その名を呼びて
「ティニー、ここに居たのか」
「セティ様」
自分をの名を呼ぶ声に銀色の長い髪の少女が振り返ると、彼女は声の主にふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
いや、もう少女と呼んではいけないのかもしれない。セティが大きなショールを手に、急ぎ足で彼女に近付いて来る。
「そんな薄着で、長い間表に居ちゃいけないよ。春先とは言っても、シレジアはまだ寒いのだから」
そう言いながらティニーの傍に立ったセティは、手にしたショールで彼女の身体をふわりと包み込んだ。
「今は、君一人の身体じゃないのだし」
付け加えられた一言に、ティニーの白い頬に朱が差した。
聖戦終結後、フリージ家と領地の再興を願ったティニーは、爵位継承と領主就任の意を明らかにして仲間を驚かせた。
長い戦乱を共に生き抜いた仲間たちの中には伴侶となる者を得た者も大勢おり、彼女もまたその一人であった。
彼女を見初めたのは、シレジア王国の次期王位継承者―――風の聖戦士の直系でもある、セティその人である。
当然ティニーはセティと共にシレジアへと帰国し、彼の花嫁になるものだと思われていた。
バーハラ王家を継承したセリス王の前で、自分たちの今後の去就を告げる謁見が行われた―――その瞬間まで。
―――私は、フリージ公爵家を継ぎたいと思います。
静かな彼女の声に、仲間たちは動揺し、そして驚愕した。
微動だにしなかったのは彼女自身と、一番驚愕して然るべきであるセティのただ二人―――
彼らは前夜、全てを理解した上で互いの選んだ道を受け容れていた。
今は別離を受け容れるが、いつか互いの領地が再興を果たしたその時こそ、改めて彼女を迎えに行くと。
ユグドラルの全ての民が心を合わせて復興を願う思いは天にも通じたのか、各地の復興は順調に進んだ。
一年半後の秋の終わり、冬の兆しがグランベルとシレジアを閉ざすその直前に、セティはセリス王の正式な許しを得て彼女を迎えに訪れた。
どうしても、彼女の誕生日に婚礼の儀式を挙げたいと―――
フリージ城下の教会で行われた略式での儀式ではあったが、エッダの高司祭を務めるコープルが儀式を執り行い、
立会人にはアーサーとフィーが駆け付けた。
日が暮れてからの儀式であったにも関わらず、教会には大勢の領民が詰め掛け、歳若い領主の寿ぎを祝った。
こうしてティニーはセティの花嫁として、シレジアに迎えられたのである。
それから数ヶ月―――
まだ顔立ちに幼さを残す愛らしい王妃が、懐妊したという報せがシレジアの民にもたらされた。
二人の仲睦まじさ、婚礼に至るまで経緯は、この国に生きる者なら子供でも知っている。
睦まじさは折に触れて目にする機会があるからだが、二人の婚礼に至るまでの経緯は、聖戦と聖戦士達の生き様を語り継ぐ吟遊詩人達の間では伝説となっており、
彼らの口伝により万民の知るところになっていたのだ。
もしかしたらシレジアに住む人々の方が、本人たち以上に詳しく知っているかもしれなかった。
「寒くないかい?」
「大丈夫です。このショールがありますし」
肩に掛けられたショールに手を触れ、それに、と口にする。
「セティ様が傍にいらっしゃいますもの」
くすりと笑ってそう囁かれて、セティが少し照れたような顔をした。
気障な台詞はシレジア男性のお国訛りとまで言われる程であるが、
半年近くをこの地で過ごし、ティニーも大分染まってきたのかもしれない。
「ティニー……聞いてもいいかな」
「何をですか?」
見上げる彼女の腹に、セティがそっと手を当てる。
「その……どんな感じなんだろう?僕は男だから、身体に子供を宿すと言うのがどういうものなのかよく判らない。動いたりするのか?」
真剣な面持ちでそう訪ねて来る姿に、きょとんとしていたティニーが吹き出した。
自分の夫となったこの青年はとても聡明で、国も良く治めているが、こう言った所は他の同じ年頃の者と何ら変わるところがない。
そんな些細な事が何だか可笑しくて、そして無性に嬉しかった。
「動くようになるのは、もう少し先です。どんな感じと言われても……悪阻があるくらいで、まだ特に何も」
先に母親となった義姉――今は義妹でもあるが――フィーも、普段の快活さは何処へやらと言いたくなる程、悪阻には悩まされていた。
自分はフィーほど辛くはないが、やはり多少悪阻には苦しめられている。
じっと部屋に篭もっていては気が滅入ってしまうので、こうして時々散歩に出るのだ。
セティが愛妻の上着やショールを片手に城内を走り回るのも、最近では城仕えの者達の間で見慣れた光景になりつつある。
「そう言うものなのか?」
「そう言うものです」
うーん、とセティが考え込むような仕草をする。
