長い夜を越えて
「ティニー様、そろそろ中に入られないと風邪をひかれますよ」
空を茜に染める夕暮れの中、自室の露台に出ていたティニーの背に気遣わしげな声がかけられる。
彼女の母の代から城に仕え、今変わらず彼女の身の周りの世話をしてくれている老執事であった。
「ごめんなさい。でも、もう少しだけ……」
哀愁を帯びた瞳に振り返られて、老執事は小さく諦めたような息をつく。
手にしていたショールを歳若い主人の肩に残すと、彼は黙って部屋を後にした。
「もう…少しの間だけ―――」
呟くティニーの瞳は遥か遠く、北に連なる山脈を見詰めていた。
聖戦終結より、約一年半。
グランベル国内でも地理的に北方に位置するフリージ領では、早くも冬の気配が足早に近付いていた。
シレジア王国との国境になっている北の山脈は、数日前に降った雪で、山頂付近が薄っすらと雪を被っている。
今少し本格的な冷え込みが続けば、シレジアとの陸路を閉ざすのもそう遠い事ではない。
午前中、領内の視察に出ていたティニーは、城に戻ると客人の来訪を知らされた。
「お客様?」
友人は少ない訳ではないが、今はそれぞれ遠い地に住んだり責任ある立場であるという関係上、
あまり自分の領地を長く空けて頻繁に訪れる者はいない。
それでもマメに訪れてくれていた者もいるのだが、それもある都合で足が遠のいている。
一体誰だろうと客間の扉を開けたティニーを、懐かしい声が出迎えた。
「お久し振り、ティニー!」
「フィー義姉(ねえ)様!!」
「くすぐったいなぁ。フィーでいいったら」
約半年ぶりでフリージを訪れたフィーは、翠の瞳を細めると屈託無く笑った。
聖戦後も足繁く交友を深めるべくフリージに通って来てくれていたのは、何を隠そう彼女である。
「でもこんな時期にどうしたの?もう身体は辛くないの?」
ティニーとフィーは元々仲が良く、それぞれの領地を継いでからもよくお互いの居城を行き来していた。
特にフィーは天馬騎士として聖戦を戦った騎士である。
愛馬のマーニャも無事に聖戦を生き抜き、よくフリージ城まで主人を乗せて遠乗りに来たものだ。
そのフィーがこの半年フリージを訪れなかったのは、彼女がアーサーの子を身篭ったからである。
万事に楽観的なアーサーも、流石に身重の身体で天馬に乗る事を許さなかったのも理由のひとつだが、
何よりもフィー自身が悪阻に参ってしまって遠乗りどころではなかった、というのが本当の所である。
「ん、お陰様でもう大丈夫。今が一番落着いてるし」
悪阻も治まった事だし、お腹の子の為にも程よく動いた方がいいという先達の意見も聞き、
そろそろ目立ち始めたお腹を抱えながらフリージまでやって来たのだった。
勿論、馬車でではあるが。
「それでご無沙汰しちゃった分、しばらくお邪魔してたいんだけど、いいかしら?」
「ええ、それはもう。どうかゆっくりして行ってね」
気心の知れた友――今は義姉でもあるが――の来訪は、ティニーを思いの外喜ばせた。
この時、彼女の来訪の本当の理由を、ティニーはまだ知らない。
それが明かされたのは、それから更に数日後の事であった。
「今日は冷え込むわね」
フィーの座る椅子を暖炉に近付け、この冬初めての火を入れながら呟く。
「そうね。この分だと、夜には雪が降るかも」
ティニーに礼を言いながら、フィーがそうっと窓の外を伺う。
冬の夜は早い。夕闇は急速にその色を失い、後には夜の帳だけがその裾を広げている。
「…シレジアにも、もう雪は降っているのかしら」
呟くような小さなティニーの囁きを、だがフィーは聞き落とさなかった。
フィーの視線に気付き、ティニーの頬が僅かに朱に染まる。
「私…シレジアで生まれたのに、ずっと小さな頃に伯父様にアルスターに連れて来られて―――覚えていないの。
知らないのよ、何一つ……」
ティニーの横顔は、少し寂しげだった。
「そうね…初雪くらいは降ってるかな。街道が閉ざされるのも、もうすぐね」
そう、と応えたティニーも窓の外を見る。
その瞳には、遠くシレジアに続く来たの山脈が映されていた。
「…ティニー、お兄ちゃんに逢いたい?」
「え…!?」
思わず首筋まで朱に染めたティニーを見て、フィーがクスリと笑う。
「逢いたいよね…だって、このフリージ領を治めなくちゃならなかったから、
貴女はお兄ちゃんと一緒にシレジアに帰る事が出来なかったんだもの。本当は今頃、シレジアの王妃になっていた筈なのに」
「…フリージ領を継ぐ事が、母様の血を引く私に出来る、唯一の事だったから―――」
微かな笑みを浮かべると、ティニーは静かに瞳を伏せた。
聖戦終了後、聖戦士の末裔達はそれぞれ縁のある土地を再興させる為に、各地へと帰って行った。
