泣かないで

悲しまないで

君には、ただ笑っていて欲しいんだ


大丈夫

怖い事も悲しい事も辛い事も

全部持って行ってあげるから



だから君は

君だけは




どうか、幸せになって―――








I  wish…








「……ア、ユリア?」
「………え?」

肩を軽く揺すられ、ハッとユリアが顔を上げる。
その手元から、仕上げ途中の縫い物が落ちた。

「ユリア、大丈夫?」
「義姉様……」

酷く心配そうな表情を浮かべて、ラナが顔を覗き込んでいる。
ようやくユリアは、義姉のラナと一緒に縫い物をしていた事を思い出した。

「幾ら呼んでも返事をしないから、息をしてないんじゃないかと思ったわ。
 少し顔色も冴えないようだけど、もしかして具合でも悪いの?それともまさか、スカサハと喧嘩でもした?」
「いいえ、喧嘩なんて。スカサハはとても良くしてくれます。
 至らないのは私の方。私があまり健康ではないから、いつも心配をかけてしまって……」


ユリアは半年前、ドズル公爵家の当主の座を従兄のヨハルヴァに譲渡したスカサハと祝言を挙げた。
バーハラ王家に婿入りする形でユリアの夫となったスカサハは、幼馴染でもあり、今は義兄でもあるセリスの片腕として彼の執政を助けている。
元々彼は気働きのする性質なので、ユリアの体調もよく気遣ってくれた。

「そうね。フィーならともかく、貴方たちに限って夫婦喧嘩で気もそぞろなんてありえないわね」

ヴェルトマー公爵妃となったフィーは、どちらかと言えば言いたい事を素直に口にする方なので、割と伴侶であるアーサーと喧嘩になり易い。
だがどちらからともなく折れ、結局は仲直りをするのが常なので、真剣に今まで二人の仲を心配した事は無かった。
一方スカサハとユリアの仲睦まじさは、ずっと二人を見守って来たラナもセリスも良く判っている。
彼等が出逢って早数年、一度の諍いも耳にした事がない。
だがそれならそれで、別の心配が胸を覆う。


「なら、一体どうしたっていうの?具合があまり良くない事、スカサハにはちゃんと話している?」
「いえ―――でも、少し疲れているだけだから」

このところ、少し暑気あたりをして寝不足なのだとユリアは苦笑いを浮かべた。

「最近眠りが浅いものだから、今もちょっとぼんやりしてしまって……驚かせてしまってごめんなさい」
「大事無いならそれでいいけど……夜にちゃんと眠れていないのなら、せめて昼間に少しでも横になりなさい。
 何かと理由をつけて寝付くのは決してよい事ではないけれど、十分な睡眠を取って身体を休めるのは、健康には必要な為よ」

ユリア自身が言うように、彼女はあまり丈夫ではない。今でも時折、特に理由も無く熱を出したり貧血を起こしたりする。
肌は陽の光に透けるようで、肩も腕もほっそりと細いまま、余分な肉など少しも付いていない。
ただ食が細いだけならばラナ達も叱る事が出来るのだが、これは全く違う次元の話だった。

「スカサハを呼んで来ましょうか?」

部屋に戻って少し休むというユリアを気遣ってラナが声をかけたが、彼女は小さく首を振った。
幾ら同じ城内に居るとは言え、スカサハもセリスも政務で忙しい。
具合が悪いと報せるだけでも心配をかけるのに、その上仕事の邪魔までしたくはなかった。

「以前のようにバーハラとドズルで離れて暮らしている訳ではないのだから、具合が悪いと感じたらすぐに誰かにスカサハを呼んでもらってね。
 勿論、私やセリス様でも構わないから」
「ありがとう、義姉様」


小さく笑みを浮かべて、ユリアの姿が扉の向こうに消える。
意地を張っている様子ではないが、何か気掛かりな事があるに違いないのに相談しようとしない義妹に対して、ラナは微かに眉を寄せた。







「ユリアが
?」
「そうなの。この頃顔色も何だか冴えないし……本人は暑気あたりで寝不足だからと言っていたけど、そんなに眠れていないの?」

半刻(一時間)後、お茶の用意をしたラナはセリスとスカサハを居間に呼んで、先程のユリアの様子を話して聞かせた。
セリスも食事の時などに顔を合わせた際、彼女の顔色が悪い事には気付いていたが、理由までは思い至っていなかったらしい。
スカサハは少し考え込むようにしていたが、本人が口にした以上の理由は思い当たらなかったようだ。
一応お茶の支度をする前にラナがユリアの様子を見てきたが、眠っているようだったのでそのまま寝かせておく事にした。

