「セティ様!」
「ああ、ティニー。今帰ったよ」
翌早朝、城に戻ったセティをティニーが出迎えた。
街の神殿に出向いたまま戻らないセティの事が気掛かりで、この二夜あまりよく眠れなかったティニーは夜明け前に目が覚めた。
夜明けを待って様子を見に行こうと城門まで出て来た所に、丁度彼が帰って来たのである。
「夜が明けてもお帰りにならなかったら、神殿まで様子を見に行くつもりでした。
残念ながらお城の書庫からは、役に立ちそうな物は見付からなかったんですけど……」
仲間全員で書庫を当たったが、レヴィン達が初めに見付けた文献以上の事が書かれた物は、何一つ見付けられなかったのだ。
申し訳無くて思わず俯いてしまう。
「遅くなって済まなかった。
昨夜の内に戻るつもりだったんだが―――その直前に、ようやく手掛かりを掴んだよ」
「え……?では……」
セティが頷く。
「夜が明けたら、司祭位を持つ者を広間に集めて欲しい。其処で、判った事を皆に話すから」
Even if time when this life ends comes 2
「神殿には、トラキアを蝕む風土病に関する詳細な記録が歴代の司祭達の手により残されていた。
しかしこの病を文書として記録するのは王家の命に背く事だったらしく、書棚に巧みに隠されていた。判った事を、皆に簡潔に伝える」
一刻(二時間)後、ティニーの呼び掛けで司祭位を持つ者達が広間に集まった。
司祭位を持たないアーサーやリーンの姿もあるが、拒む理由は無い。
セティは皆の輪から少し離れて、司祭が残した記録から知り得た事を端的に話して聞かせた。
この風土病が広まるのは、例外無く冬の終わりから春にかけてだという事。
発病の原因は不明だが、夫婦、親子などの親族単位で顕著に纏まった発症者が出る事実から、恐らく罹患者への接触で感染するであろう事。
感染から発病までは恐ろしく早く、早い者で一日、遅い者でも数日の内に症状が出るという事。
個人差があるものの、発病から死に至るまで―――ごく稀に奇跡的に回復する者もあるが、
その場合は発病から回復に向かうまでの期間を意味する―――は、およそ十日〜二週間程度である事……などである。
「発病者は今も増え続けている。僕が神殿に篭もっていた二夜だけでも、新たに発病した者が数十名、この城を出てやって来た。
感染から発病まで遅い者でも数日という事は、一両日中に解放軍の中からも発病者を出す可能性がある。
今の状態で一度発病してしまったら、この街を急いで出る事に意味は無い」
コクン、と誰かが息を呑む気配がする。
感染の脅威は、誰もが既に肌で感じていた事だったから。
「……街の神殿に残られた司祭は、先日最後の一人も亡くなられた。
病の苦痛から人々を例え数日でも数時間でも救ってくれた司祭は、もはやあの神殿には存在しない。発病した者は、ただ緩慢に訪れる死を待つだけだ。
だがその司祭は最期にある事を僕に告げて、息を引き取られたんだ。
『トラキアを奇跡の力で救う聖なる血脈は、既に絶えてしまった』―――と」
セティが懐から、隠し戸棚に収められていた書簡を取り出す。
「これは亡くなられた司祭が、病が広がり始めたばかりの頃、ある人物を捜し求めて送った書簡に対する返事だ。
此処にはこう書かれている。
『先代当主であるクロード様は、御子を成されないまま十六年前、バーハラの獄中でお亡くなりになりました。
当家にはもはやブラギの直系は存命しておりません。トラキアの危機を救う血脈は絶えてしまいました』
……残されたエッダ家の縁戚が、トラキアの窮状を憂いて寄越したものらしい。
また司祭は、こうも書き残している。
トラキアを数十年に一度の周期で襲う死の病を鎮めたのは―――ブラギの直系だと。
恐ろしい病が広がり始めた報せを聞くと、エッダ家の当主が聖なる杖を手にこの地訪れ、人々を癒したんだそうだ」
エッダ家とクロードの名に、皆の視線がコープルに向けられる。
だが歳若いブラギの後継者は、困惑をその面に浮かべていた。
「聖なる杖……?でも、聖杖バルキリーは死者を蘇らせる物であって、生者の病を癒す力はありません」
死に至る病を癒す力を秘めているというのなら、自分は何度でもバルキリーを振るう。
だが残念ながら、バルキリーにそんな力は無い。
直系であるが故に、コープルは正しくその力を知っていた。
「うん、それは僕も気になった。
この『聖なる杖』という呼称は、単に記録を残したトラキアの司祭が奇跡的な癒しの力を尊んでつけたもので、勿論バルキリーの事じゃない。
代々のエッダ家当主が幾度と無くトラキアを救った奇跡―――記録されたその効果を見るに、恐らく聖なる杖とは『リザーブ』の事だと思う」
その名は、司祭の称号を持つ者ならば誰しも一度は耳にした事があった。
絶大な癒しの力を持つと言われながら、その貴重さ故に、一般の司祭は目にする機会すら与えられなかった聖なる杖。
とある司祭の家系に受け継がれているという噂は、何時の時代にも存在していたのだが……
それが代々優れた司祭を輩出して来たエッダ家であるならば納得がいく。
「……そうか。リザーブなら、確かにこの状況でも―――事態を打開出来る」
リーフが得心したように呟いた。
「そう―――リザーブがその効力を発するのは個人ではなく、術者の魔力に比例する一定の範囲内だ。
この杖の癒しの力が及ぶ範囲であるならば、患者の数は百でも千でも関係無い。
術者を中心に一定の範囲内の全ての患者を一瞬にして癒す―――それこそが、長年トラキアの民を死病による破滅から救って来たエッダ家の力だ」
シン…と、広間が静まり返る。
死病を癒す可能性を見付けたはいいが、コープル以外の者には結局どうしようもないという事もはっきりと判ったからだろうか。
そんな中、リーフの傍らでナンナがおずおずと手を挙げた。
「でも何故、リザーブはエッダ家の当主が継承していたのですか?
