てのひら
コン、コン、コンと規則正しく槌が杭を打つ音が響く。
先日の大雨で流されてしまった橋の修復作業に、ヴェルトマー城近くの村の衆は総出になっていた。
今回流された橋はバーハラに向かう街道に掛かる橋だったので、早急の修復が必要だった。
人の行き来は物流の行き来である。
村の中だけで生活している分にはすぐに困る事は無いが、物流が滞ると色々と生活に支障が出る。
橋が流されるような豪雨は滅多には起こらないだろうが、天気が良い間に修復するに越した事はないので、
天気が回復した当日には領主であるアーサー自ら陣頭に立って、復旧作業が始められた。
男達は材木を運び、先祖代々この村で暮らす土木技術者親子の指示に従い杭を打ち、縄で縛る。
女達は肉体労働に駆り出された男達の労を労(ねぎら)う為に、炊き出しの準備に忙しかった。
「へっくし!!」
晴れ上がった青空の下、技術者の親方が一晩で描き上げた新しい橋の完成予定図を手に、アーサーが一際大きなクシャミをする。
「風邪ですか?アーサー様」
「ちょっと鼻がムズムズして……へっきし!!」
若い領主の大きなクシャミに、心配そうに隣に立った村長の前でもう一回。
『ちょっとゴメンよ』と言いながらアーサーは手布で口元を覆ったが、それから更に二回、立て続けのクシャミは続いた。
「一昨日の大雨から、雨が上がり始める昨日の明け方まで、領主様は橋や村の様子を見る為にずっと外におられたではありませんか。
その時に、きっと風邪をひかれたんですよ」
「うーん、でも城でじっとしていられる状況じゃなかったしなぁ」
ズズッ、とアーサーが鼻を啜った。
彼は父をヴェルトマー公爵家のアゼル公子、母をフリージ公爵家のティルテュ公女に持つ。
更に伯父は前皇帝アルヴィスという、ユグドラル諸国の中でも屈指の名門の生まれなのだが、
幼少の頃に母の手により修道院に預けられて育った為か、本人は至って飾り気が無く、気さくな人柄で領民にも大変好かれている。
高齢の村長は、若かりし頃のアルヴィスだけではなく、兄と袂を分かつ以前のアゼル公子の事もよく憶えていた。
アーサーの顔立ちには、確かにあの気立ての優しい公子の面影がある。
だが物事にあまり頓着しない性格や大らかな気質は、母親の血なのかもしれない。
作物の出来や、女房や旦那の自慢話等の世間話にいつの間にか混ざり、村の男衆と車座になって肩を組んで酒を飲む。
いままでの領主―――公爵家の一族とは、彼は明らかに一線を画していた。
難しい時代と、苦労して育った幼少期の経験が今のアーサー・ヴェルトマー・グランベルという人物を形作ったのだとしたら、
それはまさに時代そのものが彼を作ったという事なのだろう。
緊張した面持ちでヴェルトマー城に領主として入り、初めて領民の前で挨拶したアーサーは借りてきた猫のようだったが、
一度(ひとたび)打ち解け、気さくなその人柄が領民の間に知れ渡ると、彼は老若男女を問わず人気者となった。
ちなみに整った顔立ちの割に、案外若い女性の黄色い声が飛ばなかったのは、
彼が領主として入城したその時から、奥方となる女性が随行していたからに他ならないだろう。
先日の大雨でも、川の傍に住む年寄り夫婦や子供の居る家が心配だからと、アーサーはずっと城を出て村の中を見回っていた。
流された橋は人の力ではどうにも出来なかったが、決壊しかけた川のへりに土嚢を積み上げたり、
大雨の中で壊れた屋根の修理をしていて怪我をした者の治療をしたりと、まさしく休む間もない働きぶりだった。
復興の目処が立った今頃になって、疲れと一緒に風邪の症状が出たとしても不思議ではない。
「一番被害の大きかった橋の修復の目処も立ちましたし、今日はもう城にお帰りになってゆっくり休んでください。
また何か指示を頂くような事がありましたら、誰か使いにやりますので」
「……じゃ、そうさせて貰おうかな。実は正直な所、すっごく眠いんだ」
言うが早いか、ふわあぁ、と大きな欠伸が零れた。相当眠い所を、気力で何とか起きていたらしい。
土砂降りの雨の中を丸まる一晩見回って、昨日もロクに寝ていないのだから眠くて当然だ。
「それにさ、土嚢を積むのを手伝ったせいなのか、身体の節々が痛いんだよ。
これでも小さい頃から水汲みやら薪割りで鍛えられてるから、あの程度で筋肉痛は無いと思うんだけど。やだなぁ、歳かなぁ」
二十歳にもなっていない彼が『歳』(とし)なら、孫の居る自分はさしずめ生きた化石か。
―――とは、流石に直接は言わなかったが、首と肩をコキコキ言わせながら城に帰る若い領主の後姿を、村長は感慨深げに見送った。
「ささささ寒くて、歯の根が合わないいいぃ〜〜」
城に戻ってしばらくして。