「確かに……最近夜中に目が覚めると、時々寝台に居ない事がある。
 そんな時は露台に出て風に当たっているか、隣の自室で何をするでもなくぼんやりとしている事が多い。
 こんな時間に何をしているのかと尋ねると、眠れなかったから風に当たっていたとか、少し考え事をしていたと……言ってはいたが」

敢えて何故かと問われると、本当に彼女が口にした理由だけなのかと穿ってしまう。
もしかしたら何か悩みがあって―――それが原因で眠れていないのではないだろうか。
ふと目が合ったセリスとラナが小さく頷いて見せる。どうやら二人もスカサハと同じ考えのようだった。

「ユリアはああ見えて、意外と我慢強いから。
 ―――何か悩みがあるのに、それを自分一人で抱え込んでしまっているのかもしれないね」

男だから、異父兄である自分や夫であるスカサハにも言えないでいるのだろうか。
それならばせめて、ラナにだけは相談してくれても良さそうなものなのだが……

「……とにかく、此処で勝手な憶測を飛ばしていても解決にならない。
 スカサハには、ユリアの傍で気を付けて様子を見ていてやって欲しい。何か判った事があれば教えてくれ。どんな些細な事でもいいから」
「お願いね」
「判りました」


妹を気遣う二人にスカサハが頷く。
折角ラナが淹れてくれた温かいお茶も、晴れない胸の為にすっかり味が判らなくなってしまっていた。



そして、約一ヶ月後―――









お願い、此処に来て

この声を辿って、僕のところへやって来て

もうすぐ時間が来てしまう

その前に―――


もう一度だけ、君に……







「ユリア!?」
「――――――ッ!!」

強く肩を揺すられ、意識が覚醒の縁へと浮かび上がる。
目を開けると、スカサハの黒い瞳が不安げに自分を映していた。

「……私……」

起き上がる背中の下に腕を入れて手を貸しながら、スカサハがもう一方の手で水の入った杯を差し出す。
それを受け取り一口含むと、ユリアはようやく少し落ち着いたようだった。

「よく眠っていると思っていたら、突然うなされだして―――あまりに辛そうだったので起こしたんだ。悪い夢でも見ていたのか?」

微かに杯を持つ手が揺れたのを、スカサハは見逃さなかった。

「……ユリア、君がここ最近あまり眠れていない事は知っている。ラナも、セリス様も気付いていたよ。
 昼間ぼんやりしている事が多いのは暑気あたりの寝不足の為だとラナには言ったそうだが―――それだけじゃないだろう?」


憔悴した紫水晶の瞳がスカサハを見上げる。
頬に掛かった銀糸のような髪をスカサハの手が払い、細い妻の身体を優しく胸の中に抱き締めた。


「どうか俺を信じて話して欲しい。
 君の身に何が起きているのだとしても、俺は君の味方だ。勿論、セリス様やラナだって」

はらはらとユリアの瞳から涙が溢れ出す。
泣く事さえずっと一人で堪えていたのか、一度堰を切った涙は彼女の手とスカサハの胸を濡らし続けた。
四半刻(半時間)ほど泣き続けた事で胸のつかえが落ちたのか、ユリアはようやく胸の内を言葉に出来るようになったのだった。





「……声が聞こえるの。私を、呼ぶ声が」
「声……?」

コクン、と小さくユリアが頷く。

「私は精霊の森の娘だった母の血を引くシャーマンだから……
 幼い頃から姿無き者の声を聞き、また誰にも視えない者の姿を見る事もあった。
 
でもこの数年―――ユリウス兄様を討ったあの日から、そんな事も無くなっていたの」


まだセリスが異父兄であると知らなかった頃、彼に対して雷神イシュタルの脅威を報せるべく、母ディアドラの魂が一時的に自分の身体に憑依した事さえある。

幼い頃から他の誰にも感じられない気配を感じ取り、その意思を読み取る事には慣れていた。
母のように、死後何年経過していようとも、強い意志を発していればその声を受け取る事も出来た。
だがあの日―――血を分けた双子の兄を自らの手で討ったあの時から、事実上彼女の心の目は閉ざされていたのである。

