いつか風になっても


        「ティルテュ、井戸に水を汲みに行って来るからね」

       小さな家の裏口から顔を覗かせ、アゼルが中に声をかける。
       最近ようやく慣れて来た針仕事の手を止め、ティルテュが顔を上げた。

       「私も一緒に行きましょうか?」
       「大丈夫だよ。井戸はすぐそこだし」

       アゼル達の住むこの村には数箇所の共同の井戸があり、村人は皆、生活に必要な水は其処から得ている。
       手桶で何度も往復しなければならない事もあるが、山一つ超えなければ水場が無い苦労に比べればずっとマシだ。
       重労働である水汲みは男の仕事と位置付けられており、アゼルもごく自然にその習慣に倣っていた。

       「アーサーが目を覚ました時に傍に誰も居ないと可哀想だろう?君はアーサーについててあげて」
       「判ったわ。いってらっしゃい」

       裏口から出て行くアゼルの後姿を、微笑んでティルテュが見送った。

 

 

       アゼルは空の木桶を井戸の脇に置くと、綺麗に晴れた空を見上げた。

       バーハラの悲劇より、約一年の時が流れた。
       あのヴェルトマー軍の包囲網の中、よくぞ生きてここまで辿り着けたものだと思う。

       命からがらシレジアの小さな村に流れ着いたアゼルとティルテュは、
       出自を隠して小さな教会で結婚式を挙げ、半年後には男の子が産まれた。
       生まれた子の髪の色は、母親の血筋を濃く受け継いだ淡い銀色。面差しは自分に似ていると思う。
       まだ赤子である為に身に秘めた力は未知数だが、いずれ優れた魔法の才を見せる事になるのだろう。

       生まれ育った国を離れ、聖戦士の末裔である事実を隠して生きなければならないこの時代―――
       アゼルもティルテュも、この村に落ち着いてからは一度も魔法を振るう事は無かった。
       いくら自分がグランベルの皇帝位に就いたアルヴィスの異母弟だと言っても、義兄に背いた事実は消えない。
       子が成長し、自覚の無いままに常人離れした魔法力を示せば、そこから追手の掛かった自分達の居所が知れる恐れがある。

 

       ―――いっその事、一生魔法に触れない人生を歩ませるのもいいかもしれない。

       そう思う事すらある。

       聖戦士の末裔であり、魔道士でもある自分達二人の間に生まれた子は、
       いずれきっと同じ魔道士としての道を歩み始めるのだろう。
       本来ならば喜ぶべきなのかもしれない。
       優れた才は、活かされる為に存在する筈なのだ。
       だが今この世界で優れた魔法力を示すと言う事は、即ち戦場への道を拓くという事。

       ……アゼルもティルテュも、もう戦いに飽いていた。
       生き抜く為に、同じ血を分け合った一族の者に牙剥いた事もある。
       だが追手を傷付ける度、心の何処かが軋むように痛んだ。

       テュルテュとアーサーと、もう誰も傷付ける事無くただひっそりと暮らしたい―――

       そんなささやかな願いさえ、今はとても愛おしく思えた。 

 

       井戸の脇に揃えて置かれた、釣る瓶の片方を中に落とす。
       パシャンと豊かな水の手応えを感じて、今度は両腕に力を込めて引き上げた。

       今は温かな時期だから何て事はないが、冬のシレジアの寒さは川の流れさえ凍りつく。
       慣れない水汲みにアゼルは初めての冬には掌に無数のあかぎれを作ったが、
       数ヶ月も同じ作業を続けるうちに、すっかり手の皮が分厚くなって平気になった。

 

       「もうすっかり村の男の人と同じ手ね」

       と、いつかその掌を見たティルテュが言った事がある。
       『おかしいかい?』と尋ねると、彼女はアゼルの手を押し抱き、

       「私とアーサーを守ってくれる、優しい手だわ」

       そう言って、微笑んでくれた……

 

       本当にこのまま、一生この小さな村で穏やかに生きる事が出来たなら。
       まだしばらくは追手の恐怖に怯えなければならないだろうが、
       アーサーの魔力の発現さえ隠しおおせれば、恐らくはその脅威もいずれ薄らぐに違いない。

