されど、それも愛
「フィン、クッキーを焼いてみたの。良かったら食べてくれる?」
照れたような笑みを浮かべながら、城の稽古場に居たフィンにラケシスが差し出したのは小さな包み。
快く受け取った彼に、
「お料理はあまり得意じゃないから、口に合わなければ無理して食べなくてもいいから」
と、彼女は微妙な笑みを残して自分の部屋に戻って行った。
手の中の包みは、まだ微かに温かい。
粗熱が取れたばかりの焼き立てを、彼女は自分に持ってきてくれたのだろう。
自室に戻ったフィンは、香ばしい香りのするクッキーを、一つ口に放り込んだ。
『口に合わなければ、無理して食べる事は無いと言っていたけど―――』
カリコリと良い音をさせるクッキーを奥歯で噛み砕く。
多少焦げ臭い気もするが、言い換えればよく焼けていると表する事も出来る。
歯応えもクッキーらしからぬ確かさがあるが―――まあ、たまにはこんなクッキーがあってもいいだろう。
何より自分の為にと、わざわざラケシスが作って手ずから持って来てくれたのだ。例え炭のようなクッキーでも、残さず食べてみせる。
―――しかし。
「う……」
不意に、胃の中の物が逆流してくるような感覚に襲われ、フィンは思わず口を押さえて背を丸めた。
目の前に鏡が無いので判らないが、多分、顔色は蒼白だったに違いない。
脂汗が顔と言わず背中と言わず浮いてくる。心なしか、動悸もしてきたようだ。
しかしそれでも口の中の物を吐き出すような事はせず、何とか飲み込む。
そして震える手で、彼は更に二個目に手を伸ばした。
キュアンの下に『具合が悪いので食事は失礼します』と言うフィンの伝言が届けられたのは、その日の夕食前の事である。
「私の作ったクッキーを全部食べてくれたの!?エルト兄様以外では貴方が初めてよ、フィン」
「そうだったんですか?それは光栄です」
翌日になってようやくフィンは食事の席に姿を見せたが、スープを少し口にしただけで、まだ食は進まないようだった。
昨晩夕食の席に来なかった彼を気遣い、ラケシスが声をかける。
まだ顔色は本調子とは言えなかったが、自分を心配させないように笑ってくれているのが、ラケシスにもよく判っていた。
ラケシスとフィンは、アグストリアで初めて出逢った。
フィンの主君であるキュアンの妻となったエスリンも公女であったが、ラケシスのプライドの高さは彼女の比ではなかった。
異母兄であるエルトシャンを崇敬すること神の如く、また彼女自身もアグストリアの王女であるという事に高い誇りを持っていた。
それは王族の姫君の我侭や気ままさを意味する訳ではなく、言ってみれば持って生まれた品の違いと言うべきか。
彼女の母は父王の妾の一人ではあったが、ラケシスの気位の高さは生粋の王族にも勝る。
父王の名を汚さぬように、例え妾腹の生まれでも誇り高く生きよと、幼少の頃から生母に厳しく育てられた結果であった。
しかしその彼女の護衛を務めるのは、並みの事ではない。
今まではエルトシャンの信望も厚い騎士三兄弟がその任に当たっていたが、彼等にはノディオン城を守護する役目がある。
ラケシス自身も、城を離れて兄の潔白を証明する為にシグルドに同行する意を示した為、自ずと新たな護衛役が必要になった。
その時白羽の矢が立てられたのが、キュアンの側近を務めていたフィンである。
「フィン、明日からお前はラケシス王女の護衛につけ。彼女が無茶をしないように―――その、しっかりとな」
「はぁ……」
要するに、口ほどに実力の伴っていない姫君のお守りだった。
キュアンがはっきりそう言った訳ではないが、率直に言えばそう言う事である。
彼女は黒騎士ヘズルの血を継いでいる。
並みの使い手よりは潜在的な実力は在るのだろうが、如何せん女性の身では、絶対的な腕力不足であった。
可細い腕で剣を振り下ろしても、敵に決定的なダメージを与える事が出来ないのである。
下手に前線に出れば、返り討ちにあう危険性の方が大きい。
だから差し当たってのフィンの役目は、やんわりとラケシスを前線から遠ざけ、せいぜい回復役に徹して貰う事だった。
始めはギクシャクもした。
『どうして私を前線に出させてくれないの!?剣の指南なら、エルト兄様にちゃんと受けているのに!』と、厳しい口調で詰め寄られた事もある。
キュアンから申し付けられた事とは言え、長い時間を共に過ごす内に、フィンの心中にはラケシスに対するごく自然な好意が芽生えていた。
