未来幻燈
Act.1 Mwu & Murrue
『戦場に出る時のジンクス?ああ、あるぜ。俺はいつも、スペアのメットをコックピットに持ち込むんだ。
宇宙空間を漂う羽目になった時、パイロットスーツの機密性が失われるってのは、即、死だろ?
メットのバイザー部分は強化プラスチックだが、実際スーツ部分よりもバイザー部分が衝撃で破損する頻度の方が圧倒的に多い。
だから例え身に付けているメットが何かの理由で破損しても大丈夫なように、もう一つスペアを積み込む事にしてるんだ』
宇宙空間でスーツの機密性を気にしながら漂う羽目になった時、果たして破損したメットを交換する余裕があるのだろうか。
この話をフラガから初めて聞いた時、そんな埒も無い事を考えた事を、キラは何故か不思議と覚えていた。
戦場に一度でも出て、そして運良く生還出来た者は、多かれ少なかれ何かしらの験を担ぐと言う。
フラガはそんな迷信や験担ぎを笑い飛ばしそうだと思いながら尋ねたキラに、案外真面目な顔で彼はそう答えてくれた。
「何だか、少し意外でした。ムウさんはあまりそう言う事、気にしないのかと思っていたので」
「そんなに俺って現実的に見える?これでも結構色々と、巷で噂の験担ぎには手を出してるんだぜ。誰だって死にたくないもんな」
そう言って、広い肩軽くを竦めて見せる。
「例えば?」
「そうだなー。阿呆らしい事なら、起きて靴履く時は左足から履くとか。あと出撃前に卵料理は食べないとか」
「……それって、何か根拠があるんですか?」
「さあ?でも実際に生き残った連中が信じてるんだから、何かはあるんじゃないの」
『まあそのジンクスの信奉者が、今でも全員生きてる訳じゃないけどな』と、薄ら寒い事を口にしてフラガが笑った。
「ちょっと現実味がある所で、生還したら丸一日寝倒すってのがあるな」
「……それ、まさかムウさんが言い出しっぺじゃないでしょうね?」
「ありゃ、バレた?ちぇー、マリューにも同じ事言われて見抜かれたんだよなー。何で俺だって判ったんだろ」
……実際、戦場に出て生還すれば、後は丸一日くらい寝倒したくなるのも道理である。
ましてやフラガのように特殊なMA乗りや、稼働率が半端ではないMSのパイロットでは尚更だろう。
それ程に戦場は、心身に消耗を強いるのだ。
「でも一番の験担ぎは、『自分は死なない』って信じる事かな」
「死なない―――ですか?」
それはある意味、戦場に立つ者の禁忌。
決して触れてはならぬ―――しかし避けては通れない現実。
生と死は常に隣り合わせ。生き残る事も死ぬ事も確率は五分で、それ以下でも以上でもない。
だがフラガは、戦場で自分が死ぬと思った事は一度も無いのだと言う。
「これは効き目あるぞ。何てったって、現に今まで何度も危ない橋を渡りながらも、俺がまだ生きてるんだからな。
―――俺は、不可能を可能にする男なんだぜ」
揺るぎないその心の強さ。明るい笑顔。いつだって自分達を支えてくれた兄貴分。
その彼がこの世から永遠に失われようとしていた事に、キラ達はまだ気付いていなかった。
周囲には、無残な機体の残骸が四散していた。
『これ……まさか、ストライク……!?』
操縦桿を握るのはカガリ。
彼女の左右でそれぞれハッチの縁に掴まるようにしていたアスランとキラは、通信機を介して彼女の引き攣った声を聞いた。
ルージュのコックピットハッチは開け放されていた上、センサー系はほとんど死んでいるので目視するしかない。
だが彼らの視界には、確かに見覚えのある機体の頭部部分が漂っていた。
『ストライクのパイロットは……あの、フラガ少佐だろう?ここまで機体が破壊されるなんて……一体、何が……!?』
咄嗟に機体の破損状況に意識を向けたアスランは、無意識化で一番肝心な事に気付くのを本能的に避けていたのかもしれない。
原型を留めないまでに機体が損傷して。
しかも辛うじて残った残骸も、どれ程の熱量を一身に受けたのか、その多くが融解している状態だった。
そんな状況に機体が陥ったのなら、その機体を駆っていたパイロットは……?