長い戦いの日々の最中に愛を育んだ者達は、その伴侶を連れて―――
新トラキア王国には、リーフとアルテナ、フィンは勿論の事、フィンの娘であるナンナもリーフの花嫁として同行した。
アグストリアにはリーンを連れたアレスが、ヴェルダンにはレスターがパティと共に帰国した。
イザークにはシャナンが帰国し、ラクチェを王妃に迎えている。
グランベル国内でも、バーハラ王家をセリスが継ぎ、王妃にはラナが迎えられた。
皇女ユリアもバーハラ王家に残ったが、彼女はドズル家を継いだスカサハと将来を約束している。
国内が完全に復興していない今は、まだお互いに時を待っているが状態だが、いずれ遠くない将来結ばれるだろう。
その他ユングヴィ領はファバルが、エッダ領はコープルが、シアルフィ領はオイフェがそれぞれ継いだ。
ヴェルトマー領はアーサーが継ぎ、その彼にフィーも同行して今に至る。
そして運命の日―――ティニーは進むべき道を、自分の意志で選び取ったのだった。
「私は、フリージ領を継ぎたいと思います」
セリスを前にきっぱりとそう宣言したティニーの周りで、ざわり、とどよめきが起きる。無理も無い。
彼女とセティの仲睦まじさを知らぬ者はいなかったから、皆当然、彼女はセティと共にシレジアに帰るものだとばかり思っていたのだ。
セリスですら一瞬の困惑の表情を浮かべた中で、ただ二人、ティニーとセティのみがその静けさを保っていた。
「伯父と伯母が汚したフリージの家名を、私の手で雪ぎたいのです」
ティニーの瞳に迷いは無い。
フィーは驚いて兄を見たが、セティは妹に微かに頷いて見せただけで、失意や驚愕と言った物は感じ取れなかった。
だとすれば、考えられる事は一つしかない。
兄も知っていたのだ。恋人の―――選んだ道を。
「あの時、セリス様は少し困ったような顔をされた後、結局貴女の願いを聞き入れてくださったのよね」
当時の事を思い出しながら呟いたフィーに、ティニーは微笑を浮かべたまま頷いた。
自分は一生忘れないだろう。
あの時、自分の願いを聞き届けたその直後、彼女にだけ聞こえる小さな声で、『すまない』とセリスが囁いた事を。
「…私も悩んだの。出来る事なら私だって、ナンナや貴女がそうしたように、セティ様について行きたかった。
ずっとあの人の側に居たかったわ。だけど―――」
…皆が今後の進退についてセリス王に謁見するその前夜、ティニーはまだ自分の去就を決めかねていた。
恐らくは自分と同じ思いを胸に抱いていた兄のアーサーは、父の生家であるヴェルトマー家を継ぐ事を、いち早く決めていた。
その事は聞かされたものの、彼は妹に、時分と同じ生き方を強要はしなかった。
『お前は、お前の信じる道を進めばいいさ。フリージ領はバーハラ王家の直接統治という手段もある。
自分を犠牲にしてまで、代わって罪滅ぼしをして欲しいなんて、母さんは考えないんじゃないかな』
そうしたいと思ったから自分は父の生家を継ぐのだと、兄は笑ってくれた。
だがそんな無邪気な笑顔の裏側で、兄がフィーの事を諦める覚悟で敢えてその道を選んだ事に、ティニーは気付いていた。
結局はフィーが自分の意志を押し通した結果、収まる所に収まった訳だが、
それ程までに此度の聖戦におけるヴェルトマーの家名は重く、重要なものだったのである。
つきん、と胸の奥が痛む。
セティと離れたくはない。だが、母の生家も継いでやりたかった。
フリージの血を受け継いだ者としての単純な義務感だけではなく、
この聖戦を目の当たりにし、生き抜いた自分だからこそ出来る事がある筈だ。
築いた物を壊すのは容易い。
だが新たに築き、そしてそれを守る事は、ただ破壊するよりもずっと困難だ。
あの凄惨な戦を記憶に刻み付けた自分になら、守る事が出来るかもしれない。
喪う事の哀しさを、知っている自分になら―――
城の楼閣でじっと唇を噛み、考え込んでいたティニーは、不意に肩にふわりと何かを掛けられた事で我に返った。
「あ…セティ様?」
「夜風は身体に悪い」
穏やかな翠の瞳を微笑ませて、セティが彼女の隣に立つ。ティニーの肩には、彼のマントが掛けられていた。
傍らに立ったまま、セティは何も言わない。尋ねる素振りも無い。
ただじっと、傍らに佇むのみであった。どのくらい、そうしていたのだろうか。
「―――セティ様」
「ん?」
応えたセティの声は、早過ぎる事も、遅過ぎる事もなくて―――ティニーは目頭が熱くなった。
彼は何もかも判っていて、それでも自分から問い質す事はせずに、
自分自身の口から結論を出せるようになるその時まで待ってくれていたのだ。そう、いつの日も―――
