桜降る闇 壱
呼吸するのが苦しい。
一呼吸ごとに、生きる力が失われていくような気がする。それでも―――
『この子だけは……』
自分の腕に抱かれた、まだ生まれたばかりの小さな命。
自分が母親になるなど以前は想像も出来なかったが、生まれた子供は、ただ愛しかった。
自らの命に代えても守りたいと思う、只一つの物。
どのくらい歩いたのだろうか。
腕の中の赤子が、僅かに身じろぎした。
「坊や…どうしたの?お腹が空いたの…?」
歳若い母親は、散り始めた桜の樹の根元に腰を下ろすと、腕の子供を抱き直して乳房を含ませようとした。
だが―――
「…坊や…?」
赤子は一旦乳房を口に含んだが、すぐにその唇は力を失い、そしてそれきり二度と動かなくなった。
頬は急速に血の気を失い、刻々と土気色に変わって行く。
「坊や…坊や……!!」
悲痛な叫びが宵闇に木霊する。
だが、既に命を失った赤子が再び目覚める筈もなく、母親はがっくりと肩を落とした。
どれ程の間そうしていたのだろう。
やがて母親は赤子の屍を地に横たえると、そのすぐ傍、桜の樹の根元を掘り始めた。
爪が剥がれ、十指の全てに血が滲む。
だがそんな事はお構いなしに、彼女はただ掘り続けた。
やがてそれなりに深く、赤子が埋められる程の穴が穿たれると、そこに母親は我が子を置き、再び埋め戻した。
埋め戻した後に残ったのは、何事もなかったかのような静寂と、魂の抜け殻の様になった母親のみ―――
彼女は自ら掘った我が子の墓の上に覆い被さるように横たわると、そのまま静かに目を閉じた。
双眸から流れ落ちる涙が、絶え間なく地を濡らしていく。
彼女の心の臓が最後の鼓動を打ったのは、それから間もなくの事であった―――
「あかねちゃん、桜が咲き始めたよ。京は花が綺麗な場所が幾つもあるんだって」
「そうねぇ、桜だけじゃなくて、いろいろね」
「うん。僕、この間松尾大社で、とっても綺麗な山吹を見たよ」
にこにこと詩紋が答える。
あかね達が暮らしていた世界と京は、時間の感じ方や余暇の過ごし方がまるで違う。
初めこそ不便だと思ったり、違和感を感じたものだが、今では慣れてしまった。
野に咲く花を愛でる、というのも、京に来てから身についた習慣である。
「おう、お前らそんな所で何やってんだ?」
「あ、天真先輩に頼久さん」
二人が振り返ると、天地の青龍が屋敷の内から並んで彼等を見ていた。
どうやら天真の剣の稽古後らしい。
「京は花が綺麗ねって、話していたのよ」
『ね?』と詩紋と顔を見合わせてあかねが答えると、頼久が切れ長の目を少し細めて微笑を浮かべた。
「神子殿は花がお好きなのですか」
真面目に聞き返されると困ってしまうのだが、一応あかねは『そうね』と返事をした。
「花に限らず、風景でも、綺麗な物は好きよ。
ただ何でも、あまり派手なのはちょっと…ね。原色の花よりは、淡い色の桜が好きだし」
「桜ならば、安朱か墨染がよろしいでしょう。丁度咲き始めておりますので、見頃まではもう少しですが」
墨染、と口にした時、頼久の表情が変わるかと思ったのだが、そんな素振りは見せなかった。
亡き兄の思い出が残る土地だと話してくれたのだが、あかねに話した事で、かえって吹っ切れたのかもしれない。
「確か桜って、何か気味の悪い伝説がなかったか?ほら、盆に特集組まれそうな」
はたと思い出して気になったのか、天真が詩紋を見る。
「えー…あの、根元に死体が埋まってる…っていう、あれ?」
その天真の視線に、ちょっと嫌そうに詩紋が答える。
振られなければ思い出しもしていなかったのに、余計な事を聞かれたおかげではっきり思い出してしまった。
自分の豊かな想像力と、この時ばかりは確かだった記憶力が恨めしい。
「『盆に特集』とは…?」
頼久が不思議そうな顔で、あかね達を見る。
「ああ、えっとね。京にもお盆はあるよね?」
「はい。家人が祖先の霊を供養するしきたりです」
流石にスクーターに乗った坊様が法事に来る訳ではないが、大体やる事は似ているらしい。
