力継ぎし者
「セティ、ちょっといいかしら」
父が不在のまま迎えた、12歳の誕生日。
妹のフィーが眠ってしまったのを見届けたセティは、自分も寝もうとベッドに入りかけた所を、母に声をかけられ寝室を出た。
母、フュリーは火を入れた暖炉の前で、椅子に腰掛けて息子を待っていた。
まだ本格的な冬ではないが、夜になってから急に冷え込んだので、母が火を入れたのだろう。
もしかしたら彼の為に部屋を暖めてくれていたのかもしれない。
「何か御用ですか、母上」
セティは母の足に膝掛けを置くと、そのまま跪いて言葉を待つ。
母は『ありがとう』と呟き少し目を細めると、じっと彼の顔を見詰めた。
シレジアの王子であった父と、母は幼馴染みであったと聞いている。
今の自分と同じくらいの歳の頃に事故で両親を亡くし、王城に騎士見習として奉公に上がった際、初めて出逢ったのだと。
多分、母は昔の父と、自分を重ねて見ているのだろうとセティは気付いている。
身代わりにする気は無いが、日を月を追う毎に夫の面影を映して行く息子を目にするにつけ、血は争えないと思っているのかもしれない。
だからこんな時は、黙って母の言葉を待つ事にしていた。
「セティ、貴方に渡す物があります」
「僕に?」
傍らの卓に丁寧に布で包んで置いてあった包みを手に取ると、母はゆっくりとその布を解いた。
包みを解かれ、母の手に残った物は―――
「魔道書……?まさか、それは……」
セティには、その魔道書が光を放っているように視えた。
その光を目にした自分の鼓動が、跳ね上がったのがはっきりと判る。
手にした母は平気ななのだろうか?
傍に在るだけで、こんなにも溢れんばかりの力を感じると言うのに。
「やはり貴方には、これが何であるのか判るのね」
微かに首を傾けて、母が笑った。
「そう―――これはフォルセティの魔道書。今この時をもって、この魔道書を……貴方に託します」
「僕が……フォルセティを……?」
聖遺物を継承する証である聖痕は、数年前に左肩に現れている。
それからしばらくして、父は旅に出た。その時、この魔道書も持って出たものだとばかり思っていたのだが―――
「貴方に聖痕が現れたのを確かめて、お父様は旅に出られたの。その時、私がお預かりしていたのよ。
時が来たら、貴方に継承するように―――と」
母から魔道書が手渡されると、放たれていた光が、セティに同化するように急速に収束する。
それはまるで、長らく不在であった主を待ち焦がれていたかの様であった。
手にした魔道書にほとんど重さは感じない。
だが微かに感じる温かさは、まるでひっそりと息衝いているようであった。
「セティ。『フォルセティ』はシレジア王家、王位継承者の証。
その魔道書を継承すると言う事は、シレジアに生きる人々の命を預かると言う事―――判るわね?」
「はい」
セティが頷く。
「それだけではないわ。フォルセティを行使する事で失われるもの、傷付く者、その全てに貴方は責任を負わなくてはならない。
その事を、決して忘れないで」
「―――はい」
再び頷いたセティの瞳が、僅かに痛みを帯びた。
戦う事は好きではない。
だがフォルセティの継承者として、いずれは戦場に立つ日が来る。
それは予感ではなく、確信だった。
聖遺物は絶大な破壊力を持つ。
それは保身と呼ぶには余りにも強大な力―――自分に課せられた責任の重さは、代償となる命の重さに他ならない。
「忘れません―――きっと」
それはいつかこの手を血に染める自分への、強い戒めでもあった。
―――助けて
誰の声なのだろう?
遠く近く、霧の彼方から呼ばれるように、いざなうように、繰り返し紡がれるその言葉。
―――助けて
男性の声なのか、女性の声なのか、それすらもはっきりしない。
奇妙に篭もったその声は、ただ一つの願いだけを伝え続ける。
辺りは薄闇の森の中。自分以外の誰の姿も傍には無い。それなのに。
―――助けて
周囲の雑多な意識が凝って気配となり、圧倒的な質量となって自分を取り巻く。
―――助けて
唐突に目の前に現れたのは、かつて自分が魔法で切り裂いた兵士の虚ろな顔。
だがその口は、たった一つの叫びを刻んでいた。
―――まだ、死にたくない!!
