ、畏れ敬われるイシュタルの指示であった事を知り、解放軍には俄かに動揺が走った。

 

「つまり、イシュタルには子供を殺める気は無かったと言う事だ。
 彼女の庇護があったからこそ、子供達を全員無事に取り戻す事が出来た……出来れば、戦いたくないものだが」

セリスの言葉に、作戦会議の席に呼ばれていたティニーはテーブルの下でぎゅっと両の拳を握り締めた。

本来、僧侶や女性は作戦会議には列席しない。
望めば別だが、基本的に作戦の決定権をセリスに委ねているので、敢えて席を連ねないのである。
男性たちも決定権を委ねている点に関しては同じだが、互いの意見を交わしたり、時には牽制する為に参加する。
下された決定についてはセリス、もしくはシャナン、レヴィンから全軍に伝えられ、万が一異がある時はその場で伝えるのだ。
しかし例外的に、意見を請われて会議に出るように呼ばれる事もある。今回のティニーが、そうだった。

フリージもイシュタルも、ティニーにとっては大きな意味を持つ。
フリージと言う点では兄のアーサーも同じ立場だが、イシュタルに関しては違う。
彼女の人となり、考えを推し量るには、彼女自身を良く知る人間でなくては意味を為さない。

 

雷神イシュタル。何故彼女が、畏怖のみではなく敬われるのか。
その恐ろしい異名とは裏腹に、彼女は優しい女性だった。優しく、慈悲深く、そしてとても聡明だった。
幼い頃から親には内緒で、兄やティニーと共に城下に出ては孤児院や修道院を訪れ、
親を亡くした子供や、生活に苦しむ人々の援助を行っていた。

数年後には伯父夫婦にも自分達の行為を知られたが、トールハンマーの継承者であるイシュタルの力を畏れて、咎めは無かった。
グランベルの圧政に苦しんだ人々の中にも、イシュタルの事を悪く言う者は居ない。
彼らは口を揃えてこう言うのだ。

雷神は、鬼神に非ず―――と。

 

「しかし彼女はユリウス皇子の寵姫。彼女自身に悪意はなくとも、我らの前に立ちはだかる以上、イシュタルは敵だ」

淡々と、レヴィンの声が広間に響く。
会議の始まりから視線を落としたままだったティニーの心中を気遣い、他の者は皆、黙り込んでしまった。

「……ティニー、君はイシュタルと姉妹のように育ったと言っていたね?君が説得すれば、彼女は退いてはくれないだろうか」

セリスの声に、ティニーが瞳を上げた。周りが心配していた程、彼女の色の白い面に、悲痛な表情は見て取れない。
むしろ表情を消した仮面を着けているかのように静かだった。

「……判りません。ただ、従妹としての私の話は、聞いてくれると思います。
 私も、イシュタル姉様とは戦いたくはない。トールハンマーで傷付く人も……見たくないんです。
 説得には、私が行きましょう。でももしも……」

 

言葉が途切れる。伏せた睫毛が、微かに震えていた。
言わなくてはならない。自分が言わなければ、きっと悔いを残す。他の誰かが口にした事に、頷くだけでは駄目なのだ。
これは、自分自身が選ばなくてはならない事―――だけど心が揺れて、最後まで言葉に出来ない。

不意に、テーブルの下の手に、誰かの掌が乗せられた。
はっ、とティニーが伏せた瞳を開ける。唇を一度噛み締め、ゆっくりと最後の言葉を紡いだ。

「……それでも、イシュタル姉様が私達の敵になると言うのなら―――その時は、雷神を倒す。
 それが、私達の取るべき道だと思います」

ティニーの隣には、真っ直ぐに前を見据えたままのセティの姿があった。

 

 

「もう落ち着いたかい?」

フリージ城の書庫の片隅に置かれた椅子に腰掛けていたティニーが、腰を浮かせた。
セティの姿を目にして、ほっと息をつく。

「はい。もう大丈夫です」
「まだ少し顔色が悪いな……無理もないけど」

 

求められた事に対して、述べるべき意見は通した。後はより具体的な作戦立案である。
ティニーは先に退室させて貰い、書庫に足を向けた。

談話室でも良いのだが、談話室は人の出入りが多い。今はあまり、人と話す気分ではなかった。
書庫はあまり頻繁な人の出入りがないので、
ティニーが一人になりたい時や人目を避けたい時は、滞在している城を問わずよく書庫を利用する事を、セティは知っていたのである。

