城の奥まった一室で、リーンは低く響き渡るその角笛の音を聞いた。


―――これは……確か、傭兵団の招集の合図……


ブラムセルが傭兵団に出撃を命じるのだろうか。
この時期に出撃を命じるとは、もしかしたらセリス皇子がメルゲンから軍を返したのかもしれない。
出来ればこのままダーナには立ち寄らずに過ぎて欲しかったが―――そう思い通りに事は運ばなかったようだ。

静かだった城内も、傭兵団に出撃の召集が掛かった為に俄かに人の行き交う気配に満ちる。
とは言えリーンが与えられた―――押し込められたとも言う――― 一室は、
領主であるブラムセルとごく一部の側近しか出入りしない一帯である為、人の気配を感じこそすれ、部屋に近付いてくる事はなかった。
今も扉には鍵がかかり、外には見張りが立ったままである。


リーンにとって意外だったのは、ブラムセルが直ぐに踊りを見せろと強要しなかった事だ。
城に入ってすぐに鍵の掛かったこの部屋に押し込められたものの、食事はきちんと運ばれてくるし、立派な寝台に温かな寝具もある。
初めは出される食事にも手を付ける気はなかったのだが、空腹のままではいざという時に力が出せない。
逃げるにも反撃するにも自分の身を守る為にも、取り敢えずは体力を維持する事だと開き直って、パンと水だけは口にしていた。

踊る為に連れて来られた以上、このまま何もせず帰して貰える事など在り得ない。
まるで刑の宣告を待つ罪人のような気分で数日を過ごしたリーンだったが、束の間の猶予は不意に破られた。
おざなりのノックと共に、扉が開かれたのである。


顔を覗かせたのは、この城までリーンを連れて来たあの男だった。

「ブラムセル様がお呼びだ。四半刻(三十分)後にもう一度呼びに来る。それまでに支度を済ませておけ」

溜息を一つ零して、リーンはのろのろと立ち上がった。







Wheel of Fortune 2







「今更出撃とは、セリスの背後でも襲う気か?」

久し振りに掛かった正式な招集に、アレスが眉を顰める。
解放軍を名乗るセリスの一派を迎え撃つには、既に遅きに失していた。
とうに彼らは南に軍を進め、メルゲンを目指している。解放軍にとって、ダーナは良くも悪くも眼中になかったらしい。
だとすれば、攻撃の意志の無いセリス達の背後を強襲し、グランベルへ恩を売っておこうという算段なのだろう。
アレスと並んで愛馬の背に鞍を乗せながら、ジャバローも軽く肩を竦めて見せた。

「まあ、有態に言えばそういう事だな。
 ウチの領主様も清廉潔白と言う訳ではないから、ああいう御仁が世の中を席巻すると色々煙たいんだろうよ」
「反吐が出る。あの俗物が考えそうな事だ」


悪知恵を捻った挙句に、背後から強襲とは芸の無い事だ。
当然向こうも未だ制圧していない城を背後に置いているのだから、軍の最後部には相応の備えをしている筈である。
其処を攻めろと言うのだから、所詮は実戦経験の無い者が立てた机上の空論に過ぎなかった。


「だがアレス、それでも俺達はプロだ。雇い主から報酬を得て、その命に従うのが俺達の務め。
 主人の命じるまま戦に勝ち、最悪でも『負けない』戦をするのが俺達の役目ってもんだ。
 お前も傭兵として生きるなら、邪魔になるだけの下手な自尊心なんぞ早めに捨てておけ。
 そして主人の性根がどれ程腐っていようとも、主である以上せめて目の前に出た時だけは、最低限の礼儀はわきまえろよ?」

飄々とした態度と口ぶりだが、ジャバローの目は全く笑っていなかった。
例えブラムセルを心底嫌っているのだとしても、主として自らの上に立つ以上逆らうなと釘を刺された事になる。
それは何処に監視の目があるか判らない場での失言を戒めるものでもあった。

「……判っているさ」

傭兵とはそういうものだと割り切ってこの歳まで生きてきた。
不本意でも、無関心という仮面を被る事で、最低限の礼だけは失する事無く今までやって来たつもりである。


―――なのに、どうしてこれ程までに胸がざわつくのだろう?


暗く胸を覆う得体の知れぬ予感を拭い払うように頭を振ると、アレスは馬上に長身を引き上げた。







「ほ、ほ、ほ、これはまた愛らしい娘じゃのぉ。
 これ程の器量の持ち主なれば、やせ我慢なぞせず、さっさと召し出せば良かったわ」
「……お褒め頂き、ありがとう御座います」


支度を終え踊り子の装束を身に纏ったリーンは、ブラムセルの私室へと連れて来られた。

私室とは言え、呆れるほどに広い部屋だ。
床には高価であろう毛皮の敷物が惜し気もなく敷かれ、暖炉には温かな火が灯っている。
部屋の隅に天蓋の付いた寝台が置かれていなければ、来賓をもてなす為の部屋だと言われても疑わないところだ。
窓の無い壁際に据えられた長椅子には弛緩した身体を横たえた領主が脂ぎった笑みを浮かべ、そしてその脇に数名の楽師が控えている。
全身を舐め回すように見られる事に吐き気を憶えながら、リーンは膝を折り頭を垂れた。


「色々と五月蝿い輩のお陰で、すっかり遅くなってしまった。
 ようやく人払いが出来たので、やっと堂々とお前を此処に呼ぶ事が出来たわい」

訝しげな表情を浮かべたリーンの前で、ニヤリ、と下卑た笑みが弛んだ唇に刻まれる。

「アレスはつい今し方、ワシの命を受けて出撃したばかり。
 あのセリスとか言う皇子、また上手いタイミングで軍を返してくれたわ。
 『何があっても数日は戻ってくるな』とジャバローにも命じておるから、どれ程待っても助けは来んぞ。
 そのつもりで、しっかりワシに奉公せよ」
「セリス皇子が軍を返した……直ぐに私を踊らせなかったのは、その為だったのね?」

浅ましい魂胆を知り、リーンはキッとブラムセルを睨み付けた。


元よりアレスに助けて貰おうとは思っていなかったが、これではっきりとブラムセルがアレスの存在を重く見ている事が判った。
自分の命一つで何でも思い通りになると思っているのなら、わざわざアレスの不在を待つ必要は無い。
彼が本気で自分に逆らったとしたら、抗すべき手段が無いから敢えて彼を遠ざけたのだ。
恐らくはセリス軍の接近が無くとも、適当な理由を作って城から出すつもりだったのだろう。