「セティ様、私は―――」
一度呼びかけると、不思議な程胸の鼓動は静かだった。
それは、心が確信していたからだ。セティは、きっと自分の事を判ってくれるという事を。
「―――私は、フリージ家を継ぎたい」
セティは切ない程に透き通った微笑を浮かべたまま『うん』と呟くと、次の瞬間彼女の身体を引き寄せ、抱き締めた。
ティニーの瞳から、遂に堪えきれなくなった涙が溢れ出る。
彼女の流した涙はセティの胸を濡らしたが、彼は彼女を抱く手を離そうとはしなかった。
「ごめんなさい…ごめんなさい、セティ様……私、貴方について行きたかった。ついて行きたかったけど―――」
より強い、だが優しい抱擁がセティの答―――抱き締められた胸も、そっと髪を撫でてくれる手も、温かな彼自身で……
ティニーは胸を塞がれるような愛しさと切なさで、ただセティの背を抱き返すことしか出来なかった。
「泣く事はない、ティニー。これは、君が選ばなくてはならない道だった。君自身が考え、選んだ道だからこそ意味がある。
ならば僕も、共にその道を受け容れよう。今、しばらくは―――」
「え……?」
セティの言葉の意味を図りかねて、ティニーが不安げな面を上げる。
彼女の頬の涙を指で拭ってやりながら、セティは安心させるように言葉を続けた。
「僕はシレジアに帰る。だが、それは君の事を諦めるという意味ではない。
僕はシレジアを復興させる。君はフリージ公国を再建する。そして互いの国が安定し、落着いたなら―――
必ず、君を迎えに来よう。例えその時、全ての街道が凍てつく雪と氷に閉ざされていたとしても、必ずだ」
そうして、不意に口を閉ざす。
常には滅多に崩される事の無い穏やかな笑みに、今は少年のような、微かな躊躇いにも似た色が浮かんでいる。
「セティ様…」
訝しむティニーの声に、セティは閉ざされた言葉の続きを口にした。とても、照れ臭そうに。
「…母上の生家を継ぐという決心をした君には、勝手な願いだろうな。
だが君を一人で行かせなければならない僕の、最初で最後の我侭だと思って聞いて欲しい」
最後は、消え入りそうな程小さな囁き―――ティニーはまだ少し涙の残る瞳に笑みを浮かべ、セティを見上げた。
「では、私もいつまでも泣いている訳には行きませんね。
一日も早くフリージを再建して、セティ様が迎えに来てくださる日をお待ちしなければ」
二人の間に笑みが浮かぶ。
セティの想いの深さは確かに受け取った。もう明日からの、自分達を遠く隔てる距離は関係ない。
「ティニー、離れていても、心はいつも傍にある」
「はい……」
セティは彼女の唇に口付けを落とすと、最後にもう一度だけそっとティニーを抱き締めた。
「…セティ様は、『必ず迎えに行く』と言ってくれた。
それが例え、シレジアとフリージを継いだ私達には一生果たされる事がないかもしれない約束でも…嬉しかったの。
セティ様が、そう言ってくれた事が」
セティと交わした約束をフィーに語り終えると、ティニーは暖炉に爆ぜる炎を瞳に映した。
黄金の炎が、紫水晶の瞳の中で微かに揺らめいている。
「ティニー……」
躊躇いがちなフィーの声に、ティニーは『大丈夫』と呟いた。痛ましいほど、無垢な笑みと共に。
「私は大丈夫。セティ様が残してくれたこの約束だけで、私は頑張れる。これからも、待っていられる。
今までもそうだった。そして、これからも……」
ユグドラル大陸の復興は思いの外急速に行われていた。
当初五年はかかるだろうと言われていた、各国力の回復や街道の整備なども、
各地に散ったかつての仲間達の懸命な指導と民衆の呼応によって、早成果を見せつつある。
中でも、フリージ領は元々被害の小さな地域だった。
今は亡きイシュタルが、母ヒルダとユリウスの目を欺きつつ、自分の生まれ育った土地を、愛した城を守った結果である。
だがグランベル王国の直轄地となったミレトス地方や新トラキア王国、シレジア王国は事情が違う。
受けた被害の大きさと、傷の深さが比較にならないのだ。
どんなに力を尽くそうとも、一人の力では出来る事にも限りがある。
「…お兄ちゃんてば、果報者よね」
「え?」
唐突なフィーの言葉に、思案に沈んでいた意識が現実に戻る。
不思議そうな顔をしたティニーに、フィーは悪戯っぽい笑みを向けた。
「だってそうでしょ?貴女に、こんなに想われてるなんて。お兄ちゃんには勿体無いくらいだわ」
本当の身内だけに、言う事に容赦がない。
ぽんぽんと出てくる実兄への手厳しい批評に、ティニーが思わず目を丸くする。
「だってお兄ちゃんて、昔っから要領が悪いんだもの。
一本しかないハズレくじを、真っ先に引いて来るような人なのよ?