自分はまだ、イシュタルの事を振り切れていない。
解放軍に参加すると決めた時に、いずれイシュタルと戦う日が来る事は覚悟していた。
それでも何処かで祈っていたのだ。彼女と戦わずに済むのなら、そうしたいと―――所詮は、甘い考えなのかもしれないけれど。

 

「向こうの出方にもよるが、明朝バーハラを目指す事になった。恐らく、イシュタルも出て来るだろう」
「……はい……」

ティニーの視線が、膝の上に揃えて置かれた手に落ちた。
先程の会議の時と同じようにその手に自分の掌を重ね、セティは自分の胸のうちを言葉にする。

「ティニー……僕はね、本当はイシュタルとは戦いたくない。
 君が姉とも慕っている事もあるが、彼女が敵だとは―――僕自身、思いたくない」

それは対イシュタルの先鋒を、セティが引き受けた事を意味していた。ティニーの瞳が伏せられる。

 

セティはイシュタルに、マンスターでレジスタンス活動をしていた頃に出会った事がある。
今よりも数年前の話だが、当時から彼女は誇り高く、そして高潔だった。

ユリウスの命には絶対服従だったが、それ以外の事に関して、イシュタルは部下の非道を許さなかった。
無抵抗の市民に暴力を振るい、金品を略奪した兵を、自らの手で粛清した事もある。
イシュタルという女性の人間性を実際に目にしているだけに、余計にそう思うのかもしれなかった。

 

「……私は卑怯者です」

ぽつりと、重ねられた手にティニーの涙が落ちる。

「ティニー?」
「私は卑怯者です……説得に行くと言ったって、結果はもう判ってる。
 説得に応じて姉様が退いてくれるのなら、今までに何度もその機会はあった。未だにイシュタル姉様が『敵』である事が、その証。
 なのに一度交渉が決裂すれば、戦うのは私じゃない。私は……ただ、泣くだけ。自分の無力さを悔いて……ただ、泣くだけ」

 

もう、大切な人が傷付く所を見たくはなかった。
今度戦えば、必ずどちらかが命を落とす。
最愛の人か、心の支えだった人か。そのどちらかを―――永遠に喪うのだ。

 

「どうして戦わなくてはいけないの?どうして、互いに判り合えないの!?私は、セティ様もイシュタル姉様も喪いたくはないのに!!」

 

ささやかな覚悟など、一瞬で吹き飛んでしまった。

イシュタルにもセティにも傷付いて欲しくない。
二人の事をよく知る自分なればこそ―――そんな事は不可能だと、誰よりも自分自身が一番よく判っているのに。
わがままだとは判ってる。自分が取り乱せば、セティを困らせるだけだとも。
だがそれでも、叫ばずにはいられなかった。

 

「ティニー……僕は行く。例え君の願いが彼女に届かなくても―――行かなければならない。
 滅びしか生み出さないこの戦いを、少しでも早く終わらせる為に」

一度堰を切ったように溢れ出した彼女の涙は、容易に涸れる事は無かった。

本当はずっとずっと泣きたかったのだ。誰にも傷付いて欲しくなくて、誰も喪いたくなくて。
だが聖戦士の末裔としての自分が、今までその涙を許さなかった。
自分自身、これだけの涙を堪えていたとは気付かない程に。

抱かれたセティの胸の温かさに……胸の内にあった全ての想いが、涙となって止め処も無く溢れ出した。
泣き咽ぶティニーの細い身体を、セティが抱き締める。
おとがいに手を添え、彼女の頬に口付けた。頬に、額に、そして……唇に。

 

「僕は、君の掛け替えのない人をこの手に掛けるかも知れない。それでも君は……僕を許せるか?」

 

姉とも慕った人を殺めた男を、変わらずに愛せるか。

残酷な選択だ。どちらを選んでも、彼女は癒えない瑕を心に負うだろう。
涙を浮かべた瞳でティニーはセティを見詰めた。彼の翠の瞳に浮かぶ、同じ痛みを―――

 

「戦は、悲しみの繰り返し。イシュタル姉様を止められない私も、そんな姉様を手に掛ける貴方も、共に心に瑕を負う。
 ならば、二人で背負います。貴方の痛みは、私の痛みだから―――
 私を、独りにしないで。必ず……還って来てください。」

 

ティニーの言葉にありがとうと呟くと、セティはもう一度だけ、彼女の唇に口付けを落とした。

「二人で見届けるんだ……彼女の、魂の行く末を」

例え、それが永遠の別離になろうとも。
抱き締められた腕の中で、ティニーが小さく頷いた。

 

 

