物心付いた時には、僕は既に独りぼっちだった。
父親は若くして亡くなり、母親は事情があって僕を育てられなくなったのだそうだ。
やっと歩き始めたばかりの僕を修道院に預け、シレジアの小さな村を出たらしい。
僕を育ててくれたシスターが母親から父親の遺品だという魔道書を預かっていたから、少なくとも父親が魔道士であった事だけは知っていた。
だけど、それだけの事。
亡くなった父親がどんな人だったのかなんて特に興味も無かったし、母親だって同じだった。
修道院には僕以外にも親を亡くした子供は大勢居たし、自分より歳下の子供たちを面倒見ながら生きていくだけで精一杯だった。
毎日が賑やかで、決して豊かではないけど楽しかった。
血の繋がりで結ばれた縁には遠かったけど、戦乱の続く世の中だから、こんなものなんだって思ってた。
いつだって自分の事は自分で決めて来た。
自分の事は、自分で決めるしかなかった。
修道院に残る為に司祭になる勉強をして、このままシスターの手伝いをしながら歳を取っていくんだと漠然と思っていたんだ。
あの日、僕が十五歳になった朝。
父の墓前でシスターが、生き別れた母と妹の事を話してくれるまでは―――
君さえ居れば
ヴェルトマー城に立て籠もったマンフロイが、スカサハによって斃されてから数日が過ぎた。
急遽設営された野営地に満身創痍で戻ったスカサハと、マンフロイの呪縛から解放されたユリアは共にまだ寝たり起きたりの状態である。
ユリウスと彼の率いる十二魔将は、バーハラに布陣したきり動く気配は無い。
ユリアの体調が回復するのを待って、ヴェルトマー城にアルヴィス皇帝が隠したナーガの魔道書を開封しに行く事になっていた。
ロプトウスの化身となったユリウスは、もはやナーガの直系であるユリアにしか斃せない。
それは図らずも血を分けた兄妹が相打つという事である。
辛くはないかと、アーサーは彼女を見舞った際に率直に尋ねてみた。
自分とユリアは従兄妹同士でもあったから。
自分は肉親に縁薄かったけれど、彼女は違う。
少なくとも十年前まで、両親と兄と、幸福に暮らした時間が存在したのだ。それでも、実の兄を討つ事が出来るのかと。
意地の悪い質問だという事は判っている。でも確かめたかった。
彼女の行為は、間違いなく自分の人生をも変える事だから。
ユリアが黙って目を伏せる。
そして小さく、『私にしか出来ない事だから』と呟いた。
「他に方法があれば、もっと違う選択が出来たかもしれない。
でもナーガの直系は私を置いて他に無く、優しかった兄様はもう何処にも居ない。
ならばせめてこれ以上、兄様の魂が汚される前に―――私が救ってあげたいの」
傍らで見守っていた恋人のスカサハと視線を交わし、ユリアは寂しそうな微笑を浮かべた―――
「あ……っと、フィー、あのさ……」
「ん、何?」
野営地で炊き出しの手伝いをしていたフィーに、アーサーが声をかける。
実の妹とは違い、お気楽、呑気、マイペースが身上の彼だが、妙に言葉の端切れが悪い。
おまけに視線が定まらすに泳いでいる―――何か話し難い事が在る時の彼の癖だ。
長く伸ばした銀髪に指を入れ、決まり悪そうに掻いている。
「どうしたの、何か用があったんでしょ?」
フィーが用件を促すと、『やっぱ、いいや』と逃げ出すようにその場を離れてしまった。
「珍しい事もあるものね。貴女達、喧嘩でもしたの?」
アーサーの様子がおかしい事に気付いたのだろう。
同じく炊き出しを手伝っていたラナが、怪訝そう首を傾げる。
「してないから、変なのよ。
全く何度も何度も……一体何を抱え込んでいるんだか」
フィーはそう言って、小さく肩を竦めて見せた。
「あーあ……自分から声かけといて逃げてくるなんて、これじゃ俺、ただの馬鹿じゃないか」
野営地傍の泉のほとりでしゃがみ込んで、アーサーは罪も無い草をブチブチとむしりながら唸っていた。
たった一言口にすればそれで済むのに、ぐるぐると悩み始めて早三日である。
その間、フィーに声をかけては適当に誤魔化して逃げ出した回数は片手の指では収まらない。
そろそろ彼女も不審に思い始めている頃だろう。
「今日こそはっ!……て思ってたのに。はぁ、こんなんじゃいつまで経っても……」
「何がいつまで経ってもなの?」
いきなり声をかけられて、ギョッと振り返る。
誰も傍に居ないと思っていたのに、よりにもよって聞かれた相手はフィーだった。
「あ、あれ?フィー、炊き出しは……?」
「もう終わったわ。と言うか、ラナに追い出されたのよ。
ボーっとした貴方を一人にしておいたら、何をしでかすか判らないから、って」
『ボーっとした』とは心外だが、実際すぐ傍まで来ていたフィーの気配に気付かなかったのだから、やはり集中力散漫になっていたのだろう。
言い返す事も出来なくて、アーサーは決まり悪そうに頭を掻いた。
「で、何を悩んでるの?
