Liebe 2
そこは、とても懐かしい部屋だった。
父と母と、そして優しかった兄とよく過ごした部屋だった。
数年前の、あの日までは。
「どうして…忘れていたの…」
判っている。マンフロイの術に落ち、バーハラに転移したショックで、ユリアは全てを思い出していた。
あの日―――マンフロイの持って来た一冊の黒い聖書は、関わる全ての者の運命を狂わせた。
それまで優しかった兄の瞳が、ゾッとする程冷たく、闇を溶かしたように暗い色を宿していく様を、ユリアははっきりと憶えている。
『ユリア…逃げなさい』
恐怖とショックで凍りついたユリアの耳に、母の小さな声が聞こえた。
どうにか見上げた母の横顔は蒼白だった。
『母様も…母様も一緒でしょう?』
不思議と、兄を元に戻して、という言葉は出てこなかった。
何処かで兄が全く異質なモノへと変貌してしまった事を悟っていたのかもしれない。
このままでは二人とも殺される。だから逃げなければと、本能は告げていた。
だが震える娘を見下ろして、母はきっぱりと、首を横に振ったのだ。
『私は……ここに残ります。ユリウスを、一人残しては行けない』
『でもあれは、もう兄様じゃないわ!!』
判っているわ、と母は呟いた。
『なら……!』
『それでも』
微かに微笑む。限りなく優しく、そして哀しい微笑みだった。
『私は、あの子の母なのよ』
それだけ言うとディアドラは、ユリアを背後に庇いながらユリウスに向かい合った。
ユリウスの内に芽生えたもう一つの魂が元の彼を食い尽くすのに、もうほとんど猶予はないように思えた。
『ユリア、セリスに……会いなさい』
手で転移呪文の印を切りながら、ディアドラがユリアの耳に囁く。
『セリス……?』
『ほう…その名を思い出したのか』
兄の口から発せられたとは信じられない程の恐ろしい声色に、ユリアがビクンと身体を強張らせる。
『お前に、その名を口にする資格があると思うのか?』
ディアドラは何も答えなかった。ユリウスも、答えは求めなかった。
『だが、ユリアを逃がす訳には行かぬ。
お前とその娘は、私にとって最大の敵である黄金竜(ナーガ)の直系―――この場で二人まとめて、始末してくれるわ』
『させない……ユリアだけは、私が守ります―――!』
母の転移呪文が完成するのと―――兄の手の上で形を為した闇の剣が放たれたのが同時だった。
『いやあぁあああぁぁぁ―――っ!母様――――――っ!!』
銀色の光に包まれながら最後に見たものは、闇の剣に貫かれ、胸を血に染めた母の姿と、薄っすらと笑みを浮かべた兄の顔―――
バーハラの片隅で、レヴィンに見付けられ目覚めた時には、ユリアは自分の名前以外の、全ての記憶を喪っていた……
ユリアは両の手に顔を伏せて泣いた。
今ならば母が、どんな思いでセリスの名を口にしたのかがよく判る。
兄が、その名を口にする資格があるのかと言った意味も。
母、ディアドラは、シアルフィ公子シグルドの妻だった。
二人の間に生まれたのがセリス…ユリアにとっては、異父兄にあたる。
二人はとても愛し合っていたのだと、解放軍に居た頃、オイフェやシャナンから聞かされた。
ディアドラが消息を絶って以後も、シグルドは死の瞬間まで、最愛の妻といつか再び会えると信じていたのだと。
そしてその想いは、まさに彼の死の直前に叶ったのだった。
母は暗黒神(ロプトウス)へと変貌する兄の波動を身に受けた事で、封じ込まれた記憶が蘇ったのだろう。
自分がシグルドの妻であった事。夫との間に、セリスという一人子を成した事。
そして夫の死の直前、記憶を喪い、別の男の妻として彼の前に立った事を。
記憶を喪っていたからと、一言で済まされる心の疵ではなかったろう。
母はシグルドの事を心から愛していた。
だが、アルヴィスの妻である母もまた、真実だったのだ。
狂いそうな程の悔恨と情念の中で、それでも母はユリアを救う為に胸に闇の剣を受け、ユリウスを救う為に一人残った。
今度こそ、母親でありたいと―――息子の手で命の灯を消した母は、満足だったのだろうか。
母は最期に呟いたのだ。『ごめんね』…と。
それが誰に対してへの言葉であったのか、今となっては確かめる術もなかった。
兄か、自分か、父なのか。
もしかしたら母は最期に、シグルドとセリスの姿を視ていたのかもしれない。
小さなノックの音が響き、ユリアは顔を上げ、窓辺から扉を振り返った。
緋色のマントを纏った、大柄な人影が入ってくる。
「父様……」
「ユリア…戻って来たというのは本当だったのだな」
記憶よりも少し老けたように感じたが、それは間違いなくユリアの父、アルヴィスだった。
娘の顔を見て安堵したのだろう。小さく息をつくと、確かめるようにユリアの肩にそっと手を置いた。
「記憶を、喪(な)くしていたと…?」
躊躇いがちな父の問い掛けに、ユリアは小さく頷いた。
「はい。母様の転移呪文でこの城を脱出した時のショックで…術を受け容れる私の精神状態が、バランスを失っていたからでしょう」
ユリアはバーハラの都の片隅で倒れていたところをレヴィンに救われ、解放軍のセリスの元に身を寄せていた事なども、父に全て話した。
記憶は喪っていたが、決して不幸ではなかったと―――
「記憶は、それまで自分が生きてきた証…自分が名前以外の全てを失ったと知った時、本当は怖くてたまらなかった。
自分が何者なのか、どうやって生きてきたのか判らないのは、真っ暗な闇の中で、たった一人放り出されたのと同じ事」
ユリアは父を見上げ、静かに言葉を続けた。
