声を聴かせて
初春のある夜、不意にセティは真夜中に目が覚めた。
レジスタンス活動をしていた頃や、解放軍に参加して野営をしていた時などは、ほとんど熟睡する事は無かった。
交代で見張りが立っているとは言っても、いつ戦闘が始まってもおましくないので気が張り詰めていたのだろう。
累積すると難しいが、それでも一晩で一刻(二時間)も眠れば翌日の戦闘には差し支えないくらいには、
彼の身体は浅い睡眠に慣れてしまっていた。
奇襲に対する警戒をする必要が無い生活に馴染んでからは比較的ぐっすりと眠れる事が多くなったが、
それには一つの布石がある。
昨年の晩秋、セティはフリージ公爵家の家督を継いでいた恋人のティニーと数年ぶりに再会し、
兼ねてからの約束通り彼女を花嫁に迎えた。
傍らで安らかな寝息を立てる愛しい妻の寝顔を見ていると、
セティは一日の政務の疲れも吹飛び、非常に穏やかな眠りに就けるのである。
シレジア城に祖父母の代から奉公している者達は、未だ歳若い王の生真面目さに感心する反面、
時には彼が寝食を忘れて政務に没頭してしまう事をとても心配していたから、
彼等にとってもティニーの輿入れは願ったり叶ったりだった。
銀色の爪月は空高く在り、夜明けにはまだ遠い。
セティは同じ寝台で隣に眠っている筈のティニーの姿が無い事に気付き、
そして彼女の気配を傍に感じられなかったから自分が目を覚ました事に気が付いた。
根雪もそろそろ消えようかと言う季節だが、夜はまだ冷える。
夜着の上から薄い上衣を羽織ると、セティは寝台を下りた。
寝室を間に挟む形で、セティとティニーはそれぞれの私室を持っている。
政務を執る執務室は別に設けられているから、私室は完全に自分だけの空間だった。
とは言え、セティもティニーも理由は違えど質素倹約をモットーにして成長したので、今更特に贅沢する事に興味は無い。
従って私室と言っても、骨董品や美術品が唸るほど並んでいると言う訳でも無く、
せいぜい書棚に好きな本が収まっていたり、暖炉の上に城下で見付けたお気に入りの油絵が掛かっている程度である。
他人に干渉されない、単純に個人的な空間が其処に在る、というだけの事だった。
一応自分の私室を覗いてみるが、当然と言えば当然の事ながら、ひっそりと静まり返った部屋にティニーの気配は無い。
次いでセティは、反対側のティニーの私室の扉に手を掛けた。
そのまま開けかけたのだが―――念の為に、控えめなノックをする。
扉の向こう側からは、『どうぞ』と言う彼女の声の代わりに、押し殺したような咳の音が聞こえて来た。
「ティニー、入るよ?」
断りを口にしながら、そっと扉を開ける。
ティニーは壁際に置かれていた長椅子を火が入れられた暖炉傍に動かして、そこで横になっていた。
横にはなっていたが眠ってはいなかったらしく、セティの姿に気付くと身体を起こした。
「咳をしていたね。具合が悪いのか?」
小さく頷き、何かを口にしかけて―――また、咳き込む。
喉がひゅうひゅうと笛のような音を立てて、声を出すのも辛そうだった。
「ああ、無理に喋らなくていい。今ので、何となく判ったから。喉が痛くて、声が出せないんだね」
ホッとしたような表情で、コクンとティニーがもう一度頷く。
ぐったりとだるそうな彼女の額に手を当ててみると、熱が出ているのか、かなり熱かった。
無理に喋らせるに忍びなくて、具合などは筆談で尋ねた。
熱が出ているのに長々とペンを動かし続けるのも大変だろうと、断片的な言葉から状況を読み取っていく。
要約すると、どうも昨晩寝(やす)む前から、少し熱っぽい気はしていたらしい。
一度は寝付いたものの、夜半を過ぎた頃に咳の発作が出た。
その時には既に喉が痛んで、声を出せる状態ではなかったらしい。
運良くセティは深い眠りについていたらしく、その咳で目を覚ます事は無かった。
だが恐らく、咳の発作はこれから更に酷くなる。隣で何度も咳き込んでいてはセティを起こしてしまうだろう。
昼間の政務で疲れた夫に迷惑を掛けたくない―――だからティニーは、寝室を出て自室に篭もっていたのだった。
「ありがとう、心配してくれて。でも夜中に目覚めて君が隣に居ない事の方が、ずっと驚いたよ」
『ごめんなさい』と、声にならない声でティニーは呟いた。
心配を掛けたくなくて自室に篭もったのに、結局は心配を掛けて捜させてしまったのだ。
セティは基本的に穏やかな気性だが、身内に対しては心配性で、
案外と情が強(こわ)い所がある事をティニーは知っていた。水臭い事をするなと、怒ってしまったのだろうか。
くすりと笑ったセティが、しょんぼりとしてしまった彼女の、熱で微かに汗の浮いた額に掛かった前髪を指で払った。
「心配しなくても、怒ってないよ。
でももし今度具合が悪くなったら、一人で部屋に篭もる前に僕を起こして。いいね?」
