その少女を初めて目にしたのは、ダーナの街の裏通り。
猫の額のような修道院の庭先で、小さな子供たちを前にして彼女は踊っていた。


質素な衣服を身につけてはいたが、これだけは染めの鮮やかな飾り布を翻し、
周りを取り巻く子供たちの手拍子に合わせて足が地を蹴ると、華奢な身体がまるで羽根が生えているかのようにふわりと身軽に空を舞う。
ただじっと見ているだけでは少し肌寒い季節だったせいか、それとも彼女の踊りに人にそうさせる何かがあったのか、
そのうち次々に子供たちは立ち上がると、少女の真似をして踊り始めた。

彼女は気を悪くしないのだろうか。
踊り子は、自分の踊りを見て貰う事を喜びにしているのではないのか。
例え相手が子供であっても、客である以上大人しく自分の踊りを見ていろと叱り付けるかもしれない。
だが予想に反して、少女が浮かべたのは零れるような笑顔。そしてその笑顔に釣られた子供たちの弾けるような笑い声が辺りに響く。


決して豊かでも、恵まれている訳でもない街の裏通り。
子供たちは皆
痩せてはいたけれど、その表情は明るく輝き、自らの境遇を疎んじている様子は無い。
贅沢は出来なくとも、生きる術に困窮するほどではないのだろう。
彼等が浮かべる笑顔と笑い声は、彼等自身を周囲から切り取られた一枚の絵のように見せていた。







Wheel of Fortune








リリン、リン……

彼女が腕を振るう度、すらりとした足が優美に空を蹴る度に、装飾品に付けられた小さな鈴が清かな音を立てる。
人の賑わいと沸き起こる歓声に、アレスは何気なく広場へと目を向けた。

彼女を見掛けるのは、これで何度目だろう。
初めて見たのは裏通りの修道院。それから何度か同じ場所で姿を見掛けて、最近この広場で踊る姿を目にするようになった。

広場の噴水の傍で飾り布を翻して舞う少女は、まだ面立ちに幼さを残している。十四-五歳と言うところだろうか。
とりわけ大柄でも小柄でもないが、ほっそりとした手足が美しい軌跡を描き、危なげなく空を舞う。
深緑の髪を頭の高い位置で一つに結わえ、観客の手拍子に合わせて笑顔で舞う姿からは、
彼女が心の底から『踊る』という行為を楽しんでいる事が判る。

やがて最後のステップが踏まれると、少女は深々と観客に向かって足を折り、頭を垂れた。





「これはまた、素晴らしい踊りじゃった。また踊って見せておくれ」
「お姉ちゃん、また来てね!」
「本当に綺麗だったわ」

集まっていた観客達は、口々の賞賛と共に幾ばくかの見料を少女の手にした小箱へと入れていく。
だが大金を入れる者は無く、あくまでも気持ち程度の額。

「ありがとう、また見に来てね。え、お代?ううん、無いなら無いでいいのよ。
 気にしないで、また見に来て頂戴。私は踊りを見てくれる皆の楽しそうな顔を見るのが、一番嬉しいの」

そう、見料さえも義務ではないのだ。
たまたま目にした踊りがあまりに見事だったから思わず足を止めて見入ってしまったけれど、
手持ちの金は家で待つ病気がちな母と弟妹達の為にパンを買う金なのだと少年が正直に口にしたら、
彼女はあっさり『無いなら無いで構わない』と言い放った。

集まっていた客たちがパラパラと帰途に着いた後、少女も帰り支度を始める。
纏っていた飾り布を外すと丁寧に折り畳み、その中に客達が置いていった見料の入った小箱を包み込んだ。
肩や背中が大きく露出した明るい色の衣装の上から、地味で古びてはいるが清潔な上着をふわりと羽織る。

その前に、壁のように数人の男が立ちはだかった。





「お前か?最近この広場で踊りを見せて、小金を稼いでる女ってのは?」

少女はちらりと男達を見上げたが、返事もせずにその脇をすり抜ける。
怯えるか狼狽して騒ぐかと思われた少女が自分達を完全に無視した事で、ただでも宜しくない男たちの人相が一層剣呑になった。

「おい、お嬢ちゃん。人が下手に出てやってるのに、調子に乗ってると痛い目見るぞ?」

乱暴に腕を掴まれ、流石に少女の足が止まる。
無理も無い。あの華奢な体格では、喧嘩慣れした男の手を振り解く事など出来はしないだろう。

「そうつれなくしなくても、何も取って喰おうって訳じゃねぇよ。
 俺達にも、最近評判のお前の踊りを見せて欲しいってだけなんだからさ。ちょっと其処の店まで付き合えよ」

男の一人がクイ、と顎で示したのは、この辺りでは一番柄の悪い連中が集まる酒場だった。
真昼間から働きもせず酔い潰れているクズ共の掃き溜めであり、賭場も兼ねている。その他にも悪い噂を数え上げたらキリが無い店だ。
少女は侮蔑の眼差しを向けると、静かな声で言葉を紡いだ。
その声に氷のような怒りが秘められている事に、あの単細胞達は気付いているのだろうか。


「離して頂戴。下種(げす)に見せる踊りなんて無いわ。

 私は太陽と空の下で、人を楽しませる為に踊るの。酔っ払いの酔狂を満たす為の踊りなんて真っ平御免よ」
「ンだと、コラ!?」

酒で濁った頭でも、自分達が馬鹿にされた事は理解出来たらしい。
せめてもう少し上手く言い逃れる方法もあっただろうに、大人しそうな顔立ちを裏切る辛辣さが勝ってしまったようだ。

「このダーナの街を守ってやってるのは誰だと思ってるんだ?
 女子供は素直に俺等の言う事を聞いて、大人しく言う事を聞いていればいいんだよ!」

男たちが少女を取り囲むようにして細い腕をねじり上げる。
少女の顔が苦痛に歪んだが、気丈にも一言の悲鳴も呻き声も上げはしない。

「判ったらさっさと来い!」

強引に腕を引き、少女を無理矢理酒場へ連れ込もうとする。その鼻先に―――



「―――その辺にしておけよ、見苦しい」
「ひっ……!?」


突然抜き身の剣を突きつけられて、男達は一瞬手を緩めた。
その隙に自由になった少女の腰を引き寄せ、自分の背後に庇う。

「誰がこの街を守ってるかって?それは俺達、傭兵団だ。
 少なくともお前達の顔を傭兵団で見た記憶は無いが、新入りか?だったらこの俺にも、相応の敬意を払って欲しいもんだな」
「何だ、お前は!?」
「おい、ちょっと待て……!」