「しばらくはレヴィン様に保護されて、シレジアの片田舎で暮らしました。
その間もずっと、記憶が無い事からの孤独感は付き纏っていた。
セリス様達と引き合わされて、解放軍に身を寄せてからも、それは変わらなかったんです。
今のままの私でいいのだと、過去を喪っても歩いて行けるのだと、教えてくれた人が居たから…私は、私でいられたんです」
胸に蘇るのは、心優しい、黒髪の剣士の面影―――湧き起こった愛おしさに、ユリアは片手で胸を押さえた。
「それは…セリスの事か?」
父の言葉にユリアは微笑んで、だが首を横に振った。
「いいえ…セリス様は、私が進む路を最初に照らしてくれた人でした。
解放軍で出会った友人は皆、おぼつかない私の足下を優しく照らしてくれました。
だけどいつの日か、『今』を誇れるように前に進めと…手を差し伸べてくれたのは…別の人です」
「……そうか」
自分の下を離れていた数年の間に、娘は確実に、少女から一人の女性へと成長を遂げていた。
その凛とした横顔にアルヴィスは、妻のかつての面影を見た。
「ユリア、私の事を恨んでいるだろうな」
その言葉に、ユリアは驚いたようにかぶりを振った。
「どうしてですか?私は父様を恨んだ事などありません」
娘の声に、アルヴィスが辛そうに瞳を伏せる。
「私はディアドラを救えなかった。記憶を喪っていたお前を、守ってやる事も出来なかった。
皇帝の名を戴いてはいるが、今ではユリウスの傀儡に過ぎぬ…恨まれても仕方ない」
痛ましげに視線を落としたままの父の手を取り、ユリアは微笑んだ。
「父様は母様を、私を、そして兄様を、心から愛してくださっていました。
母様の命は救えなかったけれど、兄様は変わってしまったけれど、それだけは変わらない―――
昔、記憶を喪った母様の唯一の拠り所は、間違いなく父様だったんです。
父様が愛してくださったから、母様も父様を愛した……偽りなどではなく、心から。感謝こそすれ恨むなんて事、あり得ません」
娘の口から紡がれた言葉は、まさしくアルヴィスが二十年前のあの日……
ディアドラがシグルドの妻であった事を知ったその日から背負ってきた苦しみを、癒してくれた。
自分は心からディアドラを愛していた。だが、彼女は……?
綻びかけた記憶の封印がいつ解けるかと、眠れぬ夜を幾つ数えた事か。
だがそれも全て、ユリアの言葉で癒された。もう、悪夢に苛まされる事もない。
「強くなったな…ユリア」
「私一人の力ではありません…手を差し伸べてくれる人が居たから…変わって行けたんです」
娘の眼差しに目を細め―――アルヴィスはふと思い出したように、傍の飾り机の上に置いてあった小箱を取り上げた。
「父様、それは…?」
アルヴィスは小箱の掛金を外すと蓋を開け、中身をユリアに見せた。見覚えのある、銀色の額冠(サークレット)を―――
「ディアドラの…お前の母の形見となってしまったが―――これを、お前に渡しておこう。そして、ここから逃げるのだ」
父の言葉を問い返す暇すらなく―――
「それはなりませんぞ、ユリア皇女」
「……!貴方は―――!」
「ユリア皇女には、ワシと共にヴェルトマー城へ来て頂く。
アルヴィス皇帝、今後ユリウス殿下に貴方が盾突くような事があれば、皇女の命はないものと心得られよ」
マンフロイが暗い笑みを浮かべる。
「貴様!私を誰だと思っている!?」
「判っておるとも。そなたはユリウス殿下の、腑抜けた傀儡に過ぎぬ。せいぜいその皇帝という地位を失わぬよう、励まれるとよろしかろう」
アルヴィスには、反論が出来なかった。ユリアの命を盾に取られては、もはや身動きが出来ない。
「父様……」
無念だった。何も出来ない自分が、これ程に口惜しく思えた事はない。
アルヴィスの手が銀の額冠をユリアの頭に乗せるのと同時に、マンフロイの転移呪文が完成する。
「ユリア……許せ……!」
「父様―――――っ!!」
再び出会うその時に―――自分を誇れるようにアルヴィスは、自分に出来る最良の事をしようと決意した。
娘とマンフロイが消えた部屋を後にし、真っ直ぐに城門へと向かう。
「アルヴィス様、いずこへ?」
控えていたロートリッターの長の問い掛けに、アルヴィスは短く『シアルフィへ』と答えた。
間もなく破竹の勢いで進撃している解放軍がやって来る。
ディアドラの子、シグルドの遺児―――セリス。
…せめて潔く、この手で決着をつけたかった。皇帝という肩書きを捨て、ただ一人の娘の父親として……
戦場に立つ決意を胸に、アルヴィスはバーハラを後にした。永久に―――
暗い、暗い闇の中―――スカサハは一人で立ち尽くしていた。
周りを見ても何も見えず、何も手に触れない。
『ここは……一体、何なんだ……?』
闇に目を凝らした瞳に…ぽつりと滲むように、一点の微かな光が見えた。
小さな小さな、淡い光―――だがスカサハは、ほとんど反射的に駆け出していた。自分を呼んでいるかのような、その光に向かって。
どれだけの距離を走ったのか見当もつかない。だが光は、少しずつだが確かに近付いている。
近付くにつれはっきりとしてくる淡い光の輪郭の中に、スカサハは銀の髪の少女の姿を見た。
『ユリア――――っ!!』
その叫びにユリアは俯けていた顔を上げ、確かに唇は、彼の名を紡いだ。
苦しそうに、眉根を寄せて。
『ユリア!?』
彼女はただ一人でそこに居るのではなかった。
ユリアの身体を虚無の闇に縛り付けているのは、邪悪な気を放つ黒い竜―――