「ティニー、来たわ。間違いない……イシュタルよ」

上空に上がって前方の偵察を行っていたフィーが、マーニャの高度を下げて、待機していたティニーと兄にイシュタルが出撃した事を伝える。
フィーはミレトスでユリウスとイシュタルをその目で見ているので、報告は確かだ。
イシュタルの出撃に先立って先発していた部隊との衝突があったが、それもほとんど鎮圧されている。

「君達に全て委ねる……任せたよ」
「最善を尽くします」

セリスの言葉にそう応え、ティニーとセティは互いの顔を見て頷きあった。

自分の馬に跨ると、セティがティニーに手を貸して彼女の身体も馬上に引き上げる。
彼女の身体越しに手綱を取ると、バーハラへと通じる街道を走らせた。

 

幾らも走らないうちに、ティニーの視界に懐かしい姿が映る。
フリージの血統の証である滑らかな銀色の髪を、長く伸ばして一つに結い上げ、毅然と前を見据えるその姿は昔と何一つ変わらない。

「イシュタル姉様……」
「ティニー、元気そうね」

馬から飛び降り、駆け寄ったティニーの姿を目に止め、イシュタルの面に笑みが浮かぶ。
最前線の指揮官とは思えない程の、優しい微笑だった。
次いで彼女は、ティニーの傍らに立つセティに目を移す。微かに、その瞳が眇められた。

「貴方の事は憶えていてよ……風の賢者。
 シレジア王、レヴィンの長子。そして、聖遺物フォルセティの継承者。名は…セティと言ったかしら」
「……憶えて貰っていたとは光栄だ」

淡々と応える。その言葉に、感情は込められてはいなかった。
彼女と初めて出逢ったのは数年前―――マンスターでの事だ。
当時名乗ったのは名前だけだった筈なのだが、彼女なりに調べたのだろう。

「イシュタル姉様、お願い、このまま退いてください!姉様さえ退いてくれるのなら、解放軍は無益な戦闘を望んではいない。
 私はイシュタル姉様が傷付く所も、セティ様が傷付く所も、見たくはないんです!!」
「優しい子ね、ティニー。でも……出来ない相談だわ。貴女も本当は判っている事でしょう」

 

穏やかな微笑を浮かべたまま、決別の言葉を口にする。だがティニーも退きはしなかった。
ここで諦めれば、全てが終わってしまう。退く訳には行かなかった。

「姉様達にはもう後がない。残っている手勢は、バーハラ城に展開された十二魔将と、ヴェルトマーの暗黒魔道士のみでしょう?
 バーハラが落ちる日だって、そう遠くないわ。姉様なら、戦乱で荒廃した国の再建にも貢献出来るのに」
「まるで、もう貴女達が勝つと決まったような口ぶりね」

肩に掛かった銀髪を、手で払い背中に流す。突き放したような口調ではあったが、気を害した訳でもないようだった。
ティニーを見返す瞳が、未だに穏やかさを失っていない。

「私が退かなかったらどうするの?私を倒して、バーハラのユリウス皇子も斃す?」
「それは……」

ティニーが僅かに言い淀む。

「出来ないでしょうね。暗黒竜(ロプトウス)を制する事が出来るのは黄金竜(ナーガ)のみ。
 フォルセティと言えども、暗黒竜を御する事は出来ないわ。そして―――そのナーガの直系は、我らの手の内にある。」

 

ティニーが息を呑んだ。彼女の肩を抱いたセティの腕にも、一瞬力が篭もる。

「知っていたのでしょう?ユリア様がナーガの継承者であり、ユリウス様の双子の妹だと言う事を。
 彼女は今やマンフロイの傀儡よ。それでも貴女達は私を退けて、ユリウス皇子を斃せると言うのかしら?」

ユリアがユリウスの妹である事は聞かされていたが、まさか彼女がマンフロイの傀儡なっているなんて。
彼女の無事を願っているスカサハが知ったら、どれだけの衝撃を受けるだろうか。
萎えそうになる気力を振り絞り、ティニーは小さな拳を握り締めた。

「それでも……それでも、必ずユリアは戻って来るわ。
 だって、彼女は仲間だもの。彼女の無事を……あんなにも祈っている人が待っているもの!!」

 

スカサハも、そして義兄であるセリスも。自分達だって同じだ。
例え闇の力の支配下にあったとしても、必ず彼女を呼ぶ声は届くと信じている。ユリアも、必ず応えてくれると。
自分の意志でユリウスの下に居るイシュタルにも、気付いて欲しいのに。

「何故?どうしてユリウス皇子と共に滅びの道を選ぶの!?ユリウス皇子は世界の破滅を望んでる。
 そんな事を、姉様が望んでいる筈はないでしょう!?滅びの後には、何も残りはしないのに!!」
「……その答えは、貴女の方がよく判っているんじゃないのかしら?」
「私……?」