邪魔をされ、逆上しかかった男を仲間の一人が止める。
その視線が漆黒の輝きを放つ抜き身の剣と、同じく黒い装束に注がれていた。


「傭兵団と言ったな?その黒い剣と装束……まさかお前は、あの噂の黒騎士……!?」
「ほう、酒で濁った目でも、ミストルティンは見えるらしい」

アレスの青い瞳が冷たい光を帯びる。
金茶の髪に青い瞳、そして魔剣ミストルティンを持つその傭兵の雷名は、『黒騎士』の二つ名と共にダーナの街に鳴り響いていた。
傭兵団の長ジャバローの信も厚い、黒騎士ヘズルの直系―――アレス。

男たちは舌打ちしつつもそれ以上の悪態をつくことも無く、決まり悪げにその場を後にした。



「もう少し利口な逃げ口上は無かったのか?」
「生憎と正直な性分なので、自分に嘘がつけないのよ」

少女はアレスに助けて貰った礼を口にした後、リーンと名乗った。
さっきの男達が一人になった隙を狙ってまた絡んでくる恐れがあったので、結局アレスが送ろうと申し出た。
直ぐ其処だから気にしなくて良いと言われたものの、万が一別れた後で彼女の身に何かあったら寝覚めが悪い。
『じゃあお礼にお茶でもご馳走するわ。小さな子供達が大勢居るから、落ち着かないかもしれないけれど』と言う事で、彼女は同行を受け容れた。
その道行きでの会話である。

「私の踊りは酔っ払いの余興や、いやらしい男たちに見せる為のものじゃない。
 太陽の下で、あるいは月の光の下で、空と風と大地を全身で感じながら、呼吸するように踊るの。
 その私の踊りを見て、楽しいとか綺麗だったと喜んでくれるのなら、それが一番嬉しいのよ」
「その気概と胆力は認めるが、このままでは身がもたないだろう」
「まあ……ね。だからさっきは、本当に助かったわ。ありがとう」

彼女程の器量なら、男たちに絡まれたのも初めてではないだろう。
絶世の美女と呼ぶようなものではないかもしれないが、人を惹き付ける愛らしさがリーンには在る。
今までは上手く逃げ出していたらしいが、次も無事とは限らない。
事実今日も、アレスが止めなければ間違いなく酒場に引きずり込まれていた筈だ。
どうせ酔漢の前で踊る気がないのなら、せめてもう少し上手く言い逃れる術を考えなければならないだろう。

「此処よ」

そう言って彼女が立ち止まったのは、特徴のある聖印のレリーフを入り口に掲げた、見覚えのある修道院だった。

「心配するといけないから、シスターと子供達には、絡まれた事を内緒にしておいてね」
「いいだろう」

唇の前で一本指を立てて見せたリーンに、アレスが軽く顎を引いて頷く。
リーンが『ただいま』と言って扉を開けると、中からは『おかえりなさい!』という、これまた聞き覚えのある元気な声が幾つも掛けられた。







「シスター、はいこれ。今日の分よ」
「リーン、いつもありがとう。でも無理をしなくてもいいのよ」

差し出された小箱を手に取り、シスターが申し訳無さそうに表情を曇らせる。
だがリーンは『何を言ってるの』とからりと笑って見せた。

「私は此処でシスターに育てて貰った。今度は小さな子供たちの為に、私が頑張らなきゃ。
 それに無理なんてしてないわ。私は踊る事が好き、お客さんはその私の踊りを見て楽しんでくれる。それで十分なのよ」

という事は、リーンは孤児なのだろう。
幼い頃に何らかの事情で両親と別れ、この修道院で育ったのか。

「それと、こちらはアレス。いつも広場に踊りを見に来てくれる常連さんなの。
 あまり熱心に通ってくれるものだから、一度お茶にご招待しようと思って」
「あら、まぁ」

楽しそうにシスターが笑みを浮かべ、『ようこそ、狭い所ですけど』と腰を折る。
丸きり言葉通り疑いも無く信じているという様子でもないが、彼女の言う事なら敢えて深く追求はしない、という心得た笑みだ。
少々見当違いの誤解をしているかもしれないが、『酔っ払いに絡まれていた所を助けてもらった』と説明するよりは心配をかけずに済むだろう。
『いつも踊りを見に来る常連』と言うのもあながち嘘ではないので、アレスはシスターに曖昧に頷き返しておいた。




「此処の子供たちを養う為に、広場で踊って見料を稼いでいたのか?」
「まあ、今はそうね」

茶の用意をしながら、リーンが返事をする。
いつもはシスターや子供たちと一緒なのだそうだが、今日は客のアレスが居るという事で、シスターが子供たちを別の部屋へと移動させた。
積もる話があるなら子供たちの賑やかさは邪魔だろうと、気を利かせてくれたのかもしれない。
まさか自分達が今日初めて言葉を交わしたとは思っていないのだろう。

「そうそう、さっきは話を合わせてくれてありがとう。お陰でシスターも、特に不審には思わなかったみたい」

軽く肩を竦め、小さく赤い舌を出す。
『本当の事を言っちゃっても、別に私が悪い事をしてる訳じゃないんだけど』と呟いた。

「今までもこの修道院で子供達に見せたり、裏通りで踊ったりはしてたのよ。
 私は普段別の仕事をしているし、別に踊りで見料を稼ぐ事が目的ではなかったから。
 でも今年は不作で……何処も大変なの」

元から雀の涙だった寄付なども、折からの不作ですっかり干上がってしまっていた。
リーンは良心的な酒場――胡散臭い客を相手に胡散臭い商売をしていない、と言う意味だ――で皿洗いや賄いなどをして日銭を稼いでいたのだが、
はっきり言ってあまり実入りは多くない。
そこで休みの時や余った時間に広場で踊り、幾ばくかの見料を稼ぐ事にしたのだと言う。