       聖戦士の末裔と言う事実を忘れて生きる事が出来るのなら、もっと違う未来が見えるのだろうか―――
       そんな思いが、ふと浮かんだ時だった。

 

       『―――――ッ!?』

       不意に灼け付くような胸の痛みを覚え、アゼルは地に膝をついた。
       喉元を駆け上がる異物を堪えきれず、裏道に這い寄って吐く。

       口元を拭った自分の手を見て、アゼルは愕然とした。

       べっとりと手を染めたのは、紅蓮の炎を思わせるどす黒い血の朱。
       それは命の限界を超える魔力を酷使した魔道士が、人生の終盤に目にする凶兆。

       血の兆しが現れてからの命の期限は、約一年―――早過ぎる不吉な兆しに、アゼルは足の震えを止める事が出来なかった。

 

       その後アゼルは血の跡を丁寧に洗い落とすと、何事もなかったように家に戻った。
       いつものように汲んできた水を水瓶に移し、
       目を覚ましたアーサーに乳をやるティルテュの代わりに、簡単な夕食の準備を始める。

       灼けるようなあの胸の痛みはもう感じないが、一度発作が起きた以上、いつまた血を吐くかもしれない。
       だが小さな息子を抱いて、幸せそうに微笑むまだ幼さの残る妻の横顔を見ていると、
       自分の命がもうあと何年も無いのだと言う事実を忘れそうになる。
       傍にあった手桶に張られた水に映った自分の顔がげっそりとやつれているような気がして、アゼルはゾッと背筋が寒くなった。

 

       ……それからアゼルは、数日に一度血を吐くようになった。
       確実に命の灯火が潰えようとしているのだと自覚するまでに、一ヶ月とは掛からなかった。

       自分に残された時間はもうあと僅かなのだと、ティルテュに伝えなければならない。
       妻と幼い息子を遺して逝く事を思えば胸が痛むが、やつれ始めた身体をいつまでも隠し通す事も出来ない。

       初めての発作を起こしてから半年後―――ようやくアゼルは、自分の余命が幾ばくもない事をティルテュに明かした。

 

 

       「血の……兆し……!?」

       ガチャン!とティルテュの手から滑り落ちたカップが、テーブルにぶつかり、床で割れる。
       蒼褪めたアゼル以上に蒼白な顔色の彼女が、震える指先でのろのろと口元を覆った。

       「ここ何ヶ月か顔色が優れなかったから、具合が悪いんじゃないかとは……気付いていたのよ。
        でもそんな……貴方の若さで『血の兆し』なんて……」

       そう口にしかけたティルテュが、ハッと息を呑む。

       『血の兆し』とは、自分の限界を超えて魔法力を行使した魔道士が、人生の終盤に見る凶兆。
       稀には兆しすら見る事無くあっという間に心の臓が止まる場合もあるが、多くの魔道士はその兆しを目にする事は無い。
       『自分の限界』とは、即ち『命の限界』。魔法力とは、意思の力を魔法と言う形で具現化する力。
       生きる力そのものを削り、寿命を縮めるまで魔法を行使する者は―――そう多くない。

       だが。

       「まさか―――バーハラ脱出の後遺症……!?」

       顔を上げたアゼルの唇は、固く引き結ばれていた。
       いつもは穏やかに笑いかけてくれるその瞳が、今は痛ましいまでの色を浮かべて自分を見詰め返している。
       その沈黙が答えだった。

 

       淡い菫色のティルテュの瞳に、涙が溢れる。

       「ごめんなさい……ごめんなさい、アゼル……!私があの時、戦えていたなら……!!」
       「違うよ、ティルテュ。君のせいじゃない」

       泣き崩れるティルテュの肩をアゼルが抱き寄せる。

       「君のお腹にはアーサーが居た。
        しかも直前にお父さんと決別して、ショックを受けていた君があの時戦っていれば、
        恐らく君もお腹の子も無事では済まなかっただろう」
       「でも……私を庇い続けた貴方は全身に火傷を負って……まさか、その命まで削っていたなんて……!」
       「―――覚悟しての事だよ。あの時の僕には君とお腹の子を守る事以外に、何も考えられなかったから」

 

 

