桜降る闇 弐


「藤姫、あかねちゃんの具合は?」

戻って来た藤姫に詩紋が尋ねる。
彼女は申し訳無さそうに、小さく首を振った。

「判らないのです。結論から申し上げると、神子様は眠っておられるだけですわ。
 私もそう思いますし、薬師も同じ考えです」


墨染であかねが倒れたのと時を同じくして、桜の古木から立ち上った影は気配を消した。
だが、あかねの意識は全く戻る気配がなく、頼久達は昏睡したままの彼女を、藤姫の館に連れ帰るしかなかったのだ。

「原因は?」
「恐らくは…桜の古木に憑いていた怨霊でしょう」

気遣わしげな鷹通に永泉が答え、泰明を見る。

「私の力では、神子を蝕む邪気は祓えませんでした。泰明殿の術は…?」
「否。行きがけに祓った時とは状況が違う。いかにこちらが術を施そうとも、神子が応えなくては利かん」


八葉と藤姫は、困ったように顔を見合わせてしまった。
泰明は師、安倍晴明の一番弟子である。
彼が駄目ならば晴明でも駄目、という事態は十分にありえそうだった。
常に事実を口にする、泰明の言う事なればこそ。


「ふむ。この際一度、我々の集めてきた情報と現状を整理してみたらどうかな?
 その事から、新しい何かが判るかもしれないしね」

意外に明るい友雅の声に、藤姫と八葉は、ふと憑き物が落ちたような顔をする。

「そ…うですわね。それしかないのならば、そこから始めるしかありませんわ」
「事を恐れて立ち竦むくらいなら、起こる出来事を引っくり返すくらい前向きに行きたい。基本だな」

天真が苦笑した。彼も目の前であかねに倒れられて動揺していたのだ。


「じゃ、まず俺たちからな」

イノリが詩紋を見ると、詩紋も頷き返した。
二人で言葉を補いながら、出来るだけ簡潔に自分達の聞いた事を話していく。

墨染に関する噂は、かなりの人数が伝え聞いて知っていた事。
鍛冶職人の一人が、実際に女のすすり泣く声を聞いていた事。
そしてその声は、墨染の奥の大きな古木の辺りから聞こえたような気がした、という事を。


「怖かったけど、でもとても綺麗な声だったって言ってたよ」

詩紋が最後に、そう言い添えた。

「墨染の境内奥の古木…符丁は合いますね」
「ええ。神子殿が倒れられたのも、一番奥まった辺りでしたから」

頼久と永泉が目を合わせる。


「では、次は我々ですね」

続けて鷹通と友雅が同じように簡潔に話を進めて行く。

やはり、噂は多くの者が聞き知っていた事。
数年前に宮仕えをしていた女性を妻にした宮大工がいた事。
その宮大工の妻が実家からの帰途野盗に襲われ、生まれたばかりの赤子共々、墨染の地で命を落とした事を。


「墨染で命を落とした母親と、その赤子…では、やはり墨染の怨霊の正体はその親子…?」

藤姫の声が重い。

「間違いないだろう」

泰明が短く、だが確かな声で応える。その時、友雅が口を開いた。

「実はね、私はその母親の方に心当たりがあるんだよ」
「え?」

それは一緒に内裏を回っていた鷹通も初耳だった。
だがそう言えば友雅は、その妻の特徴を尋ねていた。

―――その女性はとても美しい声をしており、内裏の女房時代には、その声を愛でられて姫君方の話し相手も務めたと。

「勿論、違うかもしれない。だが確かに数年前、内裏にとても美しい声の女房がいると、風の噂で聞いた事がある。
 内裏の警護についた時、一度だけ姿を見かけた事もあるよ。彼女の名は、栞(しおり)と言った」

