風に融ける日
「お母様、お熱があるの?」
傍で絵本を読んでいた小さな娘が、自分によく似た菫色の瞳を心配そうに曇らせて顔を覗き込んでいた。
彼女はまだ今年五歳だが、その歳に似合わず周囲に気を配り、
そして何より最近めっきり寝込む事の多くなった、母である自分を気遣う娘だった。
「大丈夫よ、ティニー。少し疲れただけ」
針仕事の手を止めて、ティルテュが娘に笑いかける。
その手に小さな手を重ねて、大きな瞳でティニーが母を見上げた。
「じゃあ、早くお寝(やす)みして。お母様この頃お熱を出す事が多いもの」
「でも、このドレスを直してしまわないと」
ティルテュの膝の上に広げられたのは、淡い色合いのドレス―――
本来は姪であるイシュタルの為に作られた物だったのだが、自分には似合わない色だからと、
一度も袖を通さないまま従妹のティニーに譲ってくれた物だった。
少し袖や丈を詰めれば、ティニーにも十分着る事が出来る。
姪のイシュタル、そしてその兄のイシュトーは、年端も行かない頃から自分の母が叔母と従妹に辛くあたっている事を知っていた。
自分達が間に入る事で、少しでも叔母親子への当たりを弱めようとしてくれているのが良く判る。
食事は辛うじて同じ食卓につく事を許されたが、その席は客人以下の末席。
衣服はそのほとんどが家人の古着。部屋は勿論親子二人で一部屋。
凍てつくような冬の寒さにも、こっそり甥と姪が用立ててくれた薪が無ければ暖炉に火も入れられない有様だった。
それでもティルテュは文句一つ口にしなかったが、娘に同じ思いをさせるのは不憫だと思っていた。
それを何かにつけて助けてくれたのは、やはり幼い姪達―――
イシュタルはティニーの誕生日が近い事を知っており、わざと自分ではなく、従妹に似合う色のドレスを作らせたのである。
サイズばかりはイシュタルの身体で測っているのでどうしようもなかったが、直せば着られない事はない。
後は苦労知らずの貴族の娘が気紛れを起こしたフリをして、ティニーに贈ってくれたのだった。
「ティニーのお誕生日にって、イシュタルが内緒で贈ってくれたのですもの。ちゃんと間に合うように直さないと。
母様はあまりお裁縫が得意ではないから、ドレス一つ直すのにもずっと時間がかかるのよ」
「でも、ドレスよりもお母様の方がティニーは心配。お願い、無理はしないで」
「……ありがとう、ティニー。優しいのね。そんな所は、お父様にそっくりだわ」
ティルテュは針を置くと、娘の頬に口付けを落として言う通りベッドに横になった。
ティニーの手前、何とか姿勢を保っていた身体がずしりと鉛のように重く感じる。
この数年、特に何処が悪いと言う訳ではなかったのだが、こうして寝込む事が本当に多くなった。
「私、お父様に似ているの?」
母のベッドの傍に椅子を引き寄せ、そこに腰掛けたティニーが小さく首を傾げる。
生まれた時には父のアゼルは既に亡く、顔はおろか、抱いて貰った記憶もない。
この館には父の肖像画も無かったので、似ていると言われてもピンとは来なかったのだろう。
「髪と瞳の色は母様似ね。でも顔立ちや貴女のその優しさは……間違いなくアゼルに……お父様によく似ているわ」
名前しか知らぬ命の親に思いを馳せ、はにかんだような笑みがティニーの面に浮かぶ。
薔薇色に染まったその頬に手を触れ、ティルテュは目を細めた。
「ティニー、貴女にはお兄様が居るのよ。二歳歳上の、実の兄が」
「お兄様……?イシュトー兄様じゃなくて?」
ティニーが零れそうな大きな瞳を瞬かせた。
そう―――兄の手により、生まれたばかりの娘共々このアルスターに連れて来られてからというもの、
ティルテュは一度として息子であるアーサーの事を口にした事は無かった。
産後まだ出歩くのもやっとだった時、グランベルからやって来た男達が、
数年前にこの地に流れて来た者を探していると噂で聞いた。
自分達の出自は明らかにはしていなかったが、何せ小さな村の事。
尋ね歩いていれば、この村に住み着いて僅か数年の自分達の事など簡単に知られるだろう。
グランベルから来たと言う事は、即ち追手である可能性が高い。
ティルテュは娘がよく眠っている事を確認すると、小さな息子の手を引いて家を出た。
裏道を通りながら、急ぎ足で向かったのは修道院―――アゼルがまだ存命していた頃から、二人でよく通った場所だった。
「シスター…シスター、いらっしゃいますか!?」
