夢路より


パタパタパタパタ……

城の廊下に忙しない足音が響く。
長いスカートを翻し、黄金の髪を靡かせて廊下を駆けて来るのはナンナであった。
目的の部屋の前に辿り着くと、息を弾ませてノックする。
中から『入りなさい』という声が掛かると、重い扉をもどかしげに押し開けた。

「まぁ、ナンナ。さっきの足音は貴女だったの?」
「ごめんなさい。ラケシス母様」

元気な足音の主が娘だったと知って、ラケシスが手にしていた本から顔を上げて苦笑いを浮かべる。
ナンナは優雅にスカートの裾を持ち上げると、丁寧に膝を折った。

 

普段の彼女の立ち居振舞いは優雅の一言に尽きる。息を切らせて廊下を走るなど、まず無い。
トラキア侵攻の脅威に晒される情勢の中ではあったが、ナンナは両親から、立ち居振舞いについて厳しく躾(しつけ)られた。
聖戦士の末裔としての誇りを失わない事。どんな逆境にあろうとも、心までその気高さを喪わないように。

それは驕りではない。
聖戦士の一族に血を受けると言う事は、それだけ重い意味が在ると言う事だ。
国を纏め、民を守る事。
民を飢えさせず、無益に争い血を流さない。
もしもその国を纏める者に国を治められる器が無ければ、末路には滅びしかない。

依って起つは、連綿と受け継がれてきた血の絆によって結ばれた縁。
誇りはその縁を確かめる術。
聖戦士の末裔の一人として生を受けたからには、その誇りを大切にしなさいと―――それが、両親の教えだった。

 

「ドレスが仕上がって来たの。早く母様や父様にお見せしたくて」
「それで廊下を走ってきたの?いけない子ね」

くすりと笑うと、ラケシスは娘の額を指で軽く押した。

「でもお父様はリーフ様と槍の稽古をなさっているわ。もうしばらく掛かると思うけれど」

そうなの?と、ナンナの形のよい眉が少し下がる。だが母の手に掌を重ねて、父親譲りの青い瞳で促した。


「それなら……せめて、母様だけでも先に見て。お願い」
「判ったわ。一度ちゃんと袖を通して、お父様に見て頂きましょうね。後ろの方を見てあげるわ」

城仕えの少女に、フィンが――ラケシスの夫であり、ナンナの父である――稽古から戻ったら、ナンナの部屋に来るようにと伝言を頼む。
ふとラケシスが娘を振り返った。

「リーフ様はお呼びしなくてもいいの?」

ぱっ、とナンナの頬が朱に染まる。そしてふるふると首を横に振った。

「リーフ様は……駄目です。今日は、父様と母様だけ」
「……そうね。花嫁衣裳ですものね。お式の当日にだけ見てもらえば十分かしら」

真っ赤になって頷く娘の肩を、ラケシスが微笑を浮かべてそっと抱き寄せる。
そう―――ナンナは、新トラキア王国を継ぐ事になったリーフ王子の花嫁になるのだ。
国を挙げての久し振りの慶事は、もう三日後に迫っていた。

 

「綺麗ね……とってもよく似合っているわ」
「本当に?何処かおかしな所はない?」

自室でナンナが白いドレスを身に纏い、大きな鏡の前でくるりと一回りしてみせる。
ナンナ本人があまり華美なデザインが好みではない為、すっきりとした印象だが、
襟や袖口には上品なレースがあしらわれ、大きくドレープを取ったドレスの裾が、彼女の動きに合わせてふわりと膨らんだ。

「ないわよ。本当に素敵」
「良かった。母様に太鼓判を押して貰えれば大丈夫ね」

腰の後ろで結ばれたリボンを少し直しながらラケシスがそう言うと、ようやくナンナの顔にほっとしたような表情が浮かんだ。

「でも早いものね……貴女が、もう嫁ぐ歳になるなんて」

ナンナは、今年16歳になる。まだ誕生日を迎えていないから、今はまだ15歳だ。
この時代において、決して早すぎる年齢ではない。
事実リーフの母であるエスリンは、十四歳になるのを待ってキュアンの元に輿入れしている。
あっという間の十数年であった事は確かだが、こうして娘の晴れの姿を目にすると、改めて過ぎ去った年月の重さを感じた。