川に灯篭を流したり、茄子や胡瓜を動物に模して、各家で法要を執り行う。
「私達の元居た世界では、お盆の季節になるとお化けとか幽霊とか…そういう怖い話を皆で話しあったりするの」
テレビという単語を口に出して説明出来ないのが、ちょっと苦しい。
我ながら変な説明だと思っていると、案の定頼久もよく判らなかったらしい。
「わざわざ盆に限ってですか?」
「それは…暑いから…」
天真と顔を見合わせた詩紋が、ぽつりと口に出す。
妙な問答に変わりはないが、これ以上の説明はない程の簡潔さと、的を射た答えに―――
「なるほど、怪談で納涼ですか。百物語みたいなものですね」
と、とにかく納得したようだった。
京にも百物語はあるのね、とあかねは思ったが、それはまた別の話である。
「それで、桜の樹の根元と、死体の由縁は何かあるのですか?」
「うん。桜があんなに綺麗に花を咲かせるのは、根元に死体が埋まっていて、その死体を養分にしているから…って話なんだけど。眉唾よ?」
所詮は真夏の余暇を楽しむ為の娯楽の一環だ。
花が綺麗に咲くと言うだけで、埋められた死体の幽霊が出る訳ではない。
肝試しのネタに使われるのがいいところだろう。
「おや、若者が集まって随分と辛気臭い話をしてるじゃないか」
あかね達が顔を上げると、内裏から戻った友雅と、その後ろに鷹通の姿も見えた。
いつの間にか大分、陽が西に傾いている。
「何のお話ですか?」
鷹通には、あかね達の話は聞こえていなかったらしい。
天真が簡単に桜の樹の怪談の話をすると、鷹通は形のいい眉を微かにひそめた。
「それは……」
「なんだい?鷹通。いやに気になる素振りだね」
鷹通は少し困ったような顔をしたが、やがて少しずつ話してくれた。
内裏で囁かれている、ある噂を―――
「実は墨染で、幽霊が出たという話があるんです」
墨染付近に住む者の間では、まことしやかに囁かれている話で、何人か目撃者もいるという。
「墨染で…ですか」
流石に今度は頼久も、少し険しい顔になった。
大事な思い出が眠る場所を悪し様に言われては、気分が良い筈もない。
「ええ。若い女の幽霊が出るとも、夜中に赤子の泣く声が聞こえるともいいます。
只の噂ならばそう大袈裟に取り沙汰す事もないのですが・・・そうですか。
神子殿の世では、桜の樹にはそんな伝説があるのですか。不思議なものですね」
ふむ、と少し細い顎に手を当てて、鷹通が考え込む。
あかね達の住む世界と京は違う世界だが、やはり何かの形でシンクロしているのだろうか。
樹にまつわる伝説ならば、別に梅でも椿でも良い筈だ。
桜という樹自体に、何か魔性を呼ぶものがあるのかもしれない。
「でもよ、もしかしたら鬼の呪詛や、穢れも関係してるのかもな。その墨染の幽霊ってのは」
何気ない天真のその呟きに、あかねや他の八葉達が互いの顔を見合わせる。
「そう…か。今の状況なら、そんな話を鬼と切り離して考える方が不自然なんだわ」
確かに、その話の元になった『何か』はあったのかもしれない。
いわゆる地縛霊というものだろうが、そこに鬼の力が加わり、怨霊となったのだろうか。
だとしたら放っておく訳にはいかない。
「明日―――墨染に確かめに行ってみましょうか。怨霊ならば、穢れを祓って鎮めないといけないし」
「そうだね。はっきりさせておいた方がいいだろう。今後の為にもね。皆それで異存はないかな?」
友雅がくるりと一同を見渡したが、皆は黙って頷いただけだった。
鬼が関わっているかもしれないとなれば、八葉に否やはない。
「それでは少し遅くなってしまいますが、ここにいない者の所へは今晩中に使いをやっておきましょう」
鷹通のその言葉を最後に、藤姫の館に仮住まいするあかね達以外は帰途についた。
明日の朝には、八葉が揃って墨染に向かう事になるだろう。
「何か天真先輩の何気ない一言で、大事になっちゃったね」
詩紋が苦笑する。
そう言えば天真が桜の樹の怪談の話を持ち出していなければ、鷹通から墨染の幽霊の話など聞かなかったのだ。