中に入り呼びかけると、奥から初老に差し掛かった女性が姿を見せる。
この村で唯一の神職を持つシスターであり、ティルテュとも面識があった。
「まあ、ティルテュさん。どうなさったんですか?そんなに慌てて」
普段と様子の異なる彼女の様子を見て、シスターが眉をひそめる。
ティルテュの顔色は蒼褪めていたが、アーサーの手を軽く引くと、自分の前に押し出した。
「シスター、どうかこの子を……こちらで預かって頂けないでしょうか」
「アーサーを?また、何故」
アーサーが母とシスターの顔を交互に見比べる。
いきなりな話に、シスターの面にも困惑したような色が浮かんだ。
「……私と亡くなった主人は、グランベルから流れて来ました。
貴女の身の安全の為にも詳しい事はお話出来ませんが……今、追手がこの村にやって来ています」
「グランベル……追手……?」
ハッ、とシスターが息を飲んだ。
彼女達が流れて来た時期、グランベル、追手―――それらが意味する事を察したのだろう。
「追手が探しているのは、恐らく私とアゼル―――今となっては、私だけです。
この子の存在は誰も知らない……今なら、まだ隠し通す事が出来る」
国と家に背いた者の末路に待つものを思えば、とても息子に同じ運命を甘んじて受け容れさせる事は出来なかった。
まだたった二歳―――面差しに何処か亡き夫の面影を映す息子を手放す事は辛かったが、子の自由には代えられない。
縋るようなティルテュの瞳にシスターは一瞬言葉を失ったが、
やがて『いらっしゃい』とアーサーを手招きするとその手をしっかりと握り締めた。
「判りました。私はこの子の事について何も存知ません。
ただ、両親の都合により手放さなければならなくなったこの子を、大切にお預かりするだけ……それでよろしいのですね?」
「シスター……ありがとうございます」
詳しい理由を尋ねる事も無く、アーサーを引き取る事を了承してくれたシスターに自然に頭が下がる。
ティルテュは自分の首に掛かった二本のペンダントの一本を外すと、アーサーの首にそれを掛けた。
「ティルテュさん、貴女、生まれたばかりのお嬢さんはどうするの……?」
微かにティルテュの表情が曇る。
「……一緒に連れて行くのが、必ずしもあの子の為になるとは思えません。
アーサーと共に、ここでお世話になる方がいいのかも。
だけど、あの子はまだ……生まれてたったの一ヶ月しか経っていないんです」
このままここにティニーを残していけば、恐らく二度と会う事はないだろう。
そして娘は父と母の温もりを知らずに育つのだ。
例え、それが最善の道ではないのだとしても―――せめて物心つくまで、娘を自分の手で育てたい。
アーサーを残していくのも辛いが、きっと息子の心には、両親に愛された記憶が残っていると信じている。
「アーサー、貴方が一人前になるまで育ててあげられなくてごめんなさい。
でも遠く離れていても、母様は貴方を愛してる。お父様も……亡くなるその瞬間まで、貴方の事を想っていた。
どうか優しく、そして心の強い子に育ってね。
このペンダントは母様が父様に頂いた思い出の品―――いつかきっと妹のティニーと廻り逢うその日の為の……目印よ」
どうか忘れないで。
いつだって貴方たちの事を愛していた。そして、これからもずっと愛している。
貴方たちは望まれて生まれて来た。愛の証として、この世に命を受けたのだと―――
ティルテュが娘のティニーと共に小さな村を後にしたのは、それから一刻後の事であった……
「名前はアーサー。ティニーとお揃いの、同じペンダントを持ってるの。髪と瞳の色は貴女と同じで母様似。
顔立ちは……そうね。やっぱり亡くなったお父様に似ていたわ」
「私にも似てるの?」
「……そうね、兄妹だもの。やっぱり、似ていると思うわ」
従兄姉のイシュトーやイシュタルは本当の兄姉のようによくしてくれていたが、
やはり実の兄と言うのは不思議な存在感をティニーに与えたらしい。
母以外で本当の『家族』と呼べる存在を知った事が、喜びとなり、娘の頬を上気させていた。
「……ティニー、兄様の事は兄上や義姉様には内緒なの。どうか誰にも話さないで」
「え…内緒……なの?」
ほんの少し、がっかりしたような様子が見て取れる。
そんな娘の髪を、なだめるようにティルテュの手がそっと撫でた。
「本当は、ちゃんと育ててあげたかったの。アーサーも貴女も、父様と母様の二人で……
でも、母様を昔庇った傷が元で、父様は若くして亡くなってしまった。