       バーハラは炎の地獄と化した。

       王城を取り巻いていたのはアルヴィス率いるヴェルトマー軍。
       メテオの炎が、ファラフレイムの劫火が、容赦なく仲間を焼き尽くす様を―――二人は見た。

 

       「こっちだ!!」
       「アゼル!?」

       地獄の様相を呈した光景に呆然とした自分の手を引き、アゼルが走る。
       レヴィンの放ったフォルセティの空隙で、一瞬作られた無炎地帯を一気に駆け抜けた。

       他の仲間達はどうしたのだろう?たった今、この突破口を生み出したレヴィンですら、もう炎の壁の向こうに視えない。
       頭は一刻も早くこの場から脱出しなければと思っているのに、焦るその思いを足が裏切る。

       「あっ!?」
       「ティルテュ!?」
       「危ない!!」

       何かに躓き転びかけた自分の身体が左右から支えられる。一人はアゼル、そしてもう一人は―――ラケシスだった。
       自分達以外の仲間の無事な姿を目にして、ほんの僅かにティルテュの強張った表情が解れた。

       「ラケシス…貴女も無事だったのね」
       「何とか、まだ生きてるわ―――レヴィン様のお陰よ」

       自分の危険を省みず、必ず生き延びてレンスターまで落ち延びろと言ってくれたレヴィン。
       だがその彼の姿も既に炎の向こうに消え去り、彼自身が脱出出来たのかは定かではない。
       今はレヴィンの強運を信じ、無事に脱出した事を祈るしかなかった。

 

       アゼルとラケシスは、そのままティルテュを左右から守るようにして城門へと近付いた。
       本来なら正面突破は無理だろうが、今ならば付け入る隙があるかもしれない。

       「……見張りは二人ね」

       ちら、とラケシスの目がティルテュを見る。
       だがすぐに視線をアゼルに向けると、城門傍に燃えずに残っている木を剣の鞘で指した。

       「アゼル、一人任せるわ。あの塀の上から狙える?」
       「判った。ティルテュ、ここに居るんだよ」
       「待って、私も戦うわ!」

       腰を浮かしかけたティルテュの腕を、だがラケシスがそっと押さえる。
       その間にアゼルは喧噪に紛れて城門に近付くと、身軽に木の上へと登って行った。

       「駄目よ、貴女は。ここに居て」
       「でも私にだって援護くらい出来るわ!皆、生きる為に戦っているのに、私一人守られるだけなんて!!」

       思わず声を大きくしたティルテュの肩を、ラケシスの手が優しくトン、と叩いた。

       「そう、生きる為に戦っているのよ。彼も、私も、そして貴女のお腹の子も……ね」

       ティルテュの瞳が見開かれる。
       『どうして……?』と言う言葉を口にしないうちに、ラケシスが微かに微笑んだ。

       「私も、大切な人の子を授かったから……だから、気付いたのよ。女の勘って所かしらね」
       「ラケシス……」
       「お腹の子を守る為に、自分を守りなさい。それが今の貴女の戦い。
        どんなに辛くても、必ず生き抜くのよ。貴女の命は―――もう貴女一人のものではないのだから」

       ラケシスの眼差しが柔らかな女性のそれから、騎士の顔になる。
       城門からは死角になる樹上で、準備を終えたアゼルが手を振って合図していた。

 

       ……其処から先は、何処をどう逃げたのか覚えていない。
       ラケシスとは城門を抜けた直後にはぐれてしまい、二度と会えなかった。

       アゼルと二人森に紛れて北に逃れが、丸一日乗った馬は弱って走れなくなり、森に放した。
       追手は執拗で、撒いたと思ってもまたすぐに新しい追手に追いつかれる。
       ヴェルトマーの追手は炎の使い手―――テュルテュを庇ったアゼルは全身に火傷を負っていたが、彼女はほとんど無傷だった。
       防御魔法の助勢をするという彼女の言葉を、頑として彼は聞き入れなかった。

       「君に負担を掛ける訳にはいかないよ。君一人の……身体ではないのだから」

       そう―――ティルテュが自分の子を身篭っている事に、アゼルも気付いていた。
       気付いていたが、父との確執を自分自身の手で片を付けようとしていた彼女の意思を尊重し、黙って見守っていたのだ。