『キラ、あれ!!』
カガリが漂っていたストライクの頭部の少し上方を指差す。
遮光のバイザー越しに、背後の太陽光を受けてキラリと反射して見えたのは、周囲の残骸に比べると小さな物体だった。
キラの瞳がハッと瞠られると、彼はルージュのコックピットハッチの縁を蹴ってその物体に慣性で近付いた。
徐々に近付くにつれ、その物体の色合いがはっきりと目視出来るようになる。
丸く滑らかな表面に塗装された色は紫と黒。そして、小さな白い一対の羽根のシンボル。
『やっぱり……ムウさんのメットだ』
漂い着いたメットを両手で受け止めると、キラは悄然とした声で呟いた。
違う物であって欲しいと願っていた。
だが見覚えのある色と形に急かされてこの目で確かめた物は、原型を留めない程に機体が損傷し、
その機体のパイロットが身に付けていた筈のヘルメットだけが漂っているという―――現実。
ヘルメットそのものに大きな損傷は無かったが、強化プラスチックのバイザー部分は致命的なダメージを受けていた。
それは即ち、パイロットの死を意味する。
彼女は―――マリューは、彼の事を知っているのだろうか。
今、この宙域にAA(アークエンジェル)の機影は無い。
だがキラ達がジェネシスに向かう前、確かにAAはこの付近で交戦状態にあった筈だ。だとすれば―――
『キラ、それは……』
同じように慣性で傍まで来たアスランとカガリが、キラの手の中のヘルメットを目にして息を呑む。
二人にもそのヘルメットの意匠には見覚えがあった。
『……それだけでも、持って帰ろう。慰めにはならないかもしれないけど―――何も無いよりは、救いになるかもしれないから』
『―――うん、そうだね』
もしかしたら、悲しみを深くしてしまうだけかもしれない。
例え目の前で機体が四散した光景を見ていたのだとしても、何も証が無ければ希望は残る。
だが破損したヘルメットを目にしてしまえば、彼女に残された最後の希望まで奪ってしまうだろう。
それでももしも涙が涸れ果てるまで泣いた後に、形見になるものが何一つ残っていなかったなら―――その時は、これが唯一の形見となる。
だからこそ、キラも頷いてそのヘルメットを大事に胸に押抱いた。
『でも機体がこんなに酷い状態なのに―――何だか、不思議なくらい綺麗だな』
『え……?』
カガリの小さな呟きに、キラとアスランが思わず彼女を振り返る。
確かにヘルメットそのものに大きな損傷は無かったが、バイザー部分は無残に吹き飛んでいたし、融解の跡も多少はある。
不思議そうな顔をしたキラの手からヘルメットを受け取ると、カガリは自分の手でそのヘルメットを掲げて見遣った。
『原型が残っている事。融解の跡はあるけれど、まだ色も意匠も判別出来る事。それに、ほら―――』
そう口にしながらカガリが二人の前でヘルメットを引っくり返して、内側を見せる。
『血の跡も、身体の一部も……何も、無いだろ?』
平たく言ってしまえば、機体が四散する程の衝撃を受けたのにも関わらず、
このヘルメットには血痕一つ、肉片一つ残されてはいなかったのだ。
一瞬で肉体が膨大な熱量に晒されて、跡形も残さず蒸発した可能性は否定出来ないが―――
だとすれば、ヘルメットだけがここまで形を保っているだろうか?
その瞬間、キラの脳裏にある言葉が蘇った。
―――戦場に出る時のジンクス?ああ、あるぜ。俺はいつも、スペアのメットをコックピットに持ち込むんだ。
それはほんの数週間前、フラガと交わした他愛のない会話。
だがそれは、とても大きな意味を持っているのではないだろうか?