彼女は輿入れが決まると暇乞いをし、内裏を出たのだという。
その後の話は、友雅も知らなかった。


最後に頼久達が、墨染で起こった事をもう一度話した。が、改めて語るべき事はあまり多くない。

境内の奥には結界が張られていた事。
問題の桜の古木の根元に、法衣を纏った亡骸があったという事。
そしてあかねが、恐らくは怨霊と同調した為に意識を喪った事などだ。


「そう言えば神子が倒れる直前に微かに聞こえた声も、とても美しいと…私は感じました」

永泉が控えめに付け加える。

「ところでその結界だがな。あの時頼久は『人払い』って言ったが…俺は、今は、少し違うんじゃないかと思ってる」
「どういう事?天真先輩」
「―――天真、私も判った。あれは人払いではない…その逆だ」
「逆…ようするに、封印だよな?」

頼久が微かに顎を引いて頷く。

「亡骸は法衣を纏っていた。墨染の住職は不在だったが、何用で不在だったのかは、留守を預かる老人も知らなかったのだ。
 ただいつものように来てみると、いつも居る筈の住職の姿がなかった―――それだけだ」


墨染の住職は、留守番の老人に不在を告げて寺を空けた訳ではなかったのだ。
居る筈の人が居ない。それをお努めで不在にしているのだろうと、老人が自分で解釈し、頼久達にもそう告げた。
それが盲点だったのだ。

頼久の言葉に、あっと鷹通が小さく声をあげる。

「ではその亡骸が、墨染の御住職…?」
「恐らくは」

頼久をはじめ、墨染に居合わせた者達が、互いに目を合わせて頷く。

「その御住職が、初めに古木の異変に気付いたのでしょうね。そして運悪く、その魔手にかかってしまった。
 それでも彼は最期の力を振り絞って、怨霊が万人に仇成す事がないよう、あの場に結界を張ったのでしょう。
 怨霊が墨染の地から、逃れられぬように」


結界は、存在するだけで効力を発揮する。
だからこそ、留守を預かる老人も境内の奥へは近寄れなかったのだ。
本来は内に怨霊を留め置く結界が、結果的に普通の人間には人払いの効力を発したのだろう。

怨霊は墨染の地に封じられた―――住職の命と引き換えに。


「でも…困りましたわね。怨霊の正体は察しがつきましたけれど―――神子様を目覚めさせるのは、きっと難儀しましてよ」

藤姫が頬に手を当て、眉根を寄せる。

「何か根拠でも?」
「私も女ですから」

尋ね返した永泉に、藤姫は小さく微笑んだ。

「恐らく、桜の古木には二つの霊が宿っているのですわ。
 ひとつは赤子の霊。こちらはきっと、すぐに浄化してあげる事が出来ると思います。往くべき道が判らずに彷徨っているのでしょうから、導きさえあれば」
「それは私が」

永泉が胸に数珠持つ手を当てる。
僧侶である彼が亡者の魂を黄泉へと案内するのは当然だろう。

「問題は母親の―――友雅殿のお考え通りなら、栞殿の方ですわ。
 栞殿は赤子を亡くされた事を、とても悔やまれて、絶望している。
 例え自分が息絶えても、赤子にだけは生きて欲しかった…母親ならば、そう思うのではないのでしょうか」


子の事を思わぬ親はいないだろう。ましてやそれが、腹を痛めて産んだ子なら尚更だ。
それ故の深い絶望と悲しみが、哀れな母親を怨霊と化してしまった。

「私はまだ幼い。その私でも、自分の子を亡くしたと思えば、こんなにも胸が痛いのです。
 泰明殿、今朝方、神子様を祓われた時におっしゃっていましたわね?その物の怪の事を考えていたから呼ばれたのだ、と」
 神子様はずっと、栞殿と赤子の事を気にかけておられた。栞殿の霊に同調し、ご自身の意識が絶望の昏(くら)い闇の深遠から戻れぬ程に」

八葉が息を呑む。
あかねは女性であったから栞の霊に引かれた。子を亡くした母親の絶望に深く同調してしまった為に―――


栞の力も、強くあかねを呪縛しているのだろう。
だが同じ程の強さで、あかね自身が栞に同調しているのだ。

恐らくは無意識下で彼女自身と栞が同化してしまっており、だかろこそあかねは、永泉や泰明の声に応えないのだろう。
今あかねは、あかね自身であり、栞でもあるのだ。


「…つまりまず、あかねに自分を気付かせないといけない訳だな?その栞を、浄化するにしても封印するにしても」
「でもあかねちゃん、応えてくれないんでしょう?どうしたらいいのかな」