アーサーは火の入った暖炉の前でガタガタと震えていた。
冗談ではなく、本当に歯がカチカチと鳴っている。
ちなみに季節は春の始め。
暖炉の火が恋しくて仕方が無い―――という気候でもない。
アーサーは暖炉の前で毛布に包まって震えていたが、フィーは薄手の春物の服装でキビキビと動き回っていた。
ちなみに彼女も炊き出しの手伝いをする為に城を空けていたのだが、
具合を悪くしたアーサーが城に戻って来たという報せを受け、村の女性衆に後を任せて来たのである。
「昨日村で、雨に濡れたままの格好で仮眠を取ったんでしょう。それで風邪を引いたのよ。
悪寒も、それに身体の節々が痛いのも、肉体労働に伴う筋肉痛じゃなくて高熱のせいよ」
まだ早い時間だったが寝室のカーテンを閉めて、病人が楽な環境を作る。
毛布に包まったアーサーを着替えさせて寝台に寝(やす)ませると、フィーはその寝台の横に椅子を置いた。
「さっき城の近衛隊にもお願いして来たけど、すぐには氷を用立てられないのよ」
氷は貴重品だ。貴族だろうと村人だろうと関係なく、その価値は等しく高い。
冬ならまだしも、夏でも溶けない氷はごく限られた山の氷穴などにしか存在しないのだ。
春先とは言え、手に入れにくい事に変わりは無い。
本当は自らマーニャを駆って行けば一番早いのだが、生憎とフィーは氷穴の在る正確な場所を知らなかった。だがしかし……
「でも一晩くらいなら、あたしが何とかするから」
「……へ……?」
何気なくフィーが口にした事が、熱でぼやけたアーサーの頭では咄嗟に理解出来なかった。
すぐに氷を用立てる事は出来ない―――それは判っている。
ユグドラルでは最北部に位置するシレジアでさえ、冬場以外で氷を手に入れる事は難しかった。
ヴェルトマー領を継いだ時に夏でも氷の残る場所は調べたが、確か馬を飛ばしても往復で半日近く掛かった筈である。
だが一晩程度なら自分が何とか出来ると、たった今フィーは口にしなかっただろうか。
かと言ってマーニャを駆って彼女自身が氷を用立ててくるというのとは、いささか話向きが違うような気がする。
「ちょっとビックリするかもしれないけど、そのまま寝ててね」
フィーが腕を伸ばし、掌をアーサーの額に置く。
彼女は目を伏せ、じっと何かに集中しているようだった。それ以外は特に呪文を唱えたり、杖を翳すような素振りは無い。
「フィー……?」
一体、彼女は何をしようとしているのだろう。
昔、まだ自分がずっと小さな子供だった頃、腹が痛くて泣き出した時に、
親代わりだったシスターが腹に手を当ててくれたら不思議と痛みが薄らいだ事を思い出した―――その時だった。
「……え?」
不意に額に触れたフィーの手が、ひやり、と冷たく感じられる。
熱による錯覚ではない。確かに彼女の掌は、それ自身が氷で出来ているかのような冷気を放っていた。
「フィー、これって……!」
「……ちょっと、集中力とコツが要るんだけどね。一度この状態になったら、維持するのは割と簡単なのよ」
そう口にして、フィーは兄によく似た翠の瞳に、悪戯を成功させた子供のような笑みを浮かべた。
「つまり、冷気の魔法は風魔法の一種なの。風魔法に詳しくなくても、『ブリザード』は知ってるでしょ?」
「うん」
額に当てられたフィーの掌はひんやりと冷たいままだ。
冷気を発するに至るまでは集中力を要するのでそれ以外の事は出来ないのだが、
一度発生させた冷気を維持する事は然程難しくないので、こうして話す事も出来るらしい。
「シレジア王家の直系は風魔法を一番得意にしているから、こんな芸当も出来るのよ。
多分これは『風使い』の血が為せる事だから、他の人がいくら修練しても同じ事は出来ないと思うわ」
兄に比べて血が薄いとはいえ、フィーがシレジア王家の直系である事に変わりはない。
そういった特殊な力の発動のさせ方は、あくまでも潜在的に血に備わった力で為される事であって、血統の濃さではないという事なのだろう。
「じゃ、セティにも出来るんだ?」
「お兄ちゃんならこうして冷やすだけじゃなく、水を張った手桶の中で氷を作るわよ。
本当はあたしにも氷が作れれば良かったんだけど……こればっかりは、頑張るだけではどうにもね」
つまり血を分けた同じ『風使い』の直系だとしても、聖遺物の継承者とそれ以外の者とでは、決定的な力の差があるのだ。
フィーに出来る事はセティにも出来るが、セティに出来てもフィーには出来ない事がある。
体調を崩してよく熱を出していた母の為に、セティとフィーはこうして看病していたのだそうだ。
自分には手を当てて熱を冷やすくらいの事しか出来ないのに、兄は手桶の水から氷を作り出す事が出来た。