同じ運命を辿るのならば、せめてアレスがこの場に居なかった事に感謝すべきなのかもしれない。
ブラムセルにその度胸があったなら、アレスの目の前で自分を汚しただろう。
嬲り者にされる姿を彼に見られるくらいならば、いっそ死んだ方がマシだった。


「ふふん、何とでも言うがいい。だがお前は既に籠の中の鳥。
 逃れようとすれば、愚かな行為に相応の報いを受ける事になるぞ。それを胆に銘じて、せいぜい心を込めて踊るんだな」
「―――仰せのままに」


顔を上げたリーンの面からは、覚悟の果てか、既に一切の表情が消え失せていた。
少しでも逆らえばこの卑劣な男は、自分ではなくアレスやシスター、修道院の子供たちに害を為す。
それだけは絶対に避けなくてはいけない。


―――アレスとシスター達を守る為なら、私は何だって出来る。


一時の屈辱を甘んじて受け容れるなど、大切な人が傷付けられる事に比べればどれ程の事か。


―――そう……この踊りはアレスに捧げるの。私の踊りを綺麗だと言ってくれた、あの人に。


リーンはスウと一つ深く息を吸い込むと、楽の音に合わせて流れるように足を踏み出した。

リリン、リン…と、手にした飾り布が翻る度、足が空を蹴る度に、装飾品に付けられた小さな鈴が変わらない清かな音を立てる。
彼女の踏むステップはまるで背に羽根が生えているかのように軽やかで、重さを全く感じさせない。
すらりと均整良く伸びた手足が一層彼女を美しく見せる。


そして楽の最後の余韻が消え失せるその直前、ギラギラと目を光らせたブラムセルがゆらりと立ち上がった。







ダーナを出た傭兵団は、遠くにセリス軍の姿を捉える位置で展開を終えた。
メルゲンは既に落とされたのか、背後からの襲撃を受けている気配は無い。
部下をその場に待機させたままジャバローとアレスは馬を進めると、高台から様子を窺った。

「さて、どうするかな?総大将の頭を獲れば直ぐにも片が着くだろうが……」
「だが、総大将がそうそう前に出て来るとは思えない」

どうせ幾重にも部下に守られた最奥で、実戦経験などほとんど無いまま指揮を取っているのだろう。
僅か数ヶ月でティルナノグからダーナまで進軍出来たのも、総大将であるセリスの才覚ではなく、
セリスを総大将に祭り上げた部下達の功に寄る所が大きいのではないか。
だとすればその部下達の才覚自体も侮れないが、どんな相手でも直接剣さえ交える事が出来れば遅れを取る気はしない。

向こうの出方を待つと結論を出した丁度その時―――アレスを乗せた馬が突然嘶き、棹立ちになった。


「―――どうした、落ち着け!」
「何事だ!?」

手綱を引き締める事で、辛うじて落馬を免れる。
一度馬を降り、宥めるように首筋や背を撫でてやるが、一向に落ち着く気配は無かった。

もう数年間、共に戦場を渡り歩いた愛馬である。
戦場に漂う血の匂いや、大気に満ちた殺気程度で恐れをなすような事も今まで一度も無かった。
なのに今はアレスに何かを訴えるように盛んに蹄が地を抉り、手綱から手を放そうものなら、今直ぐ何処かに駆け出して行きそうである。

『これは……まさか、ダーナに戻ろうとしているのか?』

手綱を持つアレスを引き摺りながら、馬は北の方角を目指している。
その先にはダーナがある事に気付き、アレスはスウと背筋が冷たくなるような感覚を覚えた。


―――帰らなければ。早く、取り返しが着かなくなる前に。


何故そう思ったかは判らない。
だがアレスがそう理解した瞬間、暴れだした時と全く同じく、唐突に馬が大人しくなる。
その不可思議な同調が、一層確信を深くした。



「……隊長、済まない。俺は一度ダーナに戻る」
「何だと!?セリス軍はもう目の前に迫っているってのに、どういうつもりだ!」

ジャバローの制止の声に、アレスは表情を歪ませた。

「何故と言われたら、理由など……ハッキリ言葉に出来るものは何も無い。
 ただこのまま先へ進めば、俺は一生悔いを残す―――胸騒ぎがするんだ」


そう、出撃前からずっと胸騒ぎは感じていたのだ。
戦場に出る前の昂ぶりだと敢えて気にしないようにしていたが、あれはきっとダーナを離れるなという虫の報せだったに違いない。
そしてアレスが決定的な過ちを犯すその前に、馬が突然暴れだした。
北を目指し、早く戻れと言わんばかりに―――


不意にアレスの脳裏を過ぎったのは、哀しそうに空色の瞳を伏せる少女の面影だった。


「リーン……?まさか、お前に何かあったのか……!?」

何故、彼女の名が浮かんだのだろう。
そして何故、彼女はあんなにも哀しそうな目をしていたのだろう。
そもそも彼女はシスターの代理でダーナを離れているのではなかったのか?

だが奇妙な胸騒ぎはリーンの不在を聞かされた時から始まっていた事に思い至り、ようやく胸の痞(つか)えが下りる。
ずっと感じていた違和感は、彼女の身に何らかの危険が迫っている事を無意識で感じ取っていたのだろう。

アレスの呟いた名を耳にしたジャバローが、忌々しげに舌打ちした。



「―――アレス、何故あの娘なんだ。何故それほどまで、あの娘一人に固執する?
 お前ほどの男なら、どんな女でも放って置かないだろう?」

明らかにリーンを知ったジャバローの口振りに、アレスが驚き、軽く目を瞠る。
彼にリーンの事を話した覚えが一切無かったからだ。
何処かで姿を見られたか、噂でも聞きつけたのだろうか。

「何故……という理由など、俺には判らない。
 ただ俺にはあいつが必要で、他の誰もあいつの代わりにはなれない―――それだけだ」


渇きを潤すかのように、ただ彼女の存在を欲する。
言葉など無くても、傍に居るだけで安らげる。

彼女の声、彼女の優しさ、彼女の温もり―――その全てが愛おしい。

彼女の方がずっと歳下であるのに、いつだって姉のような、或いは母のような懐の深さで自分を包んでくれた。
リーンの笑顔は己の荒んだ心を潤し、時には窘(たしな)められて自分の過ちに気付いた事もある