だからこそ何時ともなしに聞こえ始めた『それ』に、ユリアは恐れを抱いた。


「もう、役目を終えたのだと思っていた。
 兄様が斃れた事で、魂の声を聞くシャーマンとしての私の力は喪われたのだと。それなのに―――」


初めは気のせいだと考えようとした。
きっと日々の雑事に疲れて、風の音や何でもない物音を聞き間違えているのだと。
だがそれは日を追う毎に強くなり、やがてはっきりと自覚せざるを得なくなった。


―――あの声は、自分を呼んでいるのだ。




「……怖かった。誰にも聞こえない声が、私だけに聞こえる事が。
 風の音のように微かな呼びかけもあれば、はっきりと『呼ばれているのだ』と判る時もある。
 もしかしたら聞こえると思い込んでいるだけで、本当はただ私自身が壊れかけているんじゃないかと思う事さえあった。
 だって私を呼ぶあの声は……」

ユリアの手が、ギュッとスカサハの胸元を掴む。
自分を包んでくれるこの温もりを、確かな証として縋るように。

「あれはまだ、私達が自分の運命を知らなかった頃の―――ユリウス兄様の声だったから」
「何だって……!?」

余計な口を挟まずじっとユリアの言葉に耳を傾けていたスカサハだったが、流石に彼も驚きの声を上げた。

「私と兄様は同じ両親から生まれた双子―――
 ロプトウスの化身であった兄様亡き今、私の中に眠るロプトの血が、新たに目覚めようとしているのかもしれない。
 私にだけ聞こえるあの呼び声は、ロプトの血の覚醒の兆しではないのか。
 あの声に耳を傾けてしまったら、自分と言う存在を再び喪ってしまうんじゃないかと……不安で堪らなかったの」


ユリアはかつて、自分の名以外の記憶を喪っていた時期がある。
数年後に喪われていた記憶は全て取り戻されたが、代償は大きかった。

それは兄との決別と、自らの手でその兄を斃すという運命を背負う事に他ならなかったから。

独りであったなら、その重責と罪の意識に耐えられなかったかもしれない。
異父兄の導きと、仲間の励ましと、そして掛け替えの無い人の支えがあったからこそ、運命を受け容れる事が出来たのだ。
もう二度と、心に穴が開いたようなあの虚無感を味わいたくなどない。

怯えに戦慄く手を取り、その指先にスカサハが口付けた。



「夜が明けたら、セリス様達にも全ての事情を話して墓所へ行こう。
 何の為に君を苦しめるのか、呼び声の主が本当にユリウスなのか……一緒に確かめるんだ。
 大丈夫。どんな事があっても、僕は必ず君の傍に居る」
「……ありがとう、スカサハ」


広い胸に頬を寄せ、ユリアがそっと目を閉じる。
遠い呼び声は今も止む事は無かったが、夜明けまでの僅かな時間、夫の温もりに包まれた彼女には久方ぶりの安らかな眠りが訪れた。









早朝の墓所は静謐な空気に満たされていた。

ユリアの傍らには寄り添うようにスカサハが、少し離れてセリスとラナが二人を見守っている。
陽の光が射すと同時に、スカサハはユリアを連れてセリス達の寝室の扉を叩いた。
あまりに早い訪問に彼らは驚いていたが、事情を聞くとすぐに墓所へ行こうと言ってくれた。

ユリウスの墓は、墓所の中でも他の物とは少し離れた場所にある。
まだ真新しい白い墓碑がぽつんと二つ並んでおり、
一つにはユリウスの名が刻まれ―――
そしてもう一方には、最期の瞬間まで彼への愛を貫いて果てたイシュタルの名が刻まれていた。


墓碑は木漏れ日に照らされている。恐ろし気な雰囲気は微塵も無い。
だがユリアは白い墓碑を目にした瞬間、ギュッとスカサハの袖を強く握った。

「ユリア?」
「―――兄様」

囁くような小さな呟き。
彼女の瞳は、真っ直ぐに双子の兄の墓碑を見詰めている。
その視線を追うように顔を上げたスカサハは、其処に在り得ない筈のモノを目にして、ハッと息を呑んだ。