ブラギの家系が司祭として優秀なのは勿論ですが、当主自らが死病の蔓延する地に赴かなくてはいけなかったなんて……」
当主自らが死地に向かうリスクを冒し、代理の司祭を立てなかったのは何故なのか。
「……これは僕の推測に過ぎないが、リザーブは範囲に対して影響を及ぼすという特殊な効果を持つ代わりに、
秘められた癒しの力そのものは然程高くなかったんではないかと思う。
治癒魔法は術者の魔力がそのまま比例し、効力となって現れる。
つまり同じライブの杖を振るっても、高い魔力を持つ司祭ならばリカバーに等しい力を示す。
だからこそ代々優れた司祭を輩出し、尚且つ生まれながらに高い魔力を持つブラギの直系にしか、その役目を果たす事が出来なかったんだろう」
クロード亡き後、当主不在のエッダ家を守っていた縁戚は、彼が生前リーンとコープルという二人の子を成した事実を知らなかった。
だからこそトラキアを救える血統は絶えてしまったと信じていたのだ。
実際には亡父の血と力は息子であるコープルへと受け継がれ、幼いながらも彼の身体には聖痕も現れている。
―――まだ、希望は潰えてはいない。
「でも僕は―――リザーブの杖を持っていません。僕に遺されたのは……バルキリーだけなんです」
コープルの言葉に、ハッと皆が我に返った。
そう―――彼がリザーブを継承していたのなら、セティがその名を口にした時点ですぐに名乗りをあげた筈である。
だがコープルはそうしなかった。
それはつまり、彼がリザーブの所有者ではない事の証であった。
「僕が生まれてまだ間もなかった頃、偶然出産の面倒を見た母に頼まれ引き取ったのだと……義父(ちち)から聞いています。
だけど母が、赤ん坊だった僕と一緒に義父に託したのは―――このバルキリーの杖だけだった」
手にした聖杖を、コープルはギュッと握り締めた。
エッダ家の当主がこのバルキリーと共に代々受け継いでいたのだとしたら、やはり実父がリザーブの杖を所有していたのだろうか。
だがレヴィンやオイフェから聞いた話でも、トラキアの司祭の下に届けられた書簡でも、実父は獄死したと言う。
唯一の救いは、本家にすら知られていなかった自分たち姉弟が存在していた事だが……リザーブの行方は判らない。
だがセティは『心配しなくてもいい』と、言葉を続けた。
「聖なる杖……リザーブの行方についても、比較的新しい記録が残されていたよ。
今から十数年前、他国から流れて来た踊り娘が、グルティア近くの山腹にある神殿に一振りの杖を納めたらしい。
『リザーブ』と呼ばれたその杖を、彼女はいずれトラキアを襲う災厄を救う希望だと告げた。
そしてその踊り娘はブラギ神を讃える見事な舞を杖と共に奉納し―――舞い終えると同時に事切れたそうだ。
後に『神の舞姫』と称され、トラキアの司祭の間で伝説となったその踊り娘の名は……シルヴィア、と伝えられている」
「シルヴィア……?それは、まさか……」
その名に、コープルとリーンが互いの顔を見合わせる。
つい数ヶ月前、互いに知らされたばかりのその女性の名は―――
「そう―――君達の母上だ。
今リザーブは、シルヴィア殿の手によってグルティアの神殿に納められている」
セティは二人に頷いて見せた。
「ブラギの直系は、アグストリア北部に在る塔で未来を視ると言う。
恐らく君達の父上―――クロード神父は、シグルド卿や自分が、いずれ辿る運命を知っていたのだろう。
そして近い将来、トラキアに再び死病が蔓延する事を。
だからシルヴィア殿に自らの持つ杖を託したんだ。君の母上がトラキアに逃れて、いつか来る災厄に希望を残す為に。
その時既に姉であるリーンは生まれていて……更にシルヴィア殿は、君を身篭っておられたんだろう」
コープルの脳裏に、面影すら憶えていない母の笑顔が視えたような気がした。
父と別れ、姉を連れて追っ手から逃れた母は、ダーナに辿り着いた時に二人目の子―――自分を身篭っている事に気付いた。
幼い姉だけならまだしも、腹にもう一人抱えての旅は困難を極めたに違いない。
母は後で迎えに来るつもりで、ダーナの修道院に姉を預けて旅を続けた。
だがやっとの思いでトラキアに辿り着き、何とか自分を産み落としたその時には―――既に母には、生きる力が残されていなかった。
父との約束を果たし、グルティアの神殿にリザーブの杖を奉納した後に、異郷の地で息を引き取ったのだろう。
「僕達は、選ばなくてはならない」
それはより多くの命を救いたいと願い、父の命に背いてまで死病の治癒方法を探し求めたセティにとって、苦渋の決断だった。
「……辛い選択になる。だが、全てを救う事は出来ない。
ならば救う命を選ばなくてはいけない。そして僕は……その選択の中で、少しでも多くの命を救いたいんだ」
死病の脅威に晒され、苦しむ人々を救いたい。
心からそう願っていた。今もその思いは変わっていない。
だが治癒魔法を司る術者に限界がある以上、全てを救う事は出来ない―――それもまた、事実だった。
聖戦士の末裔は、神の力と血を受け継ぐ器。
神の力を受け継ぐ以上、自分達には果たすべき使命が在る。
その為には血を残し、力を次代へと継承しなければならない。
迫る闇から、蝕む災厄からこの世界を守る為に―――今此処で、全ての希望を喪うわけにはいかない。
彼が何を言わんとしているかに気付いた仲間たちの間に、動揺が走る。
「グルティアには僕が行く」
それは静かな決意だった。
例えリザーブの杖を持って帰還するまでであっても、救うべき命を選ぶ罪を、自分一人が背負うという暗黙の。
「リーフ王子、コープル、ラナ、ユリア、ナンナ、ティニー、フィー。治癒魔法を司る君たちは、出来るだけ力を温存しておくんだ。
万が一、聖戦士の末裔である解放軍の中枢に発病者が出た場合にのみ、時間を稼ぐ為の治療を。
発病した者に少しでも治療を施したいという気持ちは判るが、治癒魔法が万能ではなく有限である以上―――全てを望むのは、不可能だ」
セティが命の選択をした事に、司祭位を持つ者達は気付いた。
彼自身が仲間に命じる事で、その重荷を一人で背負った事も。
選んだのではなく命じられた事であるならば、その咎は自分一人に帰するからと。
「特にコープル―――君だけは、僕が戻るまで絶対に力を使うな。どれ程辛くても……決して使うな。
僕が戻れば、以前ティニーを救ってくれた時以上の負担と覚悟を、君に求めなくてはいけなくなる」
「セティさん……」
それはかつて雪崩から孤児達を守る為にセティを援護し、一度は命を落としたティニーを、コープルがバルキリーの神力で蘇生させた事に他ならなかった。
治癒魔法に優れて高い力を誇るブラギ直系のコープルでさえ、彼女を蘇生させた後には数日間の絶対安静を強いられた。
それ以上の負担と覚悟とは、つまり罹患者の全てが回復するまでリザーブを行使しろという事に他ならない―――もしかしたら、命を危うくする程に。
「―――僕が持ち帰るリザーブの杖で、全ての罹患者を一度に癒す以外に道は無い。判ってくれるね?」
「……はい」
ブラギの紋章が浮かび上がる拳を、固く握り締める。
病に苦しむ人々を救いたいと言ったのは自分なのに。
滅びに瀕したこの街を見捨てて行くのかと、レヴィンに詰め寄ったのは自分なのに。
セティ一人に全ての罪科(つみとが)を負わせ、ただ待つ事しか出来ない自分は、何とか弱い存在なのか。