突然力尽くで奪い去られ、ようやくはっきり判った。
自分がどれ程、彼女という存在を大切に想っていたのかを。


『生きて欲しい―――それがあの子の伝言ですわ』


彼女の辿る運命をシスターは知っていたのだ。そしてリーン自身も。
だからこそ自分が全てを知った時、選択を誤らないよう敢えて『生きろ』という言葉を残した。

領主に逆らうな―――恐らくはそれがリーンの意思。自らを危険に晒さず、生き延びる道を選べと彼女は言ったのだ。
だがシスターはリーンの意思を汲みながらも、自分に真相に気付いて欲しかったのだろう。
だからこそシスターは、リーンの不在が彼女の意思によるところではないと教えてくれたのだ。

あの時気付いていれば、何か打つ手があったかもしれないのに―――!



「アレス、悪い事は言わない、あの娘の事は諦めろ。今さら戻っても、とうに力づくでブラムセルの女にされている。
 あの好き者が、好みの女を前にして理性を保てるとは思えん」
「貴様……それが判っていながら、俺に何も言わなかったのか!?」

鬼の形相で、アレスがジャバローの胸倉を掴む。
その腕を押さえつけたジャバローが、傭兵団の長の顔でアレスを見返した。

「判っていたから、言わなかったんだよ。
 言っただろう?俺達は主人から報酬を受ける代わりに、その命に従う傭兵だ。
 これからもこの世界で生きていくつもりなら、あの娘の事は忘れるんだ」
「……本気で言っているのか?あの男に、リーンが嬲り者にされるのを黙って見過ごせと?冗談じゃない!!」
「この馬鹿野郎が!!」

ジャバローの拳がアレスの左頬に入り、勢いに押された長身が数歩後ずさった。

「目が覚めたか?」
「―――ああ、覚めたとも。はっきりとな」

口元に一筋流れた血を、ゆっくりと手の甲で拭う。

「……隊長、今まで世話になった。
 身寄りを全て亡くし、たった一人で彷徨う羽目になった頃、あんたに拾って貰って傭兵団で養って貰ったからこそ今の俺が在る。
 その恩に報いる為に今までこの剣を振るって来たが―――それも、今日限りだ」

決別の言葉に、ジャバローの片眉が上がる。

「―――俺と、俺の部下達をたった一人で突破する気か?
 お前の剣筋を一から十まで知っている連中の中を、生きて突破出来ると思うのならやってみるがいい。
 裏切りには死を―――それが傭兵団の掟だ!」


もはや旧知の友ではなく、敵としてジャバローがアレスに向かって剣を抜く。

アレスが指笛を鳴らすと、男二人の殴り合いから離れていた愛馬が弦から放たれた矢のように駆け戻ってきた。
数歩並走してタイミングを合わせると、手綱を掴んで一息に馬上に身体を跳ね上げる。
そのまま彼はかつての仲間が包囲する三方を避け、唯一開かれていた南方へと一気に馬を走らせた。


セリス率いる解放軍が展開する南へと―――






北の高台から、単騎でこちらを目指す騎影がある事に気付いたのはオイフェだった。

しかもその人馬は追われているのか、背後から多数の気配が追って来る。
北方に広く展開しているのがダーナから出撃した傭兵団だという事は先見隊の報告で判っていた。
追われているのが敵の敵ならば、もしかしたら説得次第で仲間に出来るかもしれない。

だが、次第に近付く騎影を見守っていたオイフェの面に、驚愕の色が浮かぶのにそう時間は掛からなかった。


「……あれは、まさか……!?」
「オイフェ、どうしたの?」

セリスの誰何に、ハッと我に返る。
まさに今この場で、彼に出会うとは何と言う幸運―――或いは、運命の気紛れであるのか。
オイフェは決断し、セリスに単騎での出撃許可を請うた。

「セリス様、もしかすると事が一気に片付くやもしれません。私にあの逃れてくる騎士との交渉を任せて頂けませんか?」

セリスは微かに眉を顰めたが、だがすぐに頷いて見せた。

「―――いいよ。オイフェが言うのだから、何か考えがあるんだろう。
 だけどもし相手に交渉の余地がないと見なしたら、直ぐにも応戦するからそのつもりで」
「ありがとうございます」

オイフェはセリスに交渉権を委ねられ、近付く騎影に向け一人馬を走らせた。





ジャバローとその部下―――かつての仲間たちの追撃は厳しかった。
何人かは斬り伏せたが、一向に振り切る事が出来ない。
向こうもこの辺りの地形は熟知している上に、アレスが逃れたのは高台から下る唯一の道だった。
逃げる者も追う者も同じ道を辿る以上、圧倒的に速さで引き離さない事には逃げ切る術は無い。
しかし、それもそろそろ限界だった。
早駆けを続けた馬の足が、明らかに遅くなっている。このままでは追いつかれるのは必至だった。


―――逃れる事を止め、此処で迎え撃つか?


逃げ切る事が出来ないのなら、後は追っ手を全て倒す以外ない。
手綱を引いて馬の足を緩めたその時、アレスは同じ道を麓から上がってくる騎影に気付いた。
美髯を蓄えた、壮年の男だった。


―――追っ手……?しかし麓から回り込む時間は無かった筈だ。


麓から回り込む為には、一旦高台の北側に抜け、そこから大きく東に迂回しなくてはいけない。
ジャバローも部下達も、一人残らずセリス軍を迎え撃つ為に布陣していたのだから、
真っ直ぐ南へと逃れた自分に先んじる事は不可能である。
だとすれば、あれはセリス軍の先見隊だろうか。

だがその正体を見極める前に、アレスが馬を止めた事に気付いた向こうから声が掛けられた。


「そのお姿……そしてその黒い剣―――もしや貴方は、ノディオン王エルトシャン様の遺児、アレス殿ではありませんか!?」
「父を……知っているのか!?」

父の名を出され、流石にアレスも驚きを浮かべる。
『黒騎士か』と誰何される事はあっても、ノディオン王家の末裔かと問われたのは随分久し振りだった。

エルトシャンを父と認めた事で、ホッと男の顔にも安堵の表情が浮かんだ。

「ええ、存じております。一度だけではありますが、主と共に生前のエルトシャン様にお会いした事が御座います。
 まさか貴方が、これ程までお父上に似ていらっしゃるとは思いもしませんでしたが……しかしそのお姿こそ、何にも勝る血筋の証」