「本当はね、踊りでお金を取りたくないの。私は、ただ踊りたいから踊ってる。踊っている事が楽しいから。
 お客さんはその私の踊りを見て、楽しいとか綺麗だなと思ってくれればそれでいい。
 あそこで私の踊りを見ていた人達は、私がこの修道院に世話になってる事を知っている人ばかり。
 だからほんの少しずつだけど、自分達も大変なのに見料を置いて行ってくれるのよ」


生別か死別かの違いはあるかもしれない。
だが自分も彼女も、幼くして親から離れて生きなくてはならなかったのは同じ―――

傭兵団に拾われ、剣だけを頼りに生きてきた自分。
人を楽しませる為に、踊る事を生き甲斐にしている少女。

何処か自分と似た境遇を背負う彼女に、今までに憶えのない興味が湧いた。


「……その場を繕う為に頷いたんじゃない。
 本当に―――時々、見に行っていたんだ。君の踊りを見たのは今日が初めてじゃない。
 俺は踊りの事など判らないが……ただ、綺麗だと思った」


初めて彼女を見かけたのは、この裏通りの修道院。
二度目に見かけたのは、ほんの偶然だった。

剣の手入れの為に出掛けた先、街の広場でリーンが踊っていた。
人の輪の中心で全身を一杯に使って踊るその姿から何故だか視線が外せなくて、離れた場所から彼女を見ていた。
『綺麗だ』とか『楽しそうだ』とか、そんなごく素朴な感情が沸き起こり、不思議と表情が解れた事を憶えている。
集まった人の波に紛れて、気持ち程度の見料を置いて立ち去った。
それ以後も何度か同じように広場に通い、彼女の踊りを遠くから眺めていたのだが……

カップを手にして向かいの席に腰を下ろしたリーンが、フッと空色の瞳を和ませ笑みを見せる。


「踊りを褒めてくれてありがとう。でもそれなら、お互い様だったのね」
「え…?」

青い瞳が驚いたように瞬かれた。

「私もね、気付いてたわ。遠くのお店の陰から、時々私の踊りを見ている背の高い男の人の事。
 踊っている間には近付いて来ないのに、踊りが終わると集まっていた人に紛れて、いつも銀貨を一枚置いて行ってくれるのよ」

そう言ってクスクス笑う。
こっそり見に行っていた事に気付かれていたのも意外だったが、見料までしっかり見極められているとは思わなかった。
ちなみに銀貨一枚あればパンを数個買える。踊りの見料としては、安過ぎず高過ぎずというところだ。

「一度こうして、ちゃんと貴方の顔を見て話をしてみたかったの。
 だから今日の事は、幸運な偶然だと思ってる」

あの男達に絡まれなかったら、未だアレスという名を知る事さえ無かった。
自分の言動が利口な物ではなかったという事は判っているけれど、そんな自分だったからこそ、今という時間がある。

「同じ男の人でも、貴方はさっきの連中とは全く違う。
 私の踊りを見て楽しい、綺麗だと言ってくれた、子供たちと同じ目をしてた。だからずっと気になってたの」
「そう……だったか?」


自分ではよく判らない。
だが確かに肌の露出の多い衣装を身に付け踊る彼女を目にして、扇情的だと思った事は一度も無かった。
健康な成人男性であれば当然感じても不思議ではない劣情を一度として抱かなかったのは、改めて指摘されれば意外な程だ。

敢えて言うならば、神聖な何かを見守るように。
それは子供が、神を象った像に対して純粋に神々しさを感じる姿に通じていたのだろうか。


「黒騎士アレス―――ブラムセルお抱えの傭兵団の中に一際腕の立つ騎士が居ると、噂では聞いていたけど。まさか貴方がその本人だなんてね。
 魔剣ミストルティンを受け継ぐヘズルの直系だというから、どんな強面かと思っていたのに」
「残念ながら強面と言われた事はないな。期待外れだったか?」


幼い頃に死別した母からは、自分は亡き父に瓜二つだと言われた。
髪も目も、そしてミストルティンを継承する血まで―――何もかも同じだと。
記憶の中に垣間見える面影が、父のものなのか鏡に映った自分の姿なのか、もうアレスにも見分ける事が出来ない。

父の死の数年後、母も後を追う様に亡くなった。
叔母ラケシスは反逆者シグルドの軍に加担した一人として、今もなお賞金首となっている。
生きていればこの二十年の間に一度は会う機会があったろう。アレスも新しい土地に移り住む度、叔母の消息を尋ね歩いていた。
それが叶わなかったという事は、恐らく叔母も既に亡くなったのだろうと考えている。

皮肉を込めたアレスの口調に、リーンは困ったような笑みを見せた。


「嫌ね、その逆よ。強面より、笑顔の優しい人の方が良いに決まってるわ。
 でも今度は遠くからじゃなく、もっと近くで皆と一緒に見てね。
 酔っ払いに見せる踊りは無いけど、純粋に踊りを楽しんでくれるお客様なら大歓迎だから」
「ああ、判った」

明るい口調に、アレスの表情も解れる。
結局二人はそのまましばらく話し込み、また改めて広場で会う約束をして、アレスは修道院を後にした。









初めて言葉を交わしてから数ヶ月、以来数日に一度の割合で二人は時間を共有していた。
アレスも傭兵という身分であるから、本来の職務である街の警固や、日々の鍛錬も疎かには出来ない。
だがダーナと言う土地はイード砂漠からも幾らか奥まった地域である為、余所者が入ってくる事もほとんど無く平和なものである。
従って数日に一度、私用で外出するくらいの自由は許されていた