「なんだよ、俺のせいかよ」
んー?と、天真が横目で詩紋を睨んだ。だが本気ではなく、目の端が微かに笑っている。
「まあ、気になる事はどうせ放っておけないのだし、丁度良かったわよね」
それじゃおやすみ、と丁重に二人を部屋から追い出すと、あかねは久し振りに一人になった。
墨染に現れるという、若い女性と赤子の幽霊。
それは全く別の由来を持つのだろうか。それとも、同じ根を持つのだろうか。
『さっきの鬼の話じゃないけれど…若い女性が赤ん坊の母親と考えれば、一箇所に二人の幽霊が出るっていうのも、納得がいく…かな?』
失った子供を、母親が探し求めているのかもしれない。または先に逝った母親を恋い慕い、赤子が呼ぶのだろうか。
『子供を亡くす…どんなに悲しかっただろう』
目の前で子供を亡くす事もだが、幼い赤子を残して自分が先に息絶える事も、母親にとっては身を引き裂かれる思いだっただろう。
後に遺された夫は―――どうしたのだろう?早くに逝った妻子を思い、その菩提を弔いつつ残りの生を生きているのか。
「…永泉さんと泰明さんがいるし…きっと、鎮めてあげられるわね」
現世に彷徨う死者の魂を弔う為に、自分に何が出来るのかは未知数だ。
けれど、何かの想いを遺したが故に彷徨っているのだとすれば、その想いを聞いてやる事は出来る。
その上で鎮魂の儀式そのものは、天地の玄武に任せればいいだろう。
御簾の向こうで微かに揺れる藤棚の葉ずれの音を聞きながら、あかねは眠りについた。
さやさやと鳴る葉ずれの音は何処か物悲しく、いつまでもあかねの耳に響いていた。
翌日は朝から少し曇っていた。
雨が降り出す程ではないが、何となく空気が重く感じられる。
伝言はちゃんと行き届いたようで、辰の刻(午前八時)を過ぎる頃には、八葉全てが藤姫の館へと集まっていた。
「神子殿、顔色が優れないようですが、どこか具合が悪いのではありませんか?」
「え?」
気遣うように、あかねの顔を覗き込んだのは永泉である。
自覚はあまりなかったので、尋ねられたあかねの方が逆に戸惑ってしまった。
「そんなに顔色悪いですか?私」
確かに、少し寝不足気味ではあるのだ。
ちゃんと眠っていた筈なのだが、変に眠りが浅かったような気がする。
もしかしたら覚えていないだけで、ずっと夢を見ていたのかもしれない。
「呼ばれたのだ。だが、大事ない」
泰明があかねの前に立ち、彼女の目の前で邪気を祓う印を切る。
すると気持ち重く感じられていた身体が、軽くなったような気がした。
「呼ばれたって……まさか……?」
気味が悪いのであまり確かめたくはなかったのだが、永泉と泰明が真面目な顔で頷いてみせる。
「ええ、おそらくは」
「大方、話のあった桜の物の怪の事でも考えていたのだろう。そのせいだ」
つまり、これから向かおうとしている墨染の怨霊に同調してしまった為に、具合が悪かったらしい。
憑かれる程考えたつもりはなかったのだが、無意識下に残っていたのだろう。
実体のある物の怪は、遅くまで護衛に立ってくれている頼久に任せておけば安心だが、精神に干渉されたら自衛するしか手段がない。
結局墨染へは、あかねの他には青龍と玄武の四人が同行する事になった。
実体のある敵への対処と、姿無き敵への対処を検討した結果である。
白虎の二人は内裏で、朱雀の二人は京の町に出て、それぞれに情報を集める事になった。
噂が全て真実を語っているとは限らないが、真実を知る手段にはなる筈だ。
「神子様、行ってらっしゃいませ。八葉の方々も、ぞうぞお気をつけて」
「うん、行ってきます。藤姫」
藤姫に見送られ、あかね達は目的地へと出かけて行った。
今にも泣き出しそうな、重い空模様を気にかけながら……
イノリと詩紋は鍛冶職人仲間から話を聞いてみようという事になって、京の町に出た。
何人かに声をかけてみると、意外と噂そのものは広まっているらしく、多くの者が話を知っていた。
ただ無責任な噂が一人歩きしている状態で、なかなか具体的な話は聞けなかったのだが―――