『そうか―――これは……スペアの方かもしれない』
『何だって?』
怪訝そうな表情を浮かべたアスランとカガリに、
フラガが出撃する際に、スペアのヘルメットをコックピットに持ち込んでいた事を話した。
『生還する為の、ジンクスの一つだって言ってた。だからもしも、これがムウさんの身に付けていた方じゃないとしたら……』
『もしかしたら、フラガ少佐は生きてる……!?』
例えば、身体の一部でも発見してしまえば、全ての可能性は閉ざされてしまう。
宇宙空間で腕の一本だけ漂っている状態では、その腕の持ち主の生存の可能性はゼロだ。
それは即ち、パイロットスーツの気密性が失われた事を意味する。
だが裏を返せば、パイロットスーツの気密性さえ保たれていれば、万に一つの可能性で生存のチャンスは残されているのだ。
『捜そう、キラ、アスラン!諦めるのは、全ての可能性が否定されてからでも遅くないよ!!』
カガリの声に衝き動かされるようにキラとアスランは頷き合うと、ストライクの残骸の周囲をくまなく捜し始めた。
一体、どれ程多くの犠牲者が出たのだろうか。
静寂を取り戻しつつあるAAの艦橋で、クルーは皆、半ば呆然としていた。
既に艦そのものにも多く被弾し、もはや戦う力は残されていない。
それは艦首を並べたエターナルやクサナギにも同じ事が言えた。
―――あまりにも多くの死が、彼らの前に横たわっていた。
クサナギ所属のアサギを始めとする少女パイロット達は、乱戦の中で戦死が確認された。
AAのローエングリンの直撃を受けたドミニオン艦長のナタル・バジルールとブルー・コスモスのムルタ・アズラエルは、艦と運命を共にした。
フレイ・アルスターは先んじて他のクルーと共にドミニオンから脱出していたが、ザフトの新型MSの攻撃により爆死している。
そしてムウ・ラ・フラガは―――AAに放たれたドミニオンのローエングリン正射をストライクの盾で受け止めたものの、
衝撃を緩和し切れず、機体はAAの目前で爆発四散した。
マリュー・ラミアスがドミニオンへのローエングリン正射を命じたのは、ストライクの爆発直後であった……
周囲はまだ電波障害が残っており、交信が非常にし辛い状態が依然続いている。
だがその中で停戦協定の準備が進んでいる旨が全周波数に乗せて全軍に伝えられると、
ようやく生と死のギリギリの所で保たれていたクルーの緊張が緩和された。
AAの艦長席で、マリューは所属を問わず生存者の確認を急ぐようにクルー達に伝えた。
「戦いは終わったわ。殺し合うのは、もうたくさん。ザフトでも、連合でも、私達の仲間でも関係無い。
生存者を発見したら速やかに回収して、一刻も早く適切な処置を」
「はい!」
パル、チャンドラ、ミリアリア、サイ達の手が、忙しくコンソールパネルの上を行き来する。
ミリアリアの傍らにはパイロットスーツのままで額に包帯を巻いたディアッカの姿が在ったが、もはや誰も咎めようともしなかった。
この状況で辛くも生き残った者として、互いにそれ以上の事を求める気にならなかったのかもしれない。
「ジェネシスに向かったキラ君達は……無事かしら」
溜息のような小さな呟きが艦長席からポツリと聞こえ、一瞬ミリアリアの手が止まった。
この艦橋に居る者なら、今はディアッカでさえ、マリューとフラガが恋人同士であった事を知っている。
誰よりも生きて戻って欲しかった恋人を目の前で喪ったマリューの心痛は、ミリアリアには察して余りあった。
トールがMIAとなり、自分の前からその存在が喪われて早数ヶ月―――だが、未だに自分は彼の死を引き摺っていた。
彼女も同じように、過去を捨て切れずに生きて行かなくてはいけないのだろうか。
そして、自分も―――
ミリアリアが自失していたのは僅かな時間だった。ほんの数秒であったかもしれない。