天地の朱雀が、互いの顔を見やって囁く。だがその答えは、あっさりと返って来た。

「呼び掛けに応えぬのなら、こちらから出向いて行くだけの事」
「泰明殿には、何か考えがあるようだ」

ニッと友雅が笑う。

「神子の内から呼びかける」

直接返事を返した訳ではなかったが、泰明は友雅の後にそのまま言葉を続けた。

「私の術で、八葉のいずれかの意識肉体から切り離し、一時的に神子の意識と繋げる。
 問題は、誰がその役を担うかだが―――」


「その役目、どうぞ私に」

静かな声は頼久のものだった。泰明が真っ直ぐ見返す。

「元の身体に戻れる保証はない、危険な術だ。それでも行くのか?」
「例えこの身が滅びようとも、必ず神子は無事にお返しする」

すぐさま返された頼久の声には一片の曇りも無い。小さく泰明は頷いた。

「いいだろう。準備が整い次第、すぐに始める」
「お手伝いしましょう」
「私も」


永泉と藤姫が共に席を立ち、泰明の後について部屋を出た。
泰明のやる事だから、準備と言っても大した時間はかからないだろう。

「頼久、お前即答だったな―――自分の身体に戻れないかもしれないとか言われて、少しは躊躇ったりとかしなかったのかよ?」

天真が頼久の側に来て声をかける。
あかねの意識を戻す手段があると判って動揺は落ち着いたようだが、それでも頼久の言葉には驚いたらしい。
イノリや鷹通も気になっていたのだろう。皆、彼らのやりとりに耳を傾けていた。

「何も」

再び明朗に返されたその声に、一同は軽く目を瞠る。

「過去に囚われ心を閉ざしていた私に、神子殿は光を下さった。
 私は神子殿の為に、盾であり、刀であろうと誓ったのだ。恐れる事など何も無い」


本当に、命すら惜しくないと思っていた時期もあった。
八葉に選ばれたと判った時も、ただ自分に課せられた使命を全うするだけだと。

だが、今は違う―――


「天真、私は恐れてはいないが、みすみす果てる気はない。
 例え神子殿が無事に戻っても、その為に私が命を落としたとなれば、その事実は一生あの方を苦しめるだろう。
 それでは…かつての私と同じだ。その疵(きず)の痛みは、私が誰よりも知っている。あの方に、そんな思いはさせない。決して」
「…それだけの意思の強さがあれば、きっと戻って来れると思うよ。では我々は、陰ながら手伝いをさせて頂こうか」

珍しく自分を見せた頼久に、友雅が微かに目を細める。

「僕たちにも何か出来るんですか?」
「ええ、多分。準備が出来たら声がかかると思いますよ」
「手伝うって言っても、俺たちは呪(まじな)いや念仏はさっぱり判んないぜ?そんなんでも手伝えるのかよ」

鷹通の言葉が腑に落ちなさそうなイノリの背後から、衣擦れの音が近付く。
するりと部屋に戻って来たのは、永泉だった。イノリの方を見て、にこりと微笑む。話し声が聞こえていたのだろう。

「簡単です。ただ神子殿と頼久殿の事を呼べばいいのですよ、ひたすらにね」
「呼ぶ…ねぇ」

同じく呪いや念仏には無縁の天真が、右手で左の頬を掻く。

「もうすぐ準備が整います。皆さん、神子殿の部屋へいらして下さい。皆で神子を取り戻すのです」

勿論、異論がある筈もなかった。

 


そこはとても、暗くて広い場所だった。
何も無い、視界の続く限りの虚無の闇。そこにただ一人で、あかねは立っていた。


『ここは……何処なんだろう―――』


胸を締め付けるような、この痛みは何なのか?
いや、実際の痛みではないのかもしれない。
それでも胸の内を押し潰すような痛みは、いつまでも意識から消えようとはしなかった。

やがて漆黒の空から降るように、女性のすすり泣く声が聞こえてきた。
時に激しく、時に嗚咽になりながらも、その女性の絶望と悲しみが、ゆっくりとあかねの内に満たされていく。