兄上たちの追手が掛かった時―――息苦しい想いをさせたくなくて、アーサーはある人に引き取って貰ったのよ。
でも貴女はまだ生まれたばかりで……どうしても、手放す事が出来なかった」
アゼルに『血の兆し』が現れ、死期が近付いた頃―――自分が二人目の子を身篭っている事に気がついた。
その事を彼に伝えると、アゼルは目を細めてただ喜んでくれた。
自分はその子を抱く事は出来ないかもしれない。二人の幼い子供を遺されたティルテュにも苦労をかけると思う。
だがそれでも、自分の命を継いで生まれてくる子の誕生は嬉しいのだと……アゼルは、微笑ったのだ。
―――明日、命絶えるかも知れない。次のこの季節は迎えられないかもしれない。
それでも君と生きた時間の証は、新しい命に形を変えて未来へと続いて行く。
命絶えても、この想いは風になって君達を守るよ。
いつだって君達を愛している。今までも……そして、これからも―――
「今でも目を閉じれば、はっきりと思い描く事が出来る。アゼル、アーサー……離れていても、心はずっと傍にあるわ」
眠るようにティルテュが瞳を閉じる。
命を刻む鼓動が徐々に弱まっていく様が、まるで他人事のようだった。
アゼルの時ほど、はっきりとした兆しがあった訳ではない。
だがティルテュは自覚していたのだ―――自分にも、命の限界が近付いている事を。
「母様……どうしたの?何だかいつもより、ずうっとお顔が青いみたい」
いつもとは異なる様子に、ティニーが椅子から飛び降りて母の枕元に顔を寄せる。
色の白い母の顔は、今はもう透けるように青白かった。
力の篭もらなくなった手を伸ばし、ティルテュが娘の肩をそっと抱き締める。
「ごめんなさい、ティニー……アーサー。母様にはもう、時間が残されていないの。
もっと一緒に居たかった……ちゃんとこの手で、育ててあげたかったけれど……」
バーハラ脱出の際に、命を削って子供を守ったのはアゼルだけではなかった。
母体となったティルテュも、そうとは気付かないまま、自分の命を我が子に送り続けていたのだ。
そうでなければあの過酷な状況の中、いくらアゼルが身を呈して庇ってくれたとは言っても、
お腹の子は恐らく無事では済まなかっただろう。
その事に気付いたのは、アゼルが亡くなって少し経った頃であった。
今まで自分を支え続けてくれたアゼルを喪い、ティルテュは精神的にすっかり参ってしまっていた。
彼の為にも元気な子を産み、子供二人を育てていかねばならなかったが―――もう、疲れ果てていたのだ。
だがティルテュは、アゼルに必ずお腹の子を産むと誓った。
彼の血を受け継ぐ大切な子を、喪う訳には行かない―――自分一人の身体ではないのだから。
その日からティルテュは、毎日萎えそうになる気力を振り絞り、何とか命を繋いだ。
今自分が倒れてしまったら、お腹の子の命の保証は無い。
生き延びて、そしてやっと一人で歩き始めたばかりのアーサーを守らなくてはいけない。
お腹の子と、年端もいかない息子を守る為に命を繋ぎ続けたこの数年―――
少し疲れた程度で熱を出し、風邪をひいただけで寝込む事が多くなり、
アゼルのような『血の兆し』こそなかったものの、しかし自分の寿命が尽きようとしている自覚はあった。
『生きる』というただそれだけの事が、今のティルテュにはまさしく命の灯火が日々消え行くという事だったのだ。
「……ティニー、愛しているわ。例え傍に居なくても、父様も母様も貴女を愛してる。
どうか心の強い―――そして、優しい子に育って。そしていつか……兄様を見付けてね」
「お母様……?」
それはシレジアを離れる時に、アーサーにも残した言葉。
ティニーの手が母の頬に触れる。その頬を流れる涙に、小さな身体が不吉な予感に戦慄いた。
「―――母様との……約束よ」
「お母様……お母様……!どうしたの?目を覚まして……お母様ぁ!!」
目を閉じれば、今も瞼の裏に浮かぶ愛しい人達の姿―――優しいアゼル、小さなアーサー、可愛いティニー。
ずっと一緒に居たかった。この手で守りたかった。
だけど、もう―――
『ごめんなさい、アゼル……ティニーの為にも、もう少し生きたかったけど……私の命も、そろそろ限界みたいだわ』
ふわり、と傍に温かな気配を感じる。
振り向くと、そこには懐かしいアゼルの姿があった。
『アゼル?』
『ティルテュ、長い間一人にしてごめんよ。今まで大変だったね』
『……いいえ。子供達が居てくれたから、辛くなんてなかったわ』