ユリアを見舞った後くらいから、貴方少し変よ。一体何があったの?」
「……参ったな、そこまでお見通しか」
まさか、そこまで見抜かれているとは思わなかった。
つまりフィーは自分がいつから悩んでいたかなんてとっくに判っていて、その上で待っていてくれたのだ。
これ以上悩んでいても仕方が無い。悩み続けるのも、もう疲れた。
踏ん切りをつけるように一つ大きく深呼吸すると、アーサーは決意を口にした。
「……フィー、僕はヴェルトマーを継ぐ」
「ヴェルトマー……?戦いが終わったら、貴方はシレジアに帰るんだと思っていたわ」
アーサーはまだやっと歩き始めたばかりの頃に母親の手により、シレジアの修道院へと預けられた。
そこで様々な事情から孤児になった子供たちと一緒に、十数年を過ごした。
以前修道院で一緒に育った子供達は、血の繋がりは無いけれど兄弟のようなものだと言っていたから、恐らく愛着も郷愁もあったのだろう。
だからきっと、彼は全てが終わったらシレジアへ帰るのだろうとフィーは思っていた。
アーサー自身もそう考えていただろう。
早くに亡くなった父親が、聖十二家の一つであるヴェルトマー公爵家のアゼル公子だと知るまでは。
「きっと色々難しい事もあるだろう。自分達は都合よく忘れられても、圧政を受けていた人達は伯父上やユリウスの事を忘れない。
ヴェルトマー公爵家の生き残りと言うだけで、謂れの無い非難や中傷を受ける事もあると思う。だから……」
そこまで口にして言い澱む。
言葉にするかしまいか、戸惑うように。
フィーはシレジア王、レヴィンの娘。
そしてフォルセティの継承者であるセティの実妹である。
『平和な時代になったら、シレジアに帰ってお兄ちゃんと一緒に国を復興させるの』と、いつか彼女は言った。
シレジア王女として、フィーには明るい未来が約束されている。
―――だから、ずっと言えなかった。一緒にヴェルトマーに来て欲しいと。
ヴェルトマーには苦難が待ち構えているだろう。
一度地に堕ちた信頼を取り戻すのに、一体どれ程の時間が必要になるか判らない。
敢えて辛く厳しい道を彼女に選ばせる事が、正直怖かった。
父や伯父と同じ血を引く自分自身が責められるのは耐えられるが、
受ける必要の無い非難をフィーが浴びるのを、果たして自分は赦せるのだろうか。
だが最後の一歩を手助けするようにアーサーの背を押したのは、凛としたフィーの声だった。
「はっきり仰い、アーサー・ヴェルトマー・グランベル!