「え、あんた見たの?その墨染のオバケ」
「見たんじゃねぇよ。声を聞いたのかな、あれは」
収穫らしい収穫もなく、いい加減同じ事を聞き続けるのにも飽きてきた頃に、そんな話をしてくれた一人の職人に行き当たった。
「声でも収穫だよね、イノリ君!」
「ああ。んで、どんな声だった。女?子供?」
「俺が聞いたのは女の声だったよ」
彼が洛南の外れまで届け物をした帰り道の事だったらしい。
父の形見という刀を鍛え直したのだが、依頼人の若い主人に勧められて、夕飯に呼ばれる事になった。
程よく酒も入り、良い気分で墨染の側を通りかかった時に、すすり泣くような女の声を聞いたのだという。
「おっさん、酔ってたんだろ?何かの聞き間違いじゃねぇのか?」
少々意地の悪い口調でイノリが聞き質す。半ば以上、意識しての事だ。
情報はありがたいが、それが酔っ払いの戯言だったとなれば、後で泰明や鷹通に何と言われるか解ったものではない。
詩紋もそれは察していたので、少々キツい聞き質し方にも、いらぬ口は挟まなかった。
「聞き間違いなんかじゃねぇよう。大体酒だって、そんなに飲んでなかったんだ。
花冷えした日でさ。若主人が身体を温める為にどうぞって、気を利かせて出してくれただけなんだ」
辺りは陽が落ちて、すっかり暗くなっていた。
彼はすっかり恐くなってしまい、酔いもいっぺんに吹っ飛んでしまったのだという。
後はもう、後ろも見ずにただ走って逃げ、我に返ると自分の布団に包まって震えていた。
「あれは墨染でも奥の方にある、でっかい古木の辺りから聞こえてきたような気がするよ。
あん時はただ気味悪かったけど…何か苦しそうな、寂しそうな、そんな泣き声だったなぁ。でも、とっても綺麗な声だったんだよ…」
職人仲間のそんな述懐を聞きながら、イノリと詩紋は顔を見合わせた。
「ああ、墨染の…話は聞いた事がありますよ。見たという人も、結構いるみたいですがね」
鷹通と友雅が内裏で噂を聞き集めていると、一人の宮大工が丁度手が空いたところで、そんな話をしてくれた。
「貴方が見た訳ではないんですね?」
鷹通が一応念を押すと、宮大工が頷く。
「私は噂を聞いただけです」
「しかし、いろんな噂が飛び交っているようだね。未だに女性の物の怪か子供の物の怪か、それすらはっきりしない」
こちらもイノリ達と同じく、噂話だけなら幾らも『聞いた事がある』という返事を聞く事が出来た。
だが、相変わらず具体性のある話は聞けない。
やはり風の音や古木を、物の怪と見誤ったのだろうか。
「さあ、どうなのでしょうか。ただ墨染と言えば…」
言いかけて、宮大工が口篭もる。
「何か気になる事でも?」
重ねて問い質した鷹通に根負けして、宮大工は再び口を開いてくれた。
「いえね、宮大工仲間の話なんですが…」
一人の宮大工が、数年前に宮仕えをしていた女房を妻にした。
妻はそれを機に暇を請い、幸せに暮らしていた。
やがて子宝にも恵まれたのだが、妻は子供を産んだ事で身体を壊してしまい、しばらく実家に戻る事になったのだという。
実家でしばらく静養した妻は、全快とは行かないまでもそれなりに回復した時点で、夫の元へ帰る事になった。
「その帰りの途上の事だったそうです」
妻の実家は、洛南の外れの方だった。
墨染の近くまで来た所で、不運にも野盗に襲われたのだという。
子供を抱いた若い母親は必死で逃げたのだが、元々あまり丈夫ではなかった子供が先に命尽き、
更に病み上がりであった妻も子供を喪った事で力尽きたのか、後を追うように亡くなった。
その地が、墨染なのだと―――
「酷い話だな…」
「全くです」
友雅と鷹通が、共に険しい顔つきになる。
「妻と子供を一度に亡くした男は、宮大工を辞めて僧になったと聞いています。二人の菩提を弔うといって…
ただそれ以来姿を見ておりませんので、その後の事は判りかねますが」
若い女性と子供の物の怪。確かに、符丁は合う。
「……何か、決め手になるようなものはないかな?