「コープル、人にはそれぞれ持って生まれた役割が在る。
君がブラギから受け継いだ力は、生きとし生ける全ての命を癒す為の力―――僕にも、そして他の誰にも出来ない事が、君になら出来る」
俯いたコープルの耳に、セティの声が響く。
聖戦士の直系は次代に血と力を受け継ぐ為の器に過ぎないのかと思い知らされた自分を、力付けてくれた時と同じように。
小さなコープルが、頭一つ背の高いセティを見上げる。
唇を噛み締め、揺ぎ無い強い意志を瞳に映して。
「僕は必ずリザーブの杖を持って戻る。だが、死病に苦しむ人々を本当に救えるのは君しか居ない。
その事を、どうか忘れないで」
「はい……!必ず僕が、皆を治してみせます……!」
握った拳で、目尻に浮かんだ悔し涙を拭った。
「セティ様……これからすぐにグルティアに向かわれるだなんて―――」
「ああ……あいつ神殿でずっと調べ物してて、ほとんど眠ってないんじゃないのか?隠そうとしてたけど、相当しんどそうだったし」
「寝てないと思うわよ。お兄ちゃん、放っておくと二昼夜くらいぶっ通しで調べ物とかやっちゃうのよね。
多分トラキア攻略戦以降、まともに睡眠取ってない筈だわ」
仲間の輪の外でセティの姿を見ていたティニーが不安そうに呟くと、アーサーとフィーも同感だったらしく、厳しい表情を浮かべた。
確かに彼は、一見何の変わりもないように見えるが……やはり蓄積された拭い難い疲労は明らかである。
時間が無い事は判っているが、それ以上にセティの体調の方がより心配だった。
「おいセティ、ちょっと待てよ!」
広間を出た彼を、後を追ったアーサーが呼び止める。
「自分が行くって言っても、お前フラフラじゃないか。
治療法を探してて、ずっと眠って無いんだろ?少し寝(やす)んで行った方が……」
「こっちに戻るまでに一刻(二時間)は寝んだよ―――大丈夫だ」
腕を掴んだアーサーの手を、セティが振り解いた。
「そういう事は鏡見てから言いなさい。全然大丈夫って顔色じゃないでしょう!ほら、ティニーもバシッと言ってやって!!」
僅かにセティの表情が揺らぐ。
ティニーはフィーに押し出されるようにして彼の前に立ったが、かけるべき言葉が見付からなかった。
何故なら彼が目を逸らしたからだ。
避けるように、自分からも兄達からも視線を背ける。
―――こんな事は初めてだった。
「……鎮める事が出来ると判った以上、一刻も早く動かなければ全て無駄になってしまう。
言っただろう、この病は感染から発病までが恐ろしく早い。
体力の無い老人や子供は、発病から数日待たずに命を落とす事だってある―――少しの時間も、無駄には出来ないんだ」
『ちょっと、お兄ちゃん!?』とフィーが呼び止めるのも構わず、彼はそのまま立ち去ってしまった。
何と言うことの無い行動だったのかもしれない。
大丈夫だと言うことを示したかっただけなのかもしれない。
「セティ様……」
だがセティらしからぬ様子に違和感を覚えたティニーは、不安が胸の内を染めていく事を止める事が出来なかった。
僅かな時間で旅装を整えると、セティは一つの扉の前に立った。
軽くノックをすると、『入れ』という短い返事が返って来る。
見かけよりも重い扉を開けると、書面に目を落としていた父―――レヴィンが顔を上げた。
「お前か。何の用だ?」
「父上に、これをお返ししに来ました」
セティが懐から取り出し卓の上に置いたのは、フォルセティの魔道書だった。
微かにレヴィンの眉が動く。
「……もう私の物ではない」
「例えそうだとしても、お預けしておきます」
そう口にすると、魔道書を父の手元へと押しやった。
「貴方はかつてより多くの命を救う為に、母上と、まだ幼かった僕とフィーを置いて国を出た。
僕はフォルセティの後継者である前に、より多くの命を救う道を選びたい―――例え愚か者と、貴方に誹られる事になろうとも」
翡翠の双眸がセティを見据える。
彼は父の視線を、背筋を真っ直ぐ伸ばして受け止めた。
「僕に万が一の事があっても、貴方が居る限り『風使い』の血は絶えない―――そうでしょう?」
それはセティが、子を成さないまま死を意識したという事に他ならない。
だがレヴィンは、黙って息子の言葉に耳を傾けていた。
「僕の血が絶えれば、いつか生まれるフィーの子に力が覚醒するかもしれない。
貴方が新たに子を設けるのも一つの道でしょう―――いずれにしても、フィーは激怒するでしょうが」
妻と子を捨てた父親を、フィーは心底憎んでいた。
アーサーと出会い、兄であるセティと再会した事で少しは和らいだが……今でも、確執は残っている。
自分の子が風使いの直系として覚醒するという事は、即ちそれは兄であるセティの死を意味していた。
『縁起でもない事を口にするな』と、フィーは本気で怒るだろう。
ましてや母以外の女性に父親が新たに子を産ませるなど、絶対に赦さないに違いない。
だが今のセティには、それも必要な選択肢の一つだった。
「これからグルティアの神殿に発ちます。後の事は、父上の采配にお任せします」
深々と頭を下げ、踵を返す。その背中に―――
「―――必ず戻って来い、セティ」
思いもかけなかった父の言葉に足を止め、セティが一瞬言葉を失う。
父はこちらに背を向け、窓から城下を見下ろしていた。
「お前が犠牲になれば泣く者がいる。
知っていて止めなかったのかと、フィーに憎まれるのは今更だが……ティニーにまで恨まれるのは敵わない」
それは、父が全てを察している事の証だった。
何故自分がフォルセティの加護を喪う事を承知で、魔道書を置いて行く覚悟をしたのかを。
今一度父の後姿に頭を垂れ、セティは部屋を後にした。
後ろ手に扉を閉めると、セティはそのまま扉に寄りかかった。
身体が重い。
全身の関節がギシギシと音を立て、まるで鉛の足枷を付けられているかのようだった。
幼い頃から身が軽かった為か、自分の身体をここまで重いと自覚したのは初めてのような気がする。
しばらくそのままの姿勢で目を伏せ、浅い呼吸を繰り返した。
だがいつまでも此処でこうしている訳にも行かない。
勢いをつけるようにして扉から背を離したセティの視界を、見慣れた靴の爪先が掠める。
セティが出て来るのを待つかのように其処に立っていたのは、思い詰めた表情を浮かべたティニーだった。
「―――フォルセティの魔道書を、レヴィン様に預けて来られたのですね」
「……何故、それを?」
父との会話を聞いていたのだろうか。
だがティニーは彼の頭を過ぎった考えを否定するように、小さく首を振った。
「私は、フォルセティの風を忘れたりしません。
セティ様は、いつだってあの優しい風に守られていた。なのに……今は、その気配が酷く遠い。
こんな状態のセティ様を一人で行かせる事なんて出来ません。私も一緒にグルティアに行きます」
「―――駄目だ。君を……連れて行く事は出来ない」
はっきりと言葉にされた拒絶に、ティニーの瞳が揺れる。
セティの面にも一瞬動揺が走ったが、彼女から目を逸らす事で辛うじて言葉を飲み込んだ。
「……嫌です。やっぱり嫌っ……!!」
嗚咽混じりの必死の叫びに思わずセティが顔を上げ、ティニーを見返す。
彼女の瞳には大粒の涙が滲んでいた。
「行かないで……私を、置いて行かないで……!