馬を寄せ、男が感慨深げにアレスを見遣る。
懐かしい人に再び見えたかのような、そんな表情だった。

「貴公は?」
「私はシアルフィ家縁の者、オイフェと申します。
 かつては亡きシグルド様の下で用兵と戦術を学んでおりましたが、今はシグルド様の遺児、セリス様と共に戦う身。
 どうかこのまま私と一緒に解放軍の陣へとお出で頂けませんか?
 セリス様は貴方にお会いする為に、ダーナを目指しておられたのです」
「セリスが……俺を……?」


微かに青い瞳が瞠られる。

それはいつか見えなければならぬと思っていた相手―――父の仇の子として、母の恨みを晴らす為に。
もしも彼が父の死を無に帰すような生き方をしていたとしたら、この手で引導を渡す為に。

しかしそれは本当に、自分の望んでいた事だったのだろうか。


―――貴方は何の為に剣を振るうの?


いつか空色の瞳が問うていた。
今ならばはっきりと判る―――己が剣を振るうのは、リーンを守る為。



「とにかく、今はこの場を離れましょう。
 例え貴方に話し合う気が無いのだとしても、まずは追っ手から逃れなければ」








アレスを追っていた追撃隊は、彼が解放軍の本体と合流した事を確認した後、進軍を止めた。
挙兵してから僅か半年で、ティルナノグからダーナまで進攻した解放軍の戦闘力を過小評価はしなかったらしい。
今は僅かに距離を保ち、北方の街道を塞ぐ形で布陣していた。


「君が……アレス?」
「―――ああ」

オイフェによって引き合わされたセリスは、アレスが考えていたよりずっと線の細い青年だった。
面立ちが母親似であるのか、剣を振るう腕や肩はかなりしっかりしているのに、どことなくおっとりとした印象を受ける。
だが彼が側近に祭り上げられた飾りの指揮官ではない証に、盾としても使える手甲は使い込まれて傷だらけで、
差し出された手には剣を握る者特有のタコがあった。

「剣を交えて決定的に袂を分かつ前に、こうして話が出来て良かった。
 エルトシャン王の遺児である君が、ダーナに傭兵として滞在しているとメルゲンで聞いて―――急遽軍を返したんだ。
 君と、君の持つミストルティンの力を、僕等に貸して貰えないだろうかと」
「俺の力を?」

『うん』と、セリスが苦笑いを浮かべる。

「虫のいい話だという事は判っている。だから強制するつもりはないし、その資格も無い。
 ただ僕は、君の敵ではない事を伝えたかった。
 この場で判り合う事が出来ないのだとしても―――今はお互いにこの場から退く事を提案する」


セリスの父シグルドと、アレスの父エルトシャンの身に起きた悲劇を知るオイフェやシャナン、レヴィンは、じっとアレスの言葉を待った。
敵となるのか。或いはかつての父たちのように、手を携える事が出来るのか。

全てはアレスの意思一つで決まる。

そして僅かな沈黙の後、アレスが口を開いた。


「―――お前は、自ら戦場に出て戦っているんだな」

予想外の言葉にセリスは目を瞬かせたが、ややあって『当然だ』と答えた。

「幾重にも守られた安全な場所で指揮をするだけの人間に、ついて来てくれる者など居ない。
 共に戦う事で初めて戦場の過酷さも、戦いの果てに在る悲惨な現実も知る事が出来る」


一軍を指揮する者が、その最前線で戦うのは当たり前の事だと教えられて育った。
軍が崩壊しないよう、指揮官が我が身を守る事は当然だとしても、それに等しく部下達の為に働くのが指揮官の役目だと。
だから解放軍は、セリスを初めとしてその中核を成す全ての者が前線に立つ。

レヴィンだけは軍師として全体の戦況を見なくてはならないので特殊な立場となっているが、
その彼でさえいざと言う時には十分戦えるだけの戦闘力を備えている。
風使いセティ直系の証であるフォルセティの魔道書こそ既に手放した身だが、
それでも彼は自分が戦場に身を置いているという事実を忘れた事などなかった。


「僕はロプトウスの脅威からこの世界を救いたい。
 その為には僕自身が戦って、その行為と考えを証明しなくてはいけない。
 だから僕は戦い続ける。
 喪われた命をただ犠牲と呼ばない為に僕に出来る事は、この意思を貫き、最後まで戦う事だから」


解放軍の総大将と祭り上げられ、実戦など知らぬまま部下に守られて、温い指揮を取っているのだと思っていた。
だがセリスは自ら剣を取り、戦場に立つ事を厭わなかった。
自らの命を盾にしても仲間を守る為に戦う事こそ指揮官のあるべき姿だと信じ、
命の重さも、人の上に立つ者の義務と責任も、自分の意思で全て背負って立っている。


「……俺は、過去に捕らわれすぎていたのかもしれないな」

自分の器の小ささに自嘲が浮かぶ。

親の仇の子を、今更仇(あだ)を討つ為に捜すなど、全く無駄な事だった。
自分が剣を振るう理由と、拠って立つ所をただ欲していただけなのかもしれない。
気付いてしまえば、意外なほどあっさりと認める事が出来た。

踊りを始める前のリーンを真似、スウ、と一つ大きく息を吐く。
そして真っ直ぐにセリスと向かい合った。


「―――ある人を救い出したい。だが俺一人では、傭兵団全員を相手にする事は不可能……手を貸して欲しい」

セリスの表情が動いた。
一軍を率いる将から、友を見る青年の顔へと変わる。

「……大切なんだね?その人の事が」

確かめるように口にされたその言葉に―――

「ああ―――俺にとって誰より大切な女性(ひと)なんだ。
 彼女を救い出せたなら、その恩に報い、俺はお前の為に剣を振るおう」


アレスは重荷を全て下ろした、晴れやかな顔を見せた。








ブラムセルは長椅子から腰を浮かせると、ギラギラと目を光らせてリーンににじり寄った。

「リーンよ、このままこの城に留まり、ワシの妾となれ。
 貧しい修道院なんぞに帰らなくとも、好きなだけドレスでも宝石でも与えてやろう。
 お前が望むのならば、修道院への寄付を増額しても良い。それならばお前も心置きなく此処に残る事が出来るじゃろう?」