墓碑の傍ら、光の中に浮かぶぼんやりとした人影が見える。
歳の頃は十歳足らず。七-八歳くらいのその人影は―――紅い髪の少年の姿をしていた。




「あれが……ユリウス皇子?」
「ええ―――ロプトウスとして覚醒する以前の……あれが私の知る、本来の兄様の最後の姿」

スカサハは背後のセリスとラナを振り返ったが、彼らには何も見えていないようだった。
困惑を面に映しながら、二人が小さく横に首を振る。
だが敢えて『何がどうなっているだ』と口を差し挟むような真似はしなかった。このまま黙って様子を見ていると言う事なのだろう。

スカサハにも彼の姿が視えているのは、優れたシャーマンであるユリアに触れているからなのかもしれない。
或いは、スカサハにも姿を見せる事が彼の意思なのか。

ユリアはスカサハと視線を交わすと、ゆっくりと陽炎のような兄の下へと歩み寄った。




「ユリウス兄様……」


―――やっと来てくれた。ずっと君が此処に来てくれるのを待っていたんだよ、ユリア。


少年―――ユリウスが小さく笑う。
姿は幼い子供だが、口調は自分達とそう変わらない。姿かたちはそのままに、心だけ成長したかのようだ。
その声音には、ようやく待ち人がやって来たという純粋な喜びが満ちていた。


「……遅くなって、ごめんなさい。
 私は自分の犯した罪の重さと向かい合うのが怖くて……今までずっと、此処には来られなかった。
 そして自分が壊れていくんじゃないかと不安で……声に耳を傾ける事を恐れていたの」


ユリアは今まで両親の墓を訪れる事はあっても、兄の墓を参った事は一度も無かった。
否、参れなかったのだ。

兄の死は自分の手がもたらした物であったから。
血と肉と、魂さえ分け合った双子の兄を、手に掛けたのは間違いなく自分自身であったから―――
だからその死の象徴である墓碑を、今まで目にする事が出来なかった。

自分自身で選び、それで世界が救われたのだとしても、自ら兄を殺めたという心の傷は一生癒える事はないだろう。



―――でもユリアは、僕の為にずっと祈ってくれていた。
    一度は闇に堕ちた僕の魂がいつか救われますようにと、一日も欠かす事無く。
    ユリアがそうして祈り続けてくれたから……ようやく僕も、光の中に行ける。
    この世界に留まれる、今日が最後の日だった。だからどうしても、旅立つ前に君と話がしたかったんだ。


「え……?」


ニコッと、無垢な笑みを浮かべ、彼が振り返ったその傍らにもう一つの淡い人影が現れる。
長く伸ばした銀髪を一つに結わえ、ユリウスに微笑みを返すその美貌の女性は―――


「雷神……イシュタル……!?」

思わず呟かれたスカサハの声に、ユリアも微かに息を呑む。
その気配に気付いたイシュタルの手が自らの裾を引き、静かに深く礼をした。


―――もう泣かないで。悲しむ必要なんてない。君の祈りが、僕の魂を救ってくれたんだから。


「兄様っ……!」

ユリアの頬を涙が伝う。
だがそれは昨夜のような恐れの涙ではなく、兄との永遠の別離をただ悼む涙だった。

祈り続けたのは贖罪の為。
だがそれ以上に、兄の魂が安らかであって欲しいと願っていた。
あの日、黒い聖書によって運命を歪められ、人として生きる事を許されなかった兄が次こそ幸福な人生を歩めるようにと。

その祈りが兄を光へと導いた。
自分の選択は、捧げ続けた祈りは、間違っていなかったのだと思ってもいいのだろうか。


―――いつだって笑っていて欲しいんだ。昔、父上や母上と一緒に暮らしていた頃のように。


ユリウスの手が妹の頬を濡らす涙を拭う。
体温の宿るべき肉体など在りはしないのに、頬に触れたその指先には、確かに懐かしい温もりを感じた。


―――君の中に、ロプトの血は欠片も存在しない。何も恐れる事はないよ。
    大丈夫。怖い事も、悲しい事も、辛い事も―――僕が全部、持って行ってあげるから。
    だから君は、君の選んだ人と一緒にどうか幸せになって。僕達や父上、母上の分まで……