このまま貴方を行かせてしまったら、もう二度と会えないかもしれない。
だって貴方は―――既に発病しているのに!!」
悲鳴のようなその声に。
そして父と同じく、彼女もまた全てを察していた事を知り、セティが小さく息をつく。
「……気付いていたのか」
両手に顔を伏せ、ティニーが小さく頷いた。
そう―――セティの身体は、既に病魔に侵され始めていた。
初期症状である全身の倦怠感、発熱を自覚したのは、隠し戸棚の中にあった司祭の記録に目を通した時の事。
自覚症状と、記録に残されていた諸症状が一致している事に気付くのに、そう時間は掛からなかった。
このまま病状が進行し続ければ、遠からず死に至る事も。
だから急がなくてはならなかった。
この国を蹂躙する病を鎮める為に。
報告と、対策が見付かった事を告げる為に一度はこの城に戻って来る事になってしまったが、
これ以上自分を媒介にして大切な仲間内に感染者を増やさない為に。
―――少しでも早く城を発ち、リザーブの杖を手にしなくてはならなかったのだ。
「……一体、いつから?」
「不安を感じたのは、先程広間でお話しされている姿を見た時です」
その不安が確信に変わったのは、セティが兄の手を振りほどいた時だったと彼女は言った。
「ご自分では意識していないかもしれませんけど―――
セティ様は誰かを励ましたり安心させようとする時、必ず相手の肩に手を置かれるんです。『大丈夫』『心配ない』……って。
だけど広間では―――セティ様は、決して自分からコープルに触れようとしなかった。
休んで行けと、後を追って止めようとした兄様の手も振り解いた。まるで、自分に誰かが触れる事を厭うように」
彼は言っていたではないか。
この病は、恐らく罹患者に接触する事で感染するのだと。
そして感染から発病までは恐ろしく早く、早い者で一日、遅い者でも数日の内に症状が出ると。
発病者ばかりが集まった神殿に二昼夜篭もっていた彼が感染したのは、ある意味当然だったのかもしれない。
セティは見つけ出した記録を読み解く内に、自ら感染、発病した事に気付いたのだろう。
だから殊更に、人との接触を避けていたのだ。
まさかと思いたかった。
本当に発病しているとするならば、既にかなり具合が悪くなっている筈なのだ。
そんな身体で、彼一人を行かせる事など出来ない。
「……その上、貴方はフォルセティの加護さえ手放した。
いつ倒れてもおかしくない状態なのに……それでも一人で行くと言うのですか!?」
「既に発病している僕が一人で行く事が、一番リスクが少ないんだ。
判ってくれとは言わない―――ただ、黙ってこのまま行かせて欲しい」
「セティ様……」
ぽろぽろと菫色の瞳から、涙が零れ落ちた。
抱き締めたい。
息も出来ぬほど強く胸に抱き締めて、心配するなと言いたかった。
だが発病した自分が、彼女に触れる事は赦されない。
こうして間近で話している事さえ、恐らくは大変な危険を冒しているのだから。
だがそんな迷いは、数歩の距離を一息に歩み寄ったティニーによって振り払われた。
彼女が爪先立ち、セティの唇に自ら口付けたのだ。
翡翠の瞳が驚愕に見開かれ、華奢な身体を押し返す。
「何をするんだ……!こんな事をしたら、君まで――― !!」
「貴方の命があと数日だと言うのなら、私も一緒にその時間を背負います」
涙に濡れた瞳で見上げ、ティニーは毅然と呟いた。
「貴方は救うべき命を選ぶと言った。
―――でも貴方の居ないこの世界に、私一人で生きていたって意味が無い」
自分の首からペンダントを外し、セティの首にかける。
それは若くして亡くなった彼女の母が、娘に遺した唯一の形見―――生き別れた兄と彼女を繋いだ、掛け替えの無い品だった。
「私を救う為に、必ず帰って来てください。
苦しくても、挫けそうになっても……必ず生きて還って、私を死の病から救ってください。
貴方がお帰りになるその時まで―――私も、決して死にはしないから……!」
発病者と接触しても、必ず感染するとは限らない。だが万が一感染していれば、早ければ明日にも発病するだろう。
運が悪ければ、セティの帰りを待つ事無く死に至る可能性すらある。
もしも自分が感染していたら―――
もしも彼が病に倒れ、戻らなかったなら―――
死が互いを永遠に奪い、二度と会えないかもしれない。
溢れそうなこの想いを、堪えきれない涙の理由を、どんな言葉で伝えればいいのか判らない。
だが次の瞬間、彼女はセティの胸の中に抱き締められていた。
「コープルの存在とリザーブは、トラキアに残された希望の光だ。そして君は僕の光……絶対に死なせはしない―――!