ティニーが『はい』とかすれる声で呟き、頷いた。
「よし。じゃあこんな長椅子じゃなく、ちゃんと寝台でゆっくり寝(やす)むんだ」
額に軽く口付けると、セティが彼女を纏っていた毛布ごと抱き上げる。
ティニーはいきなり抱き上げられたのでびっくりしていたが、実際歩いて寝室に戻るのはかなり辛かったのか、
大人しくなすがままにされていた。
抱き上げられたセティの腕は温かくて、その優しい温もりに包まれているだけでもずっと身体が楽だったのだ。
ティニーが暖炉に火を入れてその傍に居たという事は、悪寒がして寒かったという事なのだろう。
実際には暖炉の火が欲しくなる程寒いとは感じないのだが、彼女を抱き上げてみて判った。
かなり熱が上がって来ているのだ。だから悪寒がするのだろう。
彼女を寝台に寝かせて毛布を重ねて掛けてやると、とりあえずそれで悪寒は治まった。
「温かくして、しばらく横になっておいで。すぐに戻ってくるから」
そう言って、セティが一度寝室を出る。
しばらく横になったまま待っていると、彼は水の張られた小さな手桶と、煎じ薬の入ったカップを持って戻って来た。
「これは喉によく効く煎じ薬。シレジアの冬は長くて厳しいから、風邪をひく者も多い。
だから症例に応じた薬が、この国では昔から親から子へと伝えられてるんだ。苦いと思うけど、我慢して」
ティニーの背中に腕を入れて身体を起こすのを手伝うと、セティは彼女にカップを手渡した。
何が煎じられているのかは判らないが、匂いや見かけだけでも『甘い』とか『飲み易い』と言う表現からは程遠い。
微かに温かいその煎じ薬を一口飲んで、ティニーの眉が思わず寄せられた。
「良薬口に苦し。全部飲まないと、ちゃんと効かないからね。その代わり、効果は覿面だから安心して。
この薬があるから、シレジアの吟遊詩人には風邪で声の出ない者は居ないんだよ」
セティは真顔で冗談を言う事があるので、何処まで本当なのか判らないが―――
あるいは、まるっきり全て本当の話かもしれないが―――自分の為にと作ってくれた薬を、飲まない訳にもいかない。
ティニーは意を決すると、カップの中の煎じ薬を一気に飲み干した。
何とも言えない青っぽい匂いと味が、喉から鼻に抜ける。
セティは寝室に用意されている水差しから新しいカップに水を注ぐと、口直しにと、それも渡してくれた。
「やっぱり、上がって来たね」
再び横になったティニーの額に手を当て、セティが眉を寄せる。
薬を作る為に席を外す前よりも、更に熱が上がったようだ。
「山に在る氷穴に行けば夏でも氷は調達出来るんだけど、人の足で歩いて行くには少々遠い。
ましてや夜中ではね。フィーが居たら、夜が明けると同時にマーニャで行って貰うんだけど」
氷は、南部に行く程に貴重品となる。
ユグドラルにおいて北方に位置するシレジアですら、雪の消える時期に入手するのは困難なのだ。
昔からの経験で『何処に行けば幾らかは手に入る』という当てはあるのだが、
年中氷が存在するような場所であるから、当然の事ながら現場までの道程は困難である事が多い。
シレジアには天馬騎士の存在があったから、まだしも恵まれていたと言って良かった。
「夜が明けたら天馬騎士の誰かに頼んで用立てて来て貰うから、今夜はこれで」
不思議そうに瞳を瞬かせたティニーの前で、セティが手桶に張られた水に両手を差し入れた。
水をすくい上げるような形に手を組んで、目が伏せられる。
ゆっくりと、百ほど数えた頃だったろうか。
「あっ!」
喉が痛む事も忘れて、思わずティニーが驚きの声を上げた。
水の中で組まれたセティの掌の中に、小さな氷の結晶が出来たのだ。
欠片のような氷の結晶は、それから更に三百を数えるくらいの間に小さな卵くらいの大きさになった。
「セティ様、これは……」
声を出すのが辛いのでそれだけしか口に出来なかったのだが、驚きは十分に伝わったようだ。
用意してあった小さな皮袋に水と、出来上がったばかりの氷を入れて、セティは小さな氷嚢を作った。
「シレジアの魔道士が、特に風魔法を得意にしている事は知っているだろう?」
こく、と横になったままティニーが頷く。
敢えて雷や炎の魔法を学ぶ者も居るが、やはり持って生まれる相性があるのか、
シレジア生まれの魔道士は風魔法を得意にしている者が多い。
その最もたるのがシレジア王家の直系であるセティや、先代のレヴィンだ。
「風魔法には、水を司る魔法も含まれていてね。
体力の消耗が尋常じゃないからあまり使われないんだが、『ブリザード』も風魔法の一種なんだよ。
これはその応用って所かな」
とは言え、幾ら何でも風魔法を扱う全ての者に、セティのような芸当が出来る訳ではないらしい。
風魔法を学んだ者が、その結果として『ブリザード』を扱えるようにはなっても、