自分にも出来ないものかと随分頑張ってはみたが、結局兄の真似は出来ないのだと悟ったのだという。
「悔しいやら、情けないやら……何でお兄ちゃんに出来て、あたしに出来ないのかって思ったわ。
父様も母様も同じ人なのに、どうしてあたしには出来ないんだろうって。
それが聖遺物の継承者ってものなんだと理解したのは―――随分大きくなってからだった」
聖遺物の継承者が、その身と魂にどれだけの責任と義務を負うのかも。
実際に自分が戦場に出て、兄以外の聖戦士の直系に出逢って――聖戦士の直系としての父の印象は限りなく薄い――ようやく理解した。
彼等には、彼等にしか為しえない事がある。
どうして父が母と子を残して国を出たのか、今ならば判る気がした。
気付いた時には父との間にはあまりにも長くて深い溝が出来てしまった後で、素直に向かい合う事が出来なかったのだけれど。
でもバーハラで少しだけ話した父は、そんな複雑な自分の胸の内などとうに判っていたのだと思う。
だからこそ父は『アーサー、ティニーと一緒に、これからもセティを助けてやってくれ』と最後に言い残したのだろう。
「……フィーの手、冷たくって気持ちいい」
「掌が冷たい人は、心が暖かいのよ」
アーサーの額に掌を置いたままフィーが口にする。
ずっと彼女に額を冷やして貰っているせいか、アーサーも随分ラクになったようだ。
掛け布から片腕を出し、額に触れていない方の彼女の手にそっと触れる。その彼女の手は、いつものようにほんのりと温かかった。
「でも普段のフィーの手は温かいよ」
「それは、いつものあたしは優しくないって事かしら?」
微かに彼女の眉の角度が上がる。
感情が表情に出易い彼女の癖だ。
「そうじゃなくて。掌が冷たくても温かくても、『フィー』はいつだって温かいから」
思わず、返す言葉に困る。
熱でボンヤリしているのか、それとも正気を保ったままこの台詞を口にしているのか。
どちらにせよ臆面も無くこう言う台詞が出て来る辺りは、やはり出自そのものよりも、生まれ育った環境が大きく影響しているのだろうか。
今更ながらにアーサーも、シレジア生まれのシレジア育ちなのだという事を、フィーは改めて再認識した。
「……判ってるんならいいのよ」
照れ隠しに、つん、とアーサーの額を指で小突く。
「しばらくついて冷やしててあげるから、大人しく寝てなさい。後で何か消化の良い物を作って来るから」
「え、フィーが作ってくれるの?」
紫水晶の瞳が、宝物を見付けた小さな子供のように煌めいた。
普段の食事は城の賄いが作ってくれる。
フィーが自主的に仕込みの手伝いに入る事も多かったが、実際に料理をするのは城務めの賄い方だ。
彼女が手作りしたものは、今まではクッキーやパイなどの菓子類しか口にした事がなかったのである。
「あのね、これでも母様が亡くなって旅に出るまで、ずっと自炊してたのよ。
あたしを苦労知らずの、ただの箱入り娘と思わないで欲しいわ。天馬を駆って自由に空を駆けるのがシレジアの女なんだから」
「知ってるよ。初めて逢った時も、フィーは空に居たもの」
そう―――彼に初めて出会ったのは、シレジアの外れ。
彼は海岸に向かう街道を歩いていて、自分はマーニャの背に乗り空を飛んでいた。
何処まで歩く気なのかと尋ねたら、『アルスターまで』とあっけらかんと口にされ……呆れて放っておけなくなった。
天馬は生理的に男性を嫌うのだが、マーニャの機嫌を取りつつ何とか宥めすかして、彼を一緒に乗せてイザークまで翔んだのである。
「マーニャの背に乗って空を飛ぶフィーは本当に綺麗だった。
翡翠の髪が、キラキラ陽の光に透けて―――シスターに昔読んで貰った物語の妖精かと思ったもの」
「……褒めても、何も出ないわよ」
「傍に居てくれるだけでいいよ。フィーが居てくれたら、それで十分だ」
屈託無く、アーサーが笑う。
その笑顔を目の当たりにして―――『自分はこの笑顔に惚れこんだのだ』と、フィーは認めざるをえなかった。
【FIN】
あとがき
はい、前回更新のティニーに引き続き、風邪ひきさんネタ繋がりです(笑)
前作のセティのお話書いてる時にセットで思いついて、シレジア王家の直系がますます人間離れしてきました。
セティは以前からかなり色々出来る人に設定してるんですが、
『同じ親から生まれた妹なんだから、フィーにも似たような事が出来てもいいじゃないか!』…で、今回のお話に。
実は当初は風邪ネタだけをひっぱるつもりだったので、『奥様が病気』シリーズにしようかとも思ったんですけども(笑)
あたふたあたふたしながらも、かいがいしく看病するアーサーってのも見てみたかったかな……
今度はシレジア兄妹の風邪ひきシリーズでもやってみるか(^_^)
麻生 司