その日も午前中の訓練を終えたアレスが街に出向き、今日は踊らなかったリーンといつものように会って他愛も無い話をしていたのだが―――



「ブラムセルが?」

アレスの口から出たその名に、リーンは心底嫌そうな顔をした。街を治める領主に対して、敬意の欠片もない。
素直過ぎるその反応に、アレスが奥歯で笑いを噛み殺す。

「ああ―――何処からかお前の噂を聞きつけたらしいな。街の広場に時折現れる、大層人気の踊り子が居ると。
 直属の部下共に、どれだけ金を積んでも構わないから自分の前に連れて来いと、目を血走らせて命じていた」
「……それで、まさか自分の知り合いだって、私の事を話したんじゃないでしょうね?」
「まさか。あの白豚は踊りの良し悪しなんぞに興味は無い」


リーンは踊りで稼いでいる訳ではない。
普段は自分の育った修道院で親代わりのシスターや兄弟同様の孤児達と一緒に暮らし、
ほとんど毎日、昔から顔馴染みの酒場で皿洗いや賄いなどの裏方仕事をして修道院の生計を支えている。
ここ何ヶ月かは休日に広場で踊りを披露し、足を止めた客から見料を貰っているが微々たる物だ。
そしてその僅かな稼ぎも、全て孤児たちの為に修道院に寄付している。

彼女が踊るのはあくまでも『見た人が楽しんでもらえればそれでいい』という考えの下であり、
出来の良し悪しも判らないような酔っ払いや、金で人の横っ面を叩くような人間の前で踊る事は絶対にしない。
アレスはリーンのそんな気性を良く判っていたから、ブラムセルの前でもそ知らぬ顔で黙秘を通した。
もっとも、こうして度々街でリーンに会っている事が知られれば、無理にでも連れて来いと命じられかねないのだが。


「あいつはただ街で評判の踊り子を傍に置いて、『この女は自分の物だ』とこれ見よがしにひけらかしたいだけだ。
 そんな下種に、わざわざお前の事を教える気は無い」

『なら、いいわ』と呟くと、並んだアレスの肩にそっとリーンが寄り添い目を閉じる。
互いの鼓動を聞くように言葉も無いままだったが、その沈黙さえ心地よかった。

ただ傍に在るだけで充たされる。そんな想いを抱く相手に巡り逢うとは思っても見なかった。
いざとなれば彼女と共にダーナを出てもいい。気ままな旅暮らしも悪くは無いだろう。
少なくともこの数ヶ月でそう思えるほどに、アレスは彼女に心を許していた。そして恐らくはリーンも。


「……お前は本来、目立つ事を好む性質じゃないだろう。なのに何故、踊り子になろうと思ったんだ?」
「私が踊り子になった理由?」

不意にアレスから出た問い掛けにリーンは瞼を開け、ゆっくりと空色の瞳を瞬かせた。

「修道院の子供たちを養う為とは言っても、踊りそのものを商売にして稼ぐ訳でもなし。
 普段は馴染みの酒場で、皿洗いや賄いの手伝いをしているだろう?」


要するにリーンは華やかな場で踊る事を望んでいないのだ。

踊る事だけが目的なら、馴染みの酒場で下働きなどせず素直に踊らせて貰えばいい。客集めにもなるし、皿洗いより遥かに給金はいい筈だ。
だが相変わらずリーンは手をあかぎれだらけにしながら酒場の下働きを続け、
何日かに一度街の広場で踊り、気持ちばかりの僅かな見料を得ている。
踊る際には色使いの鮮やかな衣装を身にまとっているものの、修道院と広場の行き返りには、目立たない地味な上着を身につけているのだ。

かつての自分と同じ境遇にある子供たちを養う事と、皆が楽しんでくれる踊りを続ける事。
その両方を充たす踊り娘をリーンは止めない。
だが何故そもそも、彼女は『踊る』という行為に至ったのだろうか。


「うーん……でも理由を聞いても、アレスは納得しないかも」
「聞いてみない事には納得しようもないだろう」

強制では無かったが、このまま有耶無耶にしてしまう事も出来そうにない。
『笑わないでよ?』と念を押した上で、リーンは自分が踊りを始めた理由を口にした。

「母がね、踊って見せてくれたの。私がうんと小さな時に」
「母親が……?でも、お前は確か……」

やっと歩き始めたばかりの頃に、あの修道院へと預けられたのではなかったか。
彼女の記憶が正しければ、母親の踊りを見たのは一歳になるかならないかという頃の話である。
訝しげな表情を浮かべたアレスに、リーンは頷いて見せた。

「ええ。だから本当に生まれて間もない頃の記憶だと思うの。
 多分私はまだ座っているのがやっとで、壁を背にして座ったまま母を見てた。その前で、母が踊って見せてくれたのよ。
 今でも目を閉じれば、はっきり思い出す事が出来る」


手の動きも足の運びも。
不思議なほどその動きの全てを克明に記憶していた。

修道院に自分を預けたきり消息を絶った母との絆を喪いたくない―――だから、記憶の中の母を手本にして踊りを始めたのだ。
来る日も来る日も記憶を辿り、こっそりと稽古を続け……そしていつしか踊る事が好きになった。
自分の踊りを見た誰かが、楽しい気分になってくれる事が嬉しかった。


「そんな昔の事を、そこまで正確に憶えている筈が無いと思う?」

空色の瞳が、窺うようにアレスを映す。

「でも、例え貴方が信じなくても私は構わないの。貴方が否定したとしても、事実は変わらないから。
 私に踊りの師匠は居ない。居るとしたら、記憶の中の母だけよ」
「いや……判るような気がする。俺にも―――ごく幼い頃の、ハッキリした記憶がある」

きっぱりと言い切ったリーンに、アレスは記憶を辿るように目を伏せた。

自分の中にも、驚くほど克明な幼少時の記憶がある。
自分と瓜二つだったという父親の面影、シグルドを仇だと言った母の言葉。
父の死後、正統継承者として魔剣ミストルティンを受け継ぎ、『いつかその手で父の仇を討て』と教えられて育った事―――


「―――父の仇を討ってくれという母の言葉を背負って、俺は今まで生きてきた。
 元からそう健康では無かった俺の母が亡くなったのも、物心付くか付かないかの頃だ。
 三つ子の魂百までと言うが……確かに、在り得る話だと思う。
 父上を死に追いやったのはシグルド公子だと、最期まで言い続けて母は逝った。
 ……俺はその母の言葉を、未だに忘れる事が出来ない」