だがその僅かな意識の狭間にセンサーが反応を検知した為、彼女の対応は間髪を置かずとは行かなかった。
「おい―――ミリアリア!センサーが友軍機を検知してるぞ!!」
「―――え!?」
肩を揺すってミリアリアの意識を呼び戻したのは、隣に立って同じディスプレイを見ていたディアッカだった。
慌ててモニターを見ると、確かにセンサー上に友軍機を示すマークと識別コードが表示されている。
そのコードは―――ストライク・ルージュの物だった。
「艦長、友軍機の識別コードを確認!ストライク・ルージュです!!」
「ルージュ……では、カガリさんね。良かった……少なくとも、彼女は無事だったんだわ。
他の―――フリーダムやジャスティスの反応は?」
「いえ……識別コードはルージュ一機のみです」
『そう』と落胆しかけたマリューの耳に、ノイズ交じりの通信音声が飛び込んで来たのは、丁度その時であった。
「ストライク・ルージュより入電!……この声は……キラか!?」
「キラ君ですって?カガリさんじゃないの!?」
オペレーターのサイの声に、マリューが思わず艦長席から身を乗り出す。
サイが素早くノイズを絞り、可能な限り音声をクリアにしようと試みる。
バリバリと言うノイズが完全に消える事は無かったが、十数秒で辛うじて会話が成立するくらいに調節された。
『……ちら、キラ・ヤマト。AA、聞こえますか!?』
「何とか聞こえているわ!キラ君、どうして貴方がルージュに?カガリさんは一緒ではないの!?」
『カガリもアスランも一緒に居ます。みんな無事です』
「カガリさんもアスラン君も一緒なのね?―――良かったわ」
酷い電波状態ではあったが、キラの口から3人の無事が確認出来て、マリューはホッと胸を撫で下ろした。
早くキサカの元にカガリの無事を伝えないと、彼もクサナギの艦橋でまんじりともしない時間を過ごしているに違いない。
詳しい報告は後でも聞ける。取り敢えず帰投してゆっくり休めと口にしかけたマリューは、だが続けられたキラ自身の言葉に阻まれた。
『それよりもマリューさん、ムウさんが……!!』
AAの艦橋に居たクルー全員に緊張が走る。ディアッカでさえ例外ではなかった。
クルー達はそうっとマリューを横目で伺ったが、俯いた髪に覆い隠されて、その表情を読み取る事は出来なかった。
「ストライクの―――残骸を見たのね?知っているわ……彼が、戦死した事は」
搾り出すような、マリューのその声に。
ミリアリアは、心臓を鷲掴みにされたような気がした。
どうしてキラは、今この時にフラガの名を出すのか。
かつて大事な人を同じように戦場で喪ったミリアリアは、彼の思慮の浅い言葉に怒りすら覚えた。だが―――
『違います!ムウさんは―――まだ蘇生出来るかもしれない!!』
「―――え………?」
マリューを始めAAのクルーは、キラからもたらされた言葉に、皆一様に声を失った。
確かに彼は、『蘇生』と口にした。
『蘇生』と言うことは、フラガの身体があの爆発の中にあっても、奇蹟的に無事であったと言う意味で―――
それはまさしく、奇蹟としか言い様が無い。
『コーディネーターの医療技術が必要なので、このままエターナルにムウさんを搬送します。
マリューさんもすぐにシャトルでエターナルに来て下さい。詳しい話は、そこでします!』
それだけ伝えると、ルージュからの通信は途切れた。
AAの艦橋からも、小さく目視出来るようになっていたルージュの機影が、まっすぐエターナルへと向かう。
マリューはカガリの無事をクサナギのキサカに伝えるようにサイに指示すると、ふらりと機械的に艦長席から立ち上がった。
「……アーノルド、少しの間―――艦を任せてもいい?」
「はい、こちらはご心配なく。艦長は一刻も早くエターナルへ」