『…判った。貴女、墨染で子供を亡くしたっていう…女の人ね』


その囁きに、女性の泣き声がふと止んだ。


―――ドコニイルノ、私ノ坊ヤ……―――


ああやっぱり、とあかねは思った。この胸の痛みは、彼女の物だったのだ。


『貴女の坊やは…今はもう、いない』

―――ドウシテ?私ノ坊ヤナノニ―――

『お願い、判って。貴女達はもう肉体を喪った存在なの。
 その事に気付かないと、未来永劫貴女は、生まれ変わる事も出来ずにこの世を彷徨う事になるのよ』


自分にこんな事が言えるなんて、あかね自身思ってもみなかった。
それはもしかしたら、彼女の中に在る龍神の言葉だったのかもしれない


―――死ニタクナカッタ…セメテ坊ヤダケデモ生キテ欲シカッタノニ―――


その時あかねは、彼女よりも赤ん坊が先に命絶えた事を知った。
それはどんなに辛い事だっただろう。
自分はまだ子供を産んだ事はないが、その痛みを思うだけで、こんなにも苦しいのに。


『それでも、貴女は往かなくちゃ。このままじゃ貴女も赤ん坊も救われないよ』

―――私ハ坊ヤヲ、守レナカッタ―――

『それは…』


はらはらと、血を吸ったような真っ赤な桜の花びらが降り落ちる。
我が子を喪った母親の涙のように。


―――初メテノ子ダッタノ…アノ子ヲ抱イタ時、本当ニ嬉シカッタ…アノ人モ、トテモ喜ンデクレタノニ―――

『あの人って…貴女の旦那様?』

―――大切ダッタ、何ヨリモ…アノ子ハ私ノ命ソノモノダッタノニ―――


もはや彼女に、あかねの声は届いていないようだった。
足下に降り積もる花びらが、あかねの身体を地に縛る。


―――私ノ坊ヤハ、ココニイル…ココカラ離レル訳ニハイカナイ…私ノ坊ヤガ、ココニイルノ―――


振る花びらは枷となり、胸を打つ痛みは楔となり、絶え間ない悲哀の声は鎖となってあかねを押し潰す。
見えない手に絡め捕られたように動けない。
哀れな母親の悲しみが、あかね自身の自我を食い尽くそうと襲い掛かる。


『…………!!』


自分が消えるという恐怖に、あかねは悲鳴も出なかった。
身体が竦む。だが―――


『神子殿!!』


力強い、その声に。
思わず顔を振り上げたその時には、あかねの身体は大きな腕に、背中から抱きすくめられていた。


『良かった、神子殿。ご無事で……!』
『頼久さん……』

抱き締められた背中が暖かい。
淡雪が溶けるように、戒めが消えて行く。

『栞殿、お聞き下さい。我々は貴女も赤子も救いたいのです。
 そして神子殿も失う訳には行かない。我らの声に耳を傾けて下さい。どうか―――』

―――何モ私ノ坊ヤニ、代エル事ナンテ出来ナイ。男ノ貴方ニ、何ガ判ルト言ウノ!?―――

『ええ、私には母親の心は判りません。
 だが、自分の命と引き換えにしても惜しくない掛け替えのない存在が、目の前で命尽きる痛みは知っている』

あかねを背後から抱く頼久の腕に力がこもる。
あかねはその腕を、ぎゅっと握り返した。

『私はまだ子供を産んだ事はないけれど、女だから、少しは貴女の気持ちが判る。
 だからここに来た。貴女の悲しみに同調して…』

微かに、女性の気配が揺らいだような気がした。

『だけど貴女は往かなくちゃいけない。聞こえるでしょう?貴女を導く声が―――』

―――声……―――


それは頼久がこの空間に現れた時から聞こえていた。
静かに流れるその声は、彷徨える魂を導く永泉の読経。
その声に誘われるように一つの小さな光が足下から立ち上ると、くるりくるりと、あかね達の周りを回り、そのまま漆黒の天蓋へと消えて行く。
最後の煌めきは、彼らにありがとう、と言っているように見えた。