       防御魔法は、任意の魔法を特殊な形で発動させて外界との障壁を作る。
       しかしその為に消耗される体力は、通常攻撃として魔法を行使する比にならない。下手をすれば命を失いかねないのだ。
       そんな危険な事を、身重のティルテュにさせる訳には行かない。

       「僕が守るよ。君も、お腹の子も、必ず僕が守ってみせる。まだ頼りなく感じるかもしれないけれど―――僕を信じて」

       その眼差しは傷付いた彼の身体とは正反対に力強く、包み込むように頼もしかった。

       焼け焦げてボロボロになったマントを捨てて更に森を北に抜けると、湾を挟んでシレジアを望む海岸に出た。
       遠くにかすんで見えるのが、恐らくはシレジアなのだろう。
       二人は新たな追手がまだ見えないのを確認してからそっと岩棚伝いに海岸に下りると、漁師が使う小さな小船に乗り込んだ。
       アゼルが櫂を手にし、ティルテュが慣れない手つきで固く結ばれた舫い綱を解く。

       小船がゆっくりと岸を離れだした頃には、丁度彼等を隠すように、夕闇が辺りを暗く染め始めていた―――

 

 

       「―――貴方はこの村に辿り着くなり倒れこんで、丸三日もの間眠り続けてた。
        その間に繰り返しかけた回復魔法のお陰で、目に見える火傷は治ったと思っていたのに……」

       本当の傷は、視えない所にあった。
       命そのものを削り、本来数十年を掛けて消費される寿命を縮めてまで、アゼルは自分と子供を守ってくれたのだ。
       残された時間は僅か―――あとどのくらい、同じ時間を生きられるのだろう?

       「僕は後悔してないよ、ティルテュ。
        僕の時間はもうほとんど残されていないけれど、君とアーサーを守れて良かったと思ってる。
        アーサーは僕がこの世に生きた証―――あの子を、産んでくれてありがとう」
       「嫌よ、アゼル……そんな最後のお別れみたいな事、口にしないで」

       今にも泣きそうな妻の頬に手を触れ、アゼルが微笑を浮かべる。
       その手にティルテュが手を重ねると、はらはらと彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

       「泣かないで、ティルテュ。今は無理だけど、きっと全て元通りになる日が来る。
        いつか胸を張って、アーサーがヴェルトマーとフリージの血を受け継ぐ僕達の子だと言える日が来る。
        明日命絶えるかも知れない。次のこの季節は迎えられないかもしれない。
        それでも君と生きた時間の証は、新しい命に形を変えて未来へと続いて行く」

       身体を失い、人々の記憶の片隅にしか残らない存在となっても、見守っていく事は出来る。     

       「命絶えても、この想いは風になって君達を守るよ。いつだって君達を愛している。今までも―――そして、これからも」

       声も無く涙を流すティルテュを、アゼルの腕が優しく抱き締めた。

 

 

       数ヵ月後、ティルテュの身篭った二人目の子の誕生を待たず、アゼルはこの世を去った。
       その後も亡くなった夫と父の思い出の残る家で、母子は身を寄せ合うように暮らしていたが、
       長女が生まれた直後にティルテュは、娘共々、兄の手によって連れ戻された。

       追手を察したティルテュは、間際に修道院にアーサーを預けて息子の存在を隠し通した。
       息を引き取るその日まで、娘のティニー以外にはその生死を語る事は一切無かったと言う。

 

       数奇な運命を辿った兄妹が再会を果たしたのは、それから更に十年後の事であった。

                                                     【FIN】


       あとがき

       以前書いた『炎と永遠』の補完的なお話です。
       大事な部分のほとんどが、既に『炎と永遠』の中で語られている訳ですけど、
       どう言う経緯でアゼルが自分の死を受け容れたのか、彼の視点から書いてみました。
       アゼルの死後アーサーをシレジアに残し、幼いティニーの成長を見る事無く死を迎えるまでの、
       ティルテュの視点でもいずれ書いてみたいと思っています。

       伏線でついラケシスが(笑)女性としての言葉を彼女には語って頂きました。
       ラケシスのお話は別の物語としてUPしてますので、そちらをご覧くださいませ。
       

                                                            麻生 司

 

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