例えこの命が終わる時が来ても―――君は必ず、僕が守るよ」
「そんな哀しい約束は要らない。貴方は死なないわ。私を置いて、貴方が死ぬ筈ないもの……!」
ティニーの腕が、セティの背を抱き締める。
彼もまた、彼女の身体を強く抱き返した。
「……せめて往路だけでもお手伝いさせてください。神殿の在るグルティアの山裾までお送りします。
ラナから、転移魔法(ワープ)を借りてきましたから」
涙を拭い、手にした杖を彼に見せる。
一冬をルテキアで過ごした彼等は、グルティアを含む周辺の土地にも詳しくなっていた。
転移魔法は術者か、或いは被術者が正確に場所をイメージ出来る場所に転移を可能にさせる。
神殿の目の前とは行かないが、ある程度の場所まで距離と時間を稼ぐ事は可能だ。
刻一刻と体力が落ちていく今のセティには、それは貴重な時間だった。
「気休めにしかならないけれど、少しでも楽になるように」
「ありがとう」
ティニーがかけてくれたリライブの効果で、僅かに身体が軽くなった。恐らく少し熱が下がったのだろう。
だが彼女の言う通り、それは一時的なものに過ぎない。セティにも治癒魔法は使えるが、術者自身を癒す事は出来ないのだ。
再び悪化し、消耗が進んで動けなくなる前に帰還しなければトラキアは滅ぶ。
リザーブを持ち帰る事が出来なければ、遠からず解放軍も同じ運命を辿る事になるだろう。
「目を閉じて……グルティアを臨む山裾を思い描いてください」
転移魔法の光がセティを包む。
やがて風に溶けるように、彼の姿は掻き消えた。
「セティ様―――信じています」
触れた肌の温もりが未だ残る腕を抱き締め、ティニーは小さく呟いた。
グルティアの神殿は、滅多に人が足を踏み入れない山の中腹に建てられていた。
転移魔法によりグルティアの山裾に降り立ったセティは、辛うじて人が踏みしめて出来た道らしき物を辿った。
ただ闇雲に歩いていた訳ではない。
ルテキアに滞在していた頃、この山の中に神殿がある事は、城下街の司祭から聞いていた。
そこは一般の人間が礼拝に訪れる場所ではなく、神の教えを極めようと、修行を積む修道士が集う場所なのだと。
この道が必ずしも神殿へと通じている保証は無い。
だがセティは自分の直感を信じ、力の入らなくなってきた足で、黙々と山道を歩き続けた。
体調が良ければ、遥かに道程は楽だっただろう。
陽が頭の上を過ぎ、辺りが闇に沈む頃には、発熱による脱水症状と筋肉の痛みでしばらく身動きが出来なくなった。
転移する直前にティニーがリライブをかけてくれていなければ、もっと早くに動けなくなっていたところだ。
どうにか沢を探して喉を潤し、木の根元に丸くなって僅かな休息を取る。
軋む身体を叱咤しながら、歩き続けて約半日―――朝靄の中に、岩壁を刳り貫いて作られた神殿が姿を現した。
「―――何者だ?」
ゆらり、と古い扉の前を離れた一つの影がセティの前に立つ。
肩幅広く、槍を手にしたその人影は、神官服を纏った壮年の男のものだった。
神殿を守る神官兵だろうか。
「このように寂れた神殿に何の用だ」
誰何の声に、セティは呼吸を整え来意を告げた。
「私の名はセティ。トラキアを蝕む死病を鎮める為、この神殿に納められているというリザーブの杖を賜りに来た。
判断を仰げる方に、取次ぎをお願いしたい」
「ほう……噂に名高い、マンスターの英雄か」
セティの名に、男の表情が僅かに動く。
英雄だなどと持て囃された事は本意では無かったが、思わぬところで名が通っていた事に感謝する。
全く得体の知れない相手と思われているよりは、話が早い。
「リザーブの杖を賜りに来たと言ったな。確かにリザーブは、このグルティア神殿に至宝として奉納されている。
だがあの杖を継承すべきは、ブラギの直系、エッダ家の当主のみ。
私はトラバント様から然るべき時が来るまでかの杖を守る任を受け、この地の守人となった。この地には、他には誰一人居らぬ。
マンスターの英雄よ、貴公はブラギの血を継ぐ者か?」
淡々とした問い掛けに、セティは『否』と答えた。
「ならば如何に望まれようとも、正当なる後継者ではない貴公に、リザーブを渡す事は出来ぬ」
「確かに私はエッダ家の末裔ではないが、感染の危険を避ける為トラキア城に残った仲間に、リザーブを受け継ぐべきブラギ直系の少年が居ます。
未だ歳若いが、解放軍の中で最も回復魔法の才に長けている。
彼が亡き父、クロード神父の遺品であるリザーブの杖を手にすれば、癒しの光は全てに等しく降り注ぐ。
杖を渡して頂ければ、命に代えても、私が必ず彼の元へと届けます」
立っている事さえ辛い。
視界が狭まり、目の前に立つ神官兵の姿が歪んで視える。
セティは意志の力だけで、辛うじて踏み止まっていた。
男は値踏みするかのようにセティを見ていたが、やがて重々しい声で尋ねた。
「マンスターの英雄、賢者セティ。だが貴公は判っているか?
