遠き我が子へ
「さあリーフ王子、お寝(やす)みの時間ですよ」
寝間着に着替えさせらたリーフが、ベッドを整えるラケシスの後ろをまだ心もとない足取りでついて歩く。
時折手をベッドにつく掴まり歩きであったが、ちょこちょこと自分の後ろをついて歩いてくる様は、見ていて微笑ましかった。
「まあ、お上手。もうこんなに歩けるのね」
しゃがみ込み、リーフの目線に高さを合わせる。
くりっとした茶色の瞳で見返すリーフは、ラケシスの黄金の髪が珍しいのか、手を伸ばして彼女の髪を一房引っ張った。
つん、と髪を引かれた痛みに、ラケシスがリーフの手に自分の手を重ねる。
「こら、おいたは駄目ですよ。さ、もうお寝みしましょうね」
ラケシスに抱き上げられ、リーフは自分のベッドに横たえられた。
赤ん坊用の小さな寝台のすぐ傍に、立派な寝台もある。
それもその筈で、元を正せばこの部屋の主は、リーフの両親であるキュアンとエスリンの寝室だった。
だが二人は既に亡く、また彼らと共に居た筈の、姉のアルテナの消息も不明のままである。
リーフはしばらく辺りを見回したり、ラケシスの方に手を伸ばして構ってもらおうとしていたが、
ポンポンと規則正しく掛け布の上から胸を叩かれているうちに、少しずつ微睡み始めた。
リーフが完全に眠ってしまうまで、そうして子守唄を唄いながら傍についていたが、やがて規則的な寝息が聞こえ始めると、ラケシスはそっと寝室を後にした。
隣室の自分達が寝室にしている部屋に戻ると、執務机で書き物をしていたフィンが顔を上げた。
本来この辺りは国王一家の寝所なのだが、広い城の奥にリーフ一人を置いてはおけない。
それでフィンがラケシス共々、寝所をこちらに移したのだ。
「リーフ様は?」
「もうお寝みになったわ」
「そうか、すまない」
「気にしないで。貴方も大変なのだから」
そう言って、ラケシスは夫に微笑みかけた。
レンスター王国の一騎士であるフィンと、アグストリア諸侯連合のノディオン王家の王女であったラケシスが夫婦であると言う事実は、ごく限られた者しか知らない。
それはラケシスがバーハラの悲劇を辛くも生き延び、レンスターに身を寄せても変わらなかった。
この城の中で彼女の素性を正しく知る者は、フィンとレンスター王以外には存在しない。
それはラケシス自身の命と、ひいてはレンスター王国を守る為であった。
シグルド公子が率いていたとされる反乱軍――それはアルヴィス卿やレプトール卿の謀だったのだが――の中核にあった者達の多くは、
『バーハラの悲劇』でその半数が命を落とした。
ラケシス自身、生きたまま焼かれたシグルドを目の当たりにしているし、すぐ傍で戦っていた者が息絶えたのを見ている。
中には生き延びた者も居たが、その多くは消息が判らなかった。
自分がレンスターに落ち延びたのは、そこに夫であるフィンが居たから―――生き延びた他の者が今、何処で何をしているのか、知る術すらなかった。
バーハラの悲劇で遺体の確認の出来なかった者には、残らず賞金が掛けられた。
破格のその賞金額は、ゆうに農民の一年分の稼ぎに相当する。
悪意ではないにせよ、生きる糧を得る為に、自分達の存在をグランベルに引渡そうとする者は数多い。
従って生き延びた者も素性を隠し、あるいは名を変え、各地でひっそりと永らえている。
かつての仲間の安否は気がかりであったが、何も手を尽くせないのが現状だった。
正確に言えばフィンも賞金首の一人なのだが、彼に関しての情報はグランベルにはあまり存在せず、それ故にフィンはグランベル軍の追撃を免れている。
どういう事かと言えば、『レンスターの一介の騎士』としてのフィンが賞金首であり、
『キュアンの腹心』そして『ランスリッターを束ねる指揮官』としてのフィンはグランベルの知る所ではないのだ。