伸ばされた手から身を翻し、リーンが後ずさる。いつの間にか楽師も警備兵の姿も見えなくなっていた。
主人の楽しみを邪魔しないよう、最初からそういう手筈になっていたのだろうか。

「逆ろうても無駄じゃぞ。いくら待っても助けは来ない。部屋の外には屈強な兵士が控えておるから、逃げ出す事も出来ん。
 大人しく言う事を聞いておれば、痛い思いをせんで済むぞ?」
「ええ、そうかもしれないわね―――でも、お断りよ」


壁と寝台の作る角に追い遣られたリーンは、空色の瞳に憎悪を浮かべ、キッパリと言い放った。


「私の心も魂も、とうにあの人のもの―――貴方なんかには死んでも渡さない。
 気に入らなければ、腕でも足でも持って行けばいい。でも例え殺されたって、貴方のような下種には屈しないわ!」


判っていた。ブラムセルの招きに応じる事が、一体何を意味するのか。

器量良しで評判だった幼馴染はかつて同じように城に招かれ、そして帰っては来なかった。
そのまま城に留まり領主の妾になったとも、街に戻りたいと泣き続けた為に牢に繋がれているとも言われたが、
実は彼女がとうに死んでいる事をリーンは知っていた。


彼女は城に招かれるその直前、やはり幼馴染だった青年と結婚の約束を交わしていた。
そして城に招かれたまま戻って来ない恋人の安否を領主に問い質しに行った青年は、数日後、瀕死の状態で街で発見された。
たまたまシスターが所用で不在だった修道院に運び込まれた彼が、リーンに全て話して息を引き取ったのである。

―――戻って来なかった彼女は、領主に殺されたのだと。

見目の良かった彼女は好色家のブラムセルの目に留まり、妾になるように言われた。
だが彼女は結婚の約束をしているからと断った―――だから、殺されたのだ。
直接手を下したとは言えないかもしれない。
何故なら彼女はブラムセルに力ずくで乱暴され、絶望して―――正気を喪ったのだという。
そのまま街に戻せば、事の次第が明るみになるかもしれない。だから地下牢に幽閉し、そのまま弱って死ぬのを待ったのだ。

青年はブラムセルに恋人に会わせろと詰め寄り、根負けした領主に城の敷地内にある墓地に連れて行かれた。
それは城勤めをしていた者が葬られる場であったが、無数に乱立するおざなりに立てられた墓碑のどれか一つが彼女の物であると―――
妻となる筈だった女性の死とその経緯を知り、青年は激昂した。
彼は領主に掴みかかり……護衛の兵士に返り討ちにされ、瀕死のまま街に放置されたのである。

覚悟は出来ていた。
身も心も汚されるくらいなら、この手でブラムセルを殺め、自分も命を絶つ。
例え地獄に堕ちようとも、絶対にこの男だけは赦しはしない。


脂ぎった不健康に白い顔がみるみる赤く染まる。
振り上げられた分厚い手が、リーンの顔を力任せに殴り付けた。

「なんじゃ、その眼は!?気に入らない!お前はもうワシの物だ!!もっと媚びるように、卑屈な目をして見せろ!!」

何度となく返す拳で殴られ続けたが、リーンは歯を食いしばり、悲鳴一つあげなかった。
辛うじて意識は保っていたが、脳震盪を起こし寝台に倒れ込む。
華奢なその身体の上に、ブラムセルは馬乗りになった。


薄い布地を重ねただけの装束はブラムセルの手によってあっと言う間に引き裂かれ、白い肢体が露になった。
形の良い乳房にかさついた唇が吸い付き、白い腿を生暖かい手が這い回る。
そのおぞましさに、リーンは全身がゾッと総毛立った。

若い身体を貪る事に夢中になっていたブラムセルは、リーンの手が髪に刺した髪飾りを探っている事に気付かなかった。
ゆっくりと慎重に、髪飾りを引き抜く。
リボンで結った部分に刺されていたそれは、先がレイピアのように鋭く尖っていた。飾り細工が音を立てないよう、そろりと構え直す。

『ごめん……ごめんね。私の死は貴方の心に瑕を残すかもしれない。
 だけどこれでもう、貴方に迷惑を掛ける事もないから―――』


最期にもう一度だけ会いたかった。
そして出来る事なら、ずっと好きだったと言いたかった。
汚されてなどいない、真っ白な心と身体のままで―――それももう、叶わないけれど。


『さよなら……アレス……!』


ブラムセルごと自分の喉を貫こうとしたリーンの身体が、その瞬間、太陽のような白い輝きに包まれた。





「うぎゃあああぁぁああぁぁあ!!!目が…目がぁ……!!」

視界が真っ白に灼ける。
ブラムセルは堪らずリーンの上から転げ落ちるように離れると、目を覆ってゴロゴロと床の上をのた打ち回った。
実際に形あるもので傷付けられた訳ではないので顔を覆った手にも血などが付く事はなかったが、
閃光は刺すように視界を灼き、目の奥が熱を持ってジクジクと痛んだ。

「くそっ……なんなんだ、この小娘は……!?」

恨み言を口にしながら、ゼイゼイと乱れた呼吸を整える。
ようやく戻って来た視力を頼りにリーンの方を見遣ったブラムセルは、其処に在り得ない物を見てヒッと喉の奥を鳴らした。


寝台に仰向けに倒れたままのリーンに寄り添うように、背の高い男の姿がダブって見えた。

未だ視界がハッキリしない為の幻かと、狼狽しつつゴシゴシと目をこする。
男の顔は長い黄金色の髪で半ば隠れていたが、ブラムセルの視線に気付くと静かに振り返った。
見覚えのある空色の瞳に浮かぶのは、触れるものを全て焼き尽くすような激しい怒り―――