例えばその女性がいつも身に着けていた物があるとか、目立つところに傷やホクロがあるとか」
友雅の問いに、宮大工が首を傾げて考え込む。
ややあって『そうだ』、と呟いた。
「決め手とまでは言えないかもしれませんが。男の妻は、とても美しい声の持ち主だったと聞いています。
その声を愛でられて、内裏の女房時代にも姫君方のお話し相手を努めていたと」
「ふうん……声、ね……」
友雅の瞳が、僅かに細められた。
墨染の境内は静かだった。
頼久と永泉が代表して住職に来意を告げに行ったのだが、生憎と不在だった。
留守を預かる老人がいるだけで、住職の帰りはいつになるか判らないらしい。
ここ最近の幽霊騒ぎも手伝って、訪れる者もほとんどいないようだった。
「ようするにやり過ぎない程度なら、何をしてもいいんだな」
天真が簡潔に話をまとめてしまう。頼久が苦笑したが、異議は唱えなかった。
「留守番のご老人も日暮れには自分の庵に戻るので、詳しい事は知らないとの事でした。
住職がいつ戻ってくるかも判りませんし、ここは天真の言う通り、迷惑のかからない程度で好きにさせてもらいましょう」
「そうね。ここまで来たのだし、様子を見るだけでも」
そうして、あかね達は境内へと足を踏み入れた。
あかねも、墨染自体は初めてではない。京に来てから、何度か足を運んだ事がある。
まだ咲いてはいなかったが、桜の古木が何処か懐かしい雰囲気を醸し出していた場所だった。
だが―――
「え……?」
「気付いたか、神子」
困惑したようなあかねの声に、先を歩いていた泰明の足が止まる。
「こりゃ…性質が悪いな。嫌な気配だぜ。身体中がこう、総毛立ってきた」
天真も額にうっすらと浮かんだ汗を拭う。
暑い訳ではなく、緊張に身体が反応したのだ。
永泉の顔色も悪い。
頼久はいつでも刀が抜けるように左手を軽く鞘にかけたまま、じっと境内の最奥部に視線を向けたままである。
他の者も言葉は無かったが、やはり同じく最奥部を注視していた。
「誰か…ううん、何かいるのね。この奥に…」
「どうなさいますか、神子?この気は確かに尋常な物ではありません。神子はこれより奥には、立ち入らない方が良いと思いますが」
永泉の言う通りだろう。
異質な気に当てられたのか、気分が悪くなってきたような気がする。
少しの間考えて、結局あかねは首を横に振った。
「…ううん、行きます。この墨染の異変が怨霊の仕業だというのなら、確かめないと」
そう口にして、歩を進める。
泰明が少々意外そうにあかねを見た事に、彼女自身は気付かなかった。
この場を逃げ出さなかった事に、感心したのかもしれない。
…境内の奥は荒れていた。
荒んだ空気が災いしてか、留守を預かっていた老人もこの辺りには近付かないらしい。
雑草は抜かれる事もなく、伸び放題に伸びており、
林立する桜の古木は、もうすぐ花開こうとする蕾を数多く付けているにも関わらず、どこかうらぶれて朽ちたような印象を与える。
「結界だな」
ぽつりと泰明が結論を口にする。頼久の片眉が僅かに上がった。
「人払い…?成程。奥の方だけ荒れ放題というのも、それならば得心がいく」
「人払いの結界を張れる程の鬼…いえ、怨霊なのでしょうか」
永泉が手の中で数珠を握り直した。
「……近い……」
自分の声に、あかねは驚いたように瞬きした。
どうしてそう思ったのかは判らない。
ただ、全身の感覚がそう告げている。もうすぐだ、と―――恐らくはそういったものに一番敏感な泰明も、異を唱えなかった。
それ程広くはない筈の境内の、その最奥部。一際大きな桜の、古木の根元には―――
「あかね、見るな!!」
天真が気付いて庇ってくれたが、一瞬遅かった。
あかねはその根元に横たわるものを見てしまった。
どれ程の間風雨に晒されていたのか、すっかり色褪せてしまった法衣を纏い、朽ち果てた…人の亡骸を。
―――ドコナノ?―――
「神子殿、下がってください!」
柔らかく美しい、声ならぬ声が頭の中に響く。
桜の古木から、ゆうらりと淡い影が立ち上る。
―――ドコニイルノ?私ノ坊ヤ―――
同調した―――そう、感じた瞬間。
「神子殿!?」
「あかねっ!!」
咄嗟に手を差し伸べた頼久の腕の中へ、あかねの身体はまっすぐに倒れ込んだ―――