どんなに辛い棘の道でも歩いて行くと、貴方は自分で決めたのでしょう?」
「え……え?」
ヴェルトマーは家名、グランベルは六公爵家の当主である証。
つまり名に続く『ヴェルトマー・グランベル』という呼称は、彼を『ヴェルトマー公爵』と呼んだに等しい。
「自分で選んだ人生なら迷う事は無い。他の誰が何を言おうと、耳元を吹く風と思って放っておきなさい。
胸を張って、真っ直ぐ私を見て―――言って頂戴。私に、何を望むのか」
フィーは、真っ直ぐに自分を見ていた。
どんな言葉でも受け止めるという、覚悟を秘めて。
彼女自身の父親に瓜二つの翡翠の双眸に映る自分の姿を見て、アーサーも覚悟を決めた。
どんな返事でも構わない。
例え拒まれたとしても、彼女を想って過ごした日々は楽しかった。
共に生きて行くことは出来なくても、きっと良い友人として生きていける。
両親の面影を知らず、妹の存在すら知らなかった頃に比べたら、今の自分は何と幸福な事か。
「……いつの日かヴェルトマーを再興させたい。
父も伯父も、もう居ない。これは僕にしか出来ない事なんだ。
伯父上の娘でも、ユリアはナーガの直系だからバーハラに残らなくてはいけないだろうし……ティニーには、あの地を治めるのは荷が重過ぎる」
ユリアは実の兄を討つ事を、『自分にしか出来ない事だから』と受け容れた。
辛くても苦しくても、それは誰にも代わる事の出来ない役目―――試練と言ってもいいかもしれない。
だが彼女は、例え自分が永劫に罪の意識に苦しめられる事になろうとも、それで兄の魂を救う事が出来るのならばと決意したのだ。
ならば魔皇子ユリウスを生み出したヴェルトマーの家名を雪ぐのは、自分の役目だった。
敢えて自分からは何も言うつもりは無いが、もしも望んでくれるのならば、妹には母の生家であるフリージ家を託したい。
何よりティニーは、フリージ家の人間として十数年を生きてきた。
次の当主となる筈だったイシュタルも、実の妹のように可愛がっていたティニーがフリージ家を継げば喜ぶだろう。
彼女を妃にと望んでいるセティには申し訳ないが、せめてフリージの内政が落ち着くまでしばらく待ってもらうしかない。
「苦労させると思う。謂れの無い非難を受ける事もあるだろう。
だからすぐに返事をくれとは言わない―――全てが終わって、君の決心がついたら……いつか、ヴェルトマーに来て欲しいんだ」
「はい、よく言えました」
やっとの事で言葉にしたアーサーに、まるで子供を褒めるような口調でフィーが呟く。そして……
「でも、待つ必要なんて無いわよ。馬鹿ね」
きょとんとしたの彼の頬を、おもむろに引っ張った。
「いたたたたたた!いふぁいって、ふぃー!!」
『いきなり何するんだよ!』と頬を押さえたアーサーが、非難がましい目でフィーを見る。
彼女は斜めにつんと顎を上げると、『当たり前の事を聞くのはこの口かしら?』と、今度は逆の頬を引っ張った。
「たったそれだけの事を私に言うのに、どれだけ時間を掛ければ気が済むの?
そんなの今更、聞くまでも無いじゃない」
「え……?」
ニッ、とフィーが悪戯っぽく笑う。
爪先立つと、自分が引っ張って赤くなったアーサーの頬に掠めるようなキスをした。
「勿論一緒に行くわ、ヴェルトマーに。
シレジアからアルスターまで歩いて行こうとしてたような人を、一人で行かせる訳ないでしょう」
『何処まで歩いて行く気なの?』
『アルスター』
『アルスター!?』
『うん、ちょっと遠いけどね』
それは、シレジアの片田舎で初めて彼女に会った時に交わした言葉だった。
アーサーは大真面目だったのだが、あまりの計画性の無さにフィーが絶句し、彼を天馬に同乗させてイザークへと渡ったのが縁で今に至る。
「あれは言葉の綾で、本当に歩いていくつもりだった訳じゃないぞ?」
「あら、どうかしら。あの時私に逢ってなかったら、一体どうやってイザークに渡るつもりだったの?
グランベルまで泳ぐか、それとも大きな横波を食らったら一発で沈みそうな小舟でイザークを目指したのかしら?」
「う……それは、その……」
まさか本当に徒歩だけでアルスターにまで辿り着けるとは思っていなかったが、『まあ、何とかなるかな』と考えていたのは事実だ。
お気楽、呑気、マイペースと自他共に認める由縁である。
「仕方ないだろ、あの時はとにかくティニーを探す事だけで頭がいっぱいだったんだから。
あのままシレジアに居たら―――僕は、フィーにもティニーにも出会えないままだった」
悩むより先に、まず動いてみないと何も始まらない。
生き別れた妹が居る事をシスターに聞かされてから、旅立つ決心をするのに要したのは丁度二ヶ月だった。
もしもあと一日でも長く悩んでいたなら、あの日あの時あの場所でフィーに出会う事は無かっただろう。