母の死後、身を寄せていた母方の実家も相次いで後継者を亡くし、アレスは間も無く天涯孤独となった。
たった一人で世間に放り出された所を拾ってくれたのが、今に至って世話になっている傭兵団の長、ジャバローである。
以来二十年近く、諸国を渡り歩きながらアレスは生まれ持った剣才を見事に伸ばし、『黒騎士』の二つ名で恐れられるまでになった。

「じゃあ貴方が傭兵稼業を続けているのは、お母様の遺言通り、お父様の仇を討つ為?
 仇(かたき)だとお母様が言い続けたシグルド様はとうに亡くなられているのに、
 それでも仇(あだ)を討つ為の代わりとして、シグルド様の子を探し出す事が目的なの?」
「――――――」


スッとリーンが目を細める。
この数ヶ月の間に、彼女自身アレスの事を色々知った。

父エルトシャンの死後、母の実家の在ったレンスターにしばらく身を寄せていた事。
その実家も相次いで後継者を亡くし、幼くして天涯孤独となった事。
独りになったアレスを傭兵団を立ち上げたばかりだったジャバローが見出し、一人前に育てた事などだ。

ジャバローには拾って育てて貰った恩があるからと、アレスは成人しても傭兵団を離れる事はなかったが、
はたしてそれは彼の本意なのだろうかと、常々リーンは感じていた。

空色の瞳に真っ直ぐ見詰められ、アレスは咄嗟に返すべき言葉を喪った。 



「貴方は魔剣ミストルティンを継承する黒騎士ヘズルの直系、ノディオン王家の末裔なのでしょう。
 傭兵なんて辞めて国に帰って、正々堂々と復権を宣言する事も出来る筈よ。
 魔剣ミストルティンを手にし、何よりお父様に瓜二つだという貴方が、自分という存在を明かす為に必要な事なんて他に何も無い。
 わざわざお父様の仇(かたき)の子を探し出して、仇(あだ)を討つ必要があると本当に思っているの?」


何の為に剣を振るうのかと、彼女の目は問うていた。

顔すら憶えていない母との絆を喪わない為に踊る事を選んだリーン。
ならば自分が傭兵をしながら諸国を流離い、剣を振るうのは父の仇を討ちたいからか。
それとも母の最期の願いを果たしたいと思っているからなのか。
そのどちらもが偽らざる思いだが―――それが全てではない。

アレスはリーンの視線を正面から受け止めた。

 
「……確かめたいんだと思う」

父はシグルドとの友誼に命を賭け、そして反逆者としてシャガール王に首を刎ねられた。
その選択を、死に臨んで父は悔やみはしなかったのか。
自らの父とその友の屍を経て、セリスは一体何を為そうとしているのだろう?

「父の選択、シグルド卿との友誼、その遺児であるセリスの歩む道―――その全てを。
 そしてもしセリスが、父の死を無に帰すような選択をしたその時には……俺がこの手で、引導を渡してやる」


父を死に追いやったのはシグルドだと、人生の末期に心を病んだ母は呪うように言い続けて亡くなった。
だが父とシグルド公子、そしてレンスターのキュアン王子が無二の友であった事もまた事実。
確かに父の死のきっかけはシグルド公子だったのかもしれない。そういう意味では、憤りを感じないと言えば嘘になる。

だが、それだけだったのだろうか。
父は友の為に命を落とす事に、躊躇いを憶えたろうか。
最期まで愚鈍な主に忠誠を貫く事を選んだ父は、せめて親友を裏切らずに死ねた事に安堵していたのかもしれない。
『誰よりも高潔な人だった』と、称えられた父ならば。

リーンが首を傾け、アレスの耳元にそっと囁いた。


「数日前、ダーナに立ち寄った隊商達が話しているのを聞いたわ。
 ―――イザークのティルナノグ村で挙兵したセリス皇子が、イード神殿に巣食っていたロプト教の司祭を殲滅したそうよ」
「……セリスが……本当か?」


何に対しても一歩身を引き、熱くなる事の無かった彼の目に、微かな炎が揺らめく。

『噂よ』と、小さな唇が呟く。だがその眼差しは真剣だった。
怒りでも恨みでみなく、アレスがただ湧き起こる熱情に心を委ねる事が出来るのならば、それこそが生きている証ではないのだろうか。

彼をこんな片田舎に埋もれさせてはいけない。
過去に縛られるばかりに、枯れた人生を歩ませてはいけない。
彼には生きるに相応しい場所があって、与えられた役目があるのだから。


「まだ噂に過ぎないけれど―――その噂が本当なら、然程日を置かずにこのダーナにも立ち寄るかもしれないわ」


時が巡る。
運命が流転する。

二十年という時間を越えて、再び縁の糸が交わる。


「運命の輪を廻すのは貴方自身―――
 どんな運命を選ぶのだとしても、悔いを残さないよう、しっかりと貴方自身の目で見極めてね」
「―――ああ」


一体、アレスはどの運命を選び取るのだろう。
セリスとの解けぬ確執か、それとも新たな時代の象徴としての融和か―――その選択が、恐らくは世界の命運を左右する。


―――どうかアレスが、過去の遺恨もわだかまりも無く、ただ自分自身の意思で選択を下せますように。


空色の瞳で祈るように、アレスを見遣る。

だからリーンは気付かなかった。
その彼女の姿を、遠目に見る視線があった事に……






それから間も無く噂は真実の報せとなって、セリス皇子の率いる軍がイードを解放したと伝えられた。

ダーナにも立ち寄るのだろうかと一時住民達が浮き足立ったが、どうやら解放軍は南のメルゲンを目指しているらしい。
ダーナ領主のブラムセルも善良とは言いかねるが、今直ぐ救済が必要なほどに住民たちの生活が困窮している訳でもない。
いずれ立ち寄るにしても、まずは南のメルゲンを守護するフリージ家のイシュトーの脅威を排除してからという事なのだろうか。