「母様は幾つで父様と結婚なさったの?」
「私?私は……フィンと出逢ったのは、確か十六歳の頃ね。結婚したのは―――十七の時よ」


それは、正式な婚礼ではなかったけれど。
お互いを唯一の伴侶として選び、初めて愛を交わしたのが―――十七の時だった。
それから数ヵ月後にフィンはレンスターへと帰国し、ラケシスは一人シレジアで、ナンナの兄であるデルムッドを産んだのである。
そのデルムッドはラケシスの故国であるアグストリアで、母に代わってアレス王の片腕として働いている。

バーハラ悲劇を生き延びて、まさしく生死の境を彷徨う想いでレンスターへと落ち延びたラケシスは、そこでフィンと再会した。
そのまま彼の妻としてこの地に残る事をレンスター王に許され、夫と二人でこの国を守った。
ラケシスは一時、レヴィンの手によりイザークのティルナノグに逃された息子を迎えに行くと言い出した事があったが、
フィンの懇願に折れ、そのままレンスターに留まる事となった。

一時はレンスター城陥落の憂き目にもあったが、後にセリス率いる解放軍と合流し、無事に城を奪還出来た。
解放軍にはフィンと娘のナンナが参加し、そこでデルムッドとフィン、ナンナは初めて出逢った。
マスターナイトの称号を持つラケシスはそのままレンスター地方の防衛に当たり、聖戦の終結を迎えたのである。


「母様たちが結婚なさった頃は……大変だったのでしょう?
 シグルド様に反逆の疑いが掛かっていたり、キュアン様達やエルトシャン伯父様が―――亡くなられたり。
 母様も、結婚間もない頃に父様とは数年離れて過ごしたと……」

娘の言葉に、ラケシスは一瞬瞳を伏せた。

「そうね……本当に、色々な事が一度に自分の周りで起きて。
 全ての事が自分達にとって悪く動いてるんじゃないかと思ってしまうような……そんな時代だった」

 

全てのきっかけは、ヴェルダンの第一王子によるエーディン公女誘拐。
そこから狂い始めた歯車は、徐々に速度を増しながら関わる者全てを巻き込んで行った。
しかしそのたった一つの歯車の狂いが無ければ―――自分は今、ここには居なかったと思う。
フィンと出逢う事も無く、子供達も生まれなかっただろう。

あのままアグストリアで、国の為と割り切り、誰とも知らぬ男と一緒になって、ひとかどの家庭は築いていたかもしれない。
だがどんなに辛く、厳しい時代があったのだとしても―――今より、幸福な自分は在り得なかったと思うのだ。

 

「ナンナ、きっと幸せになってね。母様は何処に居ても、いつも貴女を……貴女達を見守っているから。
 いつまでもリーフ王子と仲睦まじく、新しく生まれ変わったこの国を―――大切に、育んで頂戴」
「母様……どうしたの?まるで、何処か遠くに行ってしまうみたい」

ラケシスの胸に抱き締められたナンナが、不思議そうに母を見上げる。
微かに微笑んだ母の顔はいつも通りで……その笑顔が、不意に水面に石を投げたように揺らめいたような気がした。

「愛しているわ……大切な、私の娘……」

母の優しいキスが頬に触れて―――ナンナの意識は、暗転した。

 


「……ンナ、ナンナ?起きなさい」

肩を揺り動かされて、ナンナは目を開けた。
ぼんやりと周囲を見回すと、自分の顔を覗き込む、父の顔が間近にあった。

「私……眠って……?」
「そのようだ。ドレスを皺にしないように、座った姿勢のままで眠っていたよ」


父―――フィンが苦笑する。

リーフ王子と槍の稽古を終えた父が、言伝(ことづて)通り自分の部屋に来てくれたのだと、ようやくナンナは思い出した。
三日後に迫ったリーフとの婚礼衣装が仕立てあがってきたので、是非見て貰いたいと。
顔なじみの城仕えの女性に手伝ってもらってドレスを身に付けた後、父を待ちながら眠っていたらしい。