貴女が恋人になってくれたのが今でも不思議なくらい、不器用でお人好しなんだから」
「フィーったら」
放っておくと、いつまでも止まりそうにない。苦笑いして止めようとしたティニーに、だが、フィーは真面目な顔で口にした。
「だからね、ティニー。フリージが安定した今、貴女にはお兄ちゃんの助けになって欲しいのよ」
「…フィー、ありがとう」
そう出来ればどんなに良いか。
言葉にはしなかったが、フィーとて彼女の微妙な立場は判った上で話しているのだ。
自分自身の幸福を掴めと、ティニー自身が思っていても口に出せない望みを、彼女は代弁したに過ぎない。
それが判っているから、自然に『ありがとう』という言葉が口をつく。
色の白い面からも、僅かだが憂いの影が消えた。
少しほっとしたように表情を和ませたフィーが、ふと闇に閉ざされた窓の外に視線を走らせた。
丁度暖炉に新しい薪をくべていたティニーは、彼女のその動きに気付いていない。
「ねぇ、ティニー。一つおまじないを教えてあげましょうか」
「おまじない?」
「そう。シレジアの女の子が、子供の頃によくやるおまじないなんだけどね。今思えば、結構効果覿面かも」
何でもそのおまじないをしたフィーの母、フュリーが、後に王子であったレヴィンと願い通り結ばれたのだという。
気休めでも、女の子はこういう話は好きなものだ。
「おまじない自体は簡単なのよ。その年の冬、初めての雪に願いをかけるの」
「その年初めての…雪に?」
呟いたティニーに、フィーがコクンと頷いて見せる。そしてそのまま、窓の外を目で指した
誘われるように窓の外を見やったティニーは、そこに風に舞う、雪を見た。
「雪が―――」
椅子から立ち上がり、露台に出る。
露台に通じる窓を開けたままでは部屋が冷えてしまうので、フィーに断って窓をしめた。
『もしも、願いが叶うなら―――』
願う事は、たった一つだ。
今度こそセティについて行き、何があろうとも決して離れない。
「セティ様の傍に居たい…ただ、それだけなの」
小さく囁かれたささやかな望みは、舞い散る雪にかき消えて行く。
吐く息の白さに今更のように気付き、部屋の中へと戻ろうとした、その時だった。
「―――え……?」
バーハラを介してヴェルトマーへと続く街道を、駆けて来る二つの騎影がある。一つは、誰だかすぐに判った。
風に靡く長い銀の髪は、兄のアーサーだ。
だが、兄と並んで手綱を取る、もう一人は―――?
「これは、夢……?」
「いいえ、現実よ」
いつの間にか露台に出て隣に立ったフィーが、それがティニーの見間違いではない事を証明する。
「じゃあ…あれは、本当に―――?」
微笑んで頷いたフィーを見て、ティニーの瞳から涙が溢れた。後から後から、絶え間なく。
僅かに前を駆けるアーサーと同様に巧みに手綱を捌き、頬を刺す冷たい雪混じりの風に、翠髪を靡かせ駆けて来るのは―――
「セティ様―――」
フリージの番兵とは顔見知りであるアーサーが先行し、城門を開かせる。
「行ってらっしゃい、ティニー。お兄ちゃんを出迎えてあげて」
騎馬ごと城門を駆け抜けた兄と夫の姿を見届けて、フィーがティニーを促す。
驚きのあまり呆然としていた彼女であったが、頬の涙を手の甲で拭い頷くと、ティニーは表へと駆け出して行った。
ティニーが中庭に走り出ると、セティは丁度馬から下り、長く走らせていた事を労わるように軽くその背を叩いてやっている所だった。
「セティ様!」
ティニーの声にセティが振り向く。
部屋着のままで出て来たので夜気が沁みるように体温を奪ったが、構わず駆け寄り、両の手を差し伸べる。
一年半ぶりで逢う恋人は、懐かしい変わらぬ笑みと共に、優しく彼女を抱き止めてくれた。
「セティ様…どうして?」
突然の来訪の真意を、真っ直ぐに見上げて問い掛ける。
「約束を果たしに」
自分のマントをティニーに着せ掛けて、セティが笑顔で応えた。
「君を迎えに来たんだ」
これは夢なのだろうか。
今自分は夢を見ていて、目覚めたら全てが幻のように消えてしまうのではないかと、ティニーは本気でそう思った。
セティに逢いたいと、言葉には出来ないその想いを感じ取ってくれたフィーが、気休めにでもなればとおまじないを教えてくれて……
例え気休めだとしても、願った事は本気だった。その想いが、天に通じたのだろうか。
「遅いわよ、お兄ちゃん」
すぐ近くでフィーの声がする。
薄着で外に出たティニーの為に厚手のマントを持って出て来たのだが、
彼女はセティのマントを身につけていたので、兄の肩にそのマントを羽織らせる。
「昨日の内には着くと思っていたのに、ちっとも来ないんだもの。
寒さは日を追うごとに厳しくなるし、雪は降ってくるしでヒヤヒヤしちゃったわ」
めっ、と軽く兄と夫を睨む。
セティとアーサーは互いの顔を見合わせると、すまなそうに肩を竦めた。
「あの…じゃあもしかして、フィーは知っていたの?セティ様が、ここにいらっしゃる事を」
彼女の話を聞く限りでは、そうとしか思えない。
フィーは小さく舌を出すと、『ごめんね』と呟いた。
「貴女を驚かせるつもりだったの。でもいきなりお兄ちゃんが訪ねて来て、万が一貴女が城を空けてたら格好がつかないでしょ?