華奢な身体にしっかりと巻きつき、大きく顎を広げ、今にも彼女を飲み込まんとしている。
『くそっ…!ユリアを放せ!!』
スカサハは腰に下げていた剣で、巨大な蛇にしか見えない黒い竜の腹を斬り付けるがびくともしない。
それどころか、一太刀斬り付けるごとに一層苦しそうに、ユリアの顔が苦悶に歪んでいく。
それでもユリアは懸命に、スカサハに向かって手を伸ばした。
スカサハもその手を取ろうと腕を伸ばす。だが、不可視の壁に遮られて、どうしても彼女の手に触れられない。
ユリアの声も、恐らくはその障壁に阻まれてスカサハには届かないのだろう。
『ユリア!』
スカサハがより強く叫んだ、その刹那―――ゆっくりと、ユリアがただひとつの言葉をなぞった。
―――救けて―――
その一言を最後に残し―――竜の顎が、彼女の姿を飲み込んだ―――
「……っ!!」
掛け布をはね退け、スカサハが飛び起きた。胸を叩く鼓動も呼吸も速く、全身に冷たい汗をかいている。
「おい、大丈夫か?」
気遣わし気な声に振り向くと、レスターが心配そうに顔を覗き込んでいた。
「ひどくうなされていたぞ。あんまり辛そうだったから、もう起こそうかと思っていた所だ。悪い夢でも見てたのか?」
『夢……?』
そう頭の中で繰り返して。スカサハは自分が野営の見張りに、レスターと交代で就いていた事を思い出した。
寝汗でべっとりと額に張り付いた前髪をかき上げながら、ふと悪寒に襲われる。
寒い訳ではなく、嫌な予感がしたのだ。ただの夢にしては、余りにも夢見が悪過ぎた。
「ああ…最悪の夢だった。眠った気がしない」
ユリアがペルルークで消息を絶ってから、一週間が経過していた。通常ならばその倍はかかる行程を、強行軍で突破して来たのだ。
一日も早く、囚われた子供達を無事に救い出す為。そして、連れ去られたユリアを取り戻す為に。
「丁度夜明けだ…今日にはシアルフィ城に辿り着く。斥候の話では、シアルフィ城にはロートリッターが布陣。
アルヴィス皇帝自ら陣頭指揮に就いているらしい」
「アルヴィス皇帝―――か」
グランベル帝国の皇帝にして、ヴェルトマー公爵家の当主。セリスの父、シグルドの仇。そして―――ユリアの父親。
自分は戦えるのだろうか。複雑な思いが、スカサハの胸の内を満たして行く。だが、それでも―――
『ユリアを救う障害になると言うのなら、俺は迷いも斬り捨てよう』
稜線を染めて行く暁の光に、スカサハは今一度、自分に言い聞かせていた。
「よく来たな、セリス。逃げ出さなかったその勇気は褒めてやろう」
シアルフィ城で初めて見たアルヴィス皇帝は、驚くほど落ち着き払ってセリス達を待っていた。
「貴方が…アルヴィス皇帝……」
セリスの手の中で、カチャリと剣が音を立てる。
それは共に今まで激戦を潜り抜けてきた銀の剣ではなく、数奇な運命を辿ってようやく彼が受け継いだ、正統なるシアルフィ公爵家当主の証―――
聖剣ティルフィングであった。
アルヴィスはセリスの手に握られたティルフィングを見て、僅かに目を細めた。
「聖剣ティルフィング…よかろう、相手に不足はない。我が最高の術で相手をしよう」
シャナンとオイフェが何かを言いかけたが、セリスは片手を伸ばして彼らを制すると、ティルフィングを手に一歩を踏み出した。
痛い程の静寂が、一瞬その場を覆う。そして―――
「参る!」
「裁きの炎よ!!」
それぞれの声を合図に、因縁浅からぬ二人の戦いの火蓋は切って落とされた。
セリスの剣筋は激しい。
バルドの直系であるという血筋もさる事ながら、同じく剣聖オードの直系であるシャナンの指南を受けて育ったのだ。
その潜在的な力は計り知れず、そして相手が父の仇であるという強い思いが、今のセリスを突き動かしていた。
アルヴィスも自らの言葉に偽り無く、ファラフレイムを繰り出し、セリスを攻める。
アルヴィスとてセリスの猛攻を受けているのだから無傷ではない。
セリスも巧みに致命傷を避け、かわしているものの、やはり徐々に炎の腕に焼かれ手傷を負ってゆく。
そして長き鬩ぎ合いの果てに、遂にセリスの剣がアルヴィスの心臓を捉えた―――
「セリス様!」
アルヴィスが倒れるのと時を同じくして、セリスの手からティルフィングが離れ、ガクリと膝が落ちた。
飛び出したスカサハが、咄嗟にセリスを支え、助け起こす。
「見事だ…セリス……」
致命傷を負ったアルヴィスの顔は蒼白だったが、不思議と穏やかな表情だった。
逞しく成長した我が子を慈しむように、最期の瞬間までその姿を見届けようと、苦しい息の下セリスを見た。
そして、傍らで彼を支えるスカサハの姿も。
「アルヴィス皇帝、お聞きしたい事があります。ユリアが何処に囚われているか、ご存知ではありませんか」
スカサハに肩を借りながら、セリスが問い掛ける。
アルヴィス皇帝は母、シギュンから暗黒神の血を継いだが、暗黒教団の再興は絶対に許さないという意思を貫いていた。
子供達とユリアの拉致は、ユリウスとマンフロイの独断であるというのが、レヴィンやセリス達の出した結論である。
「ユリア……」
アルヴィスは出血に震える手を持ち上げ、ある一点を指差した。
それはシアルフィから遥か北―――湾を挟んでシレジアを臨む、グランベル最北の地。
「…行け……ユリアは……ヴェルトマーに居る……」
そしてはたりと、手が落ちる。微かにまだ息はあったが、それも時間の問題だった。
セリスは片膝をつくと、命尽きようとしているかつての仇に、最上級の礼を持って敬意を表す。
「彼女はきっと、僕たちが救い出します」