顎に手を当てて何かを考えていたようだが、『ごめんよ』と断わりやおら膝をつくと、ティニーの腹に耳を当てた。
「セティ様!?」
その行動にびっくりしたティニーの瞳が丸くなる。
するとセティは、悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべて、跪いたまま彼女を見上げた。
「こうしたら、子供の心臓の音が聞こえるんじゃないかと思ったけど……聞こえないな」
「まあ……」
そう言って笑うセティを、まるで小さな弟妹が生まれてくるのを楽しみにしている大きな子供のようだと思った。
そしてふと、ある事を思いつく。
「セティ様、もしかしてフィーが生まれる前もこうしていましたか?」
この様子なら有り得そうだと思った。セティがポリポリと鼻の頭を掻く。
「セティ様?」
母親が子に尋ねるような仕草で、ティニーが顔を覗き込んだ。
「いや、僕は覚えていないんだけど」
「やっぱり、なさっていたんですね」
苦笑いが浮かぶ。
「……母から聞いた。よく母の後を追い掛け回しては、『もう動くか、明日には生まれるのか』と言っていたらしい」
ぷっ、とティニーが吹き出した。
「可笑しいかい?」
「だって、子供みたい。今もちっとも変わらないんですもの。きっと皆が聞いたらびっくりするわ」
兄のアーサー辺りが聞けば大爆笑しそうであったが、兄の性格なら同じような事をしていたかもしれなかった。
今度手紙でフィーに尋ねてみようと思う。
まだ笑いの収まらないティニーに、だが案外セティは嫌な顔をする様子もなかった。
「そうかも知れない。あまり、ゆっくり歳を取っていられる時代じゃなかったから…今頃、反動が来ているのかもしれないな」
生きて行くだけで精一杯の毎日。
幼かった頃には名も生まれも偽って、帝国の追っ手を逃れた事もある。
フォルセティを継承してからは自分で自分を守る事が出来るようになったが、それまでは一日も早く大人になりたかった。
同じ時代に生きる、もう一人の風の賢者の背中に追いつく為に。
そして、子供二人を産んですっかり身体を弱くしてしまった母と、まだ幼い妹を守る為に―――
「ようやく、ゆっくり大人になることが出来る。僕はもう親になるけれど……子供と一緒にね」
穏やかに微笑むセティは、だがとても満足気だった。
時間はかかってしまったけれど、生き急がなくて良い時代を作れた事に一片の迷いも無い。
費やした時間は、今からゆっくり取り戻していけばいいのだ。もう戦で命を落とす事を、恐れる日々は終わったのだから。
「この国を守るよ。君も、子供も、この国に住む人々も。皆が笑って暮らせるように……君が一緒なら、きっと出来る」
「私だけじゃないでしょう?」
ティニーが淡紫の瞳を和ませ、にこりと笑う。
「『私達』は、いつでもセティ様のお傍に居ます」
「ああ……そうだね。皆、一緒だ」
応えたセティの面にも、木漏れ日のような笑みが浮かんだ。
「男の子かしら、女の子かしら」
セティに肩を抱かれて城の談話室に戻ったティニーが、まだ全然目立たない腹に手を当て、小さく首を傾げる。
「どちらでも構わないさ。元気な子なら」
「……ありがとうございます。必ず、元気な子を産みます」
国の後継ぎなら、勿論男子の方が望ましいのだろう。
だが例え生まれて来るのが娘でも、セティならきっと心から喜んでくれる。ティニーは、その事は露ほども疑っていなかった。
「名前は……」
「名前?」
ぽつりと一言だけ口にしたティニーに、思わずセティが聞き返す。
不意に気になってしまったのだろう。
「子供の名前です。何か……考えていますか?それとも生まれてから考えるのですか?」
子供を名付けるのは、親の特権だ。名付けられる子には、親を選べないのと同様にどうしようもない事である。
自分は偉大な風の聖戦士の名を親から貰ったが、正直、その名を重く思った事は一度や二度ではない。
『セティ』という名は、何の故も無く名付けられるものではない。
その名を耳にするだけで、ユグドラルに生きるものならば、子供でも自分の出自を知るのだ。
余りにも高名な名を戴いた事を、厭わなかったと言えば嘘になる。だが、その名を捨てようとも思わなかった。
それが自分に与えられた名であるならば、聖戦士の血と共に受け容れようと―――
「まだ考えていないよ。男か女か、どちらが生まれるか判らないし…きっと、山のような紙屑の山が出来るだろうな」
書斎の床いっぱいに、思い付いた名前を書いては丸めて捨てられた紙屑が山と積もっている所を想像する。
唸りながら、一生懸命考えるのだろう。何だか今から可笑しかった。
「じゃあ、もしも男の子なら、お義父様の名前を頂きましょうか?」
「父上の……名前?」
思わず、絶句する。