だから私が先行して、さりげなく貴女をフリージ城に足止めしていたという訳」
外の寒さは身重のフィーに良くないので、四人は居間に戻った。
なるほど、ご無沙汰していたお詫びというのも本当だが、一番肝心な目的は、ティニーを城から遠出させないという事だったらしい。
「セリス様とはすぐにお会い出来る段取りだったんだが、バーハラの城下でちょっとした事故があってね」
一週間程前に降り続いた雨で、古くなっていた城下の橋の一つが流され、怪我人が出る騒ぎになっていたらしい。
「セリス様と一緒に事後処理やら怪我人の治療に当たっていたので、一日予定がずれ込んでしまった」
遅れた理由を二人から聞いたフィーは、『それなら仕方ないわね』と納得する。
「それで、ちゃんとお許しは頂いて来たんでしょうね?それを忘れて来てたら承知しないわよ。時間がないんだから」
「勿論、ちゃんと頂いて来たよ」
妹曰く、『底抜けのお人好し』と称されるセティだったが、苦笑を浮かべてそう言った。
「なら、よろしい」
「セティ様、お許しって、まさか……」
思わず、そう口にする。応えたのは兄の、義姉の、そして最愛の人の笑顔だった。
「そう。君を、シレジアの王妃として迎えるお許しだよ」
…シレジア王国とフリージ領の再建の為に、一度は違う道を歩み始めた二人であったが、
セティは最初から、セリス王に全ての事情を話し、自分の考えも伝えてあった。
今はお互いの継いだ地の為に全力を傾ける。
だがいずれ戦後の混乱も落着いたなら、フリージの統治はバーハラ王家に一任し、ティニーをシレジアの王妃に迎えたい―――と。
「セリス様はね、すまないと仰っていたよ。二人に同じ道を歩めと言えない、自分の立場が歯痒いと。
だけど時が満ちればその時は、自分にも祝福させて欲しいと…そう、言って」
そう。ティニーがフリージ家を継ぐと公式の場で宣言した時も、セリスは小さな声で『すまない』と呟いた。
別れを受け容れなければならない辛さを、そうしなければならなかった二人を、判っていたからそう呟いた。
「ティニー、セリス様からお前に渡して欲しいと、手紙を預かっているんだよ」
アーサーが懐から一通の封書を取り出し、妹に手渡す。
「手紙…私に?」
それは王が地方領主に宛てた手紙ではなく、友であるティニーに宛てた手紙であった。
少し迷った後、ティニーはその場で封を切った。
『親愛なるティニー
一年半前のあの日、セティから、そして君の口からそれぞれの選んだ道を聞かされた時、
僕は王という立場上二人を止める事が出来なかった。
どんな形であれ、一度は滅びに瀕した大陸の復興に尽力してくれるという君たちの力は、得がたい物だったから―――
君とセティは自分を押し殺してまで、大陸の復興に力を尽くしてくれた。今は、感謝の言葉しか思いつかない。
しかし無事に復興が進みつつある今、僕は君たちにも幸福を掴んで欲しい。
いずれはトードの血を濃く引く子に返還する事になるとは思うけれど、
それまでフリージ領はバーハラ王家の一時預かりとし、直接統治を行う事にしたいと思います。
今はただ、自分の信じた道を歩んでください。
そして、幸せになってください。
セリス・バーハラ・グランベル』
「セリス様…」
ポツン、と便箋に涙の雫が落ち、インクが涙で滲む。
一年半前、恋人と別れなければならなかったティニーに対して『すまない』としか言い得なかった事への謝罪と、