『でも、これで良かったのかもしれない』

セリス達がダーナに立ち寄らないまま南に軍を進めたと聞いて、リーンは内心胸を撫で下ろした。
最後はアレスの意思に任せるしかないものの、二十年近く親の仇と信じて生きてきた相手を目の前にして、
果たして彼が冷静な判断を下せるかどうか実は心配で仕方なかったのだ。

領主の立場と権限を利用して散々私腹を肥やし、甘い汁を吸って来たブラムセルは、恐らくセリス軍の排除を傭兵団に命じるだろう。
例え勝ち目が無いのだとしても、死地に赴くのは自分でも血縁でもないから、心置きなく命じるに違いない。
そうして傭兵団がセリス軍と接触して時間を稼いでいる間に、自分だけは財産を全て持ち出してダーナから逃げ出すつもりなのだ。

この程度の事はリーンでも容易に想像出来る。
だとすれば、実戦経験が豊富で戦術や戦略を練る事に長けたアレスやジャバローが気付いていない訳が無い。
それでも彼等は『任務だから』と、迷わず敵に向かっていくのだろう。
自らを危険に晒し、部下達に勝ち目の無い戦いを強いるのだろう。
それが傭兵なのだと言われたらそれまでだが、何一つもたらす物の無い無益な戦いをアレスにして欲しくなかった。

無意味な危険に身を晒さない為には、このままアレスは解放軍と接触しない方がいい。
アレスは釈然としないかもしれないが、彼が無事ならばそれでいいと思う。
彼が傭兵を生業としている以上、戦場に立つ機会はこれからも数多くある。
ヘズルの直系であり、ミストルティンの継承者であるアレスの強さを疑った事など一度も無いが、
聖戦士の末裔同士が剣を交える事にでもなれば、恐らくは双方無事では済まないに違いない。
アレスに万が一の事があったらと考えただけでもゾッとするが、彼が親の仇の子としてセリスを手に掛けたのだとしても……同じように心臓が冷える思いがした。


『……結局、私はアレスに戦って欲しくないんだわ』


自分の素直な想いに気付き、リーンは頬が熱くなるのを感じた。

孤児で踊り子の自分など、いつかノディオン王家を継ぐ彼には相応しくない。そんな事は初めから百も承知している。
だから彼の選ぶ唯一の人間になれるとは思っていなかった。


『それでも彼の無事を密かに願うくらいは、許されるかしら』


或いは、彼が生涯の伴侶を選んだ時点で、それは許されない想いになるのかもしれない。

いつその日がやってくるのか。
その相手は誰なのか。

チクリと針が刺すように胸の奥が痛む。
考えてもどうにもならない事だと、思い切るように頭を振った。


やがて気分転換に裏庭に出たリーンは、其処に見慣れない男の姿を見付けて訝しげに眉を寄せた。






値踏みするようにリーンを見遣ると、男は薄ら寒さを感じる低い声を発した。

「街で評判の踊り子とは、お前だな?」

男は身なりは良かったが、自分が最も嫌うタイプの人間だとリーンは気付いた。
金があればどんな事でも思いのままになると思っている連中の発する腐臭を、その男は放っている。
返事をする事すら億劫だったが、世話になっている修道院の敷地の中で揉め事は起こしたくなかったので、
リーンは険しい表情のまま『ええ』と答えた。

「評判になっているかどうかは知らないけど、私が踊り子である事は事実よ。それが?」
「屁理屈はいい。この修道院にお前以外の踊り子が居るというなら話は別だが」

つまりこの男は、噂の踊り子がこの修道院の住人である事を知っているのだ。
いきなり『お前が踊り子だな』と断定された事からも、リーンの顔も名も既に確認済である可能性が高い。
その上で敢えて回りくどく接触しているのだとしたら、誤魔化したりはぐらかすだけ無駄である。

「……それで、私に一体何の御用?」
「判ればいい」

溜息交じりの声に、男はニヤリと笑みを見せた。

「我が主、ダーナ領主ブラムセル様がお前の踊りをご所望だ。今直ぐ王宮へ参内し、御前で披露するように」
「ブラムセル……?



すう、と空色の目が細められる。
その名をアレスから聞き、自分を探しているらしいと聞かされたのはしばらく前の事だが、遂に素性を知られてしまったようだ。

だが仮にも領主である人間を呼捨てにしている事からも明白な通り、リーンはブラムセルという人間を蔑んでいた。
踊り子の舞踊など、酒の肴にしか思っていない低俗な人間だ。
どれだけ見事な踊りを見せた所で、酒で濁った目と脳には、色鮮やかな衣装と若くて健康的な肢体しか記憶に残らないだろう。
器量が良いというだけで王宮に引き抜かれ、そのまま戻って来なかった幼友達も居る。
一度でも召喚に応じたなら―――恐らく、二度と此処には戻って来られないに違いない。


「……私の踊りは、せいぜい広場で通りすがりの人間の目を楽しませる程度の物。
 とても領主様のお目にかけるような物ではありません。
 一体どのような噂をお聞きになったのかは存じませんが、噂には尾ひれがつくものでしょう?
 下手な噂を鵜呑みにすると、貴方御自身の首が危ういのではないかしら」
「ふん、気位の高さも噂通りらしいな。
 ブラムセル様の前で踊らない為の言い訳のつもりだろうが、悪足掻きは止めておけ。
 お前の踊りの良し悪しなど、ブラムセル様にとっては何の意味も無い。
 噂の踊り子を自分の目の前で、自分の為に躍らせる事にこそ意味がある。それ以上でも以下でもない。
 まあお前が上手く取り入れば、今以上の暮らしというものは手に入るかもしれんが」
「…………」


ブラムセルはただ自分の虚栄心を満たせればそれでいいのだと、使いの男は言い切った。
噂を鵜呑みにして連れて来られた娘が例え見るに耐えない踊り手だとしても、その娘が真実噂の娘であればいいのだと。
判っていたつもりではあったが、男の言葉はリーンの人としての、そして踊り子としての矜持を共に傷付けた。