貴公の仲間がもたらすその奇跡は、敵であるトラキアの民を救うという事なのだと」
「……貴方にも、守りたい家族や友が居るでしょう。
今の私は解放軍でも、トラキアの敵でもない。ただ病に苦しむ人達を、救えるかもしれない命を諦めたくないだけです。
解放軍の仲間が感染し、発病するのも時間の問題だ。トラキアの民も同じ病で苦しんでいる。だがリザーブの杖さえあれば癒す事が出来る。
―――誰かを救いたいと願うのに、それ以上の理由が必要か?」
互いに相対したまま、無言の時間が過ぎる。
「……なるほど。貴公の言いたい事は判った」
「では……?」
ホッ、と安堵の息が漏れる。
しかし次の瞬間、頭を過ぎった甘い考えは断ち切られた。
神官兵が手にした槍を肩の上で構えたのである。
「判ったが、それでも私は貴公を通す訳には行かぬ。
この神殿に奉られた宝を手に出来るのは、ブラギの直系唯一人。
継承者が現れるその日までこの地を守れ―――それこそが、私がトラバント様に受けた唯一絶対の役目なれば」
ドッ…という鈍い音と同時に、槍が衣服と肉を裂いた。
投げ付けられた槍が上衣とマントを共に切り裂き、傷口を押さえた手の下から血が滲む。セティの瞳が驚愕に見開かれた。
「馬鹿な……何故戦う必要がある!? 僕は少しでも多くの命を救いたいと願っているだけだ!!」
「貴公が真に風の賢者であり、ブラギの直系が今も真実存在するかどうかは判らぬよ」
男は確かに『風の賢者』と言った。
セティが風使いの直系である事を、何処からか伝え聞いたのであろうか。
あのトラバントから唯一人で宝と神殿を守れと任ぜられるほどの男であるならば、彼の素性を知っていたとしても不思議ではない。
引き抜かれた槍が再びセティを襲う。
フィンやアルテナの槍さばきを見慣れている彼であれば、苦も無く見極められる筈であった。
だが、まるで砂袋を抱いているかのように身体が重い。
自由にならない身体を引き摺るようにして翻し、神官兵から距離を取ったセティは、自分の掌を見詰めた。
フォルセティの魔道書は、今はもう手元に無い。
万が一自分が戻らなかった場合、新たな継承者へと受け継がせる為に、父レヴィンの元へと残して来た。
だが神の力の器として命を受けたセティの身体には、聖遺物を手放してなお、その力の残滓が残されていた。
長くは持たないが――― 一瞬であれば、力を放出する事は出来る。
ティニーから託されたペンダントを握り締め、彼は静かに呪文を詠唱した。
「……我が名はセティ、古の風の王の名と血を受け継ぎし者。
僅かな時間でいい―――風よ、我に従い刃となりて、我が敵を打ち倒し給え……!」
命を奪う必要は無い。
ただ、相手の戦闘意欲を奪えればそれでいい。
狙うは槍を持つ右腕―――だが男は構えていた槍を無防備に下ろすと、セティの放った風の刃をその身体で受け止めた。
血の紅が、花のように乾いた土の上に散る。
「馬鹿な……槍を下ろす暇(いとま)があれば、避ける事だって出来ただろう!?」
驚愕の表情を浮かべたセティが、崩れ落ちる男にまろぶように駆け寄り、辛うじて倒れ伏さないよう支えた。
セティ自身も膝をつき、男の手にしていた槍を杖代わりにして地に突き立てると、リライブの杖を翳す。
だが男が杖を持つ手を押さえ、治癒魔法の詠唱を止めさせた。
「止めておけ……どうせ、生き延びても詮無いことだ。生きた屍同然の私に……無駄な体力を使うな」
「―――どうして避けなかった?」
静かな問い掛けに、ヒュウ、と男の喉が笛のような音を立てる。
多量の出血から呼吸困難を起こし始めていた。
「……主命により、私は此処を動く事も、ブラギの直系以外に宝を渡す事も出来ぬ。
風使いの直系と言えども……聖遺物の守護を喪い、既に発病したその状態では長くは保つまい。
たった数合の討ち合いにも耐えられないだろう……貴公にリザーブの杖を渡す為には、こうするしかなかったのだ」
「……僕が発病していると、気付いていながら敢えて自ら死を選んだのか?」
聖遺物を手放し、病魔に蝕まれたこの身体では、ほんの一瞬風を支配下に置く事しか出来なかった。
彼が攻撃をかわし続けていれば、すぐにセティの体力は尽き、もはや男の攻撃を避ける事すら出来なくなっていたに違いない。
だが、男はそうしなかった。
自ら槍を持つ手を下ろし、まるで迎えるかのように大きく両腕を広げ、風の刃をその身に受けたのだ。
男はセティを見遣ると、ふと口元に自嘲めいた笑みを浮かべた。
「……私にも守りたい家族や友が居るだろうと……貴公は言ったな。
残念ながら、私の守りたかったものは喪われてしまった―――妻も子も貴公と同じ病を発症し……十日前、息を引き取ったそうだ」
それは変えられぬ過去―――
死に瀕した命は救えるかもしれない。
だが既に喪われた命を呼び戻す事は、セティには出来なかった。
コープルが受け継いだバルキリーでさえ、全ての死者を蘇生出来る訳ではない。
何より術者への負担が大き過ぎて、生涯に数名の命しか救えないのだと教えられた。
男の手が一本の杖を懐から掴み出すと、震える手でセティに差し出した。
「これは―――リワープ?」
跪いて杖を手にしたセティの目が驚きに瞠られる。それは自己転移魔法の杖、リワープだった。
男は武芸にも秀でていたが、神官兵であるが故に杖を扱う才も持っていたのだろう。
神殿とトラキアの城下を、この自己転移魔法で行き来していたのかも知れない。
少しでも早くリザーブを持ち帰れと託してくれた神官兵の思いを、セティは受け取った。
「僕の血と、誇りに掛けて誓います。
必ずリザーブの杖をコープルに届け、トラキアの民を死病の脅威から救ってみせると」
「……もう少し早く貴公に出会えていたら……妻も子も、死なずに済んだのだろうか―――」
名も知らぬトラキアの神官兵は、最期は穏やかな顔で息を引き取った。
セティの素性を知っていた事といい、フォルセティの魔道書を手放しているのに気付いた事といい、不思議な男だった。
もしかしたら彼は、トラバントやアリオーンと同じ血に繋がる、ダインの末裔だったのだろうか。
今となっては確かめる術も無かったが。
「―――どうか安らかに。天上で奥方と御子に、再び見えますよう」
胸の前で聖印を切り、セティは静かに男の冥福を祈った。
神殿の中は、神官兵が言った通り無人だった。
時折彼が手入れをしていたのか、寂れた感はあるものの、朽ちた印象は無い。
人の手で岩壁を刳り貫いて作られたのかと思ったのだが、実際には自然の鍾乳洞を利用して作られた神殿だった。
見かけよりも遥かに奥行きがあり、構造の関係上、灯りが無いと中は漆黒の闇に閉ざされてしまう。
セティは入り口に備え付けてあった燭台に火を灯すと、神殿の奥へと足を踏み入れた。