実戦において急速に頭角を現した彼であったからこそ、このような情報の齟齬が生じたのである。
またラケシスにしても、『ノディオン王家の王女がレンスターの平民出身の騎士の妻である筈がない』という、一方的な思い込みが、辛うじて彼女を守っている。
ラケシスがレンスターに来て明らかにしたのは名前だけであり、城の他の者には、フィンとは出征中に出逢い、結婚したとだけ告げてあった。
ラケシスも素性と名を隠し、ミレトスを抜けてレンスターへと辿り着いたが、その道行きは命がけだった。
ようやくの思いで辿り着いたこの地で、しかしラケシスは、すぐには自分の名を告げなかった。
レンスター城の門前に立ち、フィンへの取次ぎに託したのは、片方だけの紅い貴石の耳飾り―――
自分を受け容れると言う事は、グランベルにレンスター侵攻の口実を与える事になる。
もしも彼がこの城へ自分を受け容れる事を厭うならば、黙って立ち去る覚悟を決めていた。
例え様も無い孤独と不安を胸に抱えて門外で待つ、
そんな自分を両腕を広げて迎えてくれたフィンの笑顔を、彼女は生涯忘れる事はないだろうと思う。
鏡台の前で髪を梳かしていたラケシスは、鏡に映るフィンの横顔を見た。
シグルド達と共に戦っていた頃よりも少し痩せたその横顔は、あまり顔色がよくないように見える。
「フィン、少し休んだ方がいいんじゃない?」
「これが片付いたら今夜はもう止めるよ」
ちらりとラケシスの方を見て、フィンは微笑を浮かべた。
生来生真面目な性格のフィンは、その誠実さと忠信を高く評価されて、キュアン亡き後、病床にあるレンスター王からランスリッターの指揮、統括を一任された。
それと同時に、レンスター城そのものの守備と、リーフの養育も託された。
爵位も望まず、生活も以前と変わらず質素なものであったが、その実は執権代行と言っても過言ではない地位に今の彼は在る。
平民の生まれながら、そこまで立身出世した彼の名はレンスター国内では有名になり、
フィンが率いるようになって以降も、未来のランスリッターを目指して仕官を望む者が後を絶たなかった。
しかしそんな彼の双肩に、レンスター王国の現在と未来が全て掛かっているのである。
その苦労は並大抵の物ではなく、睡眠時間が一刻(二時間)という日も珍しくはない。やつれもしようと言うものだ。
ラケシスは彼が過労で倒れないよう、少しでも栄養のある食事を用意したり、新兵の槍の稽古を彼に代わって見たりした。
闇魔法以外の全ての武器魔法を極めた者だけに許される、『マスター』の称号を持つ彼女だからこそ出来る事だ。
城内の防備の確認、強化、新兵の教育、馬の手入れ、人と馬の糧食の確保など、瑣末な事まで数え上げたらきりがない程の事と、フィンは毎日向かい合っている。
その全てを投げ出さず、一つ一つ片付けていこうとするのもまた彼らしいと、ラケシスは思った。
コトリとペンを置き、フィンが眉間を揉み解す。
その前に、トレイに乗せられたカップが差し出された。
「お疲れ様」
「ああ、ありがとう」
ラケシスの手からカップを受け取り、注がれていた葡萄酒に口を付ける。
疲れた身体の隅々に、潤いが満たされていくような感覚だった
「糧食の調達、上手く行かないの?」
フィンの手元の書類を見たラケシスが、彼の傍の椅子に腰を下ろしながら尋ねる。
不意にフィンの表情が曇った。どうやら図星だったらしい。
戦場では、勿論智恵も勇気も必要だが、それ以前にそれらを支える糧食が確保出来なければ意味を成さなくなる。
いつ何が起きても対処出来るようにする為には、糧食と水の確保は絶対条件だった。
強張った身体を解すように深く椅子に身を沈めたフィンは、ひとつ吐息をつくと、珍しく気弱な事を口にした。
「正直、難しい。今年は凶作だった上に、国内全体が戦の恐怖に浮き足立っていて、来年の準備すらおぼつかない」