「判ったら素直に城に来い。あまり意地を張ると困った事になるぞ」
「……どういう意味?」

キッと睨み付ける視線に、男が薄い笑みを浮かべる。

「例えばこの修道院―――お前は幼い頃から、此処に世話になっているそうじゃないか。
 この寒空に年端も行かない子供たちが放り出される事になっては、お前も胸が痛むだろう?」
「っ……!私がこの話を蹴ったら、領主の権限でシスター達を此処から追い出すって言うの!?」

『さてな』と、男はそ知らぬ顔で顎髭を撫で付けた。

「それからブラムセル様に雇われている傭兵団の中に、お前が懇意にしているアレスという男が居たな。
 たしか黒騎士とかいう大層な二つ名を持っていたか。あの男も、少々立場が悪くなるかもしれんぞ?
 何せブラムセル様はジャバローやアレスの前で再三再四噂の踊り子について尋ねていたにも関わらず、
 あの男は何一つ話そうとはしなかったんだからな」


既にアレスの事まで知られている以上、幾ら無関係だと言い張ってもブラムセルは容赦しないだろう。
シスターや孤児たちは修道院から叩き出され、アレスにも類が及ぶ。
シスター達は住む場所を喪うだけで済むかもしれないが、アレスは良くて追放―――
下手をすれば領主への反逆と言いがかりをつけられて死罪も在り得る。

今のリーンに取れる道など、たった一つしか無かった。


「一度だけ―――」

きり、と唇を噛み締め、両の拳を握り締める。

「うん?」
「一度だけ、ブラムセル様の御前で踊りをお目にかけましょう。
 でもその代わり―――この修道院にもアレスにも、一切手を出さないで」
「……いいだろう。私はお前をブラムセル様の前に連れて行ければそれでいい。後はお前自身の身の振り方一つだ」


つまり修道院とアレスの無事を確かな物にしたいのなら、今後一切ブラムセルには逆らうなという事だった。

一度限りという約束など、この場だけの方便であると判っている。
城に行けば、恐らく自分は二度と此処に戻ってくる事は出来ないだろう。
一生牢に繋がれ、領主の機嫌一つで傍に召される生活となるか、
それとも投獄されるまでに不興を買って首を刎ねられるか。
あるいはブラムセルの慰み者になるのかもしれない。

―――その時には、ブラムセルを殺して私も死ぬわ。

空色の瞳の奥に、暗い炎が灯る。
自らの辿る運命を悟った、それは哀しい覚悟だった。





「リーン、裏に居るの……?あら、お客様だったのね。ごめんなさい、お話の邪魔をして―――」

二人の言葉が途絶えた丁度その時、いつまでも戻って来ない彼女を心配したシスターが姿を見せた。
彼女一人だと思っていたのに、他に人が居たので咄嗟に驚きの表情が浮かぶ。
一瞬アレスかと思ったが、相手は彼より遥かに年嵩の、狡猾そうな初老の男だった。

「いえ、シスター。もう話は終わったから」

青褪めた顔で、リーンはそう口にした。
務めて平静を装うとしているが、表情は固く強張っている。
尋常ではないその様子に、シスターが訝しげに眉を寄せた。

「リーン、貴女大丈夫なの?顔色が真っ青よ」

気遣わしげな声が胸に沁みる。
だが余計な心配をかけない為に、リーンは『大丈夫よ』と返事をする事しか出来なかった。

「……私、今からお城に伺う事になったの。領主様が私の踊りをご所望なんですって」
「まあ、貴女の踊りを……?」


シスターが微かに戸惑いを浮かべる。
恐らく街の広場で踊っていた評判が城にまで届いたのだろう。
領主の目にまで留まったとなれば彼女の踊りにも箔が付くが、それにしても娘同様に育てて来た彼女の様子が気にかかる。
こんな状態の彼女を城にやったところで、満足に踊りを披露することなど出来るのだろうか。

そもそも領主のブラムセルは、本当に彼女の踊りを正統に評価して城に招こうとしているのだろうか?
噂だけなら、不穏な話を幾つも耳にした事がある。
この辺りでは評判の、リーンとも幼馴染だった器量良しの少女が、城に召されたまま消息を絶ったのは事実だ。
その少女はブラムセルの寵姫になったのだとも、家に帰りたいと泣いて訴えた為に不興を買って殺されたとも聞く。

まさかリーンの身にも、同じ悲劇が起ころうとしているのではないか。
問い質そうとしたシスターを、だがリーン自身が止めた。
『それ以上言ってはいけない』と彼女の視線が語り、小さく首が振られたのだ。


「多分しばらく戻って来られないと思うから……シスター一人で大変になるけれど、子供たちのこと、どうかお願い」
「……勿論よ。こちらの事は心配しないで」

シスターはリーンの意思を汲み、言葉を呑んだ。
恐らくは領主の権限を嵩に着て、この修道院の処遇を盾に取られたのだろう。
こんな時にまで自分自身の事よりも、血の繋がらない幼い弟妹達を気遣うリーンを痛ましく思う。
自分一人の身ならば好きにしてくれと言えるが、我が子同然の小さな子供たちの事を思えば、今はリーンの選択を呑むしかなかった。

『アレスさんに伝える事は無いの?』と小さく促す言葉に、一瞬だけリーンの瞳が揺れた。


「そうね……もしもあの人が私を訪ねて来たら、シスターの用事で近くの村にしばらく出掛けているという事にしておいてくれる?」
「……いいの?本当の事を話さないで。
 お城に伺うのなら、アレスさんにもお会いする事があるかもしれないのに」

もしも事情を知っていれば、彼ならば救い出してくれるかもしれない。

アレスもリーンも互いを好いている事は明らかだった。
今はまだ自覚が無いのかも知れないが、そんなものは時を経れば自然と気付く事だ。
彼がブラムセルの無体を知ってなお赦すような男ではないと、シスターも判っている。
例え傭兵団を去る事になっても、アレスはリーンを守ってくれるに違いないという確信があった。

「……いいのよ、これで」

シスターの言葉に、リーンは泣きそうな笑みを浮かべた。


本当の事を知ったら、アレスは自分を救けに来てくれるだろうか。

だけどそれは、彼自身の命を危うくする事になる。
領主に逆らうという事は反逆罪に他ならない。
アレスにとって親代わりとも言えるジャバローとも袂を分かたせる事になる。