その魔法を応用して水から氷を作り出す、等というのは、やはりセティ並の才能と制御力が必要なのだ。
もっとはっきり言えば、シレジア王家の直系くらいにしか出来ない事なのだろう。
「母が床に臥せがちになってからは、よくこうして作っていたんだけどね。
フィーにも似た力はあったけど、流石に氷を作る事は出来なかった。
上手く僕の真似が出来ないのを悔しがって、雪を手で押し固めた氷を作っていたっけ」
「フィーにも…?」
「うん。僕が父を捜しにシレジアを出てからは、それで随分母を助けてくれた筈だ」
父や兄ほどではなかったが、彼女にも確かにシレジア王家の血は受け継がれていた。
随分と努力もして、何とか兄の真似をしようと頑張ったらしいが、結局成果としては実らなかったらしい。
「フィーは魔道士の父よりも、天馬騎士だった母の血を濃く引いたんだろう。あの子に出来たのは、このくらいだよ」
そう言って、濡れた手を拭ったセティの手が、熱で火照ったティニーの頬に触れる。
その手はいつもの彼とは全く違い、ひんやりと冷たかった。
今まで水に手を浸していたからとか、氷嚢を持っていたからという理由だけではなく、
彼の手そのものが微かな冷気を発しているのだ。
「集中し続けていれば、触れれば『冷たい』と感じる程度に掌から冷気を発する事が出来る。
母が熱を出した時には、よく交互にこうして看病していたよ」
セティとフィーの父である先代のシレジア王レヴィンは、バーハラの悲劇以降、
ほとんどシレジアの地に留まる事は無かったという。
数ヶ月単位で国を離れるのはいつもの事で、時には数年姿を見せない事もあったそうだ。
そして息子のセティに聖遺物の継承者である証が出た事を確かめると、それきりシレジアに戻る事はなかった。
病気がちの母と、未だ幼い兄妹だけが残されて、どんなにか不安だった事だろう。
レヴィンにはレヴィンの事情があったのだと、今はセティ達も判っているが、
一番傍に居て欲しい時に傍に居なかった父親に反発したフィーの気持ちも、少しは判る気がする。
兄が父を捜す為に旅立った後、日々命の灯火が細くなってゆく母の看病を続けながら、
彼女は『しっかりしなければ』と、自分自身を奮い立たせなくてはいけなかったのだ……
「便利だけど、これはそう何度も出来ないんだ。
滅多にやらないせいもあるけど、実はフォルセティの制御をするよりずっと集中力が居るし、消耗する」
小石程度の大きさの氷を数作る方がラクなのだが、氷嚢にすると小さな氷ではすぐに溶けてしまうので、
結局は少し大きめの氷を一つ作った方が効率がいいのだとセティが笑う。
難しい事だとは思っていたが、まさか風魔法の最高峰であるフォルセティの制御より難しいとは。
元気になったらコツを教えて貰おう、という甘い考えが一気に消し飛ぶ。
一度エルウィンドの酷使で命を落としかけた身としては、相性の悪い風魔法であまり無茶は出来ない。
それならば、おとなしく氷穴の場所を教えて貰った方が良さそうだった。
「早く良くなって、また可愛い声を聞かせておくれ。
寝顔を見ながら話し掛けるのも悪くは無いけど、君の返事が聞こえないと、やっぱり寂しいからね」
温かさを取り戻した手で、かさついたティニーの唇に手を触れる。
そのセティの手を、彼女がそっと押さえた。
「傍に居てくださるのは嬉しいですけど、セティ様に伝染ってしまいます」
掠れる声で、それだけやっと言葉にする。
「伝染して治るのなら、幾らでも引き受けるよ」
翠の瞳がティニーを映して穏やかに微笑む。
そして唇に、優しい口付けが落とされた。
【FIN】
あとがき
内輪の風邪ネタで、久々のセティニーです。実際に季節の変わり目に風邪を引いたのは私と旦那。
寝込んだのは旦那一人ですが、その時の症状をネタに使わせて頂きました。
今回のセティは、シレジア男の真骨頂を極めていると言うか。
彼の台詞を打ってて(特にラスト付近)、背中がこそばゆくなりました(笑)は、恥ずかしいよ!(^_^;)
こう言う台詞を赤面せず、臆面も無く言えるのがシレジアの男性なんでしょう。
現代でいうとフランス人男性に近いんでしょうか。(フランス人男性に対する偏見大)
ちなみに出自こそ違えど、アーサーもシレジア生まれのシレジア育ちなので、
やっぱりナチュラルに口説き文句が出るタイプです。という事は、後天的要素?(笑)
そのナチュラル口説き文句を聞き続けている間に、フィーは見事に陥落したという訳で。
本文中にもちょっと触れましたが、フィーの特殊能力については別の機会で書きます。そう遠くない内に。
しかし段々何でもアリになって来たな……
この分だと人間湯たんぽ状態のアーサーや、蓄電器状態のティニーが出て来ても不思議じゃないじゃないか!(^_^;)
ああ、でも湯たんぽはともかく、ユグドラルに電気は無いから蓄電器には意味が無いか(笑)
麻生 司