以前は義務から彼女の前線出撃を阻んでいたのが、
いつしかそれは彼自身がラケシスが戦場で傷付く所を見たくないと言う想いに変わっていった。
またラケシスの方でも、寡黙で融通が利かないフィンを、最初は堅苦しいだけの男だと思っていた。
自分が王女だというだけで媚びへつらう男に傍に居て欲しいとは思わないが、完全に義務感だけで傍に居られるのも内心面白くない。
しかし時間を掛けて、彼の真に生真面目な性格やキュアン夫妻に対する忠誠心を知るにつれ、次第に彼女も心を開けていったのだ。
互いの命を支えにしながらアグストリアからの脱出を果たしたニ人の間には、互いを想う心が結ばれつつあった。
「具合が悪いのなら、まだ休んでいた方がいいんじゃなくて?」
「いえ、本当にもう大丈夫ですから」
特に病気と言う訳でもないですし―――と口に仕掛けて、寸出で言葉を飲み込む。
まさかラケシスの作ったクッキーを食べた事で、腹を壊して一晩寝込んでいたとは言えない。
だが彼が口にしなかった事に、ラケシスはちゃんと気付いていた。
「やっぱり、私の作ったクッキーが原因だったのね。昨晩から具合が悪いと聞いていたから、そうじゃないかとは思っていたのよ。
だから口に合わなければ、無理をしなくて良いと言ったのに―――まさか、寝込んでまで全部食べてくれるなんて」
「いえ―――決して、ラケシス様のせいでは。ここ数日、疲れから本当に具合が悪かったのです。
昨晩は少し熱を出してしまいまして、それで……」
寝込んだ原因はラケシスには無関係だとフィンは否定したが、彼女はその言葉を額面通り受け取りはしなかった。
「具合の悪い人が、何時間も槍の稽古が出来るものなの?昨日貴方は、たっぷりニ刻(四時間)は稽古場に居たわよ」
「それは……槍を持ってる間は―――具合が悪い事を、忘れていましたので」
僅かに言い淀みながら、そう口にする。
我ながら苦しい言い訳だとは思ったが、やはりラケシスは騙されてはくれなかった。
「嘘が下手ね、フィン―――でも、ありがとう。私を傷付けないようにって、気を遣ってくれて」
「ラケシス様……」
申し訳無さそうにラケシスが、一晩で少しやつれたフィンの頬に手を触れた。
「私、昔からお料理は特別苦手で。幾らやっても、ちっとも上達しないの。
貴方にはいつも助けて貰っているから、お礼のつもりだったのだけど―――かえって、迷惑を掛けてしまったわ。
エルト兄様に昔パイを焼いて差し上げた時も、具合を悪くして寝込まれた事があるのよ」
「そう―――だったんですか」
フィンは冷や汗をかきながら、そう応えた。
聞けばエルトシャンも、顔を青褪めさせながらラケシスの焼いたパイを全て食べきったのだと言う。
それから三日間、彼は寝台から起き上がる事が出来なかったらしい。
自分が一晩で回復したのは単に運が良かったのか、少しはラケシスの腕がマシになっていたのか。多分、両方なのだろう。
それにしても口にしたら三日も寝込むパイとは、一体どんな代物だったのだろうか。
「城の侍女たちに教えて貰いながら、同じ材料を使って焼いているのに……どうして、こうも差が出るのかしらね。全く、嫌になるわ」
「仕方ありませんよ。ラケシス様程の身分の方なら、料理をする為に厨房に立つ必要など、本来は無いのですから。
貴女の手はヘズルの血統を継ぐ者として、剣を取る為にあった。
ですから―――例え他の事が不得手でも、お気になさいませんよう」
「ごめんなさい、本当に」
ラケシスの瞳が伏せられた。
フィンが具合を悪くしたと聞いて、『やはり』と思った。
少々味が劣っても、せめて体調を崩さないで欲しいという、楽観的な願いは見事に裏切られたのだ。
彼なら例え不味くても不味いとは言わずに――事実、その通りだった――食べてくれたに違いない。
申し訳なく思い、塞ぎ込んでいた彼女の部屋の扉を夕食後に叩いた者が居る。イザーク王女の、アイラであった。
「遅くに済まない。実は夕食前にシャナンにせがまれて菓子を焼いたのだが、思いのほか作り過ぎてしまって。
余り物で申し訳ないが、良かったら茶菓子にでもして貰えないか?」
「ありがとう、喜んで頂くわ―――ところで、これってアイラが焼いたの?」
アイラに断わって包みを開けると、そこには綺麗に焼き上がったクッキーが並んでいた。