―――そんな決断を、彼にさせるべきではない。


彼の前には輝かしい未来がある。運命を自分自身の手で切り開くだけの才覚と力がある。
何処の誰の子とも知れない自分の為に、その運命を閉ざしてはいけない。

「私はあの人に生きて欲しいの。そしていつか、自分自身で望む運命を掴み取って欲しい……私が望むのは、それだけよ」

浮かんだ涙を手の甲で拭い、毅然とリーンは顔を上げた。



踊りに使う衣装を纏めた小さな荷物だけを手に、シスターに見送られ、リーンは修道院を出た。

先を歩く使いの男の目を盗み、一度だけ振り返る。
シスターは祈るように手を組み、いつまでもその場を動こうとはしなかった。









それから数日後。


「使いに出ている?」

街に出たついでに修道院に寄ったというアレスに、シスターはそう告げた。

「ええ―――昔私が世話になった人が、少し離れた村に住んでいるの。
 私が直接行ければ良かったのだけど、歳を取るとあちこち具合が悪くなってしまって。
 それで急だったのだけど、リーンに届け物を頼んだのよ。ごめんなさいね、折角あの子に会いに来てくださったのに」
「いや……特に用があった訳でもない。また日を改めて、伺わせて頂く」


用など無いのに、街に出れば彼女と会うのが倣いになっていたから、今日もこの修道院に足を向けたのだ。

リーンは広場に姿が見えなければ、必ず此処に居た。
仕事で不在の時間はいつも決まっていたから、その時間さえ避ければいつだって会えた。
だから急な用事で不在と聞いて少し拍子抜けはしたが、それだけである。
時にはそんな事もあるだろうと思ったくらいだ。

だが『しばらくリーンは帰れないかもしれない』というシスターの言葉に、アレスは不意に胸騒ぎを覚えた。


「帰れない、とは?リーンはただ貴女の代わりに届け物に行っただけなのだろう?」

ハッとシスターの顔色が変わる。
だが彼女はすぐに表情から動揺を消し去ってしまった。

「……あの子はこんな貧しい修道院で育ったけれど、本当はとても頭の良い子なの。
 生活に必要な事は勿論だけど、読み書きをはじめとして、数式を解くのも得意だった。
 ずっと昔に宿をお貸しした学士が、宿代代わりに置いていった本を一人で読んで、其処まで理解したのよ」


嘘ではない。
本当にリーンは、一度もまともな教育を受けていないとは信じられないほど、聡明な娘だった。

学士の残していった価値の良し悪しも判らない一冊の本を絵本代わりに読んでいるうちに、
いつの間にかたどたどしかった読みが滑らかになり、綴りを間違う事無く字が書ける様になった。
そしてそのうち簡単な数式を解くようになり、初めは三日掛かった問いを一日で解くようになっていったのだ。

一体リーンの親とはどのような人物だったのだろうと、今でも時折思う。
彼女を此処に預けていった母親は自ら踊り子だと言っていたが、卑しい雰囲気は微塵もなく、寧ろ品格のような物すら感じられた。
元は名家の娘であった者が、何らかの事情で踊り子として身を立てなくてはならなかったのかもしれない。
或いは夫となった男性が余程教養の深い人物で、その影響を受けたのかもしれないが。


「あの子が出向いた村は貧しくて、子供たちは満足な読み書きさえ出来ない。
 ―――だからしばらくリーンが村に留まって、様々な事を教える事になったの。
 いずれ通いになるとは思うけれど、当面は向こうに滞在する事になるわ」
「……そうか」


だとしたら、当分リーンに会えないと言う事になる。
アレスもこのダーナで傭兵の任に就いている以上、長い間街を離れる訳にはいかなかった。
街の中で、何かのついでに立ち寄って会うのとは話が違う。

数日前に会った時には、村を離れる事になるなど一言も口にしていなかった。
シスターの言う通り急に代理を引き受け、そのまま村の子供たちの教育を任されたのだとしたら判らない話では無いが……


突然村を離れたリーン。
一見何の問題も無さそうな理由。
それなのに―――


喉に棘が刺さったような違和感が拭えない。


「シスター、最後に一つお尋ねしたい」
「……何でしょう?」
「彼女は発つ前、俺に何か言い残しては行きませんでしたか?」

初老を迎えたシスターの目に、微かに驚きが浮かぶ。
頼まれたからとは言え、我ながらよく出来た言い訳だと思っていた。少々強引だが、ただ上辺だけを聞いていれば何ら不審な事など無い。
なのにその言葉の端々から、彼はリーンの置かれた危険な状況を感じ取ったのだろうか。

シスターは万感の想いを込めて彼女の言葉を口にした。


「生きて欲しい―――それがあの子の伝言ですわ」
「生きて……?」

アレスが軽く眉を顰める。
戦場に立つのが務めの傭兵だけに『死ぬな』と言われた事はあるが、『生きて欲しい』とはどういう事か。
自分に傭兵を止めろと、そう言いたかったのだろうか。

「生きて、そしていつか自分の手で望む運命を掴み取って欲しい……リーンの言葉はこれで全て」
「…………」

互いの僅かな沈黙の後、シスターは意を決したように言葉を続けた。

「……アレスさん、あの子は望まれた。そして『私達』の為に、あの子はその招きに応じた。
 是非にと乞われたのも、招きに応じたのも、帰る事が出来ないのもリーンの意思ではない―――私が言えるのはこれだけです」
「リーンの意思ではない……?」

『ええ』とシスターは小さく頷いた。

彼女の意思を汲むなら黙っているべきだったのかもしれない。
彼が本気になって探りを入れれば、恐らく直ぐにもリーンがブラムセルに召された事が知れるだろう。
全てを知ったその時、アレスは一体どうするのか―――


どうか気付いて―――あの子の心の叫びに。


誰よりもアレスを慕っている事を。
そして彼を慕うが故に、己の心を殺そうとしている事を。
どんなに気丈に振舞っていても、本当は救いの手を欲している事を。


リーンの無事を願うシスターの祈りを引き裂くかのように、傭兵団の招集を告げる角笛が街に響き渡った。






INDEX NEXT