―――リーンに狼藉を働く者は、この私が赦しません。


「ひいぃぃぃッ!!ば、化け物憑きだぁ!!!」


事情が判らず呆気に取られた見張り番を尻目に、ブラムセルは転がるように部屋を飛び出すと、それきり二度と戻っては来なかった。







解放軍の援護を受けたアレスが傭兵団の包囲を突破し、ダーナに舞い戻ったのは深夜になってからだった。
解放軍と共に城門を潜った黒騎士に見張りの兵士たちは狼狽したが、城を守っていた傭兵団は既に存在しない。
迂闊に近寄れば斬り捨てられかねない殺気を放つアレスに恐れをなし、
城に残っていた兵士達は彼と目が合っただけで武器を放り出して逃げ出した。

「アレス、此処は僕達が。君は早くブラムセルの所へ」
「済まない」

セリスに促され、アレスは真っ直ぐに城内のブラムセルの執務室へと向かった。
深夜まで仕事に励むような人間とも思えなかったが、念の為に立ち寄った執務室は、予想に反して人の気配がした。
但し、中からしっかりと鍵が掛けられている。

「ブラムセル、此処を開けろ!ブラムセル!!」

扉を叩いて呼びかけるが、返事が無い。
沈黙は予想していた事だったので、アレスは一歩下がるとミストルティンで扉を斬り付けた。
二‐三度斬り付け、脆くなった所を鍵を吹っ飛ばしつつ蹴り開ける。

分厚いカーテンがぴったり引かれた執務室の片隅に、着崩れた普段着のまま、恐怖に表情を凍り付かせたブラムセルの姿があった。


「ブラムセル、リーンは何処に居る?」

静かだが怒りに満ちたその声音に、ブラムセルは踏みつけられた蛙のようなくぐもった悲鳴をあげ、自らの腕で頭を抱え込んだ。

「知らない……知らない……私は何も知らないッ……!!」
「……?」

様子がおかしい。
必死になって自己弁護しているが、果たして自分の事を認識出来ているのだろうか。

「私じゃない……私のせいじゃない……知らない……ッ!!」

ガタガタとみっとも無く震えながら、ブラムセルは既に焦点の合わなくなった目で『自分は知らない』とうわ言のように言い続けた。







まともな話の出来ないブラムセルを縛り上げた後、アレスは彼の私室へと向かった。


地下牢かとも思ったが、先程のブラムセルの様子から見て、そこまで対処する気力が残っていたとは思えない。
少なくとも恐慌を起こさせ、一時でも正気を喪わせる『何か』があの男の身に起きたのだ。
公務の際に身につける正装ではなく平服だった事から、直前までブラムセルが私室に居た事は間違いない。

私室のある辺りは傭兵団の者も立ち入りが許されていなかったので正確な場所は判らなかったが、部屋を特定するのは難しくなかった。
一際大きな扉の前で、見張りであろう男達が揃って目を廻して倒れていたからである。


「此処に居るのか、リーン!?」

灯りの無い私室に踏み込み、周囲を見回す。

部屋の奥に置かれた寝台にリーンは横たわっていた。
―――そしてその傍らには、彼女を見守るように佇む背の高い黄金色の髪の青年の姿が在った。
青年を包む不思議な淡い光に照らされ、リーンの横顔が見える。

「……!?」

一体誰だとアレスが誰何する前に、青年の姿は闇に溶けた。
だが姿が消える直前、リーンと良く似た空色の瞳が自分を映し、微かに頷いたように見えたのは気のせいだったのだろうか。

幻を見たのかと頭を振り、灯りを灯した燭台を手にしてアレスがそっと寝台に近付く。
其処には踊り子の装束をぼろきれのように引き裂かれ、露になった肌を隠すように柔らかな掛け布を纏ったリーンが意識を喪い倒れていた。

だがブラムセルに殴られたのか、愛らしかった顔は無残に腫れ上がり、すっかり人相が変わってしまっていた。



「リーン!リーン!?しっかりしろ!!」

負担を掛けないようにそっと抱き起こし、何度も名を呼ぶ。
まさか息をしていないのではないかと呼吸を確かめる為に慌てて顔を近付けたアレスの目の前で、長い睫毛を震わせリーンが目を覚ました。

「ア…レス……?」

口の中まで傷付いてしまっているのか、アレスの名を呼んだだけで痛そうに顔をしかめる。
身じろぎした際に、先を尖らせた髪飾りが手の中から零れ落ちた。
彼女が何をしようとしていたのか察したアレスは背筋を伝う冷たい汗を感じ、最悪の事態を招く前に戻って来れた幸運に感謝した。

楽な体勢に抱きかかえ直され『大丈夫か?』と問われた声に、リーンがフッと苦笑いを浮かべる。

「あんまり大丈夫じゃ、ない……かな。
 ……酷い顔、してるでしょ?……あいつの言う事聞かなくて、腹いせに……散々、殴られたから」

やはり、ブラムセルが此処まで酷くリーンを殴ったのだ。
新たな怒りがアレスの胸の内に芽生えたが、そっと頬に触れた冷たい手の感触に、陽の光に氷が融けるように激情が引いていく。

「セリス皇子を討ちに出たと聞いて……心配していたの。
 でも良かったわ―――無事だったのね」


力ずくで無体を強いられ、女の身で人相が変わるほど顔を殴られて、泣き叫び、恐慌を起こしても不思議ではないこの状況で―――
どうして彼女はこんなに穏やかに笑うのだろう?
目元が腫れてよく見えないのか、触れた手をアレスの輪郭をなぞるようにゆっくりと動かす。

その指先が、アレスの流した涙で濡れた。


「済まない……済まない、リーン。お前がブラムセルに捕らわれている事を、シスターは俺に伝えようとしてくれたのに―――
 俺がもっと早くブラムセルの企みに気付いていれば、お前をこんな目に遭わせたりしなかった……!」
「アレス……どうして泣くの?貴方が無事で、私は嬉しいのに」

アレスの頬を伝う涙を、リーンの手が拭う。

「貴方が居てくれたから……あの男の前でも、私は誇りを喪わず……踊る事が出来た。
 ……ありがとう……アレス」


囁くように呟いて。
アレスの腕に抱かれたまま、リーンは再び意識を手放した。








ブラムセルは領主の権力を嵩に着て若い女性に数々の乱暴を働いた咎で、解放軍の手により投獄された。
どのような処断が下されるのかは後を任せるダーナの住民の裁定に寄るが、
かつてのリーンの幼馴染のように娘や恋人を奪われた者達の怒りを考えれば、極刑は免れないだろう。
もっとも心神喪失状態となった今のブラムセルに、死罪がどれほどの恐怖になり得るか定かではなかったが。