自分の作った物もクッキーだが、こうしてみると何と違いのある事か。
一つ食べてみたが、ふわりと甘く柔らかで、客人に出しても申し分ない出来だった。
「アイラ―――お菓子作り上手なのね。私は全然駄目で……ちょっと落ち込んでいたのよ、今」
何故自分の菓子を見てラケシスが落ち込むのか、不思議そうな顔をしたものの、アイラは特に理由を問い質す事はしなかった。
夕食の席にフィンが現れなかった事を思い出し、何かは察したのだろう。
「亡くなった母に一通りの事はこなせるように仕込まれはしたが、私も正直、料理は得意ではない。憶えろと言われたから、憶えたまで。
例え料理が不得手でも、貴女には他に立派にその手を活かす術がある……それで良いのではないか?」
「そうね……」
料理や裁縫と言った家庭的な事よりも、剣を扱う方が得意な女性も存在する。
きっと私達はその見本なのだと、アイラは苦笑を浮かべて見せた。
それから談話室に出向いたラケシスは、そこに居合わせた数人に話を聞いて、更に落ち込みの度合いを深くした。
『料理?子供の頃から養父に仕込まれたから、まあそれなりに。
城で出されるような食事は作れないけど、外で大人数分の仕度をするのは得意だよ』―――これはブリギッド。
『私も得意じゃないけど、父様と兄様、それとキュアンの好物だけは作れるわ。これだけはと、特訓したの』―――これはエスリンだ。
『あたしを育てた親方って、おっかない人でね。賄いは全部あたしがやってたのよ、これでも。
シグルド様達に付いて来たお陰で、ようやくおさんどんから開放だわー』―――とはシルヴィア談。
唯一ティルテュだけが、
『え、料理?うーん、実は全然駄目なの。
一度かまどを煤だらけにした事があって、それきり城の賄い頭に厨房に近付いてくれるなって怒られちゃって』
……と、ようやく同士を探し当てたものの、虚しくて喜ぶ気にもなれなかった。
料理下手が自分一人では無かったと判った事だけが、せめてもの救いである。
ちなみに談話室で会えなかったエーディンとフュリーの料理の腕前は、普段の立ち居振舞いで推して知るべしだ。
わざわざ探してまで同じ事を尋ねる気には、ラケシスはなれなかった……
「……私も女だから、お菓子くらいまともに作りたいとは思っているの。
だってそうでもなければ……感謝の気持ちを表すのに剣しか使えなくては、稽古の相手くらいしか出来ないでしょう?
でも私が何かを作る度に病人が出るのでは、士気に関わるものね―――やっぱり、もう止めた方がいいのかしら」
俯いてしまったラケシスを前に、フィンは迷った。
キュアンにラケシスの護衛につくようにと、命じられた時以上に戸惑った。
このまま彼女に、辛い思いをさせていていいのか。
彼女は彼女なりに、精一杯自分に対する感謝を伝えようとしてくれた。
ここで自分が沈黙してしまっては、ラケシスは一生『料理下手』と言うレッテルから逃れられない。
経験不足だと言うのなら、経験を積めばいい。とにかく数を作って、コツと勘を身体で覚えてしまえばいいのだ。
彼女の作る物ならば、消し炭に見えようが石のようだろうが、飲み込む事さえ出来れば必ず自分が食べてみせる。
例え、それで寝込む事になろうとも―――
ラケシスの手が、ガッシと大きな手に握り締められる。
滅多な事で感情を露にしないフィンの勢いに、思わず彼女は一歩後ずさって瞳を瞬かせた。
「ラケシス様、ならば徹底的にやってみてください。
センスとか才能も、多少は噛んでくるんでしょうが……料理なんて、所詮は経験の賜物です。
慣れる事で上達するのなら、喜んで私がその味見役になりますから」
目を丸くしていたラケシスが、プッと吹き出す。
フィンは彼女の手を握っていた事に今更のように気付いて、慌てて手を離した。
「ありがとう。本当はね、何とかしたいってずっと思ってたの。
私が手料理を作る度に、相手の具合を悪くしてしまうのが申し訳なかった。
……言っておくけど、私の料理下手は筋金入りよ。味見役になった人には、きっと迷惑を掛けるわ。それでも―――いいの?」
「一度口にした事を違えた事がないのが、数少ない私の自慢です。
それに、今回も一晩で回復したでしょう?きっと私はエルトシャン様より、胃が丈夫なんですよ。だから―――大丈夫です」
その言葉に浮かんだラケシスの笑顔は、まるで華が咲いたようだった。
「フィン、昼食後に手合わせでもどうだ?」