マリュー自身を除いた艦橋のクルーの中では、一番の先任仕官であるノイマンがマリューに頷き返す。
『ありがとう』と呟き、マリューは床を蹴った。だが動きが硬い。
フラガを目の前で喪ったと思った衝撃と、もしかしたら彼が蘇生するかも知れないという一縷の希望が、
彼女を情緒不安定にしているのが目に見えて明らかだった。
今の彼女に自分でシャトルを操縦させる事に、一抹の不安が過ぎる。だが今AAにはギリギリの人員しか居ない。
既に臨戦体制は解かれているが、かと言って必要最小限の人員で動かしている以上、彼女に付き添って行く事は出来なかった。
「……ディアッカ」
「うん?」
ミリアリアに名を呼ばれて、ディアッカが微かに目を瞠った。
何かを伝えたくて名を呼んだ筈なのに、それ以上彼女は何も口にしない。
だが彼女の視線は、今まさに艦橋を出ようとしているマリューの後姿に注がれていた。
「……オッケー。判った」
「え……?」
合図のようにポンポンと軽くミリアリアの頭を叩くと、ディアッカが床を蹴り、素早くエレベーターの中のマリューに並ぶ。
その彼の行動に、ミリアリア自身が驚いたような顔をした。
「艦長さんを無事にエターナルに送り届ければいいんだろ?」
「でも……怪我してるのに」
『あ…』と呟き、ディアッカが包帯の巻かれた自分の額に手を当てる。
自分が負傷していた事実を、本当に一瞬忘れていたようだった。
「ま、大丈夫だろ。アバラとか腕の骨をやったんじゃないし、傷の割に出血が多かっただけだから。ちゃっちゃと行って戻ってくるさ」
「―――うん」
ミリアリアに向けて敬礼の真似事のような仕草をしたのと同時に、ドッキングブロックに降りるエレベーターのドアが閉じた。
ちゃんと言葉に出来なかったのに、どうしてディアッカは自分の言いたかった事を判ってくれたのだろうか。
だが今は素直に彼の機転に感謝して、ミリアリアはマリューの為に奇蹟が起きる事を祈っていた。
マリューは連絡用シャトルの操縦を申し出たディアッカに意外そうな目を向けたが、
『まあいいから、座ってろって』と言う彼の言葉に押し切られて、結局サブシートの方に収まる事になった。
普段ならシャトルの操縦くらいどうと言う事はないのだが、流石に今は自分の行動に自信を持てない。
押し問答をしていても始まらないので、大人しく彼に任せる事にした。
「何て顔してんのさ。あんたこれから、愛しい恋人に会いに行くんだろ?」
シャトルを使えば、エターナルまではほんの数分である。
小さく繰り抜かれたシャトルの窓から、銀砂を撒いたような漆黒の宙空(そら)に視線を泳がせていたマリューは、
不意に操縦席から声をかけられて瞳を瞬かせた。
「そんなに、酷い顔だった?」
硬い笑みを無理矢理浮かべて、マリューが自分の頬に手を当てる。
「顔色悪い、目が虚ろ、泣いた後で目尻が腫れぼったい……とまあ、こんな所かな。
まあ、ついさっきまで戦闘の指揮を取ってて、目の前で色んな事があったから仕方ないと言えば、仕方ないけど。
……そんな顔してると、手に入る筈だった幸運まで手からすり抜けて行くぜ?」
話しながらでも、ディアッカの操縦は全く危なげがない。
巧みに漂流物を避け、シャトルはエターナルに近付いていた。
「そう……ね。その通りだわ」
だがその言葉とは裏腹にマリューの瞳は一層憂いを深くし、表情にも陰が落ちる。
まず気をしっかり持たなくてはいけない事くらい言われるまでも無く判っているのだが、
マリューには楽天的になれない理由があった。
「―――昔、ね。大事な人を戦場で亡くした事が……あるの」
「…………」
ぽつり、とマリューが呟く。
だが何らかの言葉を求めているとは思えなかったので、ディアッカは敢えて口を差し挟む事はしなかった。
以前、口にする必要がなかった不用意な言葉で、ミリアリアを酷く傷付けた事がある。