餞の言葉に込められたセリスの優しさが胸に沁みた。
「セリス様はね、私とアーサーに立会いを任せてくださったの。
お兄ちゃんは立場上そう長く国を空けていられないし、何よりもあと数日もしないうちに、雪と氷でシレジアに続く街道が閉ざされるわ。
だからその前に、あなた達二人の婚礼を済ませて、シレジアに出立するように…って」
フィーの言葉を待って、アーサーが控えていた執事に合図する。
老執事が破顔して扉を開けた、その向こうには―――
「コープル!?」
エッダ領を継いだコープルが高司祭の正装に身を包み、笑顔で佇んでいた。
「お久し振りです、ティニーさん」
コープルがペコリ、と彼女に頭を下げる。
「僕が、お二人の婚礼の仕切りを任されました。城下の教会ですが、準備は整っています。さあ、参りましょう」
セティに手を取られ、アーサーとフィーに背を押されて城を出ながら、ティニーは呆気に取られていた。
「コープル、まさか貴方までここに居るなんて」
セティが突然訪れた事だけでも十分に驚いていたのに、この上コープルまでフリージに来ているとは。
だがコープルはニコリと笑うと、更にティニーを驚かせるような事を口にした。
「準備の為に数日城下の教会にお世話になっていましたが、実はフィーさんと一緒に、こちらには到着していたんです」
セリス様は外交の為に新トラキアに赴かねばならず、列席は出来ませんでしたが、
自分の分まで祝福して欲しいと言付かって来ています。ラナ王妃や、ユリア皇女からも」
「…ありがとう。いつかきっと、お礼を申し上げに伺うわ。その時まで、貴方が伝えておいてね。ティニーが、とても感謝していたと」
「確かに、承りました」
コープルが城下の教会の扉を押し開けると、わあっという歓声が沸き起こった。
「これは…」
「フリージ城下の人たちですよ。近隣の村から来てくれた人も居ます。皆、お二人をお祝いしようと、集まって来てくれたんですよ」
エッダ教高司祭であるコープルの滞在の理由が、領主であるティニーの婚礼の為だと密やかに知れ渡ると、
数日の間に大勢の領民たちが集まったのだった。
ただしあまり一度に集まると当のティニーに気付かれてしまうので、あくまでも市の準備や旅の行商のフリをして。
子供たちは教会の飾り付けをし、男たちは教会の痛んだ部分を美しく改修して新たに色を塗り直し、
女たちは婚礼の時に身に付けるレースで作られたヴェールに、大急ぎで美しい刺繍を施した。
教会の控え室の一室でティニーは女性たちの手により花嫁衣装に着替えさせられたのだが、
彼女の身体にあつらえたようにピッタリ合った。
これはフリージ城の衣装係の女性が、間に合うように彼女用にドレスを直したのである。
やがて半刻程で仕度を整えたティニーは、シレジア風の清楚なドレスに化粧を施され、雪の中に舞い降りた冬の女神のように美しかった。
セティも別の部屋で準備をしていたのだろう。
シレジアの民族衣装を模した王家の正装姿で、既に彼女を待っていた。
「さあ、これを着けたら出来上がりよ」
城下の女性たちが皆で刺した刺繍で飾られたヴェールを、フィーがティニーの頭にふわりと被せた。
「あの…セティ様」
領民の歓声を受け、奥の誓いの祭壇に向かいながら、小さく囁きかける。
「何だい?」
「どうして、今日だったのですか?婚礼を急ぎ、早く出立しなければならないのは、街道が雪と氷に閉ざされてしまうからでしょう?