「うわあぁぁああッ!!」
セティは自分の絶叫で目が覚めた。
呼吸も鼓動も速く、前髪が汗で額に張り付いている。
「セティ様!?」
「……ティニー?」
気遣わしげな声に重い首を巡らすと、青い顔をしたティニーの顔がすぐ傍に在った。
ティニーが冷たい水を含ませた手布を絞り、そっと額と頬を拭ってくれる。
彼女の手の触れた所から何か温かいものが沁み渡るように、ゆっくりと、だが確実に悪夢の残滓が清められていく。
セティは強張っていた身体に今更のように気付き、ほうっと大きな息をつくと力を抜いた。
「僕は……どうして?」
いつ眠ったのか、記憶が定かではない。
どうやら自分が寝かされているのは、本営に設営された天幕の一つらしかった。
クロノス城から脱出した子供達を救出する為に、アレス、アーサーと共にラドスからの追手と一戦交えた所までは覚えているのだが―――
「……子供達を保護した後、本隊に合流された直後に倒れられたんです。憶えていらっしゃいませんか?」
ティニーの言葉に、セティはまだ少しぼんやりとする頭で記憶の糸を手繰り寄せた。
ラドスの追手を迎え撃った所で―――追手の一人が、防衛線を突破したのだ。
その事に気付いたセティは、咄嗟に馬を返して、先行させた子供達の背後に迫る追手をフォルセティの射程に捉えた。
そして―――
『お兄ちゃん……恐い……!!』
「セティ様?」
ぐらり、と不意にセティの肩が傾ぐ。
眩暈でも起こしたのかとティニーが咄嗟に支えたが、彼の瞳に一瞬虚ろな色を視て、彼女は軽く息を呑んだ。
「……セティ様、良い機会ですからもう少し眠ってください。ずっと最前線に出られていたから、きっと疲れが出たんです。
―――私が居てお邪魔なら、外していますから」
寂しそうな笑みを浮かべて腰を浮かしかけたティニーの手を、だがほとんど反射的にセティが掴んだ。
見上げる彼の瞳には、もう先ほどの虚ろさは無い。
だが引き止めた自分自身の手に戸惑ったような、微妙な色が浮かんでいた。
「……すまない。君さえ構わなければ……傍に居て欲しい―――眠りたくないんだ」
「―――はい。私でよければ」
自分の存在が必要とされているのならば、ティニーに否やが在る筈も無い。
もう一度手布を冷たい水に浸して絞ると、それをセティの額に乗せ、傍らに腰掛けた。
セティは瞳を伏せたが、眠ってはいないのだろう。
その端正な横顔に今まで見た事の無い翳りを感じて、ティニーは不意に不安になった。
兄とフィーが機転を利かせて、『ゆっくり眠らせてあげたいから』とラナに頼んで天幕に対してサイレスの魔法を掛けてあったから、
天幕の中はとても静かだった。中の音も、外には漏れていない。
倒れた事自体も気掛かりだが、何よりも先ほどのあの絶叫は、一体何を意味していたのだろう……?
「君は……魔法の基礎を誰から教わった?」
思案に沈みかけたティニーの意識を引き戻したのは、小さなセティの呟きだった。
小さく微笑み、答えを返す。
「私は、イシュトー兄様とイシュタル姉様から雷魔法の基礎を教わりました。
兄に巡り逢うまで、自分に炎魔法の才がある事は気付いていませんでしたから」
今も瞼を閉じれば、優しかった従兄姉の姿をはっきりと思い描く事が出来る。
彼らと袂を分かった事は辛かったが、自分の選んだ生き方が間違っていたとは思っていない。
例えこの先待つものが、永遠の別離なのだとしても。
「……良い師だっただろう、彼らは。君の気性を見ていれば……よく判る」
そう言って微笑んだセティの瞳には、微かな羨望が浮かんでいた。
「セティ様は……レヴィン様から教わったのですか?」
「父上から……?」
尋ね返されて、セティが目を瞬かせた。
「ああ―――そうかもしれない。確かにこの血に受け継がれた力は、あの人の子だと言う証。
ほんの幼い頃には、基礎を手習いした事もある。だが……それだけだ」
その言葉は淡々としていて、まるで全く関係の無い他人の事を話すような口振りだった。
「ティニー、魔法は意思の力を物理的な力に変えるものだ。行使する者の意思により、その力は善にも悪にも姿を変える」
何故イシュタルが、雷神と畏れられるのか。
彼女を差して、悪く言う者は皆無と言っていい。