沈黙で答える事が今は最良なのだろうと、ディアッカも経験で学んでいた。
「彼は、MA乗りだった。
いつものように出撃して、いつものように最前線で戦って……そして―――帰って来なかった」
いっその事MIAであってくれたら、まだ望みが持てたかもしれない。だが、彼の場合は違っていた。
搭乗していたMAが被弾して墜落した所を同僚が目撃しており、すぐに救援に駆けつけてくれたのだ。
だが被弾時に致命傷を受けていた彼はそのまま息を引き取り、遺品だけが持ち帰られたのである。
それが今、自分の胸に下がっているロケット――彼の誕生日にマリュー自身が贈ったものだった――と、階級証だった。
「……怖かったわ。もう二度と、自分と同じ軍人になんて恋しないって誓った。
いつまた、大事な人を戦場で喪うかもしれないと怯えながら生きるくらいなら、一生一人でいいって思ってた。
なのに、あの人は……いつだって、私の傍に居て―――」
マリューの瞳から滲んだ涙の雫が、シャトル内にふわりと浮かぶ。
喉の奥からせり上がる嗚咽を、彼女は唇を噛み締めて押し殺した。
「―――ムウは、いつも笑ってた。
『どうしたんだよ、元気ないな。そんなんじゃ美人が台無しだぜ』って―――いつもいつも、冗談めかして」
目を閉じれば今も瞼に浮かぶのは、明るい黄金色の髪と優しい蒼い瞳。そして屈託無い彼の笑顔だった。
どんな時でも前向きで決して諦めず、『俺は不可能を可能にする男なんだ』と言って―――笑っていた。
「もう一度会いたい―――あの人に。そしていつも通り笑って『ただいま』って……言って欲しい。
今望むのは、ただ―――それだけ」
「なら、その涙を拭っておっさんに言ってやりなよ。『どれだけ待たせれば気が済むの?』……ってさ」
涙に瞳を濡らしたまま、憑き物が落ちたような顔でマリューがディアッカを振り返る。
彼はちらりと彼女を見遣って、小さく肩を竦めて見せた。
「俺達はエターナルに遺体の確認に行くんじゃないぜ。
確かにコーディネーターの技術は、ナチュラルのあんた達にとっては、人として過ぎたものに映るかもしれない。
それでも今は、素直にその技術の高さを信じてくれないかな。
おっさんが息を吹き返した時の為に―――あいつらも、あんたをエターナルに呼んだんだろうし」
「ムウが―――息を吹き返した時の為に?」
窓の外に、エターナルの外壁が間近に迫る。
ほとんどGを感じさせない滑らかさで、ディアッカは綺麗にシャトルを減速させた。
「やっぱりさ、嬉しいだろ?目を覚ました時、すぐ傍に一番大事な人が居るとさ」
マリューがゆっくりと瞬きする。
『着いたぜ』と言うディアッカの言葉に、彼女は手の甲で涙の跡を拭い去った。
「ついさっき、蘇生措置で脈と自発呼吸が戻った所です。まだどちらも微弱で、当分は集中治療が必要だそうですが」
ドッキングブロックでマリューの到着を待っていてくれたのは、指揮官席を離れたラクスだった。
ムウを運び込んだ3人の内、キラとカガリは消耗が激しく、ムウの蘇生を確認した直後に倒れたらしい。
アスランだけは何とか意識を保っていたが、やはり消耗しているので今はキラ達と共に医務室で休んでいると言う。
ディアッカはフラガの蘇生をラクスに聞くと、そのままシャトルでAAに戻って行った。
ムウが収容された緊急医療処置室に向かいながら、ラクスは簡潔に状況を説明してくれた。
「機体が爆発した時のショックで、一時的な仮死状態に陥っていたそうですわ。
奇跡的にパイロットスーツが無傷だった事が幸いしましたのね」
「ありがとう―――どう、お礼を言ったらいいのか……今は、他のどんな言葉も思い浮かばない」
僅かに浮かんだマリューの笑顔に、ラクスの瞳がほんの少し翳りを帯びる。