執務用の机に向かったフィンの背に、キュアンが声を掛ける。
常なら打てば響くように『はい、是非!』と言う声が返って来るのに、
微かに背を丸めてうな垂れたフィンの耳には、まるで聞こえていないようだった。
「おい、フィン?」
「あ……はい、何でしょうか?キュアン様」
肩を叩かれ、ハッとして振り返ったフィンの顔色は、お世辞にも良いとは言えなかった。
「何だじゃないだろう。どうした?その顔色は。何処か具合でも悪いんじゃないのか?」
「いえ―――別に。すみません、少しボウッとしていたものですから」
我慢強いのはフィンの美点の一つではあったが、この顔色で『何でもない』と言われて信じるほど、キュアンも馬鹿正直ではない。
「……お前は昔から、我慢し過ぎる所があったな。
手合わせの時に腕を挫いたのに、その痛みを我慢して稽古を続けて、医者に大目玉を食らったのは何処の誰だ?」
「それは私が城に上がったばかりの頃で、もう数年前の話でしょう。よく憶えていらっしゃいましたね」
まだ槍を手にしたばかりの頃の話を持ち出されて、フィンが赤面する。
確かにあの時は挫いた手首をすっかり傷めてしまい、一ヶ月の間は槍を持つなと、城の侍医にくどくどと説教されたのだ。
「まあ、それはさておいてだ。察するに腹具合が悪いと見たが……?」
彼の隣の椅子を引いて腰を下ろすと、肩を抱くようにしてキュアンがフィンの傍でボソボソと耳打ちする。
エスリンは甥っ子の様子を見に兄の部屋へ行っており、部屋には他に聞く者も無かったのだが、声を顰めるのは内緒話の常だ。
特に怪我をした様子も無く、かと言って風邪とも若干様子が違う気がする。
寝込む程ではないが、顔色が冴えない、やつれた感じがすると来たら―――食中りか、腹を壊したくらいしか思いつかなかった。
一瞬だが、フィンの肩がギクリと緊張する。ぽん、と軽く、キュアンは生真面目な側近の肩を叩いた。
「よしよし、嘘をつけないのもお前の美点だな。そうか、図星ね……ひょっとして、原因は―――ラケシスか?」
ぐっ、とフィンの喉が、何か喉に詰まらせたような音をさせた。
つくづく嘘をつく事の出来ない奴だと、内心で彼に同情する。
「…………どうか、エスリン様には御内密に」
「約束しよう。しかし、お前も苦労するな」
キュアンの面に、微苦笑が浮かんだ。
この数日、ラケシスがほぼ毎日のようにフィンに手作りの菓子を差し入れていた事は知っている。
怪我でも、城の食事が原因でもないとしたら――同じ物を食べて他の者が平気なのだから、これは問題ない筈だ――
彼女からの差し入れが原因としか思えない。
消去法でも辿り着く結論であったが、実はキュアン自身にも身に憶えがある事だったので、容易にフィンの苦悩は察せられた。
「ここだけの話だけどな、エスリンの料理も、そりゃあ最初は目も当てられなかった。
俺の為にって頑張ってくれるのは判るんだが、努力が実績に追いつくのに半年掛かったよ。
その間に身体からは無駄な肉が落ちて、すっかり引き締まった」
「半年―――ですか」
はは、とフィンの口から乾いた笑い声が漏れる。
元から余分な肉などほとんど付いていない自分は、一体何処が減って行くのだろう?
「―――でも、逃げ出す訳には行かないよな?男なら」
「はい。これが今私に出来る、精一杯ですから」
にやり、とキュアンの口元に浮かんだ笑みに、フィンが頷き返す。
人から訝しく思われようとも、これも愛。
愛しいラケシスの笑顔の為ならば、例え他にはスープしか口に出来なくなっても、悔いは無かった。
しかし例え頬がこけても、槍を振るう為の筋力だけは維持しなくてはいけない。
今晩から一層基礎体力作りに励もうと、フィンはひっそりと決意を新たにした。
フィンの人知れない苦労は、それから三ヶ月の間続いたと言う……
【FIN】
あとがき
バレンタインネタ企画SSの最終は、お久し振りのフィンラケでした。しかもほんのりギャグタッチ(笑)
実はこれ、以前出した個人誌(お陰様で完売)に載せていた4コマ漫画が元ネタになってます。
ユグドラルにバレンタインと言う概念は当然無いので(だから三月のUPに後回ししたんです)、
単に手作りのお菓子ネタにしようと決めて、その時に『あ…昔描いたあの4コマ、ネタに使えるかも…(笑)』で採用決定。
細かい所で手直しはしてますが、大筋は一緒です。
麻生 司