彼女は慈悲深く、優しい女性だと、誰もが口を揃えて称えるのだ。
だがその力は解放軍の為には振るわれず、ユリウスを守る最大にして最強の壁となった。
だからこそ彼女は、畏怖を込めて『雷神』の二つ名で呼ばれるのである。
「魔道士は人に非ざる力を持つ。それ故にその力を制する為に、厳しく己を律さなければならない。
『即ち、傷付ける為に力を振るう事なかれ。奪う為に力を振るう事なかれ。』そして―――」
「『殺める為に力を振るう事なかれ』……ですね。私も一番初めに、口伝に教わりました。
ずっと思い出す事も無かった言葉ですけど……案外、憶えているものですね」
―――それは魔道士が、必ず師に最初に教わる事だった。
絶大な力を振るおうとも、『人』が『人』で在り続ける為に。
「父上は、僕が物心付くか付かないかの時分にシレジアを出たきり、戻っては来なかった。
だからその言葉を教わったのが、父上かどうかは判らない。だけど確かに、僕もその戒律は知っている。
父から受け継いだ、この血と力の強さを思い知る度―――幾度も思い出しては、繰り返し唱えた言葉だ」
掛け布を掴んだセティの手に、力が篭もる。
「……戦場に立つ覚悟を決めた時から、数え切れない程の死を見てきた。
その全てが本当の意味で敵と呼べる者の死だったのか、今ではもう判らない。
だからこそ、僕達は立ち止まってはいけない。自分達が手に掛けた、その命に恥じないように―――
失われた命を、犠牲とは呼びたくない。その為に、決して振り返らない。多くの人々の命の上に僕は存在(あ)る―――だけど……」
―――お兄ちゃん……恐い……!!
すうっと、透明な涙がセティの頬を滑る。
だが見開かれた翠の瞳は見詰め返すティニーを映さず、自分が涙を流している事すら気付いていないかのようであった。
「ティニー……僕は、本当に『人』なのだろうか?
持って生まれたこの力の為に、いつか戦場に立つ事は判っていた。人を傷つけるこの力を、厭わしく思った事もある。
だけどそれでも、自分の信じるものの為に戦う事が務めなのだと……そう思っていたんだ―――今日までは」
「セティ様……」
顔を覆った掌の下から、搾り出すような声が漏れる。
いつも悠然として微笑を絶やさなかった彼の、脆い一面を垣間見てティニーは言葉を失った。
「この力は、古の神が人の世に残した最後の奇蹟。僕の血に眠る力は、いつか子に孫に受け継がれて行くのだろう。
例えこの身が世界の礎になって滅んで行く運命(さだめ)なのだとしても、それでいいと……信じていたんだ」
だが幼さ故に、真っ直ぐに突き付けられたただ一言に―――セティは雷撃を受けたように動けなくなった。
「人の世の為に、生きる為に、力弱き人を救う為にといくら言葉を飾っても、僕の振るう力は人を傷つけた。
余りにも多くの人の命を……この力で奪ったんだ」
それが対等の力を持つ、聖戦士の末裔同士の戦いならば、お互いに覚悟は出来ていただろう。
だが実際に刃を交えたのは、聖戦士の名など伝説の中にしか知らぬ、『人間』だった。
圧倒的に勝る力は抑止力とは呼べない。
振り上げた剣先すら蝶が舞うように見える程に、反射神経と動体視力に優れたセティの放つ力は、
ただの人の子には、その血と名の示す如く神の域に達していたのだった……
虚ろな瞳に涙を浮かべ、生きる事を諦めたようなセティの面を見詰めて、ティニーはぎゅっと胸の前で手を握り締めた。
「でも……セティ様は、以前仰いました。そして、たった今もその口で。
自分達が手に掛けた命に恥じないように。失われた命を犠牲とは呼ばない為に、決して振り返らないのだと。
それは私達、聖戦士の末裔が魂に刻み付けて子々孫々にまで受け継ぐ業。
聖戦士の力は、人として過ぎたものです。私も……人に無い力を持つ自分が辛かった。
でも、その血を受け継ぐ私達にしか出来ない事が、確かにある。その為に戦うのだと……光を見せてくださったのはセティ様です!」
ティニーの細い腕が、セティの身体を抱く。
かつて母がそうしてくれたように、愛しい存在を、その手で守りたいと。
「……人には受け容れがたい力かもしれません。人の形をした、異質な存在であると目に映るのかもしれません。
でも私は、セティ様が誰より優しい事を知っています。