その色に手放しでは喜べない物を感じ取り―――マリューは彼女に先んじて、察した事を口にした。
「蘇生はしたけれど―――彼が覚醒するかどうかは……また別の話なのね?」
「………ええ、そうです。覚醒する確率は―――五分五分だそうですわ」
ラクスは吐息と共に頷くと、蒼い瞳を軽く伏せた。
蘇生はしたものの、長時間無酸素状態にあった彼の脳が、完全に元の機能を回復する保証は無い事。
昏睡から覚醒する確率は、今のところ五分である事。例え覚醒したとしても、何らかの障害が残る可能性が多分にある事。
記憶障害に後遺症が出る恐れもあると、マリューは彼女から告げられた。
「それはつまり、彼が目覚めても……元通りの生活には戻れないかもしれない。
あるいは、自分自身の事を何一つ覚えていない可能性もあると―――そう言う事ね?」
ラクスが、小さく頷く。
「私たちも手を尽くします。ですが、最後はフラガさん自身の力に頼るしかありません。
どうか傍についていてあげてください。人が誰かを想う気持ちは―――時に奇蹟を呼ぶと申しますから」
―――貴女が、彼を呼び覚ましてあげてください。
ラクスの瞳は、そう告げていた。
『ムウ……』
懐かしい声が、自分の名を呼んでいる。
もうずっと長い間、歌を聞くように彼女の声を聞いていた。
―――マリュー……?
それは自分にとって、今この世の誰よりも大切な人の声―――
どんな時にも、どんな物からでも、この手で守りたいと思ったマリューの声は、だが今にも泣き出しそうだった。
姿は視えないのに、彼女が瞳に涙をいっぱい溜めているのが判る。
―――また泣いてる。そんな顔してちゃ美人が台無しだって、いつも言ってるのに。
ゆっくりと重い首を巡らすと、ぼんやりと隣にマリューの気配を感じる。
手を伸ばして触れる事すら出来ないけれど、彼女の温もりをすぐ傍に感じて安堵した。
『ムウを連れて行かないで……どうか彼を守って―――お願いだから』
自分の名を呼ぶ彼女の声に、時折小さな祈りの言葉が混ざる。
聞き覚えのあるシャラリという微かな鎖の音が、微睡みにも似た意識の狭間で、不思議とはっきり聞こえた。
『他に何も望まないわ。例え貴方が私の全て忘れていたとしても、貴方が無事ならそれでいい。
だからお願い―――目を覚まして。そしてもう一度、貴方の笑顔を見せて頂戴。お願いよ……ムウ』
彼女の祈りに導かれるように―――ムウは、ゆっくりと覚醒の淵へと浮上した。
天井のライトが、やけに眩しい。
光量が強過ぎて、周囲が白く霞んで視えた。
「ムウ―――ムウ!私が……判る!?」
「…………マリュー?」
その名を呟くと、眩し過ぎる照明を遮るようにムウの視界一杯に身を乗り出したマリューの両の瞳から、大粒の涙が滲んで溢れ出した。
反射的に彼女の頬に流れた涙を拭うおうとして、手足のほとんどに力が入らない事に気付く。
マリューは自分の横たわったベッドのすぐ傍に腰を下ろしていたが、彼女に遠い方の腕には点滴のチューブが繋がれていた。
ムウが意識を取り戻した事を確認すると、すぐに医師らしき男がやって来て、瞳孔を見たり幾つか簡単な問診をした。
名前と、生年月日と、所属艦隊と階級を――もっとも、これは今ではあまり意味が無いが――尋ねられる。
他にも簡単な質問に全て淀みなく答えられるのを確認して、医師は『この分なら、問題無いでしょう』とマリューに告げた。
「とにかく、特に記憶障害も無く覚醒しただけでも奇蹟です。
身体についてはまだ何とも言えませんが、数日様子を見ましょう。リハビリを始めるのはその後の話です」
「どうもありがとうございました」
マリューが立ち上がって頭を下げると、医師は病室から出て行った。
「俺……どうしたんだっけ?」
「憶えていないの?貴方、ドミニオンのローエングリンを、ストライクの盾一つで受け止めたのよ」