フィーに出会っていなかったなら、解放軍に加わり妹と再会を果たす事も、自分の両親の事を知る事も無かった。
思慮が足りないと言われてもそれが自分のやり方であり、そしてその選択が間違っていたとは思わない。
拗ねたような表情を浮かべたアーサーの額を、フィーが指先で軽く小突く。
「そうね。多分、貴方はそのままでいいのよ。
これからも感じたまま、貴方の思うように歩いていけばいいんだと思う。
その方向が間違っていたら、私が引っ張り戻してあげる。もしも聴く耳を持たなかったら、引っ叩いてでも止めてあげるわ。
―――だから安心して前を向いて進みなさい。私は必ず、一歩後ろから貴方を見ててあげるから」
二大公爵家の血を引く素晴らしい才能を秘めた魔道士でありながら、市井で育ち、何処か抜けている彼に恋をした。
どんな事にも一生懸命で、幸薄かった妹の幸福を心から願い―――そして誰より、自分を必要としてくれる彼を。
「……それって、一生?いや待て、まさかこれが全部夢じゃないよな……」
確かめるようにアーサーが呟く。
もう一回抓ってやろうかしらとフィーは思ったが、実行に移す前に彼が自分で自分の頬を引っ張っていた。
痛みに顔をしかめ、彼女の言葉が間違いなく現実であると認識する。
彼のそういう素直さが、フィーは好きだった。
自分が忘れそうになる大切な事を、アーサーは思い出させてくれる。
だから彼に惹かれたし、放っておけないと思ったのだ。
「当然でしょ。付いて来いって言った以上、最後まで責任取ってよね」
「取る!取るよ!!絶対取る!!やった!やったーーー!!」
その瞬間彼の浮かべた表情を、フィーはきっと忘れないと思う。
例えるならば弾ける歓喜――― 子供のように、アーサーは全身で喜びを表現した。
フィーの手を取り、ついでに腰にも手を回し、まるでダンスをするようにくるくる回りだす。
そのはしゃぎっぷりに彼女は苦笑いしながらしばらく付き合っていたが、フィーが足を止めると、アーサーもようやく落ち着きを取り戻した。
「アーサー、ヴェルトマーを継いでしまうと忙しくて大変だとは思うけど、時間を作って一度はシレジアに帰りましょう。
私は貴方を育ててくれたシスターと、お父様のお墓にちゃんとご挨拶がしたい。
それから私が生まれたお城を見に行きましょう。私自身は憶えていないけど、これでも一応シレジア城で生まれたのよ」
「うん。セティやフィーが生まれた城を、僕も近くで見てみたい」
「とても綺麗よ。天馬と風の精霊が守る、物語に出て来るようなお城なの」
自分は風使いの末裔として生を受けたが、風使いの才は受け継がなかった。
だけどシレジアを吹く風を懐かしいと思う。そこに暮らした日々も。
王女でありながらシレジア城は表から見た記憶しかないが、父と母が初めて出会った場所だと聞いてからは別の想いが募った。
自分の誕生もアーサーとの出会いも、全てはあの場所から始まっていたのだと―――
「大丈夫。どんなに辛い事があっても、挫けそうになったとしても、二人でならきっと乗り越えて行けるわ」
「ああ、きっと」
物心付いた時から、自分は独りだった。
何でも自分で決めなくてはいけなかった。
でも、今はフィーが居る。
時に迷い、前に進む事を躊躇う事があっても、応援し、励まし、叱咤して過ちを正してくれる人が。
彼女は導く風、そして共に空を駆ける翼。
一人では不可能な事も、彼女と一緒ならきっと何でも出来る。
「フィーが一緒なら、僕は空だって飛べるよ」
照れた顔を隠すように、アーサーは腕の中にフィーを抱き締めた。
その後フィーと共にヴェルトマー領に帰還したアーサーは、伯父と父の生家を再興させた。
夫婦揃って気さくで陽気な人柄が領民にも愛され、後に授かった一人娘と共に、一家は仲睦まじく暮らしたという。
【FIN】
あとがき
と言うわけで、アーサーのプロポーズの巻でした(笑)
自分の継ぐ領地に一緒に来てくれというのは、即ち嫁に来てくれと同意語だと思うので。
勿論女性側もその辺の事は理解した上で返事をしているので問題は無いのですけど。
ヴェルトマー家だけは、他のグランベル五家とは扱われ方が違うと思うんですよね。
あのユリウスやアルヴィスを生み出した家系な訳ですし。
しかしアルヴィス自身は子供狩りにはずっと反対していたし、アーサーが心配していたほど領民の反発は強くなかったんではないかと。
お気楽呑気がモットーな彼も少しは悩む事になりますが、いずれは落ち着いて幸せな家庭を作ります。
ちなみに冒頭のマンフロイ戦については『Liebe(後編)』を参照の事。
タイトルはDEENの某曲から頂きました。元はもっと無難な仮題だったんですが。
『中華一番!』の主題歌にもなってた、あの歌大好きさ!ついでに十八番(笑)時々唄うよ♪
麻生 司
2006/11/02