ご自分が疲れ果てて歩くのがやっとの状態でも、人を傷付ける事に苦しみ、心に血の涙を流しながらも、
自分が戦う事で少しでも早く無益な争いが終わればいいと―――そう願い続けて来た人です。
他の誰も気付かなくても、私だけは知っている。
貴方が今までどんなに苦しみながら戦い続けて来たのか―――どんなに、『人』で在る事を欲していたか」
セティの瞳が微かに瞠られ、虚ろだった瞳の奥にティニーを映した。
そう―――ずっと前から、気付いていたのだ。
セティは生まれながらにして、今のような完璧な制御力を身に付けていた訳ではなかった。
過ぎた力は他人を傷付けるばかりか、自分の身すら滅ぼしかねない。
だから彼は初めて魔道書を手にしたごく幼い日から、血を吐くような努力を積み重ねて今の力と制御力を手に入れた。
こんな力が無かったなら。
『風使い』の末裔として生まれなければ、自分にはもっと違う人生があったのだろうかと、心の何処かでいつも思っていた。
誰も傷付けず、傷付ける事で心に血を流す事も無く、日々の実りに感謝して、今日命有ることを天地に感謝する―――そんな毎日が。
それはかつてティニー自身も心に思い描いた事であったから、セティの人となりを知るにつれ、彼が同じ想いを抱いている事はすぐに判った。
だからこそ同じ痛みを抱きながらも、その痛みから目を逸らす事無く、自身の中に受け容れていた彼を―――
これ程までに愛おしいと思ったのだ。
セティは決して人を超越した存在などではない。
傷付く事の痛みも、傷付ける痛みも知っている。命の尊さを何より重く受け止め、喪われる命に涙する。
例え古から受け継がれた人外の力をその身に秘めていようとも、彼が彼であると言う事実に変わりは無いのだ。
そして、その彼を愛しく想う自分にも。
「私は約束しました。セティ様が望んで下さるのなら、いつでもお傍に居ると。貴方が『人』である事の、私は生きた証。
心細ければ私の名を呼んでください。そして尋ねてください―――自分は『人』であるのかと。私は傍に居て……必ずお答えします」
ティニーがそっと、セティの額に口付けを落とす。
「貴方ほど優しい人を、私は他に知らない。私にとって、貴方は誰より掛け替えのない人です。
強くなくていい。弱音を吐いたって構いません。だって貴方は、心の弱さも辛さも感じる―――『人間(ひと)』なんですから」
セティの手が、ティニーの背を抱き返す。
確かめるように、光を失った者が手探りで、一筋の灯りを見出そうとするかのように。
「いつか僕が、『人』として生きられなくなる日が来ても―――君は、傍に居てくれるかい?」
「その時は、私も人外の存在になります。それが貴方と共に生きる唯一の方法ならば―――恐れる事など何も無い。
永遠に貴方と言う存在を喪う方が……私には辛いから」
ティニーの紫水晶の瞳が、優しく微笑む。
彼女の腕に抱かれて咽ぶように涙を流すセティは、一人の歳相応の青年に他ならなかった。
【FIN】
あとがき
これは、以前同人誌用に練っていたお話の焼き直しです。
セティが自分の持つ力に悩み、苦しみ、ドツボに落ち込むお話になる予定でした。
どのくらい落ち込むかと言うと、人格崩壊の一歩手前まで(笑)
でも丁度話を練ってる時に会社の定期人事で異動になり、同人活動も事実上止めてしまったので、そのままになってたんでした。
冒頭部分からセティが倒れて目覚めるまでの辺りを相当詳しくワープロで打ってあったのを、一度紙に打ち出してリメイク。
子供に怯えられる下りもかなり詳細に書いていたんですが、くどくなるのでさっくり削除して、
悪夢の影響で思い出したと言う表現に止めました。
だってね、そうしないと何処までも終わりそうになかったんです、このお話……(^_^;)
セティが立ち直ってくれないとこのお話終わらないので、ティニーに頑張ってフォローしてもらいました。
名残は微妙に残ってますが、非常にドロドロした展開になる筈だったんですよ……
何てったって人格崩壊しかけたセティを我に返す為に、ティニーが身体張る筈だったんです。
でもそんなに重くて暗い話をセティニーで書くのは余りにも辛くて、今回のような展開に変更になりました。
麻生 司