その言葉に、アルヴィスの瞼がゆっくりと落ちる。その表情はとても死の淵にあるとは思えない程、安らかなものだった。
「―――行こう…子供達を救い出し、ユリアを…取り戻すんだ―――コープル、後を頼むよ」
「はい」
去り行くセリス達の足音を聞きながら、アルヴィスは最期の夢を見ていた。
セリスに肩を貸していた、あの黒髪の青年……セリスがユリアの名を口にした時、僅かだが動揺した気配を感じた。
根拠など何も無い。他に幾人も居た中で、不思議と彼だけが目に止まった。
『いつの日か『今』を誇れるように前に進めと…手を差し伸べてくれた人が居たから…私は私でいられたんです』
微笑むユリアの面影が脳裏に浮かぶ。
記憶を喪い、自分の殻に閉じ篭もりがちだった娘を救ったのは誰だったのか……
命の灯が消えようとしている今、願う事はたった一つ。
『どうか…どうか、幸せに―――』
お前と母と、そして兄を。守ってやれなかった私を許しておくれと、胸の内で呟いて……
高司祭であるコープルに最期を看取られながら、アルヴィスの鼓動は、静かに終(つい)えた―――
グランベルに入ってからの戦いは更に苛烈を極めた。
エッダ城の魔道士隊にドズルのグラオリッター、ユングヴィのバイゲリッター。
フリージのゲルプリッターに雷神イシュタル、バーハラのファルコンナイト。
果てはアリオーン率いるドラゴンナイツまでもが、解放軍の行く手に立ち塞がった。
雷神イシュタルの出撃には苦戦させられたが、セティの御すフォルセティにより、遂に彼女も永き眠りにつく事になる。
ドラゴンナイツ部隊はアルテナの必死の説得により、解放軍に――正確にはアルテナ個人にだが――協力を約束。からくも危機を逃れた。
フリージ城制圧後、亡きイシュタルの庇護の下で拉致された子供達が全員無事だった事が判り、解放軍の目的の一つは達せられた。
バーハラを迂回するように北寄りに進路を取り、アルヴィスが最期に告げたユリアが囚われているという、
ヴェルトマー城まであと少しという所まで軍が進んだ頃―――進軍する先を偵察に出ていたフィーが、驚くべき報告をもたらした。
ヴェルトマー城から出撃し、一人でこちらに向かう人影がある。それがおそらく、ユリアらしいと。
「ユリアだって!?」
セリスは勿論、報告を聞いた者は皆、一様に怪訝そうな表情を浮かべた。
「どういう事だ…脱出したのか?」
「判りません。罠の恐れがあったので、それ以上近付けませんでしたから。ただ彼女の他には、誰一人姿は見当たりませんでした」
少なくとも遠目で見た限りではユリア本人に見えたと言うのが、フィーの主観的な意見だった。
「……仕方ない。直接当たってみるしかないだろう」
本当に脱出したユリアならば、一刻も早く合流しなければ彼女が危険だ。
巧みに隠された伏兵があるかもしれないが、敵地の真ん中でユリアを一人放置する訳にもいかない。
ここまでの進軍で元の何百倍にまで膨れ上がった義勇兵達は、一旦フリージ城まで戻して待機させ、
アルテナとアリオーン率いるドラゴンナイツが彼らの護衛の任に就いた。
その上でセリスやシャナンなど主だった者達だけで進軍し、ユリアと合流する事になった。
バーハラ城の北、この森を抜ければヴェルトマー城という所に差し掛かった時―――セリス達は森の中を一人歩く、ユリアの姿を見た。
「ユリア!!」
ようやく見付けた異父妹にセリスが駆け寄る。シャナンやラナ達からも、ユリアの無事な姿にほうっと安堵の息が漏れた。
その中で―――スカサハだけがただ一人背筋を走った違和感に逆らえず、駆け出しかけた足を止めた。
何がおかしい?ユリアはちゃんと歩いている。
一歩一歩間違いなく、自分の足で立ち、歩き、目の前のセリスに微笑みかけてさえいる。だが、その瞳は―――!
「セリス様、危ないっ!!」
反射的にスカサハが叫ぶのと、ユリアの手から光魔法(ライトニング)が放たれるのが同時だった。
「ユリア!?」
その声で間一髪直撃を免れたセリスが、驚愕の声を上げる。
スカサハはやはりと、奥歯を噛み締めた。
今のユリアの瞳には、生気というものを全く感じなかったのだ。
そこに映されているのは、光差さぬ、ぬばたまの闇。姿形はそのままに、その内に宿る何かが失われてしまった……魂の抜け殻。
『マンフロイ様ニ逆ラウ者、全テ殺ス……』
それはユリアでありながら、ユリアのものではあり得ない、全く異質な者の声。
「来るぞ!散開しろ!!」
魔法の発動を察し、セティの警告が飛ぶ。ギリギリでライトニングの射程範囲から逃れ、遠巻きにユリアを囲んで展開する形になった。
「一体、どうすれば……!」
思わず呻くその声に、微かに、ユリアの唇が動いた。
小さく、小さく…だが、はっきりと。
『救けて……』
彼女の頬に一筋の涙が流れる。囁くような声であったが、スカサハはその声を聞き逃さなかった。
「ユリア!!」
スカサハは雷に打たれたようなショックに、愕然として立ち尽くした。
―――救けて―――その彼女の悲痛な声は、いつか見た悪夢と同じものだった。
あれはやはり、ユリアの身に異変が起こった事を、無意識に感じ取っていたのだ。
『苦しい…救けて……』
「止めろ!スカサハ!!」
「落着きなさい!死ぬ気なの!?」
思わず飛び出しかかったスカサハを、レスターとラクチェが左右から押さえつける。
「じゃあ、一体どうすればいいんだ!?ユリアが苦しんでいる!なのに何もせず、ただ黙って見てろって言うのか!?」