『判るでしょう?今のが、貴女の坊やだよ。
 もう貴女は、この地に縛られなくていい。貴女も、貴女の坊やも、新しい命になって生まれ変われるんだよ』

―――私ノ坊ヤ…モウ、ココニハイナイ…―――


新たな喪失感が栞を襲うかもしれない。だが、負ける訳にはいかなかった。
必ず栞も救ってみせる。何よりも今、自分は一人ではないのだから。

栞の気配は、かなり希薄になっていた。
亡くした我が子への執着と後悔から怨霊と化した彼女も、
その我が子が浄化される光を目の当たりにして、存在そのものが揺らぎ始めている。


―――モウ、ココニイル、理由モナイ―――


風に流れる霧のように、気配が遠くなってゆく。


『いけない!』
『駄目よ!』


頼久とあかねの叫びが重なった。


『消えたいなんて望みを持ってはいけない!自分をしっかり持って!!』
『貴女も新しい命になるんだよ。生まれ変わって、もう一度幸せになる為に!』

―――幸セ……―――


謳うように、呟くように、栞の声が小さく木霊する。


『そうよ。思い出して、初めて坊やを抱いた時の事を。
 その重さが嬉しかったでしょう?旦那様の笑顔が嬉しかったでしょう?だからこそ、坊やを喪った事があんなにも辛くて、苦しかったんだよね』

―――私ノ坊ヤ…ソウ…嬉シカッタノ―――


その声は、泣いているようにも、微笑んでいるようにも聞こえた。
もしかしたら、その両方だったのかもしれない。


『まだ間に合う。貴女は浄化出来る。
 新しい命として生まれ変わって、もう一度自分の子を抱いてあげて。きっとその子は、坊やの生まれ変わりだよ』


人と人との縁があるのなら、何度生まれ変わっても親子の関係が続く事もあり得るだろう。
例え気休めだと言われても、それで魂が救われると言うのなら、あかねは縁というものを信じていたかった。


―――モウ一度…私ノ坊ヤヲ…―――


ふわりと、足下から二つの光が立ち上った。
一つの光がもう一つの光を導くように、永泉の読経に同化する。


―――私…イツカ貴女ノ子トシテ、生マレ変ワッテモイイ…?―――


あかねが一瞬、瞬きをする。そして花が開くような笑みを浮かべた。


『勿論、私で良ければ。良いお母さんになれるか判らないけど、頑張るわ』

―――アリガトウ…アア、トテモ暖カイワ…―――


二つの光が、漆黒の天蓋に消えて行く。
後には淡い色の桜の花びらが、風花のように静かに舞っていた―――

 


ゆっくりと瞼を開けると、まず目に入ったのは自分のすぐ傍らに立て膝をつき、目を伏せた頼久の端正な顔だった。
あかねの視線に呼ばれるように、彼の瞼も開かれる。

「……あれ…私……?」
「ご気分はいかかですか?神子殿」

頼久とは反対側から、鷹通の声がかけられる。

「私は何とも……」

そうですか、と鷹通は安心したように頷くと、次いで頼久にも具合を尋ねた。

「貴方の具合はどうですか?頼久殿」
「はい。大丈夫のようです」

あかねの方を見て一瞬穏やかな笑みを浮かべると、彼は黙って、自分が握っていたあかねの手をそっと離した。
今さらながら頼久に手を握られていた事に気付き、あかねの頬が朱に染まる。
頼久が少し下がったのと入れ替わりに、わらわらとイノリに詩紋、天真と鷹通が集まった。


頼久はそのままあかねの側を離れ、泰明と永泉の元へ歩み寄った。

「ご苦労様でした、頼久殿。貴方も神子も、無事に戻られて何よりです」
「ありがとうございます。永泉様の御声は、神子殿の意識の奥深くまで届いて、栞殿と赤子を導かれました。これで墨染の地も浄化されるでしょう」
「明日にでも改めて土地を清めに行く。それで大事ないだろう」