瞼を、一度閉じる。
まだぼんやりと霞みが掛かったような脳裏に、白い光と断片的な記憶が蘇ってきた。
ドミニオンからローエングリンが放たれたあの瞬間―――ムウは咄嗟に射線上に割って入っていた。
あの時頭にあったのは、『守らなくては』と言う思いだけ。
その他は……真っ白で何も憶えていない。
「盾一つで、ローエングリンの膨大な熱量を防ぎきって―――でも、機体は保たずに爆発したの。
……あの爆発の中で、生きてる筈が無いと思っていたわ。でもキラ君達が……貴方を、見付け出してくれた」
「キラ達が?―――あいつら、無事なのか」
戦場に出ていたキラ、アスラン、カガリが3人とも無事だった事を告げられ、ホッとムウは息をついた。
ムウの黄金色の前髪を、ゆっくりとマリューの指が梳く。
悪戯が過ぎて怪我をした子供を叱る、母親のような眼差しで。
「動けるようになったら、お礼を言いに行ってね?帰って来ると言ったのに……あんな無茶をして。
もう少し発見が遅かったら、貴方はあのまま宇宙の藻屑になるか、二度と目覚めない所だった。
貴方がコックピットにスペアのヘルメットを持ち込む癖がある事を憶えていたキラ君と、
可能性があるなら貴方を捜そうと言ってくれたカガリさんと、あの広い宇宙で貴方を見つけてくれたアスラン君に。
―――私も、一緒に行ってあげるから」
もしもキラが、ムウのスペアのヘルメットの事を思い出さなかったなら。
もしもカガリが万に一つの可能性を諦めてしまっていたら。
もしもアスランがムウを見付けてくれていなかったら。
きっと、ムウは今この世に居なかった。
マリューは絶望に、自分を見失っていた事だろう。
「そっか……でっかい借りが出来ちまったな。俺とマリューのこれから先の人生、あいつらに貰ったようなもんだ」
ようやく少し感覚が戻って来た手で、ムウがマリューの頬に触れる。
彼女の頬には、まだ少し涙の跡が残っていた。
「マリュー、俺が動けるようになってここを出られたら……結婚しよう」
『また、こんな時に』と、唐突な彼の言葉を諌めようとしたマリューは、彼の瞳に真っ直ぐ見返されて思わずその言葉を呑み込んだ。
「戦場暮らしが長くて使う当てが無かったお陰で、蓄えも少しはあるし。これからは戦争屋も必要ないだろ。
逃亡兵扱いの俺達にどれだけ意味があるかは判らないけど、正式に退役して、どこか静かな土地に落ち着いて……
そこで二人で―――暮らさないか?」
「ムウ……」
不意をついたプロポーズに驚きで目を瞠った彼女の、握り締められたままの手に、ムウが自分の手を重ねた。
「夢の中で、ずっとマリューの声が聞こえてた―――『どうか彼を連れて行かないで。お願いだから守って』って。
―――俺と生きる事を選んでくれたんだって……思っていいんだよな?」
マリューの手から、ムウの手の中にロケットが滑り落ちる。
小さく頷いた彼女の瞳からは、新しい涙が滲んでいた。
「ほら、泣いてちゃ美人が台無しだって、いつも言ってるのに」
いつもと変わらない明るい声で、いつもと変わらない優しい瞳の恋人が、マリューの頬の涙を拭う。
だからマリューも、いつものように切り返した。
喜びと嬉しさで湧き上がるような微笑みは、隠しようもなかったけれど。
「もう―――貴方は、いつだって調子がいいんだから!一体どれだけ、私を待たせれば気が済むの!?」
「え……俺、そんなに待たせたっけ?」
ムウが、こればかりは本当に心外だと言う顔をする。
マリューに自分の想いを気付いて貰うまでには確かに少々時間がかかったが、
それ以降、彼女に不満を覚えさせるほど何かを待たせた憶えは無い筈なのに―――
キラ達に救出されてから無事に目覚めるまで、
実は一ヶ月もの間、自分の昏睡状態が続いていたのだとムウが知らされたのは、その直後の事であった。