アゼルが、微かに笑みを浮かべる。
『これからはずっと一緒だ。二人で僕等の子を見守れるよ』
『ずっと……ずっとね?』
『ああ……今度こそ、変わらず二人一緒に』
―――ティルテュの心の臓が最後の鼓動を打ったその瞬間、確かに彼女は微かな微笑を浮かべていた。
自分の部屋で本を読んでいたイシュタルは、ふと従妹の悲し気な声を聞いたような気がして部屋を出た。
そのまま真っ直ぐに叔母と従妹の部屋へと向かう。
ノックをしたが、返事がないので勝手に中に入ると、そこには既に命の気配の絶えた叔母と、泣きじゃくる従妹の姿があった。
「ティニー……ティルテュ叔母様……」
「う……ひっく……イシュタル姉様……お母様が…お母様が、いくら呼んでも……目を覚まして、くれないの……!」
幼さを残しながらも、整ったイシュタルの横顔に陰が落ちる。
叔母の身体はまだ温かかったが、そこに宿る命はもはや無い。
救いはまるで眠っているだけのような安らかな死に顔―――いや、微笑んですらいた。
「……ティニー、私とイシュトー兄様の前ではいくら泣いても構わないわ。だけど、お母様の前では涙を見せては駄目よ」
「ひっく……ヒルダ……伯母様?」
自分に縋って泣きじゃくるティニーの肩を抱き寄せ、イシュタルが囁く。
たった今、母親を目の前で亡くしたばかりの従妹に言う事ではなかったかもしれないが、目を逸らせない事だったのだ。
叔母の願いはティニーの幸せ―――その為には、まず彼女自身が心強くなければならない。
「―――お母様は、由縁あってティルテュ叔母様に辛く当たっていた。
今までは叔母様自身がその矢面に立っていたけれど、叔母様亡き今、今度からは貴女がそれに耐えなくてはいけないの。
出来るだけ私や兄様が貴女を守るわ。だけど、いつも守ってあげられるとは限らない。
だから貴女は、強くなくちゃいけない。どんなに辛い事があっても負けないだけの―――心の強さが」
「心の強い……優しい子になってって……お母様もおっしゃってた」
涙でくしゃくしゃになってしまったティニーの顔をハンカチで綺麗にしてやりながら、イシュタルが優しい微笑を浮かべる。
「そうね。叔母様なら……ティニーが泣いている顔を見たら、きっとがっかりなさると思うわ」
そう呟いて、イシュタルの目がベッドに横たわった叔母の方を見遣る。
そこにはベッドの傍に立つ、生前よりもほんの少しふくよかな顔立ちの幻のような叔母の姿があった。
傍らには見慣れない、でも何処か見覚えのある顔立ちの男性の姿が在る。
その男性と叔母は視線を合わせると、二人でイシュタルの方に軽く頭を下げた。
「……ティルテュ叔母様、ティニーの事は私にお任せください。今はただ、叔父様共々……どうぞ、安らかに」
「イシュタル姉様……?」
囁くようなその言葉に、不思議そうにティニーが従姉を見上げる。
イシュタルが一瞬彼女に視線を移し、そして再び顔を上げた時には、そこにはもはや何者の姿も視る事は出来なかった。
時代に引き裂かれた兄と妹が、アルスターの地で運命の再会を果たすのは―――それから十年の後の事である。
【FIN】
あとがき
『いつか風になっても』のあとがきにも書いた、ティルテュ視点のお話です。
と言っても、当初書こうとしていたお話とは微妙にズレて行ったんですが、結果オーライ(^_^;)
アゼルの死後、どう行った経緯でティルテュがアーサーをシレジアに残して行ったのか、
どう言う状況で彼女が若くして命尽きなければならなかったのか。これで少しはフォロー出来ましたでしょうか。
突き詰めて行けば、アゼルとティルテュの死因は同じなんです。どちらもバーハラ脱出の後遺症が確実に寿命を削った。
アゼルは『血の兆し』と言う目に見える形でその前兆が現れたけれど、
ティルテュは穏やかに衰弱が進行したので、はっきりと死期を知る事は出来なかった。
最期にアゼルを出したのは、『風になっていつまでも見守っているよ』という彼の言葉が布石になっていたのでした。
誰ですか?浮遊霊だなんて言ってるのは(笑)せめて守護霊とか背後霊にしておいてください(^_^)
イシュタルが視たのは、間違いなく亡くなったティルテュ自身とアゼルの姿です。でもティニーには視えてない。
ティニーの事をよろしく頼むという想いが、ほんの一瞬だけイシュタルに自分達の姿を視せたんですね。
決して彼女がイタコ体質だったとか、そういうモノが視える人だった訳じゃないです(笑)
麻生 司