頼久の意識をあかねと繋げる術に使用した札を剥がしながら、泰明が素っ気無く口にする。

「…気になるのなら、神子の体調を見て花でも手向けに行ってやれ」

それだけ言うと、泰明は呪符を手に部屋を出て行った。


「彼も感情を表に出すのが下手なのだね。大変な術を行使した後だというのに、疲れたの一言もないんだから」

横で聞いていた友雅が苦笑する。

「それが、泰明殿という人なのでしょう。
 あの方は自分の務めを果たしたと…そう、思っているのですよ。八葉の一人として、当然の事をしただけだと」

でも、と言い置いて、ニコリと永泉は笑みを浮かべた。

「ほんの一瞬ですが、神子殿と貴方が無事に目を開けられた時、ほっとした顔をされたのですよ」

頼久が、少し意外そうな顔をする。

「不思議かい?」

その様子を見て、友雅が微笑を浮かべた。

「でも、人は変わって行くものだよ。神子殿に出逢った事で、君が変わったようにね」
「…………」
「人というのは素晴らしいね。きっかけひとつで、全く違う自分に生まれ変われるのだから。
 頼久、君もそのきっかけを大事にして、もっと自分に正直に生きてもいいと―――私は思うよ」
「はい―――」

頷き、上げられた頼久の面には、ただ晴れやかな笑みがあった。

 


数日後、あかねは頼久と共に墨染の地を再び踏んだ。
結界は既に解かれ、泰明が邪気祓いの術を施した事もあって、もうあの異質な気配は感じない。
あかねは藤姫に作ってもらった撫子の花束を桜の古木の根元に置くと、目を閉じて手を合わせた。


「頼久さん…最後に栞さんが浄化する時、光が二つ、立ち上りましたよね?
 一つは栞さん。あともう一つは…彼女の旦那様だったんじゃないかと、私は思っているんです」

しゃがみこんだままのあかねに少し近付き、頼久も同じように膝をつく。

「―――今となっては、もう確認のしようもないのですが…栞殿をあの地に封じた住職こそ…その夫だったのではないでしょうか」
「あ………」


栞の夫であった宮大工は、亡くした妻子の菩提を弔う為に、出家して僧侶になったと聞いた。
妻子の眠るこの墨染にやって来て、先代の住職が亡くなる時に、この寺を継いだのかもしれない。

「そう…そうかもしれませんね。旦那様は、栞さんが赤ちゃんを亡くした悲しみから、怨霊になってしまった事を知った。
 このままでは人を殺めてしまうかもしれないから―――刺し違えてでも、栞さんをここに封印した…」
「……母親の想いとは、かくも強いものなのかと驚かされました。今はただ、栞殿とそのご主人、そして御子の冥福を祈るだかりです」
「でも、浄化させてあげられて本当に良かった。ありがとう、頼久さん。
 あの時、貴方が来てくれなかったら…私はきっと、栞さんの自我に負けて消えていた」


自分の声を全く聞き入れて貰えない絶望感と、自分という存在が消えてしまうかもしれない恐怖。
栞の事は救ってあげたかったけれど、その前に自分の存在そのものが危うかった。

「私は一人じゃないんだと…そう思える事が、私に力をくれた。ありがとうございます」

振り返り、頼久と視線を合わす。
あかねと目が合うと、彼は微かに目を細めて笑みを浮かべた。


「貴女を失って生きるなど、今の私には考える事も出来ません。間に合って、本当に良かった…―――」

地についた頼久の手にそっと自分の手を重ね、あかねも微笑んだ


生きていくのは楽しい事ばかりではない。
だが、辛い事も悲しみも乗り越えて今の自分が在る。
自分を造ったその全てを受け容れて、それでも強く、前を向いて生きて行きたかった。


「…栞さん、貴女の来世が幸福で満ちたものであるように祈ってるわ―――」


はらりと墨染の桜が舞う。
それは栞達の最後の挨拶のようにどこまでも高く風に乗り、蒼穹遥かに消えて行った―――

                                                                【終】


あとがき

元々は個人誌用に書いた原稿です。
ところが、この本も身内にタダで配った以外は、一冊も売れなくて…(^_^;)
折角書いたのに勿体無いなぁ、と以前から思っていましたので、
若干手を入れてHPにUPする事にしました。一応、頼久×あかねです。

                                                     麻生 司



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