訪れるのも決して楽ではないこの神殿に、一体今までどれ程の人間が祈りを捧げに来たのだろう。
クロード神父が獄死した事を、妻であったシルヴィアという女性は知っていたのだろうか。
幼い娘をダーナの神殿に預け、身重の身体で旅を続けた彼女は、このトラキアの地でクロード神父の後継者を産み落とした。
後にその子を引き取ったハンニバル将軍の話では、赤子――コープル――の右の掌には、ブラギの聖痕が浮かび上がっていたという。
直系であっても、誕生間もない赤子の内から聖痕が現れる事は滅多に無い。
二人目に授かった子が夫の後継者として生を受けた事を悟り、安堵したのだろう。
産後の肥立ちが悪く、とても起きられる状態ではなかったにも関わらず、
彼女は生まれたばかりの息子をハンニバル将軍に託し、リザーブの杖を手にしてこのグルティアの神殿へとやって来た。
夫と交わした最期の約束を果たす為に。
そして十数年後にトラキアを襲う災厄に、希望を残す為に。
コープルが父親の遺志を受け継ぎ、この場所に辿り着いてくれる事を願って―――
セティは燭台を片手に持ち、もう片方の手を、剥き出しの岩そのままの壁につきながらゆっくりと歩を進めた。
ともすれば膝が崩れそうになる。
媒介となる魔道書を持たずして魔法を発動させた事で、辛うじて残されていた体力も使い果たしてしまった。
あとどれ程意識を保っていられるか判らない。呼吸は早く浅く、高熱で意識が朦朧としていた。
自分の物ではなくなってしまったかのような身体を引き摺り、奥へと進む。
無限にも思われた時間の果てに、セティは神殿の最奥で、燭台の淡い光の中に浮かぶ聖像に辿り着いた。
慈愛の面差しを浮かべ、全ての人々を受け容れるかのように大きく手を広げたその姿が、ただ一人でこの神殿を守っていたあの神官兵を思い出させる。
そして聖像の前、特別に設(しつら)えられた祭壇の上に白絹で包まれて、リザーブの杖は安置されていた。
「クロード神父、シルヴィア殿―――リザーブの杖をお預かりします。
貴方達の御子がトラキアの民を死の病から救えるように……どうか、見守っていてください」
跪き、杖を手にしたセティは深々と頭を垂れた。
レヴィンは自室を出ると、中庭へと下りた。
早朝である為か、他に人気は無い。
薄く霧がかった風を纏う様に、彼は迷い無く中庭の奥へと進んで行く。
程なく彼は、東屋の傍に倒れ込んだセティの姿を見付けた。
跪き、横たわる息子の髪に手を触れる。
脱水症状が進行しているのか、全身の血が沸騰しているかのように身体は熱いのに、汗すらかいていない。
微かに開いた唇から、喘ぐような小さな呼気が聞こえるだけだ。
「……馬鹿者め。フォルセティの加護を喪った身で、無茶をする」
白絹に包まれた杖をしっかりと腕に抱いたセティの懐に一冊の魔道書を滑り込ませると、
レヴィンは片腕を差し上げ、指先で一点を指し示すかのように空を薙いだ。
「…………!」
「ティニーさん?」
一晩中、城内の聖堂で祈りを捧げていたティニーが弾かれたように顔を上げた。
隣で同じように跪いて祈っていたコープルが怪訝そうに彼女を見遣る。
「―――これは、フォルセティの風……」
いつの日も優しく見守り、導いてくれたフォルセティの気配を間違える筈が無い。
今の彼はフォルセティの加護を喪っている筈だが、自分にも流れる聖戦士の血が、何かを伝えようとしているのか。
「貴方も一緒に来て、コープル!」
「……は、はい!」
驚くコープルの返事を待たず、ティニーは聖堂から走り出た。
確信など全く無い。
だが不思議とティニーは、自分が正しい方向へ駆けている事を疑わなかった。
鼓動が激しく胸を打つ。
聖堂を出て回廊を駆け抜け、その先に広がる中庭を横切る。
霧がかった中庭の奥、自然に湧出した泉の傍に建てられた東屋のすぐ傍に―――目指す姿はあった。
「セティ様っ!?」
立て膝をついたレヴィンの腕に抱き起こされているのは、意識を喪ったセティだった。
最悪の予想が頭を過ぎり、ティニーとコープルの面が一瞬で青褪める。
「目を開けてください!セティ様っ!!」
「セティさん!!」
「二人とも落ち着け―――まだ、ちゃんと生きている」
レヴィンは二人の手を取ると、セティの胸の上へと置いた。
呼吸は速く、不規則に喘いではいたが、確かに未だ彼の心臓は脈を打っている。
そして彼の懐には――― 一度は手放した筈のフォルセティの魔道書があった。
聖戦士の直系は、器で在るが故に聖遺物に守られる。
発病し、病状が進行している以上予断は許さないが、フォルセティの加護を取り戻した彼はそう簡単に死ぬ事は無い。
まさかという動揺と、セティが生きて戻って来たという安堵に、ティニーの瞳に涙が浮かんだ。
セティの為に涙を零した彼女の肩を、安心しろと言うようにレヴィンの手がトン、と一つ叩く。
それは彼の息子と同じ癖だった。
「コープル、こちらへ」
「はい……!」
レヴィンに呼ばれ、緊張にギュッと唇を噛み締めたコープルが傍に歩み寄る。
その目の前に、白絹に包まれた一振りの杖が差し出された。
「お前の父の一族に代々受け継がれ、トラキアを滅亡の危機から幾度となく救ってきた杖だ。
セティが命懸けで持ち帰ったこの杖で―――お前が生まれ育った国を救って見せろ」
「……はい !!」
祈るようなティニーの瞳が、自分を見上げる。
コープルは一つ頷き、レヴィンの手からリザーブの杖を受け取った。
「……我が名はコープル。ブラギの末裔、父クロードの遺志を受け継ぐ者なり」
溢れるような慈愛の想いが杖を通じて自分の中に流れ込んでくる。
顔すら知らぬ父親の、そして自分に繋がる代々の継承者達の時を超えた祈りは、リザーブを手にしたその瞬間にコープルの口を借りて流れ出した。
疑問に思う暇さえなく、まるでコープルが手にする事を待ち望んでいたかのように。
「慈しみと癒しの光よ、全てを遍(あまね)く照らし、救い給え―――!」
地上に小さな太陽が生まれたかのような光が、コープルを中心にして放たれる。
不思議な温もりを伴ったその白銀の輝きは、トラキア城と城下街の全てに降り注いだ―――
「セティ様、お加減はどうですか?」
「うん、今日は大分いいよ。熱も下がった」
数日後、セティは順調に回復の兆しを見せていた。
病床を見舞い、彼の額に手を当てたティニーの表情が僅かに曇る。
「今まで高熱が続いていたからずっと楽に感じるだけで、まだ微熱があります。
無理をして起きていては駄目ですよ。グルティアからお帰りになってからも、丸二昼夜は意識が戻らなかったんですから」
「心配を掛けて済まなかった」
咎めるような彼女の表情に、セティは素直に詫びの言葉を口にした。