 

自分を指差されて、ティニーが愕然とした顔で自分の胸に手を当てた。

「あの方が、それを望んでいるから」

イシュタルが微笑む。
少女のあどけなさを僅かに残した唇に鮮やかな色の紅を掃き、悲しい程の澄んだ微笑みで。

「あの方は私の全て。命さえ、あの方の手の内にある。
 ユリウス皇子が望むのならば、例えそれが世界の破滅でも、私はその為に我が身の力を振るう。
 あの方について行こうと決めたその瞬間から、私は地獄の果てまでもあの方と共に在ろうと決めた。それが……女というもの」

 

堕ちる事を恐れはしない。
唯一人と決めた人と共に在るのならば、例え生きながら罪の劫火に焼かれたとしても本望だと。
滅びすら共にする、昇華された一つの愛の形―――イシュタルの言葉に、ティニーの瞳が見開かれる。

 

「何故、貴女が犠牲にならなくてはいけない?貴女が斃れても、ユリウス皇子が悲しむとは思えない。
 彼にとって貴女は、手駒の一つにしか過ぎないだろう?」

説得は、最早成立しないだろう。ティニーを巻き込む事は、イシュタルとしても本意ではない筈だ。
ティニーに寄り添うように立っていたセティが、下がっているように囁きかけ、彼女の前に出て庇うように前に立つ。
今にも泣きそうな顔で従姉と恋人の顔を見比べたティニーが、ゆっくりとフォルセティの発動圏内から離れた。
イシュタルはほんの少し考えるような素振りをしたが、それも一瞬の事だった。

「……そうね、悲しんではくれないかもしれないわ。でも……構わないのよ。そんな事はどうだって」
「それならば……!!」

当たり前のように口にしたイシュタルに、思わずセティが一歩踏み出した。
イシュタルの瞳に宿る光が、一人の女性から雷神のそれに変わる。
不意に間合いを詰め伸ばされた手が、セティの顔を引き寄せた。

「それが判らない貴方は―――やはり、女と言うものを知らないのよ」

 

掠めるようにイシュタルの唇がセティのそれに触れる。彼女の足が地を蹴って、くるりと背後の宙に舞った。

「残念だわ、風の賢者。貴方とは、もっと違う形で出逢いたかった」
「ああ……もしもそれが叶っていたならば……僕たちは、互いに良き理解者に成り得たかもしれない」

 

違う世界で、違う時間で。一人の女性と、一人の男性として、当たり前の出逢い方をしていたならば。
高き誇りと理想を分かち合う、掛け替えのない友人になれたかもしれない。もしかしたら、愛を交わす事も。
しかし、それは為し得なかった世界―――

イシュタルは滅びすら共にする覚悟でユリウスにその身も心も捧げ、セティは自らの心の拠り所となったティニーを守る事を選んだ。
一度分かたれた道は、もう交わる事はない。慈母の如き女性は、雷神として生きる道を選んだのだ。
ユリウスを愛した、一人の女性として―――

 

「我が名はイシュタル、偉大なる力をこの身と血に受け継ぎし者。今こそ我が敵に、白銀の鉄槌を下す力を与え給え」
「我が名はセティ、古の風の王の血と名を受け継ぎし者。その偉大なる力をもって、我を守る風の刃と為さん」

 

二人の手が、宙に印を描く。手の内に淡い光が灯る。
激しい魔力の収束に、彼らを取り巻く周囲の空気すら音を立てて渦巻き始めていた。
イシュタルの身体を稲妻の放電が包む。セティの身体を疾風の壁が覆う。そして―――

「トールハンマー!!」
「フォルセティ!!」

落雷と風の刃が生み出す、閃光と轟音が周囲に満ちた。

 

 

激突は一瞬だった。

強大な魔法力が激突した衝撃に大地が震える。耳元で落雷を受けた轟音と激しい風鳴りに、耳がよく聞こえない。
もうもうと立ち込める土煙の中、ティニーが目を凝らしてセティとイシュタルの姿を捜す。

 

霞む視界の中、互いの魔法が発動する寸前と違わぬ位置に立つ二人の姿が目に映った。

まるで時間が止まったかのように相対するその姿に、ティニーには二人の決着が判らなかった。
だが次の瞬間、グラリとイシュタルの肩が揺らぐ。
斧が入った樹が倒れるように崩れ落ちるイシュタルの身体を、セティの腕が支えた。

 