一方ブラムセルの捕縛と同時にダーナ城の一室がリーンの為に用意され、すぐに怪我の治療の為にラナが呼ばれた。

ブラムセルに殴られ、腫れあがったリーンの顔を見たラナは『何て酷い…!』と唇を噛んだ。
アレスも含めて全員を部屋から追い出すと、ラナはたった一人でリーンの治癒を行い、用意してもらった湯で彼女の身体を清めた。
約一刻(二時間)後、ようやく扉が開かれアレスは部屋に入る事を許された。


「今は疲れて眠っているだけ。しばらく寝かせておいてあげれば、自然と目を覚ますわ」

未だに目を覚ます事無く、昏々と眠るリーンにアレスが不安げな表情を浮かべたが、心配ないという言葉を聞いてホッと安堵の息を漏らす。
ラナが丁寧に治癒魔法を施してくれたお陰で、顔にも身体にも傷痕はおろか痣一つ無く、リーンは元通りの愛らしい顔立ちを取り戻していた。

「……目に見える傷は魔法で治してあげられる。でもその魔法も万能ではない。心に負った傷は、魔法では癒せないの。
 アレス―――彼女の事、任せていいわよね?」
「ああ。リーンを治してくれてありがとう―――感謝する」

感謝の言葉と共に、自然とアレスの頭が垂れる。
初めて顔を合わせた時、何処か相手を信じ切れていない面持ちでセリスを見ていた彼とは別人のようだ。

「明日……いえ、もう今日ね。丸一日はセリス様や他の皆にも、誰もこの部屋には近付かないように言っておくから。貴方も少し休んで」

そう言い残し、ラナは部屋を後にした。






ブラムセルの部下による万が一の報復に備えて扉に鍵を掛けると、
アレスは小さな寝息を立てるリーンの傍に椅子を置き、其処に腰を下ろした。
自分に近い方の彼女の手を握り、空いたもう一方の手でゆっくりと僅かに湿り気を残した深緑の髪を梳く。

どのくらいそうしていただろうか。
西に傾いた月の光が蒼く部屋を照らし出す頃、ゆっくりとリーンが目を開けた。


「………アレス?」
「具合はどうだ?」

目を覚ましたら目の前にアレスの顔があったので、驚いたのだろう。
リーンは身体を起こそうとしたが、『まだ横になっていろ』とアレスに軽く肩を押され、再び枕に頭をつける。
そしてハッと思い出したように、自分の顔に手を触れた。

「私の顔……どうして……?」

痛みも引き攣れた跡も無いのが不思議だったのだろう。
解放軍に同行しているラナという女性僧侶が治癒してくれたと聞かされ、彼女は感嘆の声を漏らした。

「魔法って本当に便利ね。顔の形が変わるくらい殴られたのに……こんなにすっかり元通りなんて」
「―――魔法が治せるのは表面の傷だけだ」


自分を見上げる空色の瞳に翳りは無い。だがそれが空元気である事くらい容易に判る。
彼女が心に負った傷を思えば、アレスは全て元通りになったと安堵する気にはとてもなれなかった。


「私なら大丈夫よ、アレス」

痛ましげな表情を浮かべたアレスに、リーンは困ったような笑みを見せた。

「確かに辛かったし……恐かったわ。
 ―――でも暗い闇から貴方が救い出してくれた。それだけで、私は十分」


母から教わった大切な踊りを、アレスを想い踊る事で汚さずに済んだ。
そして彼は傭兵としての信頼も騎士としての二つ名も、捨てる覚悟で自分を救い出す為に戻って来てくれた。
身に過ぎた幸福を既に得た今、これ以上何を望めるだろう?


「私は大丈夫―――だから貴方も、自分の選び取った人生を胸を張って生きて」

アレスの手を、包み込むように両手で胸に押し抱く。

「お父様の仇の子としてではなく、セリス皇子と話し合う事が出来たのでしょう?」


セリス率いる解放軍と共にダーナに帰還したという事は、例え一時と言えども話し合う機会があり、手を携え合う事を認めたということだ。
だがリーンの言葉に、アレスが一瞬微妙な表情を見せる。
気まずそうな、自分の感情をどう表現していいのか判りかねているような顔だった。


「……俺はまだ、あいつを認めた訳じゃない。
 だが―――セリスには借りが出来た。その借りを返すまで、あいつの望む通り、しばらく一緒に戦ってやろうと思っている」
「ホントに素直じゃないんだから」

クスクスと、押し殺した笑い声が零れる。
だが不意にその笑顔が、スッと真顔になった。


「―――じゃあ、此処でお別れね」


出来る事なら傍に居たい。
そして二人で同じ道を歩いて行きたかった。
だがアレスを想えばこそ、自分の立場をハッキリとさせなければならない。

セリス皇子への同行を決めたアレスは、もはや一介の傭兵ではない。
ノディオン王家の後継者である、アレス王子なのだ。
親の顔も知らない孤児の自分が、いつまでも彼の傍に居るべきではなかった。


「貴方は自分の手で、運命を選び取った―――今度は私の番だわ」


アレスと共に過ごした数ヶ月は、本当に幸福だった。
その幸福な記憶が在れば、これから先の人生も、きっと自分は独りでも生きていける―――アレスの為に、それが自分に出来る唯一の事。

しかし彼は、リーンが予想もしなかった事を口にした。


「その事だが、リーン―――俺と一緒に来ないか?」
「………え?」

空色の瞳が驚きに瞠られる。
―――今、彼は何と言ったのか?