ならばもう少し早い季節か…春を待てば、これ程に急ぐ事はなかったでしょうに」
だがその問いにまず答えたのは、彼女の後ろでヴェールを持ってついて来ていたフィーであった。
「判らない?ティニー」
子供たちから、自分達で摘んで作ったブーケを受け取りながら、ティニーは小さく頭を振った。
少し離れた所に居た兄を見たが、彼もただ笑っているだけである。
「判りません。セティ様、私には」
素直にそう言った彼女に、セティが目を細める。
彼もアーサーの手から儀礼用のマントを受け取り、それを背に羽織ると、少し照れたように呟いた。
「…以前、君に一度だけ聞いた…その記憶が間違っていなければ―――」
ティニーの手を取り、その甲にそっと口付ける。
「今日は、君の誕生日の筈だ」
「あ―――!」
小さく、ティニーが声を漏らした。
小雪の舞い始めるこの季節―――幼い日、娘の誕生日にちらちらと雪の降り始めるのを窓から見詰めていた母が、
遠くシレジアの地に残して来た兄のアーサーの事を想って泣いていた―――
そう言えば一度だけ、セティと故郷や母の事を話していて、誕生日の事も口にしたような記憶がある。
「じゃあ、私の誕生日に合わせてくださるように、この日を?」
「時期的に、かなり厳しいとは思ったけどね。でもどうしてもこの日に、婚礼を挙げたかったんだ」
そう言ったセティはいつもの理知的な雰囲気だけではなく、ごく普通の歳相応の少年のようだった。
「一応、俺やフィーは止めたんだよ。お互いの国と領地が、安定したのがついこの間の事。
大した準備期間も置かずに、いきなり訪ねて即婚礼じゃあどっちも大変だろうって。
ティニーの誕生日にこだわるのなら、どうしてもう少し早く手を講じるか、一年待たなかったのかって」
アーサーが苦笑を浮かべる。なるほど、落着いて出立するつもりならば、その方が懸命だ。
「でもね、お兄ちゃんたら真面目な顔して『一年も待てない』って言ったのよ。
放っておいたら一人でもフリージに乗り込んで行きそうな雰囲気だったから、あたしたちも結局強行軍に手を貸す事になったって訳」
クスクスと笑いを零しながら、フィーが言葉を継ぐ。
まずセティとアーサーがバーハラに向かい、セリス王に正式にティニーとの婚礼の許可を求めに行った。
そこで偶然バーハラを訪れていたコープルに婚礼を取り仕切って貰う事になり、
フィーと共に馬車で先行して、ティニーの足止めと婚礼の準備を進めた。
本来ならばセティ達も程なく到着する筈だったのだが―――例の事故があり、このような押した段取りになってしまったのであった。
「そう…そうだったの」
恋人の、兄の、義姉の、そして友達の、自分を包んでくれる優しさと愛情の深さに、思わず涙が滲む。
「ほら、花嫁が泣いてちゃ駄目よ。さあ、笑って」
フィーがハンカチでそっと涙を拭い、ティニーを促す。
頷いて視線を上げた誓いの祭壇の上では、白い僧服に身を包んだコープルと、最愛の人が待っている。
ティニーは深く息を吸い込むと静かにセティの隣に立ち、コープルの前に跪いた。
『…早いもので、ティニーがシレジアに嫁いでから三年になる。
急に領地を離れる事になった彼女は領民たちの事をとても心配していたが、彼らは彼女の多分最初で最後の我侭を笑って許してくれた。
彼女はとても領民に好かれていたから、大いにそれも味方したようだ。
バーハラのセリス王による直接統治もよく行き届いており、今の所領主不在による困った問題も起きていない。
だからティニー、心配しなくても大丈夫よ。
貴女はもうシレジアの王妃で、今では母なのだから、ちゃんと自分の事に気を向けなさい。
そう。ティニーは嫁いだ翌年に男の子を、そして先日女の子を出産した。
まだ聖遺物を継承する証である聖痕はどちらにも現れていないが、
おそらく長男のレシルはフォルセティの継承者に間違いないだろう、というのは母の勘だそうで、ティニー談。
だが兄はそんな事には関係なく、二人の子供を前に目が垂れ下がり状態で、子煩悩ぶりを発揮している。
これで政務を執らせたら『賢王』と呼ばれるんだから、世の中面白い。
兄夫婦の長女であるシェリが、どの血族の血を濃く受け継いでいるかはまだ未知数だ。
それは私とアーサーの間に生まれた娘のティラにも言える。
兄は『風使い』セティの直系として生を受けたが、妹である私は同じ血を弱く引いたのみだ。
そしてアーサーとティニーは、両親から魔法戦士ファラと魔法騎士トードの血を、同じく弱く引いている。
セリス様は.兄夫婦か私達夫婦に生まれた子供達の中で、最もトードの血を濃く受け継いだ子にフリージ領を返還するお考えらしい。
もしかしたら私の産む子にトードの聖痕が現れるかもしれないし、また兄夫婦の子にファラの血が目覚めるかもしれないのだ。
だがそれならそれで構わないとも思う。
私達の間に生まれた子は、皆血の繋がった親族になるのだから、仲良くやって行ってくれればそれでいい。
特に肉親に縁の薄かったアーサー等は、折に触れてそう口にする。
かつての友たちも恋人と結ばれて、今は多くの者が親となっている。
セリス様とラナ王妃は早くに世継に恵まれた。既に二人目の話も聞こえて来る。
一番先に父親になった事にしきりに照れながらも、満面の笑顔で皇子を抱いておられたセリス様の姿が印象的だった。
イザークではラクチェが男の子を産んだ。
シャナン様と彼女の子だ。剣の才は疑うべくも無い。
ラクチェは…ラナもそうなのだが、ティルナノグで育った経緯からか、とても国民に慕われている。
率先して城の賄いの手伝いをし、今でも時には剣を取り、鍛錬を怠らない。
まさか剣聖オードの直系二人が守る城に攻め込もうなどという命知らずが居るとも思えないが、
彼女たちなら何があってもイザーク王国を守ってみせるだろう。
アグストリアでも、リーンが二年続けて男の子を産んだ。
アレスの溺愛ぶりは相変わらずのようだから、もしかしたら三人目ももうすぐかな?