「レヴィン様はバーハラの悲劇も生き延び、シレジアを滅亡から守った程のお方。その名を頂けたら、とても光栄だと思うんですけど」
セティの父レヴィンはバーハラの悲劇をからくも生き延び、子を――自分の事だが――身篭っていた母の許へと帰参した。
それからしばらく国内に留まり、その名とフォルセティの威光でグランベル軍のシレジアへの侵攻を防いだのだ。
幼い頃に国を出てしまい、あまり共に在る事のなかった父だが、それでも彼は命の親であり、国の英雄でもある。だが―――
「……父上と同じ名の子を、とても呼び捨てには出来ないよ。一生頭が上がらなくなりそうだ。もしも男の子が生まれたなら、その時改めて良い名を考えよう」
「セティ様なら、多分そうおっしゃるだろうと思ってました」
少々嫌な汗をかいたセティを見て、ティニーの瞳が悪戯っぽく笑う。
「ひどいな。からかったのか?」
「少しだけ。でも私は別に、本当に『レヴィン』でも良いんですけど」
解放軍で僅かな時間共に過ごしただけの人だったが、掴み所のない、本当に風のような人だった。
数えるほどしか言葉を交わした事はないが、最後に話したのはバーハラ城総攻撃の直前の事。
―――セティの事を、よろしく頼む―――
微かに笑みを浮かべて、遠くの息子の姿を瞳に映していた。これがあのレヴィン王なのかと思う程に、穏やかな眼差しで―――
聖戦終結後、セティも彼の姿を見ていないという。
レヴィンは何処へ行ったのか。セティは気付いているようだが、何も口にしてはいない。
ティニーも何となく、判っているような気がする。
だが再び見(まみ)える事があるのならば、これから生まれる自分達の子供を見て欲しいと思った。
「あ…そうだわ。私達の子は、レヴィン様の孫になるのね」
今更ながらに気付いた。セティも、何か大きな物を飲み込み損ねたような表情を浮かべる。
「孫……あの人が、祖父」
はは、と何処か乾いた笑いがセティの口から零れた。悪戯を思いついたような、子供のような顔をして。
「傑作だ。何で今まで気付かなかったんだろう?ティラを産んだフィーも、絶対気付いてないぞ」
フィーはアーサーとの間に一女を設けた。
昨年生まれた姪っ子はティラと名付けられたが、祖父やら孫やらという話は一度も出てこなかったので、気付いていないに違いない。
「それじゃ、今夜書くフィーへの手紙にはそう書いておきます。今度の返事が楽しみですね」
「全くだ」
お互いの顔を見合わすと、どちらからともなく笑いが零れた。
それから二週間後、ヴェルトマーのフィーから返事が返ってきた。
案の定レヴィンが祖父という発想は出ていなかったらしく、ひとしきりアーサーと二人で大笑いした旨がしたためられていた。
ただアーサーの話によれば、フィーに求婚する際に、レヴィンが義父になるという想いが少しはあったらしい。
結局『気にしても始まらない』と言うあっけらかんとした彼の性格が、無事に彼らが結ばれた最大の要因だったようだ。
そして更に数ヵ月後、ティニーは元気な男の子を出産した。
世継となるその子は偉大な祖父の名を頂き、レヴィンと名付けられ―――はせず、レシルと名付けられた。
二人には後に女の子も授かり、セティの子煩悩ぶりはシレジアの民にはすっかり有名だったと言う。
【FIN】
あとがき
はい皆様、砂は吐き終わりましたでしょうか?(笑)
新婚ラブラブなセティとティニーが書きたかったんです。まだ二人って若いですよね。
ウチでは親が結婚遅かったから(他の仲間に比べて)、相対的に子供の年齢も若い筈なんですよ。
聖戦時でセティが16〜17、ティニーは13〜14?聖戦終了後で17〜18と14〜15だと思ってます。
そう考えると、二人の子供が出来たのって、ウチだと19〜20と17〜18くらいなんですよね。
でもそうなると、同じ年頃のアーサー&フィー夫婦の方が先に子供が出来てるから、更に歳若い親だったのか(笑)
ちなみに最後の方の『レヴィンが祖父云々』という辺りは、個人誌『まだ見ぬ君に逢う為に』に載せた1P漫画が元ネタです。
この時は何故かシレジア城に居るレヴィンに、フィーが満面の笑みで『お祖父ちゃん♪』って言ってたんですけどね。
娘のその一言に、レヴィンが凄ーーい悔しそう&痛そうな顔をしてると(笑)実際には在り得ないシチュエーションなんですが。
作中にも少し書きましたが、彼らは――特に聖戦士の直系であったセティは、
生き残る為にもゆっくり大人になってる時間がなかったと思うんです。
歳の割りには物の考え方もしっかりしてるし、頭も良い。だけど、基本的なところで何処か子供っぽさを残してる。
そんな一面が子世代には多かれ少なかれあったんじゃないかと。
『ようやく、ゆっくり大人になることが出来る』というセティの台詞が、結構気に入ってます。
麻生 司