トラキアで最も尊ばれるのは、民を飢えさせない王であると言う。
その言葉の真意を、今まさにフィンは痛感していた。
戦う事よりも、まず生きる為に、人は食べ物を口にしなくてはならない。
以前は城下で作られた作物を一定の価格で城が買い上げて必要な糧食を得ていたのだが、
今年は凶作で、民がやっと食べて行けるだけの実りしか得る事が出来なかった。
幾らかの余剰を、今は以前通りの価格で買い上げて食い繋いでいる状態だが、それすらいつまで続けられるか判らない。
「平和な時代だったなら、もう少し違った方法も取れるんだが……」
具体的に言えば、他国から作物を買うのである。
レンスターならば比較的グランベルと交流が深かったので、決して難しい話ではなかった筈だ。
それも今となっては、過去の話であるが―――
「……それならばフィン、自分達の食べる分くらいは、せめて自分達で作れないかしら。余剰を買い上げるのを当てにするのではなくて」
「自分達で……作る?」
目から鱗が落ちたような気がして、思わず反駁する。
「そうよ。今年の分は、もう仕方がないから何とか調達するしかないけれど……
皆、大変なんですもの。種籾や苗木を分けてもらって、城の中庭や空いた土地を使って、自分達の食べる分は自分達で何とかするのよ。
土をならしたり、作物を手入れするのには体力を使うから、訓練にもなると思うのだけど」
それはとても、数年前まで苦労知らずで育った王女の発想とは思えなかった。
だが一考してみる価値はある。
自分達の食い扶持くらい、自分達で賄わなければ、この厳しい時代を生きていく事など出来はしないのだから。
「ありがとう、ラケシス。少し、何とかなりそうな気がしてきたよ」
「どういたしまして」
礼を口にしたフィンに、ニコリとラケシスは笑みを返した。
それから暖炉の傍で、しばらく二人は今後の事などを話し合った。
先程の糧食の確保の問題に始まり、まとまった時間が取れず、最近リーフの世話をラケシスに任せっきりにしていた事に、
フィンが申し訳ないと頭を下げる。
「ずっとリーフ様の事を任せきりにしていて済まない。本当は何をおいても、僕がお世話しなくてはいけないんだが」
リーフと城の守りを頼む―――それが、結局キュアンからの最後の主命となってしまった。
その事はラケシスも判っていたから、リーフの為になかなか時間の取れないフィンに彼女は告げたのだ。
貴方の受けた主命は、私の受けた主命でもある……と。
「それがキュアン様から頂いた、貴方の主命ですものね……
でも貴方には、このレンスターを守る為にすべき事が山とある。きっとキュアン様だって判って下さるわ。
それにリーフ王子は可愛いし、私もお相手するのが楽しいから……大丈夫よ」
時折、胸を刺すような痛みを覚える事もあるけれど―――
一瞬伏せたられたラケシスの瞳に気付き、フィンが彼女の手に自分の掌を重ねる
ラケシスはほんの少し寂しそうな微笑を浮かべた。
「リーフ王子のお相手をするのが楽しいのは本当よ。子供が日々大きく、成長していく様を見るのは本当に嬉しい。
ただ時々……私達の子は元気かしら。もう歩いているのかしら。言葉は喋るのかしらと……そう、思うの」
フィンとの間に授かった男の子はシレジアで無事に生まれ、ラケシスがデルムッドと名付けた。
その後生まれたばかりだった息子をシレジアのラーナ王妃と、レヴィン王子の子を身篭ったフュリーに預け、彼女は出征した。
あの日から既に一年余―――元気に育っていれば、リーフ王子と同じくらいの筈である。
リーフ王子の成長ぶりを見るにつけ、自分の子は今どうしているのかと思いを馳せ、時には涙を流す事もあった。
無邪気に向けられる笑顔に、母としての自分を感じ、辛いと思う事もある。
だが、それでも。
「例え、どんな遠くに離れていても……生きてさえいてくれれば、いつかまた会える。