初めて見る兄の激昂した姿に、驚かなかったと言えば嘘になる。
だがラクチェはその代わりというように冷静に唇を引き結ぶと、パシン、とスカサハの頬を打った。
「ラクチェ……?」
「落着いて。今のユリアは、きっとどうやったて救えない。元を断たないと」
憑き物が落ちたような顔になったスカサハは、妹の言葉に冷静さを取り戻した。
「元を……」
「そうよ。あれはどう見たってユリアの意思じゃない。だとしたら、彼女を操ってる誰かがいる筈でしょう?」
夢でユリアを捉え囚(とら)えていたのは、邪悪な黒い竜だった。
彼女の精神を支配しているのが暗黒教団の者だとしたら―――その呪縛を断ちさえすれば、ユリアは救われるのだろうか。
「バーハラには既に、ユリウス皇子と十二魔将が集結していた。恐らくは別の場所だろう。だとしたら…やはりヴェルトマーの、マンフロイか」
セリスがヴェルトマーの方角を見やり、眉を寄せる。
「俺に…行かせてください」
「スカサハ……」
驚いたセリスが、思わず目を瞠る。
スカサハはいつも、後背の守りの要だった。何よりも距離のある進軍の際に歩兵が加わると、それだけで戦略そのものが変わってくる。
そんな事はスカサハとて、百も承知している。その上での、申し出だった。
「これだけはどうしても譲れない……頼む、行かせてくれ。セリス―――!」
はっと、周りが息を呑む。それはセリスも同じだった。
物心ついて以来、スカサハがセリスの事を敬称抜きで呼んだ事は無い。
それが今、同等の立場に立つ者として、敢えて彼の名を呼んだ。
セリスは一度瞑目して何事かを呟き、そして再び顔を上げると、スカサハにひとつ頷いて見せた。
「…スカサハ、どうか、ユリアを救ってやってくれ」
「―――はい!必ず!!」
力強く答えたスカサハの肩に、レスターが手を置く。
「セリス様、俺がヴェルトマーまでスカサハを運びます。それでほぼ問題はクリア出来るでしょう」
「ああ。よろしく頼む」
セリスは他にもセティと、アレスにも同行を頼んだ。
「スカサハの護衛は任せた」
「ヴェルトマーに居座っているのはマンフロイに違いないだろう。確かに、時間の事も考えると俺達以外では荷が重かろうな」
アレスがそう応え、セティも頷いた。騎馬隊と高い魔法防御力が備わっていなければ果たせない役目だからだ。
「どうもユリアは残された僅かな意思で、一定の範囲に第三者が踏み込まない限り魔法を発動させないよう、
ギリギリのところで抵抗しているのだと思う。僕たちはここで、出来るだけユリアの足を止めておく。
だからスカサハ―――一刻も早く戻って、ユリアを迎えてやってくれ」
「はい!」
ヴェルトマー城へと出立したスカサハ達を見送るセリスの傍らに、そっとラナが立った。
「ラナ、スリープの魔法が必用になるかもしれない。準備しておいてくれ」
「はい」
短く応えたその後で。ラナは少し迷ってから、セリスにもう一度声をかけた。
「セリス様、先程何を呟かれていたのですか?」
ラナの問い掛けに、セリスは苦笑を浮かべた。
「何だ、気付かれてたのか」
「当ててみましょうか?」
ラナが柔らかく微笑む。
「『僕にも判る』……違いますか?」
セリスの瞳が、びっくりしたように大きく見開かれる。そしてややあった後、小さく頷いた。
「うん…我ながら甘いとは思うけどね。気付いたら…そう、口にしてたんだ」
もしも敵として目の前に現れたのが、自分の最も大切な人だったなら―――そして、その人を救う事が出来る手段があるのならば……
自分がその役目を人に渡せるかどうか、一瞬考えたのだ。
一軍の指揮官が、感情で行動してはならない事くらい、理屈で判っている。
だがその理屈さえ跳ね除けて行動出来る程の感情は、きっと大きな力になると思ったから、スカサハを行かせた。
ユリアは瞳に虚無を映したまま、今も立ち尽くしている。
実兄は暗黒神に魂を明け渡し、父もまた、異父兄である自分の手にかかって命を落とした。
今正気に戻れば、ナーガの後継者として実兄と戦う運命が待っている。
覚醒は辛いものになるかもしれない。だが、それでも―――
『帰っておいで、ユリア。君をあんなににも、愛してくれた人が待っている。皆が君の無事を、祈っているのだから』
その思いが彼女に届いたのか、それとも無理矢理自我を奪ったマンフロイへ、唯一彼女の成し得た抵抗だったのか。
ユリアはそこから一歩も動く事なく、森に立つ美しい彫像のように、その場に留まり続けた。
ヴェルトマー城の城門近くまで近付いて、レスター達は一度馬を下りた。
「この辺りが、連中の暗黒魔法の射程ギリギリって所だろう。レスター、お前はこれ以上は踏み込むな。ここからの援護に徹してくれ」
「ああ、判った。退路は確保しておく」
自分とスカサハの二人を乗せて無理をさせた愛馬の背を撫でて労をねぎらってやりながら、アレスに返事を返す。
「…あまり伏兵の気配は感じないな。やはり、魔道士は居るようだが……」
セティが気配で、そう告げる。
「ユリウス皇子は、もうこの地には何の価値もないと思っているんだろう」
恐らくマンフロイは、ユリアを使ってセリスを暗殺させるつもりだったのだろう。
異父妹に剣は向けられまい―――そう、考えて。そしてそれは、全く正しかった。
黄金竜(ナーガ)の血を引く者同士が殺し合えば、暗黒竜(ロプトウス)の復活に、これ以上相応しい贄はなかったに違いない。
だがマンフロイにとって誤算だったのは、ユリアの精神支配が完全ではなかった事だ。