コープルの発動させたリザーブの力で、辛うじてセティは一命を取り留めた。
同時に城下の神殿で死を待つだけだった人々も、全員快方に向かっていると連絡が入った。
発病者はこのまましばらく神殿で様子を見る事になったが、やがて感染者が確認出来なくなれば、彼等も城に避難している人々も元の暮らしに戻れるだろう。
コープルの話によると、リザーブによる癒しの力は、ほぼ丸一日続くらしい。
そして杖に秘められた力を完全に使い切るには、十日ほど掛かるのだそうだ。
つまりトラキアに蔓延(はびこ)る死病を鎮める為にはコープルが一日一度、十日間リザーブを発動させる必要がある。
その十日の間に既に発症した者は体力を回復させて快方に向かい、感染しながら発症していなかった者はそのまま完治に向かうのだという。
セティが発病を隠し、病身をおしてリザーブの杖を求めに行った事実を知った仲間達は、
或る者は怒り――水臭い!とアーサーとフィーは二人でいきり立った――また或る者は、驚愕を隠し得なかった。
帰還後の丸二昼夜、意識が戻らなかった事からも、相当に彼の病状が悪化していた事が判る。
仲間達が挙(こぞ)ってレヴィンに訴えた結果、セリスの懇願もあり、トラキア出立は二週間先に延期された。
治癒魔法は術者を癒せない―――その為、既に発病していたセティや感染していた疑いのあるティニーと接触していたコープルには、
念の為に毎日ラナがリカバーをかける事になった。
グルティアの神殿からセティが帰還して五日になるが、ラナのリカバーのお陰か、幸いコープルが発病する兆しは無い。
「貴方が未だに息をしているのは奇跡だとラナに言われた時、私の心臓の方が止まってしまいそうだったんですよ」
その時の事を思い出すと、今もティニーは背筋が寒くなる。
それほど帰還直後のセティの状態は悪かったのだ。
ぎりぎり死んでいない―――つまりは『辛うじて息をしているだけ』という状態だったのである。
「コープルには、バルキリーはこの先数年は使えないと聞いていたし……無事回復に向かってくれて、どれ程安堵したか」
「本当にごめん。結局、僕等は二人ともコープルに命を救われたんだな」
つい一ヶ月前には、心臓が停止したティニーをコープルがバルキリーで蘇生させた。
だがバルキリーが再び元の力を取り戻すには、最低でも数年の時間が必要になる。
従って今回セティの身にもしもの事があっても、バルキリーによる蘇生は望めなかったのだ。
コープルの発動させたリザーブと、毎日ティニーが補助の為にかけ続けたリライブの効力で、何とか持ち直したのである。
「あの神殿で、リザーブの杖を手にする事は出来たけれど―――正直、生きて還れる気がしなかった。
リワープの杖を、あの神官兵が託してくれていなかったら……多分、あのまま力尽きていたと思う」
セティが、傍らの小机に置かれた魔道書に手を触れた。
いつの間にか懐にあったフォルセティの魔道書―――恐らくはその加護で、自分はギリギリの所で命を繋いだのだ。
父に預けてあった魔道書がこうして手元にある理由は一つしかない。
トラキア城に帰還した自分をティニー達が見付けた時には、既に父が傍に居たと言うから間違いないのだろう。
元通りに動けるようになったら、父に礼を言いに行かなくてはならなかった。
「さあ、少し横になって眠ってください。
もし眠れなくても、横になったままで私がお話相手になりますから」
小さな子供に言い聞かせるように、ティニーの手がセティの胸をそっと押す。
その手に逆らわず寝台に横になると、セティは目を閉じた。
やはり以前通りの体力を取り戻すには至っていないのだろう。僅かな時間で、彼は浅く微睡んだ。
一刻(二時間)程経った頃、扉をノックする音でセティは目を覚ました。
寝台の横に腰掛けて読んでいた本を置き、ティニーが扉を開ける。
部屋を訪れたのは、リーンとコープルだった。
「セティさん、お寝(やす)みでしたか?」
「大丈夫だよ。一刻ほど眠ったから、丁度目が覚めた所だ。
僕の方から行こうと思っていたんだけど、まだしばらく動けそうになかったから。呼びつけてすまなかったね」
遠慮がちに声をかけたコープルに答えながら、ティニーの手を借り、セティが寝台から身体を起こした。
今朝見舞ってくれたコープルに、時間が出来たらリーンと一緒に来て欲しいと頼んでいたのである。
「それで、お話とは?」
「うん、実は自己転移魔法の光の中で……君達のご両親の心に触れる事が出来たよ」
「父様と……母様?」
小さくリーンが息を呑む。
自分の両親が大神官ブラギ直系のクロード神父と、踊り娘のシルヴィアと言う女性だったと知ったのも最近なのだ。
血を分けた弟が居た事さえ知らなかった。
彼女にとって肉親というのは、命の親でありながら酷く遠い存在だった。
「僕が見たのは、シルヴィア殿だけだったけどね。クロード神父の人となりに触れるには、それで十分だった」
転移魔法は、異なる空間を時の法則を超えて繋ぐ魔法―――
一瞬とも永遠ともつかない空間の狭間では、過去を見る事があるという。
セティはグルティアから自己転移魔法で帰還する際に、『現在』ではない時を垣間見た。
何処か見覚えのある面差しを持った女性の、最期の姿を。
「どうかリーン、トラキアを発つ前に一度神殿で舞ってくれないか。今日のこの奇跡を生み出してくれた―――ご両親の為に」
「ええ。城下に出てもいいと許しが出たら、きっと行くわ。コープルも一緒に行ってくれるわよね?」
「はい、必ず!」
微笑んで頷きあう二人の姿を見て、セティは懐かしそうに目を細めた。
「ああ……やっぱり君達には、何処かシルヴィア殿の面差しが残っているよ。特にリーンはよく似ている。
僕の中に響くお母上の最期の声が、君達にもどうか届くように」
静かに瞳を閉じ、両の手でセティが二人の手を取る。
同じく目を閉じたリーンとコープルは―――静謐な神殿で、父の信じた神を讃えて舞う、母の声を聞いた。
―――ねぇ神父様、私には未来を視る力なんてないけれど、今なら少し判る気がするの。
貴方から託されたこの杖は、私達の子をきっと救ってくれる。
私の踊りは、大好きだった仲間達の子に明日を生きる力をくれる。
コープルの小さな手の中に、確かに貴方と同じ紋章の輝きを見た。
まだやっと一人で歩き始めたばかりのリーンが、私の踊りを一生懸命目で追っていた。
私の産んだ貴方の子が、いつか奇跡を起こすのよ。
私にはもうその奇跡を見届ける時間は残されていないけれど、せめて貴方の信じた神様の為に舞うわ。
私達の子を、彼等の子供達を守ってくださいって、一生懸命祈りながら舞うわ。
貴方の心を傍に感じるからかしら?
例えもうすぐこの命が終わるのだとしても―――不思議ね、少しも怖くない。
【FIN】