「セティ様!!イシュタル姉様ぁ!!」

涙で目を真っ赤にしたティニーが二人の傍に駆け寄る。
彼女が二人の傍に辿り着いた時には、イシュタルとの決着を着ける為に全魔法力を振り絞ったセティも地に膝をついた。

「……ティニー……」
「姉様……お願い死なないで!」

セティの腕に支えられたイシュタルには、まだ辛うじて息があった。薄っすらと瞳を開け、弱々しくティニーの名を呼ぶ。
だが防御を全く考えずに放たれた互いの力は、確実にイシュタルの命の灯火を消そうとしている。
ティニーは彼女の手を握り締めて回復魔法を唱えたが、セティには効いたリライブが、イシュタルにはほとんど意味を為さなかった。
それは彼女の生命力が、残されていない事の証―――ティニーがぽろぽろと涙を零す。

「ティニー……必ず、幸せになるのよ。
 ……彼なら……変わらずに貴女を……愛して、くれるから……」
「イシュタル姉様、お願い、もう喋らないで……!!」

イシュタルの彷徨う瞳がセティを映す。だが恐らく、もうほとんど見えてはいないのだろう。

「ティニーを……お願い……貴方なら……任せられる」
「僕の命に代えても」

セティの力強い声に、イシュタルは瞳を閉じた。震えるように咳き込むと、口元から鮮血が溢れ出す。
もう、時間が残されていなかった。

「イシュタル―――最期に、ユリウス皇子に伝えたい事はないか?」
「ユリウス様……」

 

愛しい者の名に、一度閉ざされたイシュタルの瞳が微かに開く。
その瞳に既に光は無かったが、しかし彼女の目には、ユリウスの姿が視えていたのかもしれない。

 

「私は……幸せでした……例え、貴方の愛が……一時のものでも」

愛された記憶は、ずっと抱いていける。死出の旅路にも。

「イシュタルは……いつまでも……貴方の…お傍に………」

鼓動が終(つい)える。ティニーの握り締めていた手から、がくりと力が失われた。

「イシュタル姉様………どうか…どうか、安らかに……」

優しかった従姉の亡骸を胸に抱き、新たな涙を流す。
命の色を失った彼女の顔は不思議に穏やかで、一層セティとティニーを哀しくさせた。

 

 

バーハラ城が陥落したのは、それから一週間後の事―――
ティニーとセティの強い要望で、イシュタルの亡骸はバーハラ城の片隅にあるバーハラ王家の墓所に、ユリウスと並んで葬られた。

後にティニーがシレジアに嫁いでからは少々間遠くなったが、それでも数年に一度、彼女達がグランベルを訪れた際には、
必ず花を手向ける姿が見られたと言う―――

                                                                  【FIN】


あとがき

いつか書きたいと思っていた、対イシュタル戦。やっと実現出来ました。
長めの話になった割りには、上がるのは結構早かった。実働7〜8時間?(笑)
後半部分の台詞は、ほとんど風呂の中で考えたという。切実にメモ帳と鉛筆が欲しかったですね〜。
記憶回路をフル活動させて、一気に書き上げましたよ。忘れないうちに(^_^;)

今回のお話で真っ先に浮かんでいたのは、イシュタルの『残念だわ、風の賢者。貴方とは、もっと違う形で出逢いたかった』という台詞。
その直前の一瞬のキスシーンもセットで浮かんだんです。
彼女の最期のシーンでセティにも同じ台詞言わせようかと思ったんですが、
イシュタルの最期の言葉のインパクトが薄れそうな気がしたので、こちらはカット。

世の中にはセティ×イシュタルも存在してますが、ウチはそう言うつもりで書いたんじゃありません。
純粋に、可能性としての発言として書きました。キスは『女を判っていない』という、イシュタルの台詞を際立たせる為。
これで、セティは自分の認識の甘さを思い知ったんですね。
今は無理かもしれないけど、もしかしたらユリウスを斃せば、彼女は考えを変えてくれるかもしれないと。
だから寸前まで、セティはイシュタルを殺してしまわないように手加減するつもりだったんです。
勿論、相手は殺すつもりで掛かってくるんですから物凄く危険なんですけど、ティニーの為にもイシュタルを死なせたくなかった。
だけどイシュタルは、自分がユリウスにとって必ずしも必要な存在ではない事を判っていた。
判った上で、自分の力も心も、魂さえ捧げてもいいと、心から思っていたんです。
愛した男の為に全てを捧げる覚悟を決めた『女性』であるイシュタルに、もう手加減は出来なかったんですね。
イシュタルには、是非生き残って欲しかったです。

                                                                  麻生 司

 

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