「勝手だとは思ったが、お前が眠っている間にシスターには話をしてきた。
 お前の考え一つだと……彼女は言ってくれたよ」
「でもアレス、私は……!」


自分には何も無い。

親の名も顔も知らず、満足な教育も受けられず―――ただ母の残してくれた踊りだけが自分の持つ唯一の物。
そんな自分がいずれ一国を継ぐ王子である彼の傍に在るなど、許される事ではない。
例え彼自身が望んでくれたとしても、アレスの帰還を待ち焦がれるノディオンの民は認めてくれないだろう。


「貴方は王子、私は孤児の踊り子……貴方にはもっと相応しい人が見付かるわ。
 憐れみは惨めなだけ―――同情なら、どうかこのまま捨て置いて」

だが背けた顔は、アレスの手によってそっと引き戻された。

「お前が孤児の踊り子で、親の名も顔も知らないなんて関係ない。
 俺だってとうの昔に天涯孤独になって、今日まで流れの傭兵として生きてきた。
 母親の顔は朧気にしか思い出せず、記憶の奥底にある父親の顔と、鏡に映る自分の顔が時々見分けがつかなくなることだってある。
 王子と言ってもノディオンを離れたのは物心付く以前で、何一つ憶えちゃいない。
 そんな俺とお前が、一体何がどれだけ違うと言うんだ?」
「アレス……」

真っ直ぐに自分を見る青い瞳に、リーンが小さく息を呑む。

「お前を喪うかもしれないと思った時……やっと判った。
 もう二度とお前を手離したくない。俺はお前に傍に居て欲しい―――それだけでは駄目か?」


今まで何をしても、何処に居ても充たされる事など無かった。
父の仇を討てば、或いはその渇きにも似た感覚が癒されるのかと考えた事もある。
だがそれすらも真に心から望む事ではなく、いつか自分はこの空しさを抱いたまま戦場で果てるのだと思っていた。

そんな日々を繰り返していたある日―――リーンと出逢った。

彼女の踊りは、自分の心の内を暖かく照らす冬の陽の光のようだった。
柔らかな笑顔も、憂い顔も、拗ねた横顔さえ愛しく想う。
生まれて初めて心から、傍に居て欲しいと願った女性―――それがリーンだった。


「……こんな事を口にする、私を浅はかな女だと思わないで」

消え入りそうな声で、リーンが呟く。
頬を包む手に掌を重ね、熱を帯びた空色の瞳がアレスを映した。

「全部忘れさせてくれる……?辛かった事も、恐かった事も……何もかも」
「リーン……」
「私の全てを―――貴方の物にしてくれる?」


己の運命を託したその一言に。


「―――お前が、そう望むのなら」

アレスが答え、リーンの唇に口付けを落とす。
細い腕が広い背中を抱き寄せ、二人分の重さを受け止めた寝台がキシリと神経質な音を立てた。

「―――私の心も魂も、全部貴方のもの。
 これからの私の人生、全て貴方にあげる……ありがとう、アレス」


白い頬を涙が伝う。
だがそれは苦痛や悲しみではなく、幸福を確かめる為の涙だった。






それから数日後。
ダーナを出立する前夜、城で宴が催され、その席でアレスとリーンは今後も解放軍と同行する旨を正式にセリスに告げた。
アレスはともかくリーンまでもが同行する意思を示した事にセリス達は驚いたが、
二人の間に交わされた絆を察し、その申し出を受け容れる事になった。

今後の戦勝を願い、リーンは宴の最後に見事な舞を披露した。

「踊りたいの。アレスが新しい一歩を踏み出したこの場所で、その門出を祝う為に」

未だ完全ではない体調を案じたラナに、彼女は笑顔で答えたという。





リーンの実父がエッダ公爵家のクロード神父であり、共にシグルドの元で戦った踊り子のシルヴィアという女性が母であると伝えたのは、
彼女と同じ両親を持つ弟、コープルの養父となっていたトラキアの将軍、ハンニバルであった。
クロード神父の生前の人となりをオイフェに尋ねたアレスは、
いつかリーンを見守るように傍らに姿を現した青年こそ、クロード神父その人だったのではないかと悟る事になる。


戦いを終えた後、アレスは掛け替えの無い友と、誰よりも愛しい伴侶を手に入れた。
ノディオンに帰国したアレスの傍らには常に寄り添うリーンの姿があり、命を預けた友との親交は、生涯変わらず続く事となった。

                                                                        【FIN】


あとがき

『アレスとリーンの出会い編でした。
 本当はもう少し書き込む予定だったんですが(ゲーム本編のリーンが捕えられるくだりや、アレスが傭兵団を飛び出す辺りとか)
 やたらと長くなりそうだったので止む無くセリスの挙兵を噂で知るところでストップ』

……と言うのが、第一稿目のあとがきの概要(笑)大体どの辺りで書き終えていたかが推し量れるでしょうか。
ふふふ、加筆を終えた今となってはとんでもないですね!(^_^;)

ええ、リーンが捕えられるくだりやアレスが傭兵団を飛び出す辺りを書き込んだ結果、
見事なまでにやたらと長くなりましたとも。
第一稿の凡そ200%増しって、もう加筆なんてレベルじゃねぇよ(笑)
立派にFE部屋創作の記録を更新しました。まさか『Even if〜』より長くなるとは思わなかった……(^_^;)
でもお陰様でとても満足の行く作品になりました。時間も手間も掛かったけど、それだけの価値はありましたです。
娘の貞操の危機にクロードパパを出せた事が、一番のガッツポーズかな?

アレスとリーンは、多分子世代では一番に男女の関係になった二人です。(このSSのラストシーンですね)
本編内という意味では唯一かも……子世代組は基本的に二人一部屋なので、機会がなかなか無いと言うか(笑)
傷付いた彼女の心を癒す為に、敢えてアレスはリーンの望みに応じてそういう事に。
はっきり書かなかったけど、あれでアレスが自分にとって初めての男性だったという事をリーンは再確認して、本当に心の安らぎを得たのです。
ブラムセルに殴られて朦朧となった直後に意識を喪っているので、本当の所は判らないままだったってのが実情でしたから。
勿論アレスにとっても、ギリギリの所で彼女を救う事が出来たとハッキリ判ったわけです。そういう意味も込めた例のシーンだったのでした。
そしてあそこでクロードパパの『お父さんは許しませんよ!?』が無かった=二人の関係は、死後も娘を見守っていたクロードに認められたという事(笑)
ううん、色々深いねぇ。ちなみにラナが人払いをしてくれていたので、丸一日は人が来ないと判っていたから事に及べたのでした。
ちゃんと部屋の鍵も掛けてあるしね(笑)考え無しの衝動の結果では無いのですよ。ニヤリ( ̄ー ̄)

それにしても言葉と表現を選びつつも、
不愉快なエロ爺(人間のクズでもいい・苦笑)を書く羽目になったので、
アレスとリーンのそれは、ほんの触りを書いただけでも癒されました…(笑)美男美女って、それだけで得だといういい見本かもしれない(^_^;)


2007/01/11

                                                                    
麻生 司


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