ユリアは意識を乗っ取られながらも、完全には自我を失わなかった。
一定の距離を保つ者には反応せず、ほんの少しならば言葉を発する事が出来る程に。
それは即ち、術をかけた者を滅ぼせば、ユリアが解放される可能性が高いという事だった。
マンフロイは自分達の接近に気付いているのだろうか。
結局は、彼の手の上で動く駒のひとつに過ぎないのかもしれない。
『例えそうでも構わない。それで、ユリアが解放されるのであれば―――』
自分は戦う。スカサハは手の中の剣の重みを確かめるように柄を握り直した。
「来たぞ!」
レスターが城壁の上に姿を見せた魔道士に気付き、矢を射掛ける。
「行け!ここは俺が防ぐ」
「すまない!」
迷っている暇はなかった。レスターは抜きん出て魔法に対する防御に優れている訳ではない。
中での戦いが長引けば長引くほど、レスターは危険と長く向かい合わなければならなくなる。
だからスカサハ達は、素早く城門から城内へと駆け込んだ。
駆け込んで行く三人の背を見送り、レスターは乾いてかさついた唇を舐めて湿らせた。
スカサハをここまで連れて来る為に思わず名乗り出てしまったが、時間が無くてパティには何も言わずに出て来てしまった。
『今頃、怒っているかもな』
魔法にはてんで弱いくせに、何を格好つけてるのよと怒鳴られるだろう。
それとも呆れて、口もきいてもらえないかもしれない。
『それでも、やっと自分に正直になったスカサハの為に一肌脱いでやりたかったんだよな』
ヒュン、と正確に、城壁から身を乗り出した魔道士の肩を射抜く。
どうやら奥から、まだまだ増援が出てきそうな気配が伝わって来た。表の騒ぎを聞きつけたのだろう。
「ほら、どんどん出て来い!そうすりゃ、中がその分ラクになるからな!!」
レスターは身軽に愛馬の背に跨ると手綱から両手を離し、鐙に掛けた足だけで器用に馬を御しながら、しっかりと弓を構え直した。
早速、遠距離魔法のフェンリルが飛んでくる。直撃しないまでも邪悪な気に当てられ、長くその気に当たっていると気分が悪くなる。
『保ってくれよ、相棒……』
父から受け継いだ弓と、幼い頃から共に育った愛馬に胸の内で語り掛け、レスターはきりと唇を引き結んだ。
城内は薄暗かった。主を欠いているからかもしれないが、やはり内に棲まう者の気配で、そう感じるのかもしれない。
回廊を駆け抜けながら三人は、上に向かう階段と、奥に通じる扉とを見付けた。
「どっちだ!?」
「奥へ!!」
アレスの声にそう応え、スカサハが奥へ通じる扉を押し開ける。
「何か根拠でもあるのか?」
「勘だ」
あっさり過ぎる程さらりと言い切ったスカサハに、一瞬アレスが言葉を失う。
その気配を感じ取って、スカサハは苦笑を浮かべた。
「敢えて言うなら…そう、嫌な気を感じるんだ。この気とは、以前俺は夢と言う形で接した事がある」
ユリアを闇に縛り付けていた禍々しい竜。この城の奥からは、その時感じたものと同じ気配がする。
「恐らくマンフロイがここを拠点にしているのなら、城の何処かに暗黒竜(ロプトウス)の祭壇を作っていると思う。
根拠にしては乏しいかもしれないが、俺ならそういう物は、上の方ではなく、奥か地下に作る」
「なるほど、同感だ」
その言葉にアレスも納得した。煌煌と明るい光に照らされた暗黒竜の祭壇など想像も出来ない。
やがてばらばらと、更に奥から数人の魔道士が走り出てくる様を目にして、それまで黙ってついて来ていたセティも感心したように頷いた。
「どうもスカサハの勘が当たったようだ」
「そのようだな」
アレスがミストルティンを構え、セティも魔法の発動態勢に入る。
だがアレスはそのセティを身振りで止めると、スカサハと先に行けと促した。
「雑魚の相手は任せておけ。マンフロイが相手では、スカサハ一人ではキツイだろう」
「…判った。スカサハ、続け!」
言うが早いか、セティの前方でゴウッと風が一陣吹き抜けた。
予想もしていなかった強風に魔道士たちは煽られ、迎撃魔法の発動どころか、そのまま打ち所が悪く昏倒する者まで居る。
セティがフォルセティの応用で強引に作った道を駆け抜け、二人は奥の間へと姿を消した。
「おっと、奥には行かせないぜ。ここは俺が相手だ」
素早く二人が進んだ扉を背にして、魔道士相手に魔剣ミストルティンを突き付ける。
アレスはこの剣の魔力のお陰で魔法に対する抵抗力は高いが、逆を言えばそれは、無傷では済まないという事だ。
それが飛び抜けた回避力を誇るセティとの、決定的な差である。
マンフロイの下にセティを行かせたのも、それが理由の一つである。
『あいつなら、巧くスカサハをカバー出来るだろうしな』
セティは風魔法の最高峰、フォルセティの継承者だ。
持って生まれた才能もさることながら、何よりも努力と修練で、今の力と賢者(セイジ)の称号を得た男である。
ただ魔法を攻撃の手段として使うのではなく、たった今自力でこの場を突破して行ったように、
応用を利かせて自分達に最も有利な状況を作り出す事が出来るのだ。
『スカサハ、お前も男なら意地でもマンフロイを倒してみせろ』
死は恐れないが、自分の死によって悲しむ者が居る事を、今のアレスは知っている。
例えマンフロイを倒し、ユリアの呪縛を断ち切っても、それがスカサハの命を引き換えに成されたものならば、きっと彼女の心は壊れてしまうだろう。
『自分の命と引き換えになんて、馬鹿な事は考えるなよ』
目の前に迫った魔道士を斬り倒しつつ、アレスはそう一人ごちた。