紅い瞳がユリアを支えるスカサハを映す。

幼い少年だった筈の彼の姿は、いつしか歳相応の青年の姿へと変じていた。
ロプトウスとして覚醒しなければ、この姿こそ、いずれ成長する本来の姿だったのだろうか。
人ならざるモノを宿した彼の身体は、寿命も含めて肉体が経る筈の時間すら歪められていたのだろう。


―――ユリアの幸せ……それだけが、今日この時を最後に旅立つ僕の唯一の望み。


「……私の命ある限り、ユリアを守り続けます。彼女の幸福は、私自身の幸福に他ならない」

ごく自然に、スカサハは誓いの言葉を口にしていた。
促されたわけでも、ユリウスの思念が強要したわけでもない。
ただユリアの幸福を望む、その想いは同じであったから。


視界の中で、ゆらりとユリウスとイシュタルの姿が光に滲む。
彼等がこの世界に留まる事が許される時間は残り僅か―――
涙を拭ったユリアを支え、スカサハもしっかりと消え行く二人の姿を目に灼き付けた。


「運命のあの日まで―――私達は本当に仲の良い兄妹だった。
 泣き虫だった私を、いつも傍に居て宥めてくれた優しい兄様が大好きでした。
 兄様……再び家族として、或いは友として、きっとまた来世でお逢いしましょう。イシュタル様も共に」


―――ありがとう……



暇乞いの挨拶のように頭を垂れ、互いの手を取ったユリウスとイシュタルの姿が光に溶ける。
二人の姿が消える刹那、スカサハには『妹をよろしく』という、ユリウスの声が遠くに聞こえたような気がした。









「それでは、セリス兄様達は何もご覧にならなかったんですね」

一刻(二時間)後、セリス達は談話室に場所を移していた。

「うん。気配だけは何となく判ったんだけど。
 目には見えないけど、其処に『何か』が存在しているっていう事だけは。ね?」
「ええ。でもハッキリした姿や、声は聞こえなかったわ」

セリスとラナが、互いの受けていた感覚を言葉として補い合う。

スカサハとユリアが『何か』の姿をハッキリと目にし、なおかつ声を聞いている事は傍で見ているだけでも判った。
会話の端々からそれがユリウスとイシュタルである事も察した。
だがセリス達には、最後までその姿を見る事は出来なかったのである。


「それで、呼び続けていたという声はもう聞こえない?」
「はい。今はもう、何も」

こくん、とセリスに頷いてみせる。
やはりあの声は、浄化され、光に旅立とうとする兄の最後の呼び掛けだったのだ。
自らを喪うのではないかと恐れるあまり、呼びかけに耳を塞ぎ続けて申し訳ないことをしたと思う。
最後の最後にスカサハに全てを打ち明ける事が出来、間に合って本当に良かった。

「今日、この時を最後に光の中へ―――あの戦いからもう二年も経つなんて……早いものね」
「そうだな……あの日から、今日で丁度二年。
 俺たちにはあっと言う間だったが―――ユリアにとっては、とても長い日々だったろう」

労わるように、スカサハの腕がユリアの肩をそっと抱き寄せる。
その優しさに身を委ね、ユリアはそっと目を伏せた。


自らの祈りが成就し、兄の魂は救われたという。
ならばイシュタルの魂を救ったのは、実の姉のように彼女を慕っていた従妹のティニーと、彼女を直接討ったセティの祈りだったのではないだろうか。
雷神イシュタルの墓碑をユリウスのそれと並べて作る事は、ティニーとセティの強い希望によるものだったのだ。

イシュタルはユリウスの最強の刃として解放軍の前に立ちはだかったが、本当の彼女自身は慈悲深く、そして優しい女性だったという。
解放軍の敵となったのはただ一途にユリウスを愛するが故の選択であり、そしてその愛故に死に殉じた。
きっと彼女の魂は、死してなおユリウスの傍に在る事を願うであろうから―――と。

恐らく、イシュタルの魂はとうに光へと導かれていてもおかしくはなかったに違いない。
だが彼女は自らの意思でこの世界に留まり続けていたのだろう。
ユリウスと共に逝くと誓いを立てたイシュタルは、彼の魂が浄化され、共に光へと旅立てる日を待っていたのだ……