それにアレスに伴なってアグストリアに帰ったデルムッドにも、ようやく春が訪れたらしい。
城仕えをしている気立ての良い娘と相愛で、後はデルムッドが求婚するだけなのだが、
なかなか最後の一言が言い出せないまま現在に至っているのだと、リーンからの便り。
ヴェルダン王国では、レスタ―とパティの間に女の子が誕生。
パティの兄であり、ユングヴィを継いだファバルが、とてもこの姪っ子を可愛がっているらしい。
ファバルもユングヴィ領内の女の子にはとても人気があるらしいのだが、
本人はその事を知ってか知らずかまだまだ身を固めるつもりはないらしく、
公務と称してはヴェルダンとユングヴィを行ったり来たりする毎日を送っている。
そんなファバルの事を、そろそろ自分の相手を選んで腰を落ち着けてくれと、
他人事ながらひっそりと心配をしているのが、シアルフィ領を継いだオイフェ様。
まだファバルも若いのだから急ぐ事もないだろうにとも思うが、『身を固めて腰を落着かせるのは領主としての義務』なんだそうで。
かく言うオイフェ様は昨年、シアルフィ城下で見初めた女性と結婚された。
何度かお会いしたが、笑顔の愛らしい、優しい女性だ。
子供はまだだが、そのおしどり夫婦ぶりは有名になっている。
エッダのコープルは、私達解放軍の仲間達の中でも一番年下だった事もありまだ独身だが、
その優しい人となりに、領内の若い娘たちには結構な人気者らしい。
勿論、コープルは誰にでも分け隔てなく親切で一生懸命だから、老若男女を問わず好かれてはいるのだけれど。
彼に好意を寄せる娘の一人が、いずれ彼の伴侶となるだろう。
でも出来ればハンニバル将軍がお元気なうちに、孫の顔を見せておあげなさい。
バーハラに残ったユリア皇女とドズルを継いだスカサハの婚礼も、兄とティニーの婚姻の直後に正式に纏まった。
同じ境遇にあった兄とスカサハが、戦後も個人的に親しく便りを交わしていた事は私達も知らなかったのだが、
結局は兄夫婦の婚姻が良い前例となったようだ。
今はドズル家を従兄のヨハルヴァに任せ、スカサハがバーハラ王家に婿入りしてセリス様の政務の補佐を行っている。
ラナとユリアも本当の姉妹のように仲が良いし、セリス様とスカサハは共にティルナノグで育った幼馴染み。
これからも協力し合って、立派に国を治めていってくれるだろう。
様々な事情から他の者より一緒になるのが遅くなってしまったけれど、つい先日、ユリアの懐妊が発表された。
控えめな二人だけど、その二人が望んだささやかな幸福が、どうか末永く続きますように。
新トラキア王国でも女の子が生まれた。
ナンナは二人目も出産間近だというので、次は男の子かもしれない。
ナンナの実父であるフィンやリーフ王の姉のアルテナ様が、子供達のいい教育係になってくれるだろう。
そのアルテナ様は義兄であったアリオーン様を想い、旧トラキア王国の領地に居を構えたとか。
何とかお二人の間を取り持てないかと、リーフ様が日夜奔走しているらしい。
アリオーン様の事はよく存じ上げないけれど、コープルから聞いた話では、
アルテナ様にとっては優しい兄であり、また良き理解者であったようだ。
これ以上アルテナ様の哀しいお顔を見ずに済むように、いつかリーフ様の努力が正しく報われる日が来る事を祈りたい。』
―――シレジア王妹 ヴェルトマー公妃フィーの手記より
【FIN】
あとがき
セティ×ティニーの聖戦後のお話の総決算SSです。
元は個人誌『君の笑顔に逢いたくて』に収録していた、同名タイトルの小説を、加筆修正したものです。
大筋でほとんど一緒ですが、ユリアのカップリングが微妙に違ってたり(笑)
元は二回目ロードを手本に作ったお話だったので、スカサハは独身。ユリアのお相手はデルムッドでした(^_^)
三回目以降のカップリングを元に、今は創作を続けていますので、その辺りを変更しています。
あと孫世代のお子様たちの名前や性別は、勿論オリジナル。
ちなみに孫世代の設定はここまでで、これから先の話は設定もありませんし、書く気も今の所ありません。
そこまで行っちゃうと、もうFE聖戦モノと言うよりはオリジナルだもんな…(笑)
麻生 司