奥の間への扉を抜け、立ち塞がる魔道士達を斬り捨て、あるいは魔法で吹き飛ばしながら進むスカサハ達の前に、一層立派な扉が現れた。
「ここか―――」
主が健在であった頃は、そこはきっと謁見室であったのだろう。重厚な扉に手をかけ、一気に押し開ける。
スカサハが考えていた通り、そこは暗黒教団の祭壇へと造り変えられていた。
その祭壇の更に一層奥まった場所に―――小柄な老人の姿があった。
「ほう…皇女の相手をしておるのかと思えば、こんな所にまで入り込んで来おったか」
「お前が、マンフロイ―――!?」
「いかにも。じゃが、誰にも邪魔はさせんぞ。もうすぐ…もうすぐ、我らの悲願であった暗黒竜(ロプトウス)が、完全なる復活を遂げるのだ」
マンフロイの貌に、邪悪な笑みが広がる。
「ユリアを解放しろ!」
「出来ぬと言ったら?」
「お前を斃して、彼女を解き放つまでだ!!」
スカサハが踏み込むと同時に、セティがその背後でフォルセティを放つ。
だがその風はマンフロイを取り巻く不可思議な気に遮られ、ほとんど相殺されてしまった。
スカサハが振り下ろす剣も、何か硬い物を斬り付けているかのように手応えがない。
「それで終わりか?」
「避けろ!ヨツムンガンドだ!!」
「遅いわ!!」
セティの警告も間に合わない。
「うわああぁぁあああぁぁぁっ!!」
巨大な蛇の幻影に絞め上げられ、スカサハが絶叫を上げる。彼の胸の辺りで、骨の軋む嫌な音がした。
「スカサハ!?」
放り出された自分に駆け寄り治癒魔法をかけようとするセティを、スカサハは押し止めると、自力で何とか立ち上がった。
「…すまない、セティ。一瞬でいい。フォルセティでマンフロイを覆っている…あの障壁のようなものを突破出来るか?」
セティが小さく息を呑む。スカサハが咳き込み、血を吐いた。折れた肋骨が肺を傷付けたに違いない。
「今ので肋骨をやられたらしい…二度は、保たない……」
あの障壁は、やはりスカサハが夢で見たものと同じ気配がした。
剣で直接斬り付けて駄目ならば、後はもう、フォルセティでの一点突破にかけるしかない。
「……やってみよう。だが恐らくフォルセティでも、風穴を開ける程度にしか隙は作れない」
今、この瞬間にも、マンフロイの暗黒魔法は絶えずスカサハとセティを襲っている。
セティが特殊な形でフォルセティを発動させ、擬似的な障壁を作って凌いでいるのだ。
特異な術方は時に術者に、命の危険すら伴なう心身の負担を強いる。セティの力と制御能力があればこそ、成せる荒業だった。
「それでいい…一瞬でも、奴に剣が届けば……」
「判った、任せてくれ。必ず障壁に穴を開ける。だからその一瞬を見逃さないでくれ」
セティはスカサハの背後に立ち、フォルセティの障壁はそのままに、マンフロイに放つ魔法の発動へと集中を始めた。
大変な精神力が必用な事だが、手段を選んではいられない。
これを外せば、セティには障壁を張る力も残らない。もう、後が無いのであった。
「何をする気だ!?お前たち!!」
今までとは違う、異質な気の流れに気付いたのだろう。
スカサハを狙っていた暗黒魔法が、セティへと明らかにその標的を変え、襲い掛かる。だが、フォルセティの発動の方が、僅かに早かった。
「風の王よ、我等に力を―――!!」
「ぬおおぉぉぉおぉ―――――!!」
ギリギリと音さえ立てて、マンフロイを覆う障壁にフォルセティの圧倒的な力が、一点に集中して叩きつけられる。
さながら巨大な杭が、視えない壁を打ち破ろうとしているかのようだった。
スカサハは折れた肋骨の痛みに脂汗を流しながらも、フォルセティが作る一瞬の隙を見逃すまいと、剣を構えてマンフロイを見据えていた。
初めてユリアと出逢ったのは、ガネーシャ城だった。
儚げで、触れると壊れてしまいそうな彼女の事が気にかかり、いつしかずっと彼女の姿を目で追うようになっていた。
『ユリア…君が幸せになれるのなら、俺は何だってしよう。
違う誰かを選んだとしても、笑って君を祝福しよう。君の笑顔が、俺の……』
パキィン……と、張り詰められた何かが断ち切られる。
「スカサハ!!」
フォルセティがこじ開けた、その一瞬の空隙に―――スカサハは違わず剣を振り下ろした。
一度のみならず、返す手、戻す手で幾度も斬り付ける。流れるようなその剣捌きは、剣聖オードの血筋の証―――
「流星剣―――!」
だからスカサハは、一瞬でもいいからマンフロイに剣が届けばいいと言ったのだ。
流星剣は一度斬り付けてから、連鎖的に相手を圧倒的なスピードと剣勢で斬り伏せる技だ。
流星剣が発動されるには、その場の状況も大いに左右する。だがスカサハは研ぎ澄ました集中力で、確実に発動させた。
「ば…馬鹿な……こんな…こんな所で、ワシの夢が……」
「不自然なモノは、いつか消えて行く運命なんだよ……」
復活に贄を求める神が善良である筈がない。
全ての神が万能で、万人に等しく慈悲を与える存在であるならば、その復活を願うのもいいだろう。
だが暗黒竜(ロプトウス)の復活は確実に世界を滅ぼす。決して、許される事ではなかった。
「ば…か……な……」
最期に呼気のような苦悶の声を遺し、マンフロイは絶命した―――
「皆…行ってしまったのね」
「ああ。それぞれの…自分を待ってくれている人たちが居る場所へ」
バーハラ王城の露台に並んで立ち、スカサハとユリアは遥か眼下に広がる城下町を見下ろしていた。
……マンフロイを倒した直後。ユリアは糸の切れた人形のように倒れ込み、丸一日の間、昏々と眠り続けた。