自分の中に、ロプトの力は欠片も存在しないと兄は言った。
それが真実であるのか、或いは自分を安心させる為の優しい嘘なのかは判らない。
だがいつも胸の内にあった、澱の様な恐れや不安が今はすっかり消えている事にユリアは気付いていた。
約束通り自分を悲しませる全てを兄が持って行ってくれたのだと、今なら素直に信じられる。


肉体と言う軛を喪った兄はきっと気付いていたのだろう。
ロプトの魂を宿す器としてこの世に生れ落ちた兄と、自分が同じ運命を辿るのではないかと恐れている事を。
そして自分が血を残す事で、その脅威が後世に継がれるのではないかと。
だからこそ兄は最後に言ってくれたのだと思う―――何も恐れる事は無いと。
大切な人と幸福な家庭を築き、いつか母になって欲しいのだと。

自分の産む子にロプトの血が受け継がれないという事実―――それは確かに、ユリアの心に一条の光を投げ掛けた。





「―――スカサハ」
「どうした?」
「……ううん、なんでもない」

不意に口をついた呼びかけに、スカサハの黒い瞳がユリアを見遣る。
だが胸に湧き上がるようなこの想いをどう言葉にすれば良いのか判らなくて、ユリアはただ肩に置かれた彼の手を握った。

「大丈夫。何があっても、俺は君の傍に居るよ」
「……ありがとう」


今は『ありがとう』としか言えない。
この感謝と、与えられた心の安らぎを他に言い表す事が出来ない。
だけど―――

『私はいつか、貴方の子を産みたい』

言葉に出来なかった想いを胸に、スカサハという人に廻り逢えた幸運をユリアはかみしめていた。

                                                                    【FIN】


あとがき

スカユリと言ってる割に、あまりスカユリが強調出来てなくてゴメンなさい。
スカサハは生真面目な性質なので、セティのように臆面も無く砂を吐くような甘い台詞は出て来ないんです(笑)
でも折角だからと言う事で、ユリウス×イシュタルも絡めてみました。
ユリウスはロプトウスとして覚醒して以来、成長速度が同世代の少年よりずっと遅くなってしまったので、実年齢より遙かに幼い外見だったんですね。
セリスやユリアと最後に見えた最終章の時点で実は十七歳なんですけど、見かけはなんちゃって十三-四歳です。
だからイシュタルと並んでいると、まるで理知的で控えめな姉と、我が侭で偉そうな弟の図。
今回、スカサハとユリアだけが視た成長した姿は、ちゃんと父親の遺伝子を引き継いだ立派な体格でした(笑)身長も170センチ↑で。
ティニーとセティに関するイシュタルの墓云々の話は『蒼褪めた雷』を参照。

しかし話の締めが『貴方の子を産みたい』って…(^_^;)でもそういう設定だったから、仕方ないんだけども。
ユリウスとユリアは双子の兄妹。もしも自分にロプトの血が潜んでいたなら、そして自分が子を成したなら……
将来に禍根を残すのではないかと、ずっとユリアは不安だったのです。それもあって、彼女は健康とは言えない身体になってしまっていた。
心因性の体調不良が長く続いた状態と言えばいいのでしょうか。
その不安が解消された事で(或いはユリウスの最後の言葉を信じる事で)無事、数年後に彼女も親になります。

スカサハとユリアの間には、この数年後にナーガの直系の血を継いだ一人娘が授かります。
更にその十数年後、双方の親が驚くほどの大恋愛を経てセリスとラナの間に生まれた長男と結婚。
めでたく、しかも円滑にナーガの血がバーハラ王家に残る事になった訳ですが、別にそうするつもりで親(セリスやスカサハ達)が許婚等で企んだのではなく、
ごく自然に幼い頃からの親愛(従兄妹同士ですし、同じ城に住んでるし)が恋愛感情となり、結ばれるに至ったのがポイント。
ちなみにセリスとラナの次男にはバルドの聖痕が出て、後にオイフェの一人娘に婿入りする事になります。
こちらは流石に次男坊に聖痕が出た時点で内々に話を進めてあったんですけど、
それとなく当人同士を引き合わせてみたら、こっちはこっちで親が拍子抜けするほどあっさり恋に落ち、無事縁談成立(笑)
これも恋愛結婚と言っていいのかな?(^_^;)

                                                    麻生 司

2006/11/16



INDEX