真白い絹で仕立てられたドレスは、シンプルだが品の良い仕立てで、襟元と袖口には美しいレースがあしらわれている。
だが立ち上がって正面に立った娘を見て、微かにフィンが眉をひそめた。


「ナンナ……泣いていたのか?」
「え……?」

父に言われて、ナンナが自分の頬に手を触れる。
そこには確かに、ひと筋の涙の跡があった。

―――愛しているわ……大切な、私の娘……

「夢を―――」
「夢?」

ナンナが頷く。

「母様の……夢を見ていました」

娘の言葉に、フィンが訝しげな顔をする。しかしラケシスの夢だと聞いて、表情が改まった。

「ラケシス母様は今でもこのレンスター城でお元気で、一緒にこのドレスを見てもらったんです。
 リーフ様にはまだ内緒で、父様と母様だけに見て欲しいと言って」


そう―――あれは、夢。
何度となく願った、『もしも』が積み重なった別の『今』。

母はイザークに旅立たず、共にこのレンスターで生き延びていて……いつか、嫁ぐ自分を見て欲しいと。

「……もっといろんな事をお話したかった。昔の父様のお話とか、どんな風に母様達は恋に落ちたのかとか」
「ナンナ」

クスクス笑う娘に、フィンが形ばかり気難しげな顔をしてみせる。
だがナンナの瞳には父をからかう色は無く、それが娘の素朴な願いだったのだと気付いた。

「……そして、一緒に祝って欲しかった。私が、大好きな人に嫁ぐその日を……父様と一緒に」


あの夢は、自分の願いの現れだったのだろうか?
だがこんなにもはっきりと憶えている。
触れた手の慈しみを、抱き寄せてくれた胸の温かさを、頬に触れたキスの優しさを。

「きっと、あれはただの夢じゃない。母様は、何処に居ても私達を見守っていると言っていた。
 会いに来てくれたのだと……思います」
「―――そうかもしれないな」

以前、母を何故旅立たせたのかと、父に詰め寄った事があった。

例え子供でも夫婦の事には立ち入って欲しくないと―――父は、父なりに思う事があったのだろうと、今では思える。
それきり母の事を尋ねる機会は恵まれなかったが、今なら答えてくれそうな気がした。

「父様、これきり二度とお尋ねしません。でも今、一度だけお聞きしたら……答えてくれますか?」
「……ラケシスの事か?」

父の言葉に、ナンナが軽く顎を引いて頷いた。

「父様は……母様を愛していらっしゃった?私や、リーフ王子を慈しんで育ててくださったのと同じように」


微かに天を仰ぎ、父の瞳が伏せられる。
今は亡き妻の声に、その耳を傾けるように。


「ああ……愛していた。今も―――愛している。例え傍に居なくても……それだけは変わらない」

 

母は、今でも父と共に在る。
普段は感じられないのだとしても、確かに自分達を見守ってくれているのだ。
亡き母と、父の愛情に包まれた自分達ならばどんな困難も乗り越えていけると―――

ナンナと、彼女から夢の話を聞いたリーフは共にレンスターの城内に掛けられたラケシスの肖像画に深く頭を垂れ、数日後の結婚式に臨んだと言う。

                                                                              【FIN】


あとがき

タイトルで察しの良い方はお気付きでしたでしょうが、ナンナが見た夢がオチでした。
厳密に言えば、夢を介した接触とでも言うのでしょうか。
怖いと思う方もいるかもしれませんが、確かにラケシスは、婚礼を控えた娘に『会いに来ていた』んですよ。
ナンナは夢だと認識しているけれど、ラケシスは実際に娘にメッセージを託しているんですね。
傍に居て、育ててあげる事は出来なかったけれど、夫も、子供達(リーフ含む)も皆、愛していたと―――
母の顔をしたラケシスを書く機会に恵まれなかったので、敢えて今回はリーフ×ナンナベースのナンナのお話にしてみました。

                                                                    麻生 司



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