だけどリーフ王子を見ていると、どうしても思い出さずにはいられない」
ぎゅっと、膝の上に揃えて置かれた手が握り締められた。
本当に自分は正しい選択をしたのか。今でも迷っているというのが、素直な気持ちである。
子供の事を想うのなら、フュリーがそうしたように、自ら出征を止めるべきであったかもしれない。
そうすれば少なくとも子供の傍に居て、自分の手で守ってあげる事が出来た筈だ。
だが、それでも―――
「あの日―――ラーナ王妃とフュリーを信じて、私はデルムッドを託した……だから、決めたの。
あの子を自分の手で育ててあげられない代わりに、私はきっと、リーフ王子を立派に育ててみせるって」
「ラケシス……」
決然としたその眼差しに、フィンは一瞬言葉を失った。
幼くして実の両親と、姉を一度に失ってしまった幼子。
亡きキュアンとエスリンの忘れ形見であるリーフを、自分の持てる精一杯の愛情で育ててあげたい。
誇り高く、心の強い、そして願わくば両親のように心優しい、レンスターの王子として。
「それが私の素性を知りながら、この城への滞在を許してくださったレンスター王への……せめてもの恩返し」
フィンと共に謁見した際、年老いたレンスター王はフィンが将来の約束を交わしたというラケシスが生き延びた事を、ただ喜んでくれた。
そしてそれは素性を全て明かした後も変わらなかった。
『今ある命を大事にしなさい』と……自分の息子と義理の娘を失ったばかりの王は、
僅かの間にやつれた面差しに、穏やかな笑みを浮かべてそう言ってくれたのだ―――
「辛くても、命がある以上頑張るわ。石に齧りついてでも、きっと生き延びてみせる。
そうすればいつかきっと、あの子を迎えに行けると信じているから」
そうでしょう?と呟くラケシスに、フィンは力強く頷いた。
「ああ、きっと会える。いつか一緒に迎えに行こうと約束した。その為にも、絶対に生き抜かなくてはいけない」
彼女の手を、もう一度強く握り返す。
「僕も誓おう。最後まで希望は捨てない。主命を全うし、必ずデルムッドを迎えに行く」
彼の手を取ると、ラケシスはそっと自分の腹に導いた。
「ラケシス?」
不思議そうに見詰め返す視線の先で、彼女の顔に浮かんだのは柔らかな微笑―――
「身篭ったの、私」
静かな言葉に、フィンは目を瞬かせた。
「子供……僕達の?」
コクン、と小さく頷く。
「デルムッドとリーフに、弟か妹が出来るのよ……喜んでくれるわよね?」
フィンは言葉もなく、ラケシスを抱き締めた。
強く強く、その存在を確かめるかのように。
「フィン……」
「ありがとう……ラケシス、ありがとう」
囁かれた言葉に、ラケシスはそっとフィンの頬に口付けた。
翌年の初夏、二人の間に女の子が誕生した。
彼女はナンナと名付けられ、フィンとラケシスの手により、リーフ王子と共に大切に育てられる事になる。
更に数年後、イザークのティルナノグより便りが届く運命のその日まで―――彼らは仲睦まじく暮らしたと言う。
【FIN】
あとがき
レンスター時代のフィン×ラケシスです。
まだナンナは生まれておらず(ラケシスのお腹には宿っていますが)、リーフは1歳過ぎくらい。
レンスターはグランベルの占領下にあって、城の人達が食べるのもカツカツという状態です。
そんな中にあっても、一年以上の戦いの中で『生きる』という事に前向きになったラケシスを書きたかった。
貴族育ちの彼女の口から、まさか野良仕事で自分達の食い扶持を賄うなどという言葉が出るとは、
フィンも思っていなかったでしょうから(笑)
あとは彼女の、母としての想い。
シレジアに残して来た息子が数年後イザークに移ったと知るその日まで、かりそめの平穏な日々は続きます。
母であるラケシスと、妻であるラケシスと、その両方が出せていたらいいなと思いながら、この話を書き上げました。
麻生 司