一方ヴェルトマー城でも、スカサハが傷の痛みで人事不省に陥っていた。
肋骨を三本折った所に流星剣を発動させたのだから無理も無い。
セティの治癒魔法で応急処置だけは済ませ、致命傷には遠いものの、やはり大小の傷を負っていた残りの二人もそれぞれに手当てし、
馬を引いて何とか本隊に帰り着いたのは、すっかり夜も更けてからだった。
セリスは四人の生還を確かめる為に自ら出迎え、そしてユリアがマンフロイの支配から無事解放された旨を告げた。
今は彼女も疲労して眠っているが、命に別状は無いと。
ラナやコープルらの介抱で、先に目覚めたのはスカサハの方だった。
骨折で発熱してぼんやりする頭で、目を開けるなり口にしたのはユリアの安否―――
隣で眠っている事を知らされ、自分こそ重傷なのだから安静にしていろと、
ラナとコープルが二人がかりで諭さなければ、ユリアが目覚める前にもう一度スカサハの方が倒れかねなかっただろう。
一夜明けて、遂にスカサハは止められるのも聞かずに起き出すと、ユリアの寝台に付きっきりになった。
規則正しい呼吸は安らかな眠りを享受している証―――
だが、彼女がこのまま目覚めないのではというう不安は、実際に彼女が瞳を開けるまで、決して消える事はなかった。
「目を開けてくれた時は、本当に良かったと思ったよ」
ようやく目覚めたユリアは、頭がはっきりしないのかしばらく目を瞬かせていたが、
スカサハと目が合うと、ふわりと花のような笑みを浮かべた。
心から安堵したような、穏やかな笑顔だった。
『おかえり、ユリア』
『スカサハ……』
彼の笑顔に応えようとして、だが、ユリアは涙を零した。
暗い闇に意識を閉じ込められながらも、ユリアは父の死を、そして自分が仲間を殺めようとした事を理解していた。
その全てを知りながら、スカサハはただ黙って彼女を優しく抱き締めた。ユリアにはその優しさが、何よりも嬉しかった。
ユリアの体調の回復を待って、改めてユリアとセリスはレヴィンに連れられ、ヴェルトマー城を訪れた。
そこにはアルヴィスが最期に娘に託した、ナーガの魔道書が巧みに隠され、眠っていた。
ナーガを手に、多くの人々の支えを受け、血を分けた兄と運命を決する覚悟をユリアは決めた。
辛くない筈はない。だが彼女の決心は確かに世界を、未来の行く末を救ったのだ―――
「…もう、行かないと」
名残は尽きないが、このままではいつまでもスカサハが出立出来ない。
だからユリアの方から寄り添っていた身体をそっと離し、出立を切り出した。
「そうだな…ヨハルヴァが、待ちくたびれている頃だ」
スカサハの父は、ドズル家のレックス公子だった。
妹のラクチェはイザーク王となったシャナンに嫁いだから、父の生家を継ぐのは自分と、従兄のヨハルヴァしかいない。
シレジア王家を継いだセティと、フリージ家を継ぐ決意をしたティニーがそうであったように、
ドズル家を継ぐ事を選んだ自分と、バーハラ王家に残る事が決まったユリアも、今は一時の別離を受け容れた。
だが、いつか必ず―――
「きっと、迎えに来るよ。君に…相応しい男になって」
スカサハは懐から髪飾りを取り出すと、そっとユリアの髪に差した。
あの日彼女に贈って、すぐに彼女の手から離れてしまった…あの髪飾りだった。
「はい…待っています」
ユリアの瞳に、涙が滲む。だがそれは未来を約束された、喜びの涙―――
―――愛している、君だけを―――
囁かれた誓いの言葉に、ただ黙って、彼女は頷いた。
【FIN】
あとがき
個人誌『Wahrheit』に収録していました小説を、SSとして加筆修正してUPしました。
スカサハ×ユリアという、いささか通好みのカップリングではありましたが、
実際にイベントに出してみると意外に売上が良かった覚えがあります。
巷ではセリス×ユリアとかスカサハ×ラナが多かったような気がしてたんですが、結構支持されてたんでしょうか。
長いお話です。多分販売用として書いた小説では、一番の長さ。(無料配布では、この2.5倍程の長さの本を作った事があります)
そして今まで書いた全てのFEの小説の中でも、三本の指に入るくらい気に入っているお話です。
登場人物も、ディアドラにアルヴィスと、非常に多岐に渡っております(笑)
セティやアーサー達がほとんど出ていないというのも特徴的でしょうか。
しかしこれは私故なんでしょうが、後半、非常にオイシイ場面をセティが出張っています。勿論、メインはスカサハなんですけれども(笑)
ちなみにタイトルの『Liebe(リーベ)』とは、ドイツ語で『愛』(笑)訳してしまうと恥ずかしいので、素直にそのまま読んでください(^_^;)
ユリアの素性が判明するくだりを、ゲームの流れとは少し変えたオリジナルに脚色してあります。
個人的には、スカサハが徐々に壊れていく…もとい(笑)自分の想いに正直になっていく辺りが書いてて楽しかったでしょうか。
会話は少なそうだけど、のんびりほのぼのなカップルになると思うのですよ(^_^)
聖戦後のスカサハとユリアについては、『長い夜を越えて』で少し触れてます通り、数年後に結ばれる事になります。
やはり遠距離恋愛の先輩である、セティとティニーに続けという形になってますけど(^_^)
再興したドズル家の領地と爵位を、従兄のヨハルヴァに譲渡してスカサハがバーハラ王家に婿入り。
その後はセリスの片腕として、王妃のラナや妻のユリア共々グランベル王国の発展に務め、長